鉄の骨 ★★★★☆

池井戸潤さん

鉄の骨 (講談社文庫)

を読みました。

 

評価は、星4つです。

 

建設業界を取り巻く「談合」のおハナシです。

 

池井戸さんの初期のほうの作品ですが、

やっぱり安定していて、

話自体とても面白かったです。

 

しかし何より、

「談合」とは何ぞや?

ゼネコンとオカミ(自治体や政府)の癒着って何?

──的なところが、よーく分かり、

たいへん勉強になりました。

 

新聞よりニュースより、

池井戸潤かもしれません。笑

 

話の展開の面白さ、

建設業界にはびこる悪しき風習、

そんな業界で生き残るための権謀術数などなど、

相変わらずのドキ×2・ハラ×2なストーリーに、

舌を巻かれました。

 

一気読み必至の一冊です。

 

▽内容:

中堅ゼネコン・一松組の若手、富島平太が異動した先は“談合課”と揶揄される、大口公共事業の受注部署だった。今度の地下鉄工事を取らないと、ウチが傾く―技術力を武器に真正面から入札に挑もうとする平太らの前に「談合」の壁が。組織に殉じるか、正義を信じるか。吉川英治文学新人賞に輝いた白熱の人間ドラマ。

 

この小説を読んでいたころ、

ちょうどこんなニュースがありました。

 

東京新聞:震災工事談合疑い 道路13社を強制調査:社会(TOKYO Web)

 

震災で被災した道路や高速の復旧工事をめぐって、

複数のゼネコン(道路舗装会社)が、

結託して受注調整をおこなっていた(=談合)という事件です。

 

記事によると、

こうした談合は震災以前から行われていたようですが、

震災後に案件数が増えたことで、

仕事の分配がしやすくなり、

調整(談合)しやすい環境が生まれたとしています。

 

建設業界では昔から談合・談合…と言われてきましたが、

そもそも談合って何よ?

みたいなところもあって、

何が悪いのかイマイチよくわからなかったのですが、

 

この本を読むと、

スッキリ!よくわかります。

 

要は、

国や自治体、行政法人なんかが発注する仕事は、

一般的に「入札制」で、

一番安い業者が受注することができるという背景(仕組み)がある。

 

とはいえ、

まずは入札業者として呼ばれることが大前提で、

この入札に呼ばれなければ、

「土俵にあがる」ことすらかなわない。

 

じゃあ、

どうやってその土俵にあがるのか?

 

それは、

会社の規模や実績、信頼性はもちろん、

これまでの取引実績なども加点されて、

入札業者としてお呼ばれするわけです。

 

──が、 

裏口という方法もある。

 

いわゆる賄賂です。

 

政府高官や実力者に賄賂を渡して、

入札のための口利きをしてもらう。

 

しかし、 

土俵にあがっても、

結局受注がとれなければ意味がないわけで、

そこでモノをいうのは、

あくまでどれだけ安い価格を提示できるか?

ということになります。

 

行政側は、

最低入札額をもって落札をしますので、

 

請負側としては、

入札額を安く抑えれば抑えられるほど、

落札できやすい(受注しやすい)。

 

でも、そうなると、

利益を削ってでも仕事をとりにく業者があらわれます。

 

そもそも公共事業(なかでも土木事業)というのは、

額がデカい。

 

たとえ利益率が1%でも、

50億円の事業だと5,000万円、

10億円なら1,000万円の利益が得られるわけで、

 

そうなると、

われもわれもと参入する中小建設会社が沢山現れる。

 

そんなことが起きないよう、

本来は競合である各社が、

事前に入札額を調整して、

前回はAさんとこに落札させたから、

今回はBさんとこが落札できるようにして、

次回はCさんとこに…

というふうに、

出来レースを仕掛ける。

 

これが談合。

 

なので、

基本的に談合というのは、

入札業者すべてが参加することで成立するわけですが、

 

今回のB社が最低価格で入札しても、

必ずしもそれで落札ということにはならない。

 

なぜか?

それには発注側の「予算」があるから。

 

この予算は前年度実績や、

類似する実績などから換算して、

行政側で設定されるわけですが、

彼らには必ず「予算」がついてまわる。

 

A社・B社・C社が談合して、

B社に今回は譲るとすると、

3社のなかでB社が一番安い価格で入札するわけですが、

仮にそれが10億だったとしても、

 

発注側の予算が7億であれば、

B社はこれを落札できないということになります。

 

だから、

同じ案件でも、

大抵、複数回の入札が行われます。

 

発注側の上限予算(この場合は7億)に見合う入札があるまで、

何度かやり直しされる。

 

さて、ここで、

入札業者にも呼ばれないD社がいたとします。

 

D社は、

どうしても今回の案件を落札したい。

 

仮に赤字になってもいい。

とりあえず当座の資金繰りをなんとかするために、

まとまった額の発注が欲しい。

 

でも、

D社は当案件について、

これまで実績がなく、

会社の規模も決して大きくはない。

 

よしんば、

入札業者として、

闘いの土俵にのったとしても、

他の各社が談合しているなかで、

絶対に今回D社に当選がまわってくることはない。

 

さて、

D社はどうするか?

 

このとき使われるウルトラCが、

先述の賄賂になります。

 

入札業者として招聘されるための「口利き」を依頼し、

落札できる上限予算を聞き出す。

 

もちろん、

それだけでは落札はできませんが、

(各社の入札予定価格もある程度わからないとダメ)

 

赤字覚悟で臨むわけですから、

談合で調整した各社よりも低い金額を入れるのは、

それほど苦にならない(覚悟ができている)。

 

発注側であらかじめ設定している、

7億の上限予算に対し、

6.5億という破格の入札額が提示できます。

 

それに対して、

一方の談合チームのほうは、

あくまでB社に優先権を渡すのみで、

少しでも上限予算ギリギリに近づけるべく、

少しでも旨み(利益)が出るようにと、

余裕をもった入札価格で臨むわけです。

 

7億の上限予算に対し、

6.9億というふうに。

 

談合することで、

各社は消耗戦を避け、

安定的に少しでも利益が吸えるよう、

タッグを組んで挑む。

 

本書では、

前半が新宿区の道路工事、

後半が地下鉄の拡張工事に関するエトセトラを物語にしているのですが、

 

その前半部分では、

建設省のドンといわれた「城山和彦」に対し、

賄賂を送って裏口エントリーの口利きを依頼し、

上限予算を聞き出して案件を落札する、

「トキワ土建」の巧妙な手口が描かれています。

 

このように、

建設業界では昔から

行政と民間の癒着、

民間企業の談合は頻繁にあるようですが、

民間企業の談合に行政が癒着するケースもあります。

 

これが「官製談合」というやつ。

 

何らかの形で、

行政側も談合に加わるのです。

 

民間から賄賂を受け取り、

予算を教えたり、

あるいは予算をコントロールしたり。

 

2006年に、

宮崎県の土木工事で、

県知事が特定の会社に落札させるよう便宜を図った事件がありましたが、

あれこそ代表的な官製談合です。

 

談合には必ず旗振り役がいて、

これを「調整役」といいますが、

たいていは大手クラスの会社のお偉いさんで、

業界・政界に顔が広く、交渉のやり手。

 

一方の政界のほうにも、

「旗振り役」ならず便宜を供給する「権力者」がおり、

 

これが事件として表に出てしまうと、

彼ら「調整役」や「権力者」が、

事件の「主導者」として捕えられるという。

 

ちなみに、

宮崎の事件で知事は逮捕・辞職し、

その後釜として県の再建にあたったのが、

かの東国原英夫さんですね。

 

──とまあ、

こういう業界の裏知識みたいなところが、

この本を読むとすんなり飲み込めるわけです。

 

池井戸さんは、

池上彰さんの小説家バージョンじゃないかっていうくらい、

気付いたらわかりやすく解説してくれている。

 

この「気付いたら」というのがポイントで、

 

そもそも、

ストーリーの構成がおもしろかったり、

話自体がわかりやすくないと、

「気付いたら」腹に落ちていた

──なんてことはありえません。

 

それが作者のすごいところだなと思います。

 

もちろん、

前提となる知識があるかないかも重要なんですが、

それを以下にわかりやすく・おもしろく読者に伝えるかは、

筆をとる側・話す側の腕の見せ所だと思います。

 

そういう意味で、

自分は彼を、

池上彰さんの小説家バージョン」と表現しました。笑

 

じゃあ、

なにがそれほど読者をおもしろく感じさせるのか。

 

ひとつは、

ミステリー要素を多分に含んだストーリー構成ですし、

もうひとつは、

やっぱり登場人物のキャラクター設定が素晴らしいことだと思います。

 

下町ロケット』を読んだときも感じましたが、

 

池井戸さんの小説に出てくる人たちは皆、

主人公をはじめ、

とにかく登場人物のキャラクターが、

メリハリがあって面白い。

 

必ずいいヤツ・悪いヤツがいて、

 

基本、いいヤツなんだけど、

それは完璧ではなくて、

嫉妬やズルもする、

感情的になってダメなことも言ってしまう。

 

逆に悪いヤツは、

基本、悪いヤツなんだけど、

そうなるのも仕方ないよな…とか、

こいつがやっていることも一理あるよね…とか、

どこか共感できるところもあって、

100%認められないっていうこともない。

 

これはある意味、

現実世界と同じだと思いますし、

だからこそ親近感がある。

共感ができる。

 

いいヤツも悪いヤツも含めて、

彼らの言動や気持ちが、

「わかりたくないけどわかる」

「わかるけどそれやっちゃダメでしょ」

──的なところが多分にあって、

 

それゆえに読んでいるこちらは、

簡単に物語の中に引き込まれてしまうのです。

 

本書に登場する「平太」もそう。

彼はいいヤツなんだけど、

仕事に夢中になっていくなかで、

談合にも片足を突っ込んでしまう。

 

悪いことだとわかっているけれど、

会社のため、

一生懸命働いている仲間のために、

「必要悪」を選ぶこともやむを得ないと考えるようになります。

 

これって、

少しでもサラリーマン社会に身を置いたことがある人間なら、

誰しもが通る道で、

 

たとえ理不尽なことであっても、

その理不尽さをいつかどこかで受け入れて、

「仕方ないこと」だと割り切って仕事をする。

 

だから、

物語のなかの「平太」を否定できないのです。

 

彼を否定してしまったら、

自分を否定することにもなるから。

 

”わかるよわかるよー”

”そうやって葛藤しながら俺もやってる”

 

──と、

たいていの読者はそう思いながら、

平太を応援しちゃうでしょう。

 

逆に、

平太が勤める一松組常務の「尾形」。

 

こいつは賛否両論あるでしょうが、

「いいヤツ」か「悪いヤツ」かでいったら、

「悪いヤツ」に分類されるのかもしれません。

 

たしかにヤツは腹黒い。

 

最後まで読むと、

最終的にこいつが一番腹黒いじゃん!

っていうことがわかって驚きますが、

 

それだって、

能無しの二代目社長のかわりとなって、

経営難の一松組を復活させるためにやったことだと思えば、

やり方は汚いけれど、

ある意味、仕方ないことだとも思えてしまいます。

 

これも

一度、死ぬほど身を削って働いたことがある人間なら、

(※それがいいとか悪いとかでは決してなく)

たぶん共感できてしまう。

 

平太から彼女(萌)を奪おうとした、

銀行マンの園田もそう。

 

いつも高飛車で、

どこか他人を小馬鹿にしている園田ですが、

最終的には、

萌に謝罪する。

 

とはいえ、

それは彼女を一人の人間として尊重しただけであって、

他多数の他人に関しては、

基本的な性格は変わらないとは思いますが、

 

それでも、

ヤツは100%悪人とも言い切れない。

 

それを証拠に(といったらおかしいですが)、

彼のお母さんは非常に物分かりの良い、

ニュートラルな視点をもつ女性として描かれています。

 

だからきっと園田も、

100%ワルじゃない。

 

──なんていうのは、

ちょっと短絡的かもしれませんが、

 

とにかく、

その園田だって、

企業に多額のお金を融資する側の人間として、

どうしても視点が偏ってしまいがちになりつつも、

じゃあ間違っているのかというと、

そうとも言い切れない(と自分は感じました)。

 

作者は、

園田や銀行という組織を、

 

”マクロ的”な発想を背後に感じさせる

 

と、もちあげてみたり、

 

下々が生きるために駆けずり回っているのに、すまし顔で大義名分を振りかざしている

 

と、上から目線的な態度の持ち主のように表現していますが、

 

銀行(銀行マン)には銀行(銀行マン)のプライドがあるわけで、

彼らはそれを大上段から社会をとらえていると思っているけれど、

彼らが自負しているマクロ的な視点が本当にそうなのかというと、

あながちそうでもないことがわかります。

 

マクロ的というならば、

銀行のほうが中長期的な視点をもっているのかというと、

彼らはリスク回避にめちゃくちゃ慎重だから、

ともすれば目先のことしか見えていないことだってある。

 

実際に事業のかじ取りをしている運営会社自体のほうが、

実は中長期的な展望を描いていて、

目の前の雑魚を逃しても、

次の大魚は逃さない的な発想で経営を乗り切ろうと

あらゆる手段を講じていたりもする。

 

要は、

銀行だから視点が優れているとか、

銀行だからマクロ的・上流の発想をもっていて偉いとか、

そういうことはないわけです。

 

彼の作品を読んでいると、

そのことがとてもよくわかります。

 

しかし、

それぞれの立場にそれぞれの想いがあって、

それはプライドとも表現されるものですが、

ときにそれが慢心にかわり、

他がまったく見えなくなることもあるわけで。

 

何が正しく何が間違っているとかは、

実際、

その立場になってみないとわからないことで、

 

池井戸さんの作品には、

常に”驕るなかれ”的な、

訓戒すら含まれている気がするのです。

 

このように、

メリハリある人物を多用しながら、

物語の起伏も多く、

時に共感や教訓をおぼえ、

時に反感や反面教師にしながらも、

常にドキドキしながらストーリーを追っていく。

 

この『鉄の骨』もまた、

そうした池井戸作品の特徴を武器にした、

読み応えある小説でした。

 

最後に、

星5つに満たなかった理由を書いておくと、

2つあって、

 

1つは、

園田が一松組の融資を担当する傍ら、

今回の事件に何らかの形で関与していたんじゃないか?

と思っていましたが、

全然期待外れだったことです。

 

検察が萌や園田の銀行にガサ入れに入り、

終業後に萌がオンライン端末で振込伝票を調べていたとき、

園田に見つかってしまうシーンがありましたが、

 

ここで自分は、

園田が裏でどこかとつながっていて、

悪事を働いているから、

それがバレるのを恐れて萌を監視していたんじゃないかと

疑ってしまったわけです。

 

疑うというか、

期待すらしていたくらいです。

 

実は、

園田は萌を恋愛対象とはしていなくて、

自分の仕事に都合のよいように扱うために、

手なずけているんだと想定していたのですが、

 

この予想(期待)は外れてしまいました。

 

でも、

そんなストーリーでも面白かったんじゃないかと思います。

(負け犬の遠吠えですが)

 

もう1つは、

平太と業界のフィクサーこと三橋萬造の関係。

 

一方は中小企業の一兵卒、

一方は談合の調整役で業界のドン。

 

たかだか同郷というだけで、

こんなにも身分の違う二人が親密になるか?!

という状況設定に、

あまりにもこの関係性が出来過ぎているな、

という感は拭いきれませんでした。

 

もちろん、

三橋と平太の母が幼馴染だったなど、

二人が親密になるための布石はうたれているのですが、

無理矢理、外堀を固めた感もあって、

自分はそこに非現実性を感じたわけです。

 

ま、小説に限らず、

制作なんてそもそもが虚構なので、

100%現実なんてことはありえないんですが、

 

この部分はどこか無理矢理すぎる感があって、

馴染めませんでした。

 

でも、これを否定しちゃうと、

物語の根幹からゼロになってしまうので、

難しいでしょうけれど…。

 

以上が、

超わがまますぎる減点ポイントでした。

 

下町ロケット』にはかないませんでしたが、

ロスジェネの逆襲』くらい面白かったです!

 

いつか、

池井戸作品の”勝手にランキング”をやりたい。

 

 

■まとめ:

・建設業界を取り巻く「談合」がテーマになっており、「談合」とは何ぞや?ゼネコンとオカミ(自治体や政府)の癒着って何?なぜいつも問題になっているのか?といったところがよくわかる作品。

・ストーリーの構成、登場人物のキャラクター設定、文体のわかりやすさなど、相変わらず、引き込まれ感は半端ない。メリハリある人物を多用しながら、物語の起伏も多く、時に共感や教訓をおぼえ、時に反感や反面教師にしながらも、常にドキドキしながらストーリーを追ってしまう。

 

・あくまで個人的な感想にすぎないが、作中における銀行マン園田の役割が少し期待外れだったこと(事件に関与していると思った…)と、主人公(平太)と業界のフィクサー(三橋)の関係性があまりに出来過ぎていて、非現実的だったことが、残念なポイント。

 

■カテゴリー:

経済小説

 

■評価:

★★★★☆

 

▽ペーパー本は、こちら

鉄の骨 (講談社文庫)

鉄の骨 (講談社文庫)

 

 

Kindle本は、こちら

鉄の骨 (講談社文庫)

鉄の骨 (講談社文庫)

 

 

 

イニシエーション・ラブ  ★★★★☆

乾くるみさん

イニシエーション・ラブ (文春文庫)

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

昨年、

くりいむしちゅーの有田が番組で絶賛し、

話題になった作品です。

 

有田も絶賛!10年前の小説イニシエーションラブの人気が凄い - NAVER まとめ

 

そして、

今年は映画化もされるんだとか。

 

映画『イニシエーション・ラブ』

 

実は、

私はこの作品は一度読んでいて、

最後の”どんでん返し”のカラクリ部分は、

なんとなくおぼえていたんですが、

 

その前提で読むと、

一読目とはまた違った印象があります。

 

一度目は、

ただただ最後の結末に目を奪われ、

「エッ、そういうことだったの?!」という驚きばかりが残りましたが、

 

二度目は、

「こいつも結構腹黒いな…」

冷静な人物批評なんかできちゃったりして。

 

三度目はもういいかな、

というところで星4つとなりましたが、

二度目までは読んで悔いなしの

”衝撃ラスト本”代表作だと思います。

 

 

▽内容:

僕がマユに出会ったのは、代打で呼ばれた合コンの席。やがて僕らは恋に落ちて…。甘美で、ときにほろ苦い青春のひとときを瑞々しい筆致で描いた青春小説―と思いきや、最後から二行目(絶対に先に読まないで!)で、本書は全く違った物語に変貌する。「必ず二回読みたくなる」と絶賛された傑作ミステリー。

 

この作品、

先の内容紹介にもあるように、

いまどきの青春・恋愛小説と思いきや、

よくよく読むと結構、時代を感じたりします。

 

解説にも、

 

本書は八十年代後半を舞台に、誰もが通り過ぎるごく普通の恋愛を、けれどとても一生懸命な恋愛を、そして──とても素直で正直な恋愛を描いた物語である。

 

とある通り、

時は80年代後半。

 

JRを「国電」と言ってしまうシーンが出て来たり、

『男女七人夏物語』が会話にのぼったり、

クイズダービー」やら「杉山清貴」まで登場したり。

 

カセットテープを聞きながら、

東京⇔静岡を車で行き来しちゃうところとか、

テレカで長距離電話しちゃうところとか、

このへんはもう

 

自分が中学生(90年くらい?)のとき、

もうCDの時代になっていて、

カセットテープは、

小学生高学年(80年代末)くらいだったと思います。

 

メタリックとかノーマルとかね。

 

だから、

この話は自分が小学生頃の時代を思い浮かべると、

あーわかるわかるといった部分は結構あるし、

 

その頃(今もだけれど)の自分は、

お芋のなかのお芋だったわけで、

恋愛の「れ」の字も知らなかったけれど、

 

恋愛のイロハのところは、

登場人物の実年齢(22~24)と重ねて思い出すと、

これもまた、

わかるわかるという部分が結構あったりします。

 

おそらく恋愛なんてものは、

具体的なコミュニケーション方法の違いはあっても、

本質的には今も昔も変わってないということでしょうね。

 

そしてそれは、

作品中に出てくる「石丸美弥子」という女性が語る、

このセリフに凝縮されていると思います。

 

「(イニシエーションとは)子供から大人になるための儀式。私たちの恋愛なんてそんなもんだよって、(昔付き合っていた)彼は別れ際に私にそう言ったの。初めて恋愛をしたときには誰でも、この愛は絶対だって思い込む。絶対って言葉を使っちゃう。でも人間には──この世の中には、絶対なんてことはないんだよって、いつかわかるときがくる。それがわかるようになって初めて大人になるっていうのかな。それをわからせてくれる恋愛のことを、彼はイニシエーションって言葉で表現してたの。それを私ふうにアレンジすると──文法的には間違ってるかもしれないけれど、カッコ良く言えば──イニシエーション・ラブって感じかな」

 

要は、

(いつの時代であれ)

若い頃の恋愛なんていうのは、

通過儀式に過ぎないのであって、

誰もが通る通過点でしかないというわけで、

 

彼女(石丸さん)はそれを、

イニシエーション・ラブ」と命名しているのですが、

 

そんなことを言う彼女もすごいけど、

彼女にそれを教えた元彼(天童)もすごいと思う。

 

わたしたちは、

「疑似恋愛」こそ、

よく耳にするけれど、

イニシエーション・ラブ」は、

そうそう聞くことはありません。

 

でも、

本当は誰もが感覚的にわかっていたりする。

 

たとえば、

昔を懐かしんで、

なんであんなヤツ好きになっちゃったんだっけ?

と回顧するときに、

「あれは若気の至りだったよなー」

なんて言ってたり。

 

そのときは、

自分にはそいつしかいない!

──くらいのことを思っていたはずなのに。(笑)

 

わりと誰もがそんな「オイタ」的な経験があったりするけど、

いまとなっては、

「あれはあれでよかった」とか、

「過去の汚点ではあるけれど、まぁ仕方ない」とか、

諦めて受け入れている。

 

要は、

石丸さんが言うように、

大人になるうえで必然的に経験することだったわけで、

そのことを私たちももうわかっているのです。

 

読者は、

イニシエーション・ラブ」という言葉自体は聞き慣れないものの、

この石丸さんがいうセリフには、

結構、共感をおぼえた人が、

たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

 

ちょっとネタバレになっちゃいますが、

長年つきあってきた彼女(繭子)を振るほうも振るほうだけど(鈴木)、

実は、

彼女も彼女でよろしくやっていたわけで、

 

結局、

男にしても女にしても、

お互いの存在が通過点でしかなかった、

──というのが

本書のタイトルの意味するところだと思います。

 

一瞬、

それは男(鈴木)にとってだけの話かと思いきや、

実は女(繭子)にとっても共通する話だった、

というところがミソで、

 

一読目は、

そのことが最後にわかって、

「エッ、そういうことだったの?!」と驚くという。

 

実際、

当時の読書メモを読み直すと、

次のように感想が添えられていました。

 

まんまとやられた。二人の鈴木。結局、ヒロイン成岡は途中から二股だったってことで、sideAsideBで同時進行してたわけで、誰にとってもイニシエーション(通過儀礼)の恋愛だったってことね。途中、細かい恋愛模様に飽き飽きしてきたけど、最後はそういうことかっていうことで、大満足。

 

で、

二読目は、

そこから一歩進んで、

「女(繭子)も、うまいことやりおって!」

とか、

「なんだ、こいつ(繭子)も、腹黒いじゃねーかよ」

となるわけです。

 

一方で、

脇役の海藤くんとか石丸さんのほうが、

よっぽど大人だなーと冷静に評価できちゃったり。

 

それが二読目のおもしろさだと思います。

 

自分は先のとおり、

(脇役だけど)石丸さんという女性はスゴイ!

と勝手に評価しているのですが、

 

彼女のことをスゴイと思ったのは、

イニシエーション・ラブ」のセリフだけではありません。

 

彼女が、

一方的に想いを寄せる鈴木に対していう、

このセリフもなかなかスゴイ。

 

※ちょっと長いですが、全部引用しちゃいます。

 

「…鈴木くんの言うように、(他の人を好きになるとか)コロコロと自分の意見を変えるのは良くないって私も思う。だけど人間って成長するものだし、そのときに過去の自分を否定することだってあると思うし、それは許されることだとも思う。…自分の言葉に責任を持てるようになるのって、本当は何歳なんだろう?わからないけど、でも私や鈴木くんの年齢(22,23)で、それができるって思うのは、思い上がりだと私は思う。私たちはまだまだ成長する。なのに自分の言葉に責任を持って、考えを変えないようにするのって、それを無理やり止めようとすることと同じだと思う。この先、好きな食べ物だって変わるかもしれない。今はビールが一番好きだと思っていても、もしかしたらワインが一番好きになるかもしれない。それと同じように、一番好きな相手も変わるかもしれないし、今はまだ、私たち変わってもいい年齢だと思う」

 

いや、

ほんと彼女の言うとおりかな、と。

 

私たちは、

社会にでていく過程で、

たとえば就職活動や会社に入ってから、

やたら「自分を持て」とか「自己を確立させろ」とか言われます。

「自分を持っている人は偉い」とかね。

 

巷の就活本には、

必ずといってよいほど、

面接の攻略ポイントとして、

「自分の意見をちゃんと持っているかどうか」

が挙げれているし、

 

要は、

確固たる自己・自分の意見って

すごい大事だよ的な風潮に呑まれまくるわけです。

 

だからイヤでも、

考えが凝り固まってくる。

 

自分(の考え)なんて安定したほうがラクだから、

年とともに自然とそうなる面は否めませんが、

 

一方で、

世間がそうさせているところもある

と私は思います。

 

でも、

本当はそうじゃないんじゃないか。

 

確固たる自分の意見なんて、

なくてもいいんじゃないか。

 

むしろ、

宙ぶらりんなのが当たり前なんじゃないか。

 

それこそ仏教じゃないけれど、

すべては無常、

人の心なんて特に変わるものだし、

絶対そのままなんてことはない。

 

結局、

容姿も気持ちも変わっていくわけで、

それが当たり前なんだというのが、

石丸さんのこのセリフにも入っている気がしたのです。

 

違和感を感じたのは、

「成長」という言葉くらい。

 

彼女はやたら、

「成長」といっていたけれど、

自分からすると、

それは綺麗ごとであって、

 

「人間は成長するもの」ではなく、

「人間は変わっていくもの」が正解だと思います。

 

でもそれ以外は、

いやせめてそれくらいは、

若いこの子に夢を見させてやろうぜ!

とも思う。笑

 

いやーしかし、

22・23の女の子がこんなこと言っちゃって、

ほんとスゴイ。

 

言い得て妙。

人間の本質を突いているというか。

 

ある意味、

こんなふうに割り切って恋愛している彼女は、

大人の恋をしているとも言える。

 

解説者も言っています。

 

お気づきだろうか、本書は初読と再読でまったく違う物語が浮かび上がるのだ。多様な感想が生まれた理由はそこにある。それが本書の最大の仕掛けであり、魅力であり、ミステリ作家・乾くるみが普通過ぎる(ように見える)恋愛小説を書いた理由でもある。はたしてこれは普通過ぎる恋なのか、存分に驚いて戴きたい。

 

普通過ぎない理由の1つは、

先に挙げた一読目の、

男(鈴木)だけかと思ったら、

女(繭子)にとっても通過儀礼な恋でしかなかったのね、

というオチですが、

 

普通過ぎない理由のもう1つは、

(初読では)繭子と鈴木の恋愛関係ばかりに目を奪われていたけれど、

(よくよく読むと)石丸さんと鈴木の恋愛関係もスゴイ、

てか石丸がスゴイ!

大人すぎる・悟ってる!

──的な新たな一面が見えたりして、

 

これも解説者のいう、

「普通過ぎない恋」だと思うのです。

 

ということで、

乾くるみさんの本作品、

再読もまた◎ということで楽しめました!

 

でも、もういいかな。笑

 

■まとめ:

・再読。一度目は、ただただ最後の結末に目を奪われ、「エッ、そういうことだったの?!」という驚きばかりが残ったが、今回は、その他の登場人物の恋愛模様(恋愛に対する考え方)や性格のほうにも目が行き、冷静な人間観察ができて面白かった。

・結局、男にしても女にしても、お互いの存在が通過儀礼(イニシエーション)でしかなかった、というのが本書のタイトルが示すところ。一読目はそのことがラストでわかって圧倒されたが、二読目では、よりじっくりその通過儀礼の意味や、人間の本質的な部分をとらえているところに圧倒された。

・解説にもあるとおり、初読と再読ではまた別の印象を得ることができたが、もうお腹いっぱい。三度目はいらない。

 

■カテゴリー:

ミステリー

 

■評価:

★★★★☆

 

 

▽ペーパー本は、こちら

イニシエーション・ラブ (文春文庫)

イニシエーション・ラブ (文春文庫)

 

 

Kindle本は、こちら

イニシエーション・ラブ (文春文庫)
 

 

ロートレック荘事件 ★★★★☆

筒井康隆さん作

ロートレック荘事件 (新潮文庫)

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

実は、この本を読むのは、

かれこれもう4度目になります。

 

だいたい、

〈どんでん返しミステリー〉

〈衝撃のラスト ミステリー〉

なんてキーワードで検索すると、

必ずと言ってよいほどヒットするのがこの小説で、

 

そのトリックを忘れた頃に読むと、

相変わらず魅了されてしまうという。

 

とはいえ、

4回目にもなると、

さすがに途中でどんなトリックだったかを

思い出してしまうのですが、

 

たしかこうだったよな…

というおぼろげな記憶から、

 

ほら、やっぱりそうだ!

という確信にかわるまで、

 

その推移を辿るのがまたおもしろいのです。

 

一番最初に読んだときは、

はじめから逐一読み直して、

そのトリックを暴いていくわけですが、

(あとからふり返って感嘆するケース)

 

今回のように、

記憶を呼び起こしながら読むと、

読みながら推測が確信にかわる手ごたえがあって、

それはそれで楽しいわけです。

(読みながら感嘆するケース)

 

そんな感じで、

ほんとに毎回驚かせてくれる一冊。

 

評価は、

正直、星5つでも良いくらいです。

 

さくっと読めるので、

お正月の暇つぶしに最適かも。

 

▽内容:

夏の終わり、郊外の瀟洒な洋館に将来を約束された青年たちと美貌の娘たちが集まった。ロートレックの作品に彩られ、優雅な数日間のバカンスが始まったかに見えたのだが…。二発の銃声が惨劇の始まりを告げた。一人また一人、美女が殺される。邸内の人間の犯行か?アリバイを持たぬ者は?動機は?推理小説史上初のトリックが読者を迷宮へと誘う。前人未到のメタ・ミステリー。

 

作者は、筒井康隆さん。

 

よく似た著名人で、

筒井道隆さんという俳優がいらっしゃいますが、

おふたりは全然関係ありません。笑

 

自分はともによく知らないもんだから、

ふたりはきっと父子だろう…

なんて勝手に思っていました。

 

筒井康隆さんは、

もともとSF小説を手掛ける作家で、

Wikiによると、

 

小松左京星新一と並んで「SF御三家」とも称される

 

──とのこと。

 

実際、

小松左京なんかとは親交が深かったようで、

奥さまとのご結婚は、

小松左京夫妻が仲人になったんだとか。

 

青春時代は、

おもに演劇のほうに精を出し、

SFに傾倒していくのは社会人になってからのようです。

 

大阪育ちの筒井さんは、

結婚後に上京し、

本格的に作家活動にのめりこんでいくわけですが、

 

そこから、

筒井さんの特徴でもある、

いわゆる風刺的・ブラックユーモア的な作品を

世に送り出していきます。

 

PTAによる悪書追放を批判した作品だったり、

当時盛んだった、

ウーマンリブフェミニズム運動を揶揄するような作品、

また、

大学と文芸界という二大勢力を敵視した作品

──などなど。

 

今よりもなんやかんやとうるさい時代に、

要は、

ブラックな作品を上梓しまくっていたわけですから、

向かい風も相当強い。

 

彼は1993年から1996年まで、

約3年間の断筆活動をしているのですが、

そのきっかけとなったのが、

らい病患者の描写が差別的だと猛批判を受けた、

『無人警察』という作品だったそうです。

(この作品は、『にぎやかな未来 (角川文庫)』に収録されています)

 

自宅に嫌がらせの電話や手紙が殺到し、

ご本人だけでなく、

ご家族の危険をも感じ、

作家生活をやめる決心をしたんだとか。

 

実は、

この『ロートレック荘事件』のなかにも、

下半身の生育が停止した、

いわゆる奇形・不具者(身体障害者)が登場するのですが、

 

解説を手掛けている佐野洋さんは、

本書の読了後に、

懇意にする編集者とのあいだで、

こんなコメントを残しています。

 

推理小説というのは、読者に楽しんでもらうためのものだ。身体障害者をねたに、人を楽しませるということに、釈然としないものがある。

 

だから彼(佐野氏)としては、

 

ぼくだったら、この小説は書けないなと思った。というより、考えようとはしなかった

 

と述べています。

 

しかし彼は、

編集者との問答をへて、

 

実は、

差別だのなんだのと言って、

自主規制してしまう自分や周りこそ、

差別を深く意識している(=差別している)側かもしれない

と気付かされたようで、

 

最後に、

こんなふうに述べていました。

 

筒井さんは、あるいは、作家がテーマの自主規制をしていることに対するアンチテーゼとして、この『ロートレック荘事件』を書いたのかもしれません。

 

そして、

彼がこの作品を上梓した3年後に、

筆を断つ宣言をしたことについては、

次のように言っていました。

 

いわゆる差別語、差別表現について、メディアが過剰に反応し、自主規制が強まっていることに対する抗議。それが筒井さんの断筆の趣旨だと、私は理解しています。

 

事実、

筒井さんが執筆活動を再開したとき、

出版各社と勝手に自主規制をしないことを条件に、

覚書まで交わしたそうです。

 

たしかに、

あくまでフィクションの世界なんだから、

別にそのなかで障害者をどう扱ってもいいじゃん

と自分は思います。

 

そんなこと言ったら、

精神に疾患のある人間が犯人の映画は、

みんなクロです。

 

精神病の患者を

エンタメで扱うのはよくて、

下半身不随の患者を

エンタメで扱うのはダメなんて、

それこそおかしいと思うのです。

 

かの松本清張大先生が手掛けた『砂の器』(1960)も、

エンタメの材料としてハンセン病患者を扱っていますが、

こちらは大衆紙(読売新聞)で連載もされていました。

 

文学にみる障害者像-松本清張著『砂の器』とハンセン病

 

のなかで、

 

ある方は次のようにコメントしています。

 

社会派と称された松本清張でも、ハンセン病問題に関しては見識が乏しかったとしか考えられない。彼が欲したのは作品の山場を作るに相応(ふさわ)しい〈社会的負性〉であった。その〈社会的負性〉に相応しいものとしてハンセン病=「業病」があったのだろう。とにかく、隠すべき〈社会的負性〉の象徴としてのハンセン病という偏見自体が、同作の中で全く疑われていないのは問題であろう。

 

結局、

筒井さんはもともと反社会的な要素が強かったから、

揚げ足をとられまくっていたというのが

実際のところなんじゃないかと私は思います。

 

たとえると、

ホリエモンみたいな感じかな。

 

一度社会の敵と見なされれば、

何を言っても叩かれ、

挙句の果てに制裁を受ける。

 

筒井さんの場合はそれが、

ご本人や家族に対する執拗なまでの嫌がらせだったわけで。

 

ある意味、

自業自得な面も否めませんが、

社会や世間が彼に対して毛嫌いしすぎたんだと思います。

 

大人げないな、って思う。

あ、世間がですけどね。

 

だって、

作品は最高に面白かったから。

 

作家の使命は、

いかに読者を楽しませるか、です。

 

そのなかで、

どんなに差別表現がなされようと、

いま流行のヘイトスピーチが展開されようと、

虚構なんだから別にいいじゃんと思います。

嫌なら読まなきゃいいだけで。

 

結局、

それを第三者がことさらに批判したりするから、

事が大きくなるのであって、

 

言ってみれば、

嫌中本・反韓本コーナーをつくって売上促進をする

本屋さんや出版社と構造は似たようなものかなと思います。

 

やだねぇ、世間っつーのは。

ひろさちやさんに完全に感化されてしまいました…)

 

筒井さんの反骨精神は個人的に応援したい!

というのがここまでの趣旨なのですが、

 

ここからは、

本書の内容に関するコメントです。

(※ネタバレあり)

 

結論から先にいうと、

本書には衝撃ポイント(どんでん返し)が2つあります。

 

1.作中の「俺」が途中で変わる

2.実は犯人の「俺」は、彼が殺した女性のうちの一人には愛されていた

 

まず、1.について。

 

これは、

いわゆる叙述トリックというやつです。

 

「おれ」はコイツだろうと見せかけておいて、

実はもう一人の「おれ」がいた、

──的な。

 

【参考】叙述トリックとは - はてなキーワード

・ミステリ小説において、文章上の仕掛けによって読者のミスリードを誘う手法。具体的には、登場人物の性別や国籍、事件の発生した時間や場所などを示す記述を意図的に伏せることで、読者の先入観を利用し、誤った解釈を与えることで、読後の衝撃をもたらすテクニックのこと。
叙述トリックを用いる際、虚偽の事柄を事実として書くことはアンフェアとして斥けられる。このため、客観的な記述が求められる三人称よりも、語り手の誤認や詐術が容認される一人称が用いられることが多い。また、手記という形をとる作例も少なくない。
・通常のミステリ作品におけるトリックは、犯人が探偵や警察の捜査を撹乱するために用いるものであり、物語の中で完結した形を取る。これに対して叙述トリックは、作者が読者に対して用いるもので、物語とは無関係に成立することが多い。
叙述トリックは、もともと本格ミステリのテクニックとは看做されておらず、邪道とする意見も多かったが、新本格以降の国産ミステリでは、代表的な手法であり、ベストセラーとなった作品も多い。

 

読者としては、

てっきり「おれ」ってアイツのことでしょ?

と思いながら読み進めてしまうのですが、

 

途中で、

「おれ」が替わります。

 

もっと具体的に言うと、

「おれ」=重樹と、

「おれ」=浜口画伯(浜口先生)がいて、

ふたりは同一人物ではない。

 

父親同士が兄弟(といっても義理の)なので、

ふたりは従兄妹関係にあり、

重樹の苗字は「浜口」ではありません。

 

この重樹≠浜口画伯という構図が

最終的に明らかになっていきます。

 

そこで読者は、

「ぬおー!」となる。

 

フランスの美術館めぐりなどの紀行文や

エッセイを書いているのが前者(重樹)。

 

絵を描くかたわら、

映画をつくっているのは後者(浜口画伯)。

 

第一章の「おれ」は、

後者の「浜口画伯」が語っていますが、

 

第二章からは、

前者の「重樹」が「おれ」として

話しはじめるのです。

 

「おれ」=「浜口画伯」に視点がかわるのが、

第七章。

 

ここから第十章まで、

浜口画伯としての「おれ」が続きます。

 

で、第十一章から、

ふたたび「おれ」は「重樹」に。

 

たしか、

二回目・三回目に読んだときも

(ひょっとしたら一回目のときも?)、

 

(結末がわかるまでは)

この「おれ」っていうやつに、

ところどころ微妙な違和感が出てきて、

釈然としない印象があったのを憶えており、

 

今回は途中で、

”そうだ!

 この「おれ」は、たしかこっちの「おれ」だったんじゃなかったっけな…?"

──というふうに読み進めていたので、

 

所々でウラをとりながら核心に迫っていく

というアプローチができました。

 

でも結局、

なんで犯人の「おれ」が、

次々と殺人をおかしたのか、

その動機は最後まで思い出せなかったので、

これはこれで、

初回のときのような新鮮さもあってよかったです。

 

その犯行動機が

2.の衝撃ポイントにも通ずるわけですが、

 

結局、

犯人の「おれ」は、

体に障害があるために、

ずっとコンプレックスをもっていた。

 

普通の生活ができないし、

恋愛なんてもちろん無理。

 

いつしか卑屈になってしまった「おれ」は、

自分を守ってくれるのは、

もう一人の「おれ」しかいないと思うようになった。

 

その絶対的に依存できる相手が、

いざ世帯をもって、

自分から離れていってしまう。

 

いよいよそのときが来た!とわかったのが、

まさにこの「ロートレック荘」であり、

犯人の「おれ」は、

その邪魔になる人たちを殺していった、

 

──これが粗筋の犯行動機です。

 

犯人の動機の根本的なところ(心の闇)は、

身体的不具合からくる劣等感ですが、

 

要は、

”誰からも愛されない(必要とされない)、

 ただの可哀想な男"

という劣等感が、

犯人自身を精神的に追い詰めてしまった。

 

相棒(=もう一人の「おれ」)に、

依存するしかなくなってしまった。

 

でも、

本当は違った。

 

実は、

ロートレック荘」の今の持ち主である、

木内夫妻の娘(典子)は、

「おれ」からもう一人の「おれ」を奪おうとしたのではなく

まさかの「おれ」を愛していた!

 

犯人の「おれ」は、

木内夫妻から典子の日記を渡され、

その日記から、

獄中で典子の自分への想いを知ります。

 

そして物語は、

この一文で幕を閉じるのです。

 

私が失ったものはなんと大きなものだったのでしょう。もうこれ以上生きていたってなんの希望もありません。どうか私を死刑にしてください。

 

結局、

最後は救われない結末で終わるんですが、

”ひゃー!なんと、そう来たか!”

というラストでした。

 

「まさかの」どんでん返し。

 

作者の巧みな叙述トリックで、

犯人の「おれ」ともう一人の「おれ」がいることが明らかになったと思いきや、

最後にもう一度読者は「!!!」を体験するわけです。

 

いやーお見事でした。

 

ちなみに、

3回目に読んだときのメモを見直すと、

こんなふうに書き残していました。

 

2回読了したのに、トリックをまったく忘れていた。
・実は3人の独身男性がいた
・「おれ」がどの俺なのかわからない
・重樹≠浜口
・なんで身障者の重樹がそんなにモテるのか?
叙述ミステリーっていうやつで、「やられた」感よりも「あーそういうことか、なるほどね」という感想。

 

3つめの

”なんで身障者の重樹がそんなにモテるのか?”

というコメントなんかは、

 

思いっきり、

「おれ」=重樹という認識で読み進めていたんでしょうね。

 

いずれにしても、

星4つをつけていましたから、

それなりにおもしろかったんだと思います。

 

筒井さんは、

本書のほかに、

先行してもう1冊ミステリーを書いているそうで、

それがコチラ。

 

富豪刑事 (新潮文庫)

 

彼が書いたミステリー(推理小説)は、

どうやらこの2つだけで、

解説の佐野さんによれば、

こっちも相当おもしろいようなので、

次回、是非読んでみたいなと思います。

 

 

■まとめ:

・4度目の読了ながら、相変わらず衝撃の結末に圧倒された。

・はじめて読んだときは、読み返しながらトリック(伏線)を発見していく楽しさがあったが、今回は、記憶をたどりながらトリック(伏線)を見つけ、核心に迫っていく楽しさがあった。

・本書には、2つの衝撃ポイント(どんでん返し)がある。1つは叙述トリックによるもの、もう1つは犯人の犯行動機を根本から覆す「まさかの」実は…的な内容。いずれにしても、作者の見事な手腕に感服。


■カテゴリー:

ミステリー 

 

■評価:

★★★★★


▽ペーパー本は、こちら

ロートレック荘事件 (新潮文庫)

ロートレック荘事件 (新潮文庫)

 

 

Kindle本は、いまのところ出ていません

 

「狂い」のすすめ ★★★★☆

ひろさちやさん

「狂い」のすすめ (集英社新書)

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

ひろさちや」というお名前だけは聞いたことがありましたが、

実際、何をされている方なのかはよく知りませんでした。

 

どうやら、

仏教を専門とする宗教評論家で、

本名は「増原 良彦(ますはら よしひこ)」といい、

ひろさちや」はペンネームだそうです。

 

Wikiによると、

以下のように説明がありました。

 

大阪府に生まれ北野高校を経て、東京大学で印度哲学、仏教学を学び、気象大学校で教鞭を執る。教員生活の傍ら、「ひろさちや」のペンネームで平易な言葉で多数の入門書を執筆し、一般の人々に仏教を身近な物として再認識させた。ペンネームの由来は、ギリシア語で愛するを意味するPhilo(フィロ)と、サンスクリット語で真理を意味するsatya(サティヤ)の造語である。

 

ひろさちや」=愛と真理を追求する人

みたいなイメージでしょうか。

 

学歴もさることながら、

教員をやりながら本も書くなんて、

もともと勉強が大好きなんでしょうね。

 

「仏教」とは言いますが、

本書に書かれてあることは、

決して「仏教」をはじめ、

特定の宗教に偏った感じもなく、

まさに「平易な言葉」を用いて、

うまく生きるスベを教えてくれています。

 

まあ、よく聞く話だよねー

っていうものも正直多いのですが、

 

よく聞く話ではあるんだけど、

アプローチの仕方が独特だなー

というのもあって、

面白さが感じられました。

 

決して、

宗教じみた説教にはなっていないので、

ライトに読めると思います。

 

おすすめ。

 

▽内容:

今の世の中、狂っていると思うことはありませんか。世間の常識を信用したばかりに悔しい思いをすることもあるでしょう。そうです、今は社会のほうがちょっとおかしいのです。当代きっての仏教思想家である著者は、だからこそ「ただ狂え」、狂者の自覚をもって生きなさい、と言います。そうすれば、かえってまともになれるからです。人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく生きましょう。「狂い」と「遊び」、今を生きていくうえで必要な術はここにあるのです。

 

まず、

著者が言う「狂う」とは、

精神病理学上の「狂う」ではなくて、

「ふざける」みたいな意味で、

 

世の中で言われていることや世の流れに対し、

なんでも額面どおりに受けとめるのではなく、

ちょっと距離をおいて、

おちょくる・見くびるぐらいがちょうどいい。

そもそも世の中のほうが狂ってるんだから。

 

──と言っています。

 

「狂う」を、

「ふざける」「おちょくる」という言葉に置き換えても

いいかもしれないです。

 

ただこれは、

あくまで「境地」のことを指していて、

あんまり極端に言動に出してしまうと、

人間関係が悪くなることもあるから、

(人間関係を悪化させたくなければ)

周りに合わせることも必要だと、

筆者はおっしゃっていました。

 

口では、

「そうですよねー」「わかりますよー」なんて言っておきながら、

本心ではそんなことないでしょうに、

と嘲笑っていればいい。

 

それだけでなく、

正義をふりかざして、

「正しいこと」「当たり前のこと」を言うのは、

よしたほうがよいとも言っていました。

 

正しいことは言わずにおきましょう。それが人間関係をうまく維持するための、一つの良策だと思います。それから、正しいことをあなたが言うときには、あなたは相手を勝手に裁判にかけて判決を言い渡しているわけです。そのことに気づいてください。(中略)「正しいことを言うな!」は、──何も言わないほうがよい──という意味です。わたしたちが相手に対して何かを言う、はっきりと口に出して言わなくても、心の中で、〈この人はまちがっている〉〈わたしであれば、こんなことはしないのに…〉と思うことも含めて、相手に対してなんらかの「判断」をすることは、結局はその人を裁いていることになるのです。したがって、何も言わない、その人を裁かないほうがよいのです。わたしたちは、聞いてあげればよいのです。

 

ただ聞く、

そしてときには受け流したり、

心のなかで嘲笑う、

それで良いのだと。

 

着るものや食べるものも、

場の空気を乱さないためには、

いちおう適当に流行にのっとけばよくて、

あとは好き勝手やればいい、

だって個人の自由なんだから、

 

──というわけです。

 

もし言動に出すにしても、

自分は世間とは違って「しまっている」という意識のうえでそれをやってしまうと、

俺ってマイノリティー…?みたく

どうしても卑屈になってしまうから、

 

そうじゃなくて、

自分は狂っているから世間とはズレているんだ、「どうよ!」

という意識でやれば、

俺ってマイノリティー!てへ!みたいに、

逆にふざけられる・余裕がもてる。

 

だから狂いなさい、

人生を世間の常識という型にはめず、

もっと自由に「遊べ」と、

彼は言っています。

 

”自由”という言葉、いろんな意味に使われますが、ここでは「自分に由る」という意味です。世間の常識に由って判断するのは「世間由」であって、それだと世間の奴隷です。世間と違った自分の判断に由るのが自由人です。ということは、自由人は世間に楯突いている人間です。世の中をすいすいと泳いでいる人間が自由人に見られそうですが、あんなのは太鼓持ちであって、真の自由人ではりません。真の自由人は世間からちょっと距離を置いて、世間を信用せず、むしろ世間を軽蔑し、軽蔑することによって世間に楯突いている人間です。あなたもぜひ、自由人におなりください。簡単になれますよ。まず、自分が弱者だと自覚すればいい。そうすると、どうせ世間は弱者に味方してくれるわけがないから、世間を信用しなくなる、そうすると、世間の常識に対して眉唾になります。そうすると、自分の独自の思想・哲学が持てるようになります。思想・哲学といったって、そんなに大袈裟なものではありません。〈みなさんはそうおっしゃいますがね、わたしはそうは思いませんよ…〉と心の中で呟く、それだけのことです。

 

一見、

誰もが言っているようなことなんだけれども、

「自由」の語源から、

「世間由」という言葉をつくり、

 

世間の常識に由って判断するのは「世間由」であって、それだと世間の奴隷です

 

と表現しているのが実にユニークでした。

 

全体を通じて、

このようなユニークな表現が多いのですが、

それがなかなか説得力がある。

 

世間を「象」にたとえて、

以下のように表現していたのもおもしろかったです。

 

世間というものは狂象です。(中略)世間というものは、発情期の象でしょうか。近寄ると危険です。世間の常識──制服はいいものだといった常識──に楯突くのは危険です。よしたほうがよろしい。ただ黙って、にやにや眺めているといいのです。そして、心の中では、狂っている世間を軽蔑します。

 

では、

世間と距離をおいて、

「自由に」人生を遊ぶにはどうしたらよいのか。

 

彼はいいます、

人生に目的を求めてはいけない、

人生に意味なんてない、

たまたまこの世に生をうけ、

ついでに生きているだけだ、と。

 

だから、

未来を夢見て、

理想や希望なんて持たないほうがいいし、

過去を振り返って、

反省や後悔なんてしても無駄だ、と。

 

──反省や後悔をするな!希望や理想を持つな!──

(中略)世間の常識だと、失敗したときはしっかりと反省しないといけない、となります。でもね、いくら反省したって、この次、失敗しない保証はありません。われわれが生きてる現実の中で、まったく同じ状況というのはあり得ないのです。失敗するには、そのときどきの条件によって失敗するのですから、いくら反省したところで、この次は別の条件が作用しますから、反省は役に立ちません。それに”反省”といえば立派ですが、実際は反省することは、くよくよ、じくじく後悔することなんです。やめたほうがよい。そして、この次の機会に失敗すれば、そのときにまた〈あっ、しまった!〉と思えばいい。失敗したって、命まで奪われるわけではないでしょう。何度も失敗を繰り返していいのです。失敗を楽しめばいい。それが釈迦の言葉のひろさちや流解釈です。

 

ただただ、

「いま」をとりあえず生きなさい、

引きこもりなら引きこもりを楽しめばいいし、

病気なら病気の範囲で生活を楽しめばいい、

 

そこに理想や希望なんてもってしまったら、

余計に心が煩わされるんだし、

過去を振り返っても何も変わりはしない

 

すべては「諸行無常」なのだから、と。

 

人間は本質的に自由なんです。神が人間を創ったとしても、神の頭の中には何も目的なり用途なりがなかったのだから、人間は自由に生きていいのです。ましてサルトルは神の存在を認めないのだから、人間を束縛するものは何もないのです。それが実在主義の主張です。ということは、人生は無意味なんです。「意味」というものは、いわば神の頭の中にあるものでしょう。そうではなしに、誰かがその「意味」を決めるのだとしたら、いったい誰が他人の生きる「意味」を決定する権限を持っていますか?戦前の日本だと、天皇陛下が国民の生きる「意味」を決定する権限を持っているといった主張もあり得たでしょうが、まさかそこまで言う思想家はいませんでした。でも、なんとなくそのように思わせる風潮はありましたが、あれは国民みんながペテンに引っ掛かっていたのです。だが、戦後になると、こんどは人間の生きる「意味」が多数決的に決まるかのような風潮が生じました。しかし、それもペテンですよ。わたしの生きる「意味」を、わたし以外の人間が決定する権限を持っているはずがありません。だとすれば、それは「無意味」です。人生の「意味」なんて、ありっこないのです。

 

戦後、

生きる意味が「多数決的に決まる風潮」が生じた

という指摘には、

なるほどなーと思いました。

 

最後のくだりが、

自分はいまいち理解ができなかったのですが、

 

わたしの生きる「意味」を、わたし以外の人間が決定する権限を持っているはずがありません。だとすれば、それは「無意味」です。

 

「意味」という言葉を「価値」に置き換える

なんか納得がいきました。

 

自分の生きる「価値」は、

他人には決められない・わからないものなんだから、

そしたら「価値」なんてないんだ、と。

 

そして、

「価値なんてない」ということが、

本当の「人生の価値」なんだ、

だから周りにはばかることなく、

自由に生きてよいのだ、と。

 

「無意味」だというのが、真の「人生の意味」なんです。そして、わたしたちは、ついでに生きているのです。意味のない人生だからこそ、私たちは生まれてきたついでにのんびりと自由に生きられる。誰に遠慮する必要もなく、自分の勝手気ままに生きることができるのです。

 

でも、

著者の考えに同意できなかったところもあります。

 

ひろさちやさんは、

 

人生は無意味なんだし、

どうせいつか死ぬんだから、

下手に生き甲斐とか目的なんかをもってしまうと苦しいばかり、

 

挙句の果てに、

人生の目的=金儲けなんてことになったら、

それこそもう最悪だ…

 

──くらいのことを言っているのですが、

 

自分としては、

「そうだなぁ」と賛成する気持ちが半分、

「そうかな?」と反対する気持ちが半分、

というのが正直なところです。

 

わたしたちはたまたま人間に生まれてきて、生まれたついでに生きているだけだ。別段、それ以上の意味なんてない。(中略)人生に意味があり、目的があるとすれば、わたしたちはその目的に向かってまっしぐらに驀進したくなります。そうすると、競走馬的人生になってしまいませんか。まさか金儲けだけが人生の目的・生き甲斐だと思っている人はいないでしょうが、企業の発展を目指す経営者は、結局は金儲けのために生きていることになるでしょう。でもね、いくら巨悪の富を積んでも、あの世には持っていけないのですよ。金儲けなんて、人生の目的にはなりませんね。

 

狂っている世の中で狂うことが、まともになれる道なんです。まともになるということは、「金・かね・カネ」の狂奔をちょっと醒めた目で眺める心の余裕を得ることです。そうすると自由人になれるのです。それには、人間は誰もが死ぬんだという、冷厳たる真理を直視することです。(中略)もうすぐ死ぬのだとしたら、あくせく働いて金を貯めてどうなるんです?!

 

言っていることはごもっともなんですが、

逆の考え方だってできそうです。

 

人生は儚いから、

どうせいつか死ぬんだから、

だったらせめて、

いい思いがしたい・贅沢したい。

 

だから、

人生が金儲けに終わって何がいけないだ?

 

──みたいな。

 

実際、

そういう人はたくさんいると思います。

 

きっと著者としては、

仏教の教えに精通しているため、

 

理想にせよ希望にせよ、

あるいは「生きる目的」や「生き甲斐」にせよ、

 

根底には「欲望」というものがあって、

 

それはほうっておくと、

化物のようにどんどん膨らんでいくものなので、

何か手に入れるともっともっと手に入れたくなるし、

逆に手放すこともできなくなる、

 

お金なんていうのはその最たるものであり、

ゆえにお金を追いかけてしまうと、

苦しみもがく人生になってしまう、

 

だったらそんなもの持たない方がいい、

ちょっと冷めた目で見るくらいがいい、

そのほうがラクに生きれる、

 

──そういうことを言いたいんだと思います。

 

それだったらわかります。

その通りだと思う。

 

自分はちょうど、

小池龍之介さんの『しない生活 煩悩を静める108のお稽古』を併読しながら、

本書を読んでいたので、

わりとすんなり腹におちましたが、 

 

ひろさんの、

どうせいつか死ぬのに生き甲斐を求めたり、

あくせく働いてどうするの?──的な言い方だと、

自分のように反発する人もいるんじゃないかなと思います。

 

だからこそ、

ここは(この部分こそ)、

宗教的補足があったほうがよかったかな。

 

さて、

著者によると、

人生に目的や「生き甲斐」をもつこと自体が、

もう世間に毒されていると言っています。

 

わたしたちが「生き甲斐」を持とうとしたとき、わたしたちは世間の奴隷にされてしまうのです。そりゃあね、世間は、わたしたちに「生き甲斐」を持たせようとしますよ。世の中で生きているのだから、いや、世間のほうからいえば、おまえたちは世の中で生かしてもらっているのだから、世の中に恩返しをしないといけない。そのために「生き甲斐」を持って生きなさい──と命令口調で言います。つまり、世間はわたしたちに「生き甲斐」を押し付けます。それに騙されてはいけません。(中略)世間は、やれ仕事が生き甲斐だ、元気に働くことが生き甲斐だ、世の中に役立つ人間になることが本当の生き甲斐なんだと、新しい生き甲斐をつくって押し付けます。そんなものに引っ掛かってはいけませんよ。それに引っ掛かると、われわれは世間の奴隷になります。

 

たしかに私たちは、

人生に「生き甲斐」がない・ハリがないと、

なんかダメだと思っている。

 

本当にダメなのか?

 

周りがダメだと言っているから、

なんとなくダメなんじゃないかと思ってしまうだけで、

 

別に、

ハリがない人生を、

ただ飄々と生きていたって、

実はそれはそれで心地よいかもしれません。

 

仕事を辞めた人や転職した人が、

”辞めて自由になったのはいいけど、

 ヒマで何していいかわからないし、

 ダメ人間になりそうだから、

 あまり間をあけずに就職した”

──ということを見たり聞いたりしますが、

 

ヒマだと何がいけなくて、

どこがダメ人間なんでしょうね?

 

いや、

こうやって言ってる自分も、

 

実際、

”ヒマ=避けるべきもの”

”働かない=ダメ人間”

と思っているフシがあるんだけれども、

 

それって本当にそうなのか?

と思います。

 

べつに誰にも迷惑かけてないんだから、

ヒマでも働かなくてもいいんじゃないか?

──と。

 

私たちはつい、

こんなんじゃダメだ!

と自分を律してしまいますが、

 

本心としては、

何もしないほうがリラックスできていい!

と思っているかもしれない。

 

こんなんじゃダメだ!

というのは世間の常識(評価)に惑わされているだけであって、

あれ?本当にダメだっけ?

と見直してみたっていい。

 

これぞ、

著者のいう、

世間に隷属しない自由な考え方かと思います。

 

ちなみにもっというと、

ひろさんは、

たとえ他人に迷惑かけたっていい!

とすら言っていました。

みんなお互いさまなんだから、と。

 

ここからの ”ひろ”モード は、

読んでいてすごく面白かったです。

 

世間に隷属して生きようとする奴隷根性が問題です。世の中の役に立つ人間になろうとする、その卑屈な意識がいけません。

 

世のため人のために役立とうとする意識を、

「卑屈な意識」と言ってしまう。笑

 

でも、

ほんとそうかもしれない。

 

彼は、

無理に人様の役に立とうなんて思うな、

その時点でアンタ世間の奴隷だよ!

──と言っているわけです。

 

仕事についても然りで、

生きるために仕事することは必要だけど、

仕事するために生きているわけじゃない、

それこそ会社という世間に毒されているだけ

 

だから、

成果や評価、

勝ち負けを追求してまで働く必要なんてどこにもない、

 

そもそも、

(仕事するためにに生きているんじゃないんだから)

職を失ったら→ハイ人生終わり!

と思っちゃうこと自体がもう終わってる…

 

──と著者は言っています。

 

大部分の人間は、世間から押し付けられた「生き甲斐」を後生大事に守っています。その結果、会社人間になり、仕事人間になり、奴隷根性丸出しで生きています。そして挙句の果ては世間に裏切られて、会社をリストラされ、あるいは病気になって働けなくなり、それを「人生の危機」だと言っては騒いでいます。おかしいですよ。それは奴隷が遭遇する「生活の危機」でしかないのです。本当の「人生の危機」は、あなたが世間から「生き甲斐」を押し付けられたときなんです。まさにそのとき、あなたは奴隷になったのであり、自由人としてのあなたは死んでしまったのです。それが、それこそが、本当の意味での「危機」だったのです。

 

仕事という「生き甲斐」を押し付けられ、

それを受け入れてしまったときこそ、

「人生の危機」だなんて、

本当に狂ってる!笑

 

でも、

さっきのヒマ=ダメ人間と同じで、

これも正しいと思います。

 

著者によれば、

勉強でもこれは同じことで、

 

本当は勉強したいから大学に行くのであって、

大学に行くために勉強するわけじゃない、

 

大学に行くために勉強するのだとしたら、

もうその時点で、

世間の立派な奴隷であり、

「人生の危機」にどっぷりハマっている、

 

もし、

勉強したいから大学に行く(という人生を歩む)のであれば、

浪人生活を「灰色の受験生活」なんて言うのは

ちゃんちゃらおかしくて、

 

それは世間から、

生きる意味=大学に行く ←だから勉強する

と勝手に定義したものを押し付けられ、

それを疑いもせず飲み込んでしまったから、

「灰色」という表現になってしまうんだ、

そのカラクリに気づくべきですよ、

 

──そんなふうに彼は警鐘を鳴らしていました。

 

働くために生きたり、

大学に行くために勉強に生きたりするのは、

本末転倒だけれど、

 

そもそも、 

理想や希望をもって、

何かのために生きようとすること自体、

絶対それにとらわれてしまうから、

苦しくなって当たり前。

 

目的意識があると、われわれはその目的を達成することだけに囚われてしまい、毎日の生活を灰色にすることになるのです。失敗したっていいのです。出世できなくてもいいのです。下積みの生活でもいい。それでも楽しく生きることができるはずです。

 

希望・理想を持つということは、現在の自分を不満に思っていることと同義です。いまの年収では不満。現在の地位では不足。そう思っているから、希望を持つ。それは”希望”という名の欲張りです。あなたはどうして現在のあなたでいけないのですか。あなたが現在の自分を不満に思っても、あなたはあなたであって、現在の自分以外にないのです。(中略)わたしたちは、自分は自分であって他人ではありません。現在の自分をしっかり肯定し、その自分を楽しく生きればいいのです。それが仏教的生き方だと思います。

 

だから、

人生に目的なんかもってはいけない、

いまの自分を肯定してあげたらいい、

──と彼は述べていました。

 

人生の旅には、目的地があってはならないのです。目的地に到達できるかできないか、わからないからです。目的地というのは、「人生の意味」や「生き甲斐」です。人生に何かの目的を設定し、その目的を達成するために生きようとするのは、最悪の生き方です。(中略)人生の旅は、ぶらりと出かけるのがいいのです。どこに行く当てもない。いわば散歩の要領ですね。

 

わたちたちはここで一つの哲学を確立しましょう。それは、──われわれには、「自分が自分であっていい」という権利があるのだ──という哲学です。わたしは、これこそが「基本的人権」だと思っています。そして、この「基本的人権」を、もっと平たく表現するなら、──そのまんま・そのまんま──になります。「そのまんま」というのは、あるがままです。いまあるがままの自分、そのまんまの自分をしっかりと肯定する。それがわれわれの哲学です。あなたはいま引きこもりです。だとすれば、あなたは「そのまんま」でいいのです。引きこもりでいいのです。あなたががんになった。それじゃあ、「そのまんま」でいいではありませんか。しかし、勘違いしないでください。「そのまんま・そのまんま」といっても、がんの治療をしてはいけないと言っているのではありません。医者にかかってもいいのです。でも、治るまでのあいだは、あなたはがん患者だから、「そのまんま・そのまんま」と思ってください。ましてや治らないときは、「そのまんま・そのまんま」と思うべきです。(中略)引きこもりはよくない、がんは不幸なことだ、と思わないのです。自分には引きこもりのままに生きる権利があるのだ、自分は堂々とがんのまま生きていいのだ、と思うのです。引きこもりやがんをマイナスの価値に考えてはいけません。それがわれわれの「そのまんま・そのまんま」の哲学です。

 

ここで、

人生を旅にたとえ、

そこに目的地があってはいけないと指摘するうえで、

著者がおもしろいことを言っていました。

 

最近の小学生のバス旅行にしても、目的地に着くまでのあいだは、小学生たちがカラオケ大会をやっているそうです。なるほど、新幹線の中の時間は退屈です。車窓の外の景色を楽しむには、あまりにもスピードが出すぎだからです。飛行機の窓から外を見たって、雲しか見えません。いや、窓のある座席に坐れる人は少ないのです。そうすると、目的地に着いてからしか旅を楽しめない。そこに着く前の時間は無駄な時間で、できるだけ短くしたいと考えるようになります。それが目的地主義です。でも、人生を目的地主義にしてはいけません。

  

これには、

たしかに!と思いました。

 

ここでいう「これ」とは、

現代人の旅が「目的地主義」になっていること、

すなわち、

目的地に着くまでの過程はムダだととらえていることですが、

 

なんでもかんでも効率化された昨今、

旅行の計画をたてるのもパッパッパッだし、

グッズをそろえるのもパッパッパッ!

 

昔は、

それこそ紙媒体が中心だったときは、

旅行の計画なんて、

何冊ものパンフやガイドブックを漁り、

行ったことがある人に話を聞いたりして、

そのなかで荒削りに予定を立てたりして、

それがまた失敗したりして、

だから印象に残る旅行も多かったのですが、

 

いまはさほど苦労もせず、

ネットでパッパッパッ!と計画できるから、

旅行の思い出に「計画段階」なんてあまり残らない。

 

自分が3年ほど前に、

バックパッカーをしたときもビックリしたのは、

パッカーたちの情報収集方法です。

 

10年前にも私はパッカーをやっていましたが、

そのときはネットがここまで普及していなかったから、

それこそロンプラとか地球の歩き方とかを駆使し、

あるいはゲストハウスの旅ノートなんかを拝読して、

目的地を探したり、

そこまでの行き方を入手したものですが、

いまはみんな普通にネットを使っている。

 

安宿にもWiFiがあるのが普通だし、

パッカーたちはスマホはもちろん、

下手したらタブレットやラップトップも持ち歩いていて、

端末に格納してある歩き方のPDFを、

パッカー同士で交換したりしている。

 

バックパッカーもハイテクを駆使する時代。

 

海外旅行する若者が減っているといいますが、

経済的要因のほかに、

行かなくても行った気になれるし、

思ったほど感動が得られないのも

要因としてはあるんじゃないかと思います。

 

昔ほど苦労もしないから、

そのぶん感動もないですし。

 

ちなみに私がもっと驚いたのは、

カナダのドミトリーに滞在していたとき、

夜中に笑い声が聞こえるなと思ったら、

滞在するパッカーのひとりが、

ラップトップでYouTubeをみて笑っていたという事件。

 

そいつは次の日もその次の日も、

下手したら朝までYouTubeをみていて、

何しにここに来たんだろう?

と首をかしげたものです。

 

まぁ、自分も何しに来たんだろう…?

って感じだったので、

ヒトのことをとやかく言えませんが。

 

でも、

いま考えたら、

他人の目的を他人の自分がとやかく言う筋合いはないし、

そもそも目的なんかなくてもいいのかもしれない。

 

私は、

YouTubeなんて家でみりゃいいのに、

 コイツ何しにこんなとこ来たんだよ!

 バカじゃーの?"

と毒づいていましたが、

 

裏を返せばそれは、

”旅に出たら旅にふさわしいことをすべき

 YouTubeの視聴なんて旅先ですることじゃない

 旅の目的がYouTubeなんておかしい”

──と、

あたかもそれが常識(正義)であるかのように

思っていたわけですが、

たぶん違います。

 

本当は、

ヤツの笑い声がうるさくて、

夜中に目を覚ましてしまったのがイヤで、

でもそれをイヤだとは言えないから、

正義をふりかざして否定しているだけ。

 

しかも、

仮に正義をふりかざしたところで、

”旅の目的がYouTubeなんておかしい”

という自分こそおかしい。

 

旅だって人生だって、

好きにやればよくて、

家でみてもいいし旅先で一日中みていたって、

それはその人の勝手だと思います。

 

バックパッカーのハイテク事情から少し逸れましたが、

でも、

ひろさんが言わんとすることは、

こういうことなんだと思います。

 

人生という旅に、

目的があってはダメ。

 

それは、

実際の「旅」ひとつをとってもそう。

 

その昔、

徳川家康は、

 

人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず

 

と言ったそうですが(『東照公遺訓』)、

 

これに対して、

ひろさんは次のように意見しています。

 

まあ、「いそぐべからず」というのはいいのですが、なにも重荷を背負う必要はないじゃありませんか。目的地主義になるから、そうなるのです。

 

もっとゆったりやりゃあいいじゃん、と。 

 

また、

フランクリン=ルーズベルト米元大統領の名言

 

今日できる仕事を明日に延ばすな

 

についても、

次のように意見しています。

 

良く考えてみたら、これはイエスに楯突いている言葉ですね。イエスは「明日のことを思い悩むな」と言っているのですから。だとすると、このことわざは反対にしたほうがよさそうです。すなわち、──明日できる仕事を今日するな──となります。それが宗教の教える未来に対する権利放棄であり、神下駄主義のスローガンになります。ところが、何かの本で読んだのですが、ローマにはもっと神下駄主義的なことわざがあるようです。それは、──明日できる仕事を今日するな。他人ができる仕事を自分がするな──です。なるほど、ここまで徹底したほうがいいようです。

 

いいですね、

こういう考え方。

 

仕事一直線のときの自分がこれを読んだら、

バッカじゃね―の!と一蹴していたと思いますが、

いまはなんかわかる気がする。

 

バカでもなんでもいいから、

仕事なんてもっと適当にやりゃあよかったな、

と今は思います。

 

あ!

過去にとらわれるのもダメって言ってたな、たしか。笑

 

いま適当にやれてるんだから、

いいじゃないの!

──こういうふうに肯定することが大事だそうです。

 

本書で印象に残ったことが、

ほかにも2つあります。

 

1つめは、

現代人は「孤独を生きる」覚悟が必要ということ。

 

著者によると、

現代の日本人はとてもさみしくて、

常に癒しを求めているんだけれども、

昔ならそれが「家族」に求められたのに、

今は「家族」ではないところ(学校・会社)に分散しているんだけれども、

 

学校や会社の人間関係というのは、

付かず離れず(敵になったり味方になったり)の関係で、

とても不安定。

 

不安定だから、

なかなか癒しが得られず、

(昔以上に)淋しいまま。

 

若者の間ではもはや当たり前の、

電話やメール・SNSなんていうのは、

その淋しさが顕著に現れている証拠ですね。

 

最近の若者たちは、すぐに携帯電話をかけます。あれは孤独を生きる訓練ができていないからです。淋しいものだから、誰かとつながっていないと安心できない。

 

ひろさんは、

こうした淋しさの癒しを、

「家族」に求められなくなった経緯について、

以下のように説明していました。

 

近代日本の国家は、近代日本の国家というのは明治以降の日本ですが、大家族制度を崩壊させてしまいました。天皇制国家は直接に個々の「臣民」を支配したいので、それには家族制度があっては困るからです。家族制度があると、それぞれの人間は家族の一員であるといった意識を持ちますから、「臣民」意識を持ちません。それが天皇制国家にとっては都合が悪いのです。さらに戦後日本になって、天皇制国家によってほとんど壊された家族制度を、日本人は徹底的に潰してしまった。何を勘違いしたのか、家族制度は封建的という理由で、家の解体をやってのけたのです。その結果、見事な「核家族」になりました。

 

そして彼は、

 

こんな国は、アメリカの中下層と中国、それにイスラエルだけですよ。その他の国では、家族制度はしっかりと残っています。

 

とまで言っています。

 

じゃあ、どうすればいいのか?

 

人間なんて、

突き詰めれば、

いつの時代もどこにいても、

誰だって孤独なんだから、

孤独を生きる覚悟をすべきだ!

──彼はそう言っています。

 

まだ「家族制度」が強かった時代は、

孤独が誤魔化せたけれど、

 

いまは「個」の時代で、

それは個人が尊重されるという面もあるけれど、

孤立化しやすい面もあるわけで、

会社や学校、ネットの世界だけでは孤独は誤魔化しきれない。

 

なぜならそこは、

うつろいやすい不安定な世界だから。

 

我々日本人は、

縄文時代の狩猟型の生活から、

弥生時代の農耕型の生活に移行してから、

 

それまでは遊牧民として、

一定のグループ内では強固に団結して、

ベッタリな関係を維持していたけれども、

 

農耕民族になってからは、

家族以外は敵にもなるし味方にもなってしまった。

 

筆者は、

それが現代にも通じていると述べています。

 

わたしたちにとっての世の中・集団・社会のあり方は、一面では互いに助け合いながら、同時にライバルにもなるといった、非常に厄介なものなのです。

 

彼はこの独自の考え方から、 

日本における隣人関係を、

以下の2つのパターンに分類していて、

それがまた独特で興味深かったですが、

 

①縄文型・牧畜型・浪速型

②弥生型・農耕型・江戸型

 

このパターンでいうと、

今の日本はもちろん②に該当し、

付かず離れずの不安定な人間関係が続いているといってもいい。

 

だから、

余計に孤独。

 

余計に孤独だから、

それを紛らわそうと、

みんな一生懸命もがく。

 

でも報われない。

 

だから、

自覚すべきなんです、

受け入れるべきなんです、

家族関係が強かろうが弱かろうが、

今も昔も根源的にはみんな孤独なんだ、と。

 

ゆえに、

そもそも癒しを求めることが間違っているし、

孤独を感じやすい環境にいればいるほどそうなるんだから、

 

まずは身の置き場所をかえるなりして、

孤独を感じないようにすることも大事だけれど、

 

本質的な解決策としては、

「孤独なのが当たり前」と受けいれ、

「淋しい→癒されたい」と求めないこと。

 

──彼はそのように言っています。

 

人間の孤独を癒してくれるものは何でしょうか…?結論的に言えば、人間の根源的な孤独を癒してくれるものなんてありっこないのです。(中略)わたしたちも(ヤマアラシのように)自我というトゲを持っています。だから、相手とべったりとくっつくわけにはいきません。親子であろうと、夫婦であろうと、くっつけばトゲが痛いのです。かといって離れると淋しい。まさしくジレンマになるのです。したがって孤独の癒しを求めてはいけません。癒されるわけがないのです。そもそも癒しを求めるのがよくない。心が傷ついたとき、癒しを求める人が多いのですが、たとえばサラリーマン生活をしていて心が傷つきやすい環境に身を置いていながら、その環境を変えずに癒しを求めても、癒しが与えられているあいだはとくても、またすぐに心は傷つきます。それよりも、心が傷つかない環境に身を置くことを考えたほうがよいのですが、現代日本の社会生活では、心が傷つかない環境なんてないのです。誰だって心が傷ついています。まあ、人間に二種類あって、鈍感な人と敏感な人がおり、敏感な人が癒しを求めるのですね。でも、癒しは与えられない。そうすると、求めた人はそれだけ多く悩むわけです。

 

この背景には、家族を失い、所属する会社・企業において、人間と人間がライバル関係に立たされてしまった現代日本社会ののっぴきならない状況があります。この状況は、農耕民族である日本人にとってはそれほど奇異なものではありません。農耕民族にとっては、近隣関係は利害の対立を意味するものです。だからヤマアラシのジレンマで、隣人は敵であると同時に味方、味方であると同時に敵という、あいまいな関係でやってきたのです。それでも人々は、それぞれの家族の内部で孤独を癒すことができました。その家族が崩壊したとき、人々は癒すことのできない寂寥感に襲われた。それが現代日本の社会的状況です。

 

私は、

著者のいう「敏感な人が癒しを求め→悩む」という部分を読んで、

ハッとしました。

 

世の中では、

敏感な人というのは、

「繊細な人」とか「傷つきやすい人」とか言われたりして、

あたかも良い意味でつかわれることも多いと思いますが、

実は違うんじゃないか?

 

(自分も含めて)彼らは皆、

誰よりも「淋しい→癒されたい」と望んでいる人たちで、

ただの「淋しがり屋」で「欲張り」なだけではないか?

 

そうなると厄介。

 

いや、

たぶんそれに気づいているから、

「繊細」で「傷つきやすい」人たちは、

「厄介」で「めんどくさい」人たちと実は紙一重だと、

みんな心の中ではわかっている。

 

第三者的にそういう人たちに遭遇したら、

「繊細」「傷つきやすい」といった表現をするけれど、

近しい友人・恋人関係になった途端、

「うざい」「めんどくさい」といった表現にかわる。

自分でもそれを自覚してしまうことすらある。

 

だから、

両者は限りなくイコールというのが、

おそらく正解なんだと思います。

 

綺麗な言い方をしないで、

傷つきやすい=欲が強い=ストレス耐性が弱い=ウザイ

くらい意識したほうがいいと思う。

(自戒の意も込めて…)

 

そう考えると、

鈍感なことは、

実はとても素晴らしいことなのかもしれないですね。

 

無意識に鈍感になることはできなくても、

意識的に鈍感を演じることはできるわけで、

自分は後者の道を歩みたいと思いました。

 

2つめは、

人間の価値は、

世間の物差し=「ゴムの物差し」で測ってはいけないということ。

 

著者いわく、

この世には「世間の物差し」と「仏の物差し」(神の物差し)があって、

 

前者はゴムでできているから、

時と場所によっていろいろな値を示す(伸び縮みしてしまう)。

 

要は、

相対的な価値を測定しているということ。

 

巷で売られている商品のように、

「機能価値」を測るには、

この「世間の物差し」は都合がよい。

 

どっちの商品のほうが、

機能・素材が優れていて使いやすのか?

の判断がつきやすいから。

 

後者は目盛りがないから、

そもそも測ることができない。

なぜ目盛りがないかというと、

仏(神)が「測れない」のではなく「測らない」ようにしたからで、

優劣をつけることを拒んだから。

 

要は、

絶対的な価値を測定しているということ。

 

自分が生きていることや誰かの人生というような

「存在価値」を測るのは、

こっちの「仏の物差し」で測らなければいけない。

 

どの人生が素晴らしくて、

どの人生がつまらないか、

なんていうことはないのだから。

 

人間の価値は──存在価値──で論じられるべきであって、そしてその存在価値を測る物差しは、──仏の物差し──でなければなりません。キリスト教徒であれば、ここは「神の物差し」としてください。人間の物差しはゴム紐の物差しだから、そんなものでは存在価値は測れません。仏の物差しでもってこそ、存在価値が測れるのです。では、仏の物差し(神の物差し)とは、どういうものでしょうか?じつは、それは、目盛りのない物差しです。目盛りがないから、測ることはできません。つまり、それは、「測らない物差し」です。男と女と、いずれの価値が大きいか?われわれはゴム紐の物差しで測って、それを平等にしようとします。両者の価値は等しいということになっていますが、なに、それはタテマエですよ。ですからホンネの部分では、そのゴム紐を伸ばしたり縮めたりしています。しかし、仏の物差しだと、目盛りがないから測れません。本当は測れないのではなしに、測らないのです。そして、どちらも、──すばらしい存在だ──と見ます。(中略)それが仏の物差し(神の物差し)で測った価値です。人間の価値は、その物差しで測られるべきです。ゴム紐の物差しで測った商品価値は、人間の本当の価値ではないのです。わたしたちは、そのことをしっかりと認識しておかねばなりません。

 

”とうとい”という字に”尊”と”貴”があります。(中略)”貴”のほうは、他と比べて貴いのであって、いわばゴム紐の物差しで測った貴さです。貴族のほうが平民よりも貴く、金持のほうが貧乏人よりも貴いのです。それに対して、あらゆる人間の価値を平等に見るのが”尊”です。世間の物差しで測れば、天皇や総理大臣のほうがホームレスより貴いわけですが、それは機能価値です。しかし仏の物差しで測った存在価値は、あらゆる人間が同じく尊いのであって、勝ちに上下はありません。

 

わたしたちが、〈自分の人生はなんてつまらないんだろう…〉と思うのは、世間の物差し(ゴム紐の物差し)で考えているからです。仏の物差しで測れば、あらゆる人の存在価値は同等ですから、つまらない人生なんてないのです。いや、逆かもしれません。すべての人の人生がつまらないのです。

 

このあたりは、

非常に勇気がもらえる話でした。

 

ひろさんは、

差別の問題にしても、

「存在価値」と「世間の物差し」の矛盾を突いて、

鋭い指摘をしています。

 

差別の問題があります。人間を差別してはいけない。それはあたりまえですね。では、差別がいけないのであれば、世間の物差しを使わなければよいのです。学校で成績をつけなければよい。ところが、競争社会をつくって勝ち組・負け組に差別しておいて、言葉の上の差別だけを排除しようとする。おかしいと思いませんか。

 

ほんまやなぁ。

大人って汚い。

 

でも、

じゃあ「仏の物差し」だけでいいのかというと、

彼は決してそうではないと述べています。

 

だが、それはそうとしても、実際問題としては世間の物差しを完全に無視することはできません。世間の物差しは機能価値だけを測るものですが、機能価値を無視してしまっては、世の中は混乱します。政治も経済も、何もかもが機能しなくなります。世間の物差しも、それはそれで必要なんです。問題は、世間の物差しだけでいいか、ということです。いまの日本では、ただただ世間の物差しだけが物差しになっています。それが困るのです。それだと、勝ち組だけに価値があり、負け組に価値がなくなってしまいます。そうして負け組、〈俺の人生に意味がない〉と思ってしまい、〈俺なんてこの世にいないほうがいいんだ〉となります。(中略)世間の物差しは、勝ち組・負け組をつくり、そして勝ち組・負け組の両方を不幸にします。世間の物差しだけでは駄目なんです。わたしたちは、もう一本の物差しを持たねばならない。そして、そのもう一本の物差しは、世間の物差しとはまったく違ったものでなければならないのです。つまり、目盛りのない物差しでなければならない。

 

世間の物差し一本で生きてはいけません。仏教もキリスト教もそう教えています。わたしたちはもう一つの物差しを持つようにしましょう。目盛りのない物差しを。まあ、そんな物差しを持っていると、世間の人々からは狂っていると評されますがね。しかし、幸福になるためには、自由になるためには、われわれは狂う必要があります。世間に遠慮することなく、狂いましょう。目盛りのない物差しを持ちましょう。あなたはどうしてそんなに世間に遠慮するのですか…?!

 

要は、

偏っていてはいけない、

世間だけを鵜呑みにしていてはいけない、

といっているわけです。

  

世間にのっかっているフリをして、

真髄は実は全然ちがうところにあったっていい。

いっそ、のっからなくてもいい。

 

(人生という舞台において)どうか大根役者にならないでください。現代日本人はまじめに働いて大根役者になっています。目的や目標に向かって驀進するのがいい演技だと思っています。でも、そのような演技は大根です。仏のシナリオは、わたしたちが人生を「遊ぶ」ように書かれているのです。わたしはそう思います。

 

これが彼の最も言いたいことでしょう。

 

総じて、

言っていることはそのとおりでして、

自分は今の自分のままでいいんだ!

今のままで十分幸せなんだ!

と勇気がもらえる本でしたが、

なかなかこれが続かない。

 

幸せという概念自体、

そもそも優劣がベースになっているので、

 

やっぱり世間の物差しで測った価値(学歴・年収・肩書きなど)でも、

それがあるほうが幸せなんじゃないか?とか、

 

一番いいのは、

世間の物差しで測った価値と、

自分の絶対価値の両方があることじゃ?とか。

 

わかりやすい例でいうと、

東大出て年収1000万円もらってて立派な職に就いていて、

でも自分は世間とは違うぜ!

世間の考え方なんてクソくらえって思ってるぜ!

と言っている人。

 

もっというと、

自分は世間を認めていないんだけれど、

世間は自分を認めているようなケース。

 

これが実は、

一番幸せなんじゃないか?って思いました。

 

仏教では「世捨て人」といって、

世間を捨てることが教えの本質ですが、

著者曰く、

「世から捨てられた人」でもいい、

どっちでもいいと言っています。

 

でも最後には、

世間の物差しも持ちあわせておいたほうがいい、

そのほうがスムーズに生きられる、

とも言っています。

 

本質と現実は違っていて当然ですが、

現実世界においては、

世に捨てられないくらいの機能価値は、

ないよりはあったほうがよくて、

 

そうなってくると、

結局、一番ラクな生き方は、

(カネも名誉も)得られるならもっておくにこしたことはない、

ま、オレはそんなもん信用してないけどね!

っていうことじゃないかと思ってしまいました。汗

 

…となると、

今の自分だったらダメじゃね?

幸せじゃなくね?

と自信がなくなるわけです。

 

まぁ、

人の心(自信)なんて、

それこそ”諸行無常”だから、

何が一番幸せかなんてわからないですけどね。

 

そうやって無理矢理でも

自分を納得させるしか、

今の私には答えが見つからなさそうです。

 

合掌。

 

■まとめ:

・まあ、よく聞く話だよねーというものも正直多いが、よく聞く話ではあるんだけど、アプローチの仕方が独特だなーという面も多く、面白かった。 宗教じみた説教にはなっていないので、ライトに読める。

・人生に意味なんてない、生き甲斐や目的をもった瞬間から、それは世間の奴隷になった証、未来を夢見て、理想や希望なんて持たないほうがいいし、過去を振り返って、反省や後悔なんてしても無駄。既存の価値観をぶった斬っていくさまが、爽快。瞬間的には勇気をもらえる。

・(しかし)人間の価値は、「絶対価値」であって、「相対価値」ではないというけれど、結局、世間からそれなりに認められるような価値でもないよりあったほうがよくて、そうなると一番ラクな生き方は、金や名誉はもっていることに越したことはなく、でも自分としては、それだけではない・世間はクソだと一定の距離を置くスタンスなんじゃないかと思えてきた。


■カテゴリー:

自己啓発

 


■評価:

★★★★★

 


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Kindle本は、今のところ出ていません

 

 

テロリストのパラソル ★★★★☆

藤原伊織さん作

テロリストのパラソル (講談社文庫)

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

厳密には3.7とか3.8とかで、

4には届かないのが本音ですが、

一気読み・徹夜読みにおススメできるくらい、

先が気になるストーリーでした。

 

これは98年に出された作品で、

今からなんと、

16年も前のものなのですが、

 

当時自分は大学生、

本という本も読まずに遊び狂っていたので、

 

本書の存在については、

ずっとあとになってから知った次第です。

 

解説でも触れられていましたが、

同じ作品で乱歩賞と直木賞をダブル受賞したのは史上初だそうで、

(同一作家が、別の作品で各章を受章したことはあるらしい)

 

自分が読んだ講談社文庫の帯にも、

思いっきりそのことが宣伝されていました。

 

テロリストのパラソル (講談社文庫)

 

たしかに読み応えがあったし、

先述のとおり、

先が気になるストーリーで

ぐいぐい引き込まれました。

 

…が、

結末(というか全体的なカラクリ?)が、

自分はどうもイマイチでした。

 

まぁ、

フィクションそれもミステリーなので、

話の展開や構成に対する好き嫌いは、

個人によって違って当然なわけで、

 

自分にはそれほど響かなかったというのが、

(5点満点に対する)マイナス1.3とか1.2の差分です。

 

このあたりの詳細は、

後述にて。

 

 

▽内容:

アル中バーテンダーの島村は、過去を隠し二十年以上もひっそり暮らしてきたが、新宿中央公園の爆弾テロに遭遇してから生活が急転する。ヤクザの浅井、爆発で死んだ昔の恋人の娘・塔子らが次々と店を訪れた。知らぬ間に巻き込まれ犯人を捜すことになった男が見た真実とは…。史上初の第41回江戸川乱歩賞・第114回直木賞受賞作。

 

 

もう4~5年前になりますが、

ハワイから帰ってくる飛行機のなかで、

シリウスの道

というドラマを観たのですが、

 

この原作者がまさに、

藤原伊織さんです。

シリウスの道〈上〉 (文春文庫)

シリウスの道〈下〉 (文春文庫)

 

内容は全然覚えていないのですが、

すごくおもしろくて、

暗い機内のなかで目をこらして見続けた記憶があります。

 

たしかWOWOWでドラマ化したものだったかと。

 

詳細はさておき、

そのときに藤原伊織さんという作家を初めて知ったのですが、

 

後日、

代表作はこの『テロリストのパラソル 』で、

有名な賞も受賞している

──といったことを関知したわけです。

 

実際に読んだのは、

それからまただいぶ後の、

今になってですが…。

 

シリウス~』が面白かっただけに、

こちらも相当な期待がありました。

 

結果としては、

おもしろかったんですが、

イマイチなところもあって、

 

冒頭でも触れたとおり、

結末(カラクリ?)にウーン…

というのが正直な感想なのですが、

 

シリウス~』にしても『テロリスト~』にしても、

引き込まれ感はハンパなかったです。

 

ちなみに、

シリウス~』のほうは、

『テロリスト~』から9年後に発表されていて、

 

話自体は全く別物なのですが、

『テロリスト~』の登場人物のその後が語られたりして、

つながりがあるんだとか。

(自分は、もう覚えていません…)

 

ちなみのちなみに、

『テロリスト~』から3年後に発表された

雪が降る (講談社文庫』のなかの、

「銀の塩」という作品において、

 

本書の事件の少し前──同じ主人公の、違う事件を扱っている

 

──らしいです。

(本書の解説より) 

 

結末はイマイチでしたが、

それなりに面白かったので、

シリウス~』も含め、

是非読んでみたいと思っています。

 

さて、

この藤原伊織さんという方ですが、

自分はずっと女性作家かと思っていたんですが、

なんと男性でした!

 

本名は、

藤原利一(としかず)さん。

 

いまとなっては66歳ですが、

本書を上梓したときは50歳。

 

女性でありながら、

ここまで気骨のあるハードボイルド小説をよく書けるよなぁ

──なんて思っていたのですが、

 

50歳(当時)のおっさんで、

かつ元・電通マンと聞けば、

意外とすんなり受け入れられました。

 

彼は、

本書の前にも別の作品で賞を受賞しているのですが、

ダブルワークだったのか、

次々にオファーが来る原稿依頼を断っていたら、

やがてどの出版社からも相手にされなくなったとか。

(そりゃそうだ!笑)

 

ところが、

ギャンブルにはまって借金がかさみ、

すわ金が必要!

ってことになって書いたのが、

この『テロリストのパラソル』だったそうです。

 

そんな不純な(?)動機で、

有名な賞をダブルでもらっちゃうんだから、

まじでスゴイ!笑

 

あるいは、

火事場のクソヂカラってやつでしょうか。

 

スゴイといえば、中身もスゴイ

 

いや、

だからこそ賞をとっているわけですが、

何がすごいかというと、

 

まず、

話が壮大

 

爆弾テロという話からして、

そんじょそこらの

サスペンスとかミステリーといった類の範疇を

ゆうに超えてしまっているわけですが、

 

犯人のテロリストは、

日本から南米に渡ると、

左翼ゲリラを経て麻薬組織に加わり、

麻薬ビジネスで財をなしたあと、

かつて自分を苦しめた人間たちに復讐してやろうと、

日系南米人として日本に帰国し、

新宿中央公園で爆弾テロを起こします。

 

彼は、こう言っています。

 

「取り戻せないものは破壊する」

 

まだ理性の残っていた自分を、

取り戻せなくしてしまった人たち、

あるいは、

もう戻ることのできない過去の思い出、

そういったものはすべて破壊するんだと。

 

テロ自体や犯行動機も壮大ですが、

南米左翼とか麻薬組織っていうところも国際的で、

スケールがでかい。

 

インターポールは出てくるわ、

コロンビアのメデジン・カルテルは出てくるわ、

挙句の果てには、

(南米の)政治犯収容所における

残忍な拷問シーンまで登場するという。

 

新宿中央公園が爆弾テロの舞台となったときは、

お!あの炊き出しの新宿中央公園ね!

と親近感すらおぼえたものですが、

その爆弾テロを育てた土壌は、

南米の左翼ゲリラや麻薬組織だったとなると、

いっきに話がでかくなる。

 

そもそも、

このテロの発端が、

全学共闘の東大紛争まで遡るということころも

重厚感ありまくりなんですが、

 

とにかく、

時間的にも空間的にも、

物語が縦横無尽に行き来し、

当時あるいは現地の

(ある種、暴力的な)社会問題にアプローチしていくもんだから、

 

こちらとしては、

いちいち時空を股にかけて、

それらを見せられているわけで、

 

これを

”スケールでかい!重い!”と言わずに何という??

──といった感じです。

 

でも、

彼がテロリスト犯になってしまった、

最も根源的なきっかけは、

学生運動の経験や、

社会への不満以上に、

女絡みの嫉妬があった!

というオチがなんとも言えませんでした。

 

だいたい、

(仲のよい)男同士の関係がもつれるのは、

〈出世絡みか、女絡み〉と聞きますが、

まさにそれ。

 

個人的な妬みや敗北感が、

彼を卑屈にさせ、

テロリストとしての芽がそこで培われてしまった。

 

どんなテロリストも、

最初はこんなふうに、

しょうもない嫉妬や劣等感から始まって、

 

それが、

「世間」や「社会」というもっと大きな池のなかでどんどん増長し、

本物のテロリストになっていくのかもしれない。

 

スケールのでかい、

ただのハードボイルド小説かと思いきや、

そういう人間くさいところでリアルさが滲み出て

物語と読者の距離はいっきに狭まります。

 

よくも悪くも、

最後は結局「情」というわけです。

 

犯行原因が、

テロリストの高尚な屁理屈で終わっていたら、

読者は誰も納得しません。

 

でも、

そこに「情」があるもんだから、

ナルホドそういうことか!

と合点がいく。

 

個人的な恨み、恋慕、嫉妬…。

 

スケールのでかいハードボイルドに、

この「情」のエッセンスをたっぷり入れ込むことで、

 

えらく壮大で重く、

自分からはかけ離れた出来事なんだけれど、

感情面で思わず納得してしまう部分ができて、

なぜか親近感をおぼえてしまうという──。

 

このギャップが埋まるのがおもしろくて、

ミステリーにせよ、サスペンス映画にせよ、SFにせよ、

私たちは作り話にのめり込むのですが、

話が壮大であればあるほど、

ギャップが埋まるときのおもしろさは増大します。

 

そういう意味で、

本書のストーリーは壮大でありながらも、

現実に沿った事物(学生紛争、南米の麻薬組織)や、

誰もがもつ感情(愛憎、嫉妬)をうまく利用して、

上手にギャップを埋めていると言えるでしょう。

 

スゴイのは、

それだけではありません。

 

この物語は、

話自体の壮大さもさることながら、

他にも妙に納得してしまうギャップの埋め方があって、

 

選考者や解説者によると、

それは「構成」だと言っていました。

 

「主人公の造形といい、文章のゆるぎなさといい、構成の妙といい、どれをとっても完璧」(乱歩賞選考委員・高橋克典

 

本作品が際立っているのは、(中略)練達した文章のうまさ、ディテールの巧みさ、きっちりと計算されつくした構成の精緻さがまずひとつにある。けれど、それ以上に光っているのが登場人物たちの多彩さと魅力であろう。(本書の解説より)

 

たしかに、

思い返せばいろいろ伏線が散りばめられていて、

最後にどかーんと回収するパターンで、

読者はここでも、

ナルホドそういうことか!

となる。

 

感情として理解ができるというより、

理屈としてガッテンがいくという感じでしょうか。

 

ただ、

自分としては、

この構成には不満があります。

 

たしかに、

よく出来ていると思います。

 

でも、

あまりにもうまく出来過ぎています。

 

とくに、

解説者が「多彩」と評している人間関係は、

こんなに偶然つながっているわけないだろ!

とツッコミたくなる。笑

 

ここからは、

ネタバレになってしまうのですが、

 

浅井と望月が師弟関係で、

浅井の死んだ奥さんは実は望月の姉で、

 

さらにその死んだ奥さんの元旦那が、

昔、自動車爆弾テロで殉死した警官で、

 

もっというと、

自動車爆弾テロで警官に助けられたのが、

江口組の三代目で、

 

江口組は、

殉死した警官をはじめ、

浅井や望月には義理があって、

 

彼らは警官を殺した犯人に、

憤りこそあるけれど、

 

自動車爆弾テロと公園爆弾テロの犯人が

目の前にいる同一人物であることを知らない望月は、

金で買収されてしまう。

 

ここで犯人と望月(江口組)がつながり、

 

その江口組と、

茶髪の布教者(西尾)は、

もともと麻薬の売買でつながっていたので、

 

西尾は望月を通じて犯人とつながり、

テロの一端を担うことに。

(ホームレスの老人を薬漬けにし、爆弾を公園に運ばせる)

 

で、

その老人を紹介したのが、

ホームレスの辰村。

 

主人公の菊池(島村)と辰村は交流があったので、

このタツを通じて、

事件のパズルが少しずつ輪郭をあらわしてくるわけです。

 

要は、

ちょっと繋がりすぎなんです。

 

意図的に繋がるのならまだわかるのですが、

偶然に繋がっていることが多い。

 

読んでいる当初から、

なんとなくこいつが犯人なんだろうな、

というアテはついていて、

 

作者はいったいどう決着をつけるんだろう?と

展開が気になったのは事実ですが、

ちょっと出来過ぎ!

というのが正直なところです。

 

犯人が南米で左翼ゲリラに加担し、

軍に急襲されて捕らえられたとき、

日本大使館の一等書記官が身柄引き渡しを要求してきた、

それが警視庁の宮坂で、

 

身柄引き渡しに応じない政府に対し、

じゃあそいつは日本でも札付きのテロリストなんで

厳罰に処してくださいと応じた、

そのせいで犯人は過酷な拷問を受けた、

 

その宮坂が日本に戻り、

かつて犯人が愛した女性とお近づきになっていて、

新宿中央公園でよく落ち合っている、

 

しかもその新宿中央公園には、

かつての学生時代のライバルもいる、

 

ならばいっきに殺っちまえ!

 

──ということで、

新宿中央公園の爆弾テロが起こるわけです。

 

これだって出来過ぎ。

 

こんなにうまく、

ターゲットが一か所に集まるわけないでしょうよ…

と思ってしまうのです。

 

なんなら、

2~3回爆弾テロを分けるくらいしてほしかったし、

せめて、

宮坂が優子を慕うという設定はやめたほうがよかったと思います。

 

不満はそれ以外にもあって、

 

犯人は爆弾に関してはプロで、

緻密に計算されているにもかかわらず、

 

かつてのライバルを、

結果として

抹消できなかった(あえてしなかった?)のもよくわからないし、

 

事件のあと、

そのライバルを殴るだけで、

殺さなかったのも不可解すぎました。

 

作品のなかでは、

その理由を「ゲーム」だからといっており、

ライバルがやがて自分にたどり着くか?という挑戦だった、

というような読み取り方もできますが、

 

なんかパッとしない。

 

そもそも、

作品全体が抽象的な言い回しが多くて、

明らかにそれとわかるような表現が少ないのです。

 

解説者は、

 

「まず会話のうまさに舌を巻いた」

 

という選考委員の声を取り上げて紹介しているのですが、

 

自分は、

どうもこれには賛同できません。

 

たしかに、

全体的に登場人物の口調や文章そのものは、

「ゆるぎない」し「うまい」とは思います。

 

なんというか、

よくアメリカ映画で見かけるような、

気障な言い回しが多く、

各人ともそれが徹底されている。

 

でも、

自分としては、

そんな遠回しな言い方しないでハッキリ言えばいいのに…

と思って若干イライラしました。苦笑

 

だって、

わかりづらいし…!

 

それこそメタファーがかかりすぎている。

 

いくらヤクザでも、

普段からこんな気障な言い方する人いないでしょ?

とツッコミたくなるようなセリフが多くて、

自分としては戴けなかったです。

 

おっとーいかんいかん。

 

五木寛之さんの本なんかも読んで、

もっと曖昧さを楽しまなくちゃいけないって、

ここのところ意識するようになったのに、

 

早速、

白黒ハッキリさせねば!と

イライラしている自分がいます…。

 

まだまだですな。

 

■まとめ:

・一気読み・徹夜読みにおススメできるくらい、先が気になるストーリーで引き込まれ感はハンパない。

・時間的にも空間的にも、物語が縦横無尽に行き来し、壮大。壮大だけれども、現実に沿った事物(学生紛争、南米の麻薬組織)や、誰もがもつ普遍的な感情(愛憎、嫉妬)をうまく利用して、フィクションとのギャップを上手に埋めている。自分からはかけ離れた出来事なんだけれど、感情面で思わず納得してしまう部分ができて、なぜか親近感。

・でも、構成に不満あり。とくに人間関係(繋がり)がうまく出来過ぎている。偶然すぎて、せっかく埋まったギャップ(現実感)が遠のいてしまう。気障な言い回しが多く、登場人物の真意がわかりづらいのにもイライラした。

 

■カテゴリー:

ミステリー

 

■評価:

★★★★☆

 

▽ペーパー本は、こちら

テロリストのパラソル (講談社文庫)

テロリストのパラソル (講談社文庫)

 

 

Kindle本は、こちら

テロリストのパラソル 角川文庫

テロリストのパラソル 角川文庫

 

 

知らないと恥をかく世界の大問題5 ★★★★☆

池上彰さん

知らないと恥をかく世界の大問題5 どうする世界のリーダー?~新たな東西冷戦~

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

この『知らないと恥をかく』シリーズは、

今回で5作目。

 

これまで4冊すべて読んでいますが、

ダントツのわかりやすさと、

客観的・中立的な説明

 

欲を言えば、

もう少しタイムリーに読みたいので、

本当は池上さんのHPや公式ブログがあるとよいのですが、

WEB上で見つけられるのは、

ご本人の執筆されたHPではなく、

あくまでオフィシャルなファンクラブサイトのみ。

 

一時期、執筆活動に専念するため、

TV出演を大幅に制限されていたようですが、

現在でもいくつかのTV番組で、

解説を続けられています。

 

ここがポイント!!池上彰解説塾|テレビ朝日

日経スペシャル 未来世紀ジパング ~沸騰現場の経済学~|テレビ東京

池上彰の報道特番|テレビ東京

 

などなど。

 

こうしたTV番組を活用しつつ、

著書や執筆記事(解説)で補いつつ、

勉強していくのが良さそうですね。

 

▽内容:

プーチン動く!―ウクライナ、クリミア問題は世界のパワーバランスに大きな影響を与えた。ロシアVS欧米という対立構造は、かつての「東西冷戦」の再現に見える。世界は再び危険な一歩を大きく踏み出してしまったのか…。世界が抱える大問題を考える際には、国際政治の「地政学」的観点を持つことが大事だ。遠い国の出来事がいずれ日本に大きな影響を与える。めまぐるしく変化する“世界のいま”を俯瞰する大人気シリーズの最新・第5弾。第2次世界大戦以降、最大の大国衝突の危機を池上彰が斬る!

 

今回は2014年5月に刊行されていて、

前回が2013年5月。

 

つまり本書では、

おおよそ2013年後半~2014年初頭にかけての

国際情勢や日本の政治・社会問題について、

解説がほどこされていて、

主な内容としては、

大きく次の9つです。

 

ウクライナ問題

②シリア問題

③アメリカ(オバマ政権)の凋落

④ヨーロッパの移民問題

⑤”アラブの春”のその後

⑥日本の脱原発問題

北方領土問題

反日問題と東アジア情勢

アベノミクス

 

構成自体は、

プロローグ+全6章+エピローグの全8部から成っており、

目次は以下のとおりです。

 

プロローグ: 新たな東西冷戦の始まり
第1章: 大きく内向きになるアメリカ
第2章: EU混乱の主役はロシア!?
第3章: 過酷な“アラブの夏”の深刻化
第4章: 小泉元首相も脱原発派に
第5章: “物騒”になってきた東アジア情勢
第6章: アベノミクスはどこへ向かうのか?
エピローグ: 自分なりの意見を持とう

 

今回は、

感想をあとまわしにして、

それぞれの章で印象に残ったことを

箇条書きにしてまとめておきたいと思います。

 

ココから---------

 

◇プロローグ: 新たな東西冷戦の始まり

・ブッシュ前政権のアフガニスタンイラク戦略で泥沼化したことみてきたオバマは、シリア問題に関わることを尻込みしていたが、アサド政権が一線を超えた際には、軍事介入を行うという公約を宣言。

 

・政府軍が化学兵器を使用した疑惑が生じ、やむを得ず軍事介入をおこなう方針を決めたものの、オバマ本人は大統領権限を使うのではなく、国民の支持を受けた形にしたかったため、議会へ打診。これに対し、ブッシュ前大統領のイラク攻撃で嫌煙反戦ムードが高いアメリカ世論は、シリア内戦に介入することを反対。身動きがとれなくなったオバマに、プーチン大統領が「シリアが保有する核兵器を国際管理下に置いて廃棄させる」と提案し、オバマが便乗。ロシアの大統領の言動が、アメリカの大統領の行動を変えさせオバマ政権レームダック化が急速に進んでいる。

 

・2期目に入ったオバマは、名声欲に執着し、イランとの関係回復に乗り出す。イラン(ロウハニ大統領)は、ウラン濃縮活動を中止し、IAEAの査察を受け入れを表明。

 

・中東において、イランはシーア派を支持し、サウジはスンニ派を支持する構造になっているので、これまで親米・反イランの立場をとってきたサウジとしては、両国の歩み寄りは面白くない。親ヒズボラ・親アサドのイランと、反政府のサウジにとって、シリア内戦はイランとサウジの代理戦争になっているため、ここにアメリカとの関係が加わると、中東に与えるインパクトも変わってくる。いま、アメリカ vs サウジアメリカ vs イスラエルの緊張関係が芽生えつつある。

 

安倍政権プーチンと親密な関係を築いてきており、北方領土改善の礎を築かんとしているが、ここにきて中国が焦り始めている。中国はロシアに対し、「尖閣諸島を中国領と認めてくれたら、北方領土をロシア領と認める」と親ロ協調路線を模索しはじめている。(ロシアはこれを拒否したが)

 

・もともと中国の建国当初、両者は同じ社会主義国家として親密な関係にあったが、ソ連スターリン批判と中国の核兵器製造が決定要因となって、関係悪化。中国には、ソ連からミサイルが飛んできたときのためのシェルター(地下都市)が各地に建設され、北京の天安門広場の地下にも巨大核シェルターが存在、中国共産党幹部の住居や執務室からは、直接この地下シェルターに降りられるようになっている。

 

・関係が悪化するようになってから、中ソはそれぞれ包囲網づくりをはじめる。ソ連はインド、中国はパキスタン・日本というように。だから中国の地図では北方領土は日本の領土になっているが、ここに来て中国は、反日・日本包囲網を敷かんと、ロシアに歩み寄っている。

 

・アメリカ寄りだった韓国も、軍事力・経済力の観点から、中国に歩み寄りはじめている。中国としても朝鮮半島からアメリカを駆除したいため、中韓両国は急接近。朴槿恵政権は、いま、中国とアメリカを両天秤にかけて、どちらに付こうか揺れている状態。

 

朝鮮半島の有事の際には、在韓駐米軍では数が足りないため、在日駐米軍の支援が必要となるが、日米安保条約では、日本にいるアメリカ軍が有事の際に軍事行動を起こす場合には、日本政府の事前協議が条件とされている(日本がノーといったら、アメリカは駐日軍を動かせない)。

 

・国際世論は、当初、歩み寄りを見せる日本に同情的だったが、昨年末の安倍首相の靖国参拝で、一転して日本を非難。事前にアメリカ副大統領が安倍首相に働きかけていたにもかかわらず、靖国参拝を断行したことから、「隣国の国民感情に配慮しない行為」としてクレームを入れている。

 

・14年3月にアメリカの仲介により、日米韓の3か国首脳会議が開かれたが、日韓の関係修復には至っていない。中国もまた然りで、安倍首相は両国に見切りをつけ、トルコやインドなどとの関係強化に乗りだし、中国包囲網を形成しようと目論んでいる。

 

第1章: 大きく内向きになるアメリカ

・アメリカは、その圧倒的な軍事力を盾に「世界の警察」としての役割を果たしてきたが、いま、対外政策より対内政策(おもに景気の問題)に舵を切るべしという世論に押され、その役割を放棄せざるを得ない状況になっている。

 

オバマ政権は今、四面楚歌の状態で、「債務上限問題」「オバマケア問題」「スノーデン問題」「シリア問題」という4つの問題を抱えている。

 

・「債務上限問題」では、国の借金をめぐって議会が対立。アメリカの議会は、上院・下院の二院制になっていて、両者の力は均等(日本は衆議院優先)だが、上院は与党(民主党)が優勢、下院は野党(共和党)が優勢というねじれ状態になっている。「オバマケア」に反対する下院(共和党)が、債務上限の引き上げをいつまでたっても承認しないことで、政府機関がこれまでに何度か凍結。現状では、15年3月までは、「債務上限をめぐって大統領に反対することはしない」と共和党が約束しているが、ねじれ構造によるデフォルトの危機や「決められない政治」は続いている。

 

・「オバマケア」は、アメリカ版国民皆保険制度であり、オバマ大統領本人が、議会を経ずに実行可能な大統領令で断行した制度だが、”小さな政府”を掲げる共和党は、これに反対。「医療保険制度に入るかどうかは個人の自由で、国が強制することではない」と主張。アメリカは移民も多いので、自己責任にしないと(移民のぶんまで払えず)国の財政がもたない。連邦裁で合憲の判決が出されてから、共和党の穏健派は妥協したが、強硬派のティーパーティーに支持された議員らが反対しつづけている。13年10月にスタートを切るも、初動のトラブルでも躓いているため、難航中。14年11月の中間選挙では、必ずこれが争点になる。

 

・「スノーデン問題」は、元政府機関の局員だったエドワード=スノーデンが、アメリカ政府の情報収集活動を暴露したことで、米政府に対する国内・国際的信頼が問われることになった問題。アメリカの安全保障は、まず、NSCアメリカ国家安全保障会議)という最高機関がトップにあって、その下に16の情報機関が連なっている。CIA(人による諜報活動)やNSA(電子機器による諜報活動)もその1つ。FBIは、CIAの国内版。スノーデンは、もともと、NSAの下請けで働いていたが、ITに関する知識や技術が豊富だったところを買われて、NSA本体に派遣され、そこでアメリカの膨大な諜報活動の実態を知る。「元CIA局員の立場を利用して」とメディアで紹介されることが多いが、本来は「元NSA局員の立場を利用して」が正しい。CIAにも在籍したことがあるが、彼は9.11後に、愛国心が刺激されて軍隊に入隊したところCIAに出向となっているが、彼の暴露事件は、CIAから民間企業に下野してからの出来事。

 

・スノーデンは、ロシア経由でエクアドルに亡命を申請していたが、途中、アメリカ政府が彼のパスポートを無効に。スノーデンは、モスクワ空港のトランジットエリアで立ち往生していたところを、ロシアが一時入国を認めている。アメリカは身柄引き渡しを要求しているが、ロシアはこれを拒否。ドイツのメルケル首相の携帯も盗聴されていたことが明らかになり、米ロ関係の悪化だけでなく、世界のアメリカに対する信頼悪化を招いている。

 

・「シリア問題」でオバマ政権は、プーチンの妥協案によって、軍事介入の公約反故を免れたものの、アメリカの影響力はがた落ち。ウクライナ問題でもスノーデン問題でも、アメリカはロシアにやられっぱなしの状況が続いている。

 

・2014年の中間選挙では、民主党(与党)が大敗。オバマ政権の没落ぶりが見て取れる。アメリカの二院制において、上院は全米50州からそれぞれ二人ずつ選出されるが(州代表・100議席)、下院は小選挙区制となっており、人口比で各区から一人ずつ選出される(選挙区代表・435議席)。大統領の任期4年に対し、そのあいだに、2年ごとに選挙があるので、中間選挙といわれている。下院の(小)選挙区は、10年毎に区割りの見直しがあり、2010年の見直しで、共和党が自党に有利なように選挙区の区割りをかえたことで、中間選挙で大躍進を果たす。地方では、「小さな政府」を求める草の根運動の保守勢力:ティーパーティの勢力が強く、先の選挙区改編で、彼らに支持されれば共和党議員として当選しやすくなった。さらに、「オバマケア問題」や景気対策などにおける現政権批判を武器に、先の中間選挙で共和党が圧勝。

 

・2016年の大統領選で注目されているのは、民主党ヒラリー・クリントン国務長官当選すれば、米国初の女性大統領になる。国務長官(日本でいう外務大臣)時代は、故ネルソン・マンデラやアウンサン・スー・チーらとの親交を深め、人権派・外交に強いイメージを醸成。一方、共和党は、ニュージャージー州のクリス・クリスティ州知事(穏健派でティーパーティとは距離をおく)と、ヒスパニック系のマルコ・ルビオ上院議員。ちなみに、アメリカ大統領の登竜門は、一般的に州知事か上院議員とされている。

 

・アメリカではFRB議長に女性として初の、ジャネット・イエレン女史が就任。リーマンショックの危機から脱出するため、バーナンキ前議長のもと、早くから量的緩和政策がとられてきたが、ここにきて金融緩和の停止(縮小)が模索されはじめている。FRBの金融政策は、世界経済に大きな影響を与えるだけに、イエレン議長による量的緩和の幕引きも、慎重さが期されている。

 

第2章: EU混乱の主役はロシア!?

・日本で「北方領土」とされている島々は、ロシアでは「南クリル諸島と呼ばれている。北方領土は現在、ロシアによって実効支配が続いているが、アメリカでのシェール革命を機に、天然ガスが売れなくなることを憂慮するロシアは、その売り込み先として有力候補である日本との関係改善を模索北方領土問題にも慎重になりながら、前向きに検討しはじめている。

 

・ロシアは、元祖「世界の火薬庫」のバルカン半島だけでなく、新「世界の火薬庫」といわれるカフカス地方(コーカサス地方)の取り込みにも躍起になっている。バルカン半島ではウクライナを、カフカス地方ではチェチェングルジアアゼルバイジャンに、それぞれ軍事出動しており、影響力を高めている。

 

ウクライナはもともと、東部を親ロシア派が、西部を親欧米派が多数を占めていたが、ウクライナ新政府に親欧米政権が誕生したことで、ロシアがクリミア半島に軍隊を送り、クリミア半島ウクライナから独立させロシアに編入。ロシアの糸引きで、ウクライナ東部もまた、これにのっかろうとしている。

 

・親欧米派はEUへの参加を求めているが、プーチンとしては、東ヨーロッパ諸国がEUに加入するのは許せても、旧ソ連を構成していた国々がEUに加入するのは許せない。旧ソ連圏」をいまもロシアの影響下においておきたいという、かつてのソ連覇権主義が残っている。

 

・ヨーロッパでは、ドイツなどのリードによって、ギリシャやスペイン、ポルトガルなどの一連の経済危機を免れたものの、今度は移民問題が火種にあがっている。これは、隣国あるいはアフリカ・シリアなどからの移民が、自国の職を奪っているというもので、スイスでは移民を受け入れない国民投票も行われているし、スウェーデンでも難民受け入れ反対の声があがっている。イギリスではすでに一部の国の移民就労者に対し、失業保険の給付を制限している。

 

・2014年9月には、イギリスでスコットランド独立の住民投票がおこなわれ、ギリギリで否決された。イギリスはそもそも、スコットランド」「ウェールズ」「イングランド」「北アイルランドの4地域から成っており、イギリス=イングランドではない。スコットランドは元来、イングランドと仲が悪く、たびたび抗争してきた。イギリスのサッカーリーグも、イングランド・プレミアリーグと、スコティッシュ・プレミアリーグがあり、両者は別物。また、スコットランドでは独自の貨幣も流通しており、イングランド銀行券(イギリス・ポンド)とスコットランド銀行券の両方が使える。

 

第3章: 過酷な“アラブの夏”の深刻化

・シリアのアサド政権は、イスラム教でも少数派であるシーア派のなかの、さらにローカル色の強い「アラウィ派」を信奉する一族が擁した政権。アラウィ派は、シーア派と土着宗教が結びついたもので、転生思想が入っている。多数派であるスンナ派からすると、シーア派の、さらに転生思想をもった「アラウィ派」は、もはやイスラム教ではないという見方が強く、サウジやカタールといったスンナ派のアラブ国家は反アサドの立場をとる。彼らは、シリアの反政府勢力(自由シリア軍)を支持。一方、レバノンシーア派過激組織「ヒズボラ」は、シーア派国家であるイランなどの支持も受けて、アサド政権に肩入れ。また、スンナ派過激組織であるアルカイダもまたシリアに入ってきているが、シーア派のアサド政権と対決するのではなく、反政府組織の陣地を奪うことで、シリアでの勢力を拡大しようとしている。

 

・ロシアと中国は終始アサド政権を擁護しているが、ロシアはシリアにある海軍基地を維持したいからで、中国は、「それぞれの国のことは、それぞれの国で解決すべきで、国連やほかの国が口出しすべきではない」というスタンスから。中国のこの主張の裏には、アフリカなどの独裁国家との関係強化と資源確保の意図がある。

 

・アメリカをはじめとする欧米各国は反アサド的だが、ロシアの介入によりアメリカは軍事介入を諦め、シリアも保有する化学兵器の全廃を約束。化学兵器廃絶のために幅広い活動をおこなう国際組織OPWC(化学兵器禁止機関が、すでにシリアで活動をはじめており、ノーベル平和賞も受賞。

 

・1979年のイラン革命で、反米路線を歩んできたイランだったが、ここにきて保守穏健派のロウハニ大統領により、アメリカとの距離がいっきに縮まる。一時、イランは、ハタミ大統領によって、親米的になりつつあったが、当時のブッシュ政権がこれを拒否したことで、いっきに反米気風が回復、反米強硬派のアフマディネジャド大統領が誕生。ハタミ政権時にいったん凍結していた核開発も、再開。これを再度、親米路線に切り替えたのが、ロウハニ大統領で、イランの最高指導者ハメネイもこれを支持。見返りとして、イランに対する経済制裁が一部緩和されることに。

 

・長年、イランと犬猿の仲にあるイスラエルは、イランの核開発放棄には不信感を募らせており、アメリカとイランの関係回復にイスラエルは怒っているが、孤立化しつつもある。アメリカがイスラエルと距離をおく理由には、イスラエルパレスチナ入植が原因。イスラエルネタニアフ首相は、アメリカが保証人として調停したオスロ合意を公然と破り、パレスチナにおけるイスラエルの入植地拡大を次々と進めている。

 

・エジプトで起きた民主化運動では、ムバラクの独裁・軍事政権が崩壊したとはいえ、イスラム主義(イスラム同胞団)のモルシ政権も、経済政策で失策。再び若者による政権打倒が起こり、シシ国防相による軍事クーデーターに発展、結果的に軍事政権が復活することに。軍事政権は、ムバラク時代におこなったムスリム同胞団を再び非合法化したため、将来の過激派の種が蒔かれたといっていい。アメリカもエジプトへの介入を見合わせてきたため、最近はロシアが急接近している。建国当時、エジプトはソ連から武器を買うなど、緊密な関係を保っていたが、サダト政権時に親米路線に切り替わってからソ連との関係性が希薄化。ここにきてまた、中東におけるロシアの存在感が増してきている。

 

第4章: 小泉元首相も脱原発派に

東日本大震災後に起きた福島原発の事故では、廃炉作業は、うまくいっても40年はかかるといわれており、いま行われている処理は、第一歩にすぎない。

 

・その処理とは、大きく「核燃料の処理」「汚染水対策」「除染の3つ。「核燃料の処理」では、使用済み核燃料の取り出しや、原子炉に残る溶け落ちた燃料棒の回収が主たるミッションで、核燃料の再処理(リサイクル)あるいは最終処分をどうするかという問題がある。また、「汚染水対策」では、「汚染水」そのものと、地質上「汚染水にならざるを得ない水」をどうするかという問題があって、前者はその処理・貯蔵をどうするのかという問題、後者は原子炉に流れ込む地下水や雨水をいかに遮断するかという問題がある。「除染」については、汚染されてしまった土地をいかにクリーンにするかという問題。いずれも、莫大な費用と莫大な時間がかかる。

 

フィンランドには使用済み核燃料の最終処分場として、オンカロという施設があるが、ここは地震が起こらず地下水もないという地質上の特徴を利用して建設された地下埋蔵地。地下水が豊富で地震も多い日本では、建設はできても運用が難しい。小泉元首相はこの視察後に、原発ゼロ」発言で、世間から注目を浴びる。東芝や日立、三菱重工の幹部らと同行しての視察だったが、企業の思惑を一蹴する形での「原発ノー」宣言。

 

・日本では使用済み核燃料の最終処分用地は決まっておらず、原発を再稼働させると、さらに生態系に影響を及ぼす危険物質が増える。ただでさえ、日本の原発から毎年出される使用済み核燃料は、生態系への影響が許容範囲になるまでに10万年かかるとされている。

 

・日本の電力はいま、原発がとまっているので、火力発電をフル稼働させることで賄われており、その結果、燃料(石炭・石油・ガス)の輸入が急騰、貿易赤字が拡大している。原発再開の声もあがっている。

 

・日本では原発が使えないので、安倍首相は新興国に向けて、原発トップセールスを開始。サウジ、ベトナム、インド、トルコ、中国といった新興国では、いま、原発の新設ラッシュが続いている。ロシアとの関係が緊張状態にある東ヨーロッパでも、原発のニーズが発生しており、安倍首相は東欧を訪問し、V4(ポーランドチェコ・スロバキアハンガリー)と原子力分野での協力強化で合意(原子力の平和利用のみを目的とする「原子力協定」を締結)

 

・アメリカではシェール革命が目下進展しているが、環境破壊の悪影響も懸念されており、規制を求める動きも出ている。日本でも、メタンハイドレートの商業化が急ピッチで進んでおり、これがアベノミクス成長戦略の1つにあがっている。

 

第5章: “物騒”になってきた東アジア情勢

親日家の娘として名高い韓国の朴槿恵大統領だが、ここにきて日韓関係は最悪の状態。きっかけは、李明博・前大統領時代におきた、韓国の裁判所が慰安婦問題で政府が日本と交渉しないことを違憲とみなした判決。これにより韓国政府が日本に文句を言わないのは憲法違反と見なされ、「(日本に)損害賠償しろ」と言わざるを得ない立場に追い込まれる。

 

・日韓国交正常化に際し、慰安婦問題や徴用工問題についてはすべて清算済みであり、国対国のレベルでは解決済みとなっている。裁判所の判定は、「個人の(損害賠償の)請求権は消滅していない」という論旨であり、これを韓国政府がかわって請求するべきというもの。政府としては板挟み状態にある。

 

・アメリカでは、韓国系アメリカ人による反日活動がエスカレートしており、韓国系アメリカ人の多いニュージャージー州では、アメリカの教科書で記載されている「日本海」に、韓国名の「東海」を併記する法案が可決。ニューヨーク州でも同様の法案が審議中。全米各地に設置が増えている「従軍慰安婦像」も、在米ロビイストの働きかけによるもの。莫大な資金を投じたロビー活動は、韓国人のほうが日本よりも上手

 

・韓国も中国も日本とは戦争をしていない。我々がいま「中国」とよんでいる国(=中華人民共和国)は、厳密には戦勝国ではない。中華人民共和国の成立は1949年で、日本が戦ったのは中華民国(台湾へ退去)。また、1972年の日中共同声明で、中国は日本に対する戦争賠償を放棄することを宣言している。

 

中国が新たに設定した「防空識別圏」には尖閣諸島が入っている尖閣諸島は日本の領海・領空内で主権がおよぶが、防空識別圏は主権が及ぶものではなく、各国が自由に設定できる安全保障のための目安線。尖閣は中国が領有権を主張してきていて、今回の防空識別圏はそのための予行となる強硬策。

 

リーマンショック後、中国でも政府として大規模な景気対策を断行、公共事業を強化して、国の財源を元手に、地方政府は都市開発を推進。しかし、2010年に中国人民銀行が景気の過熱をおさえるため、金融引き締めをおこなったため、地方政府は事業が続けられなくなる。その結果、銀行が別の投資会社(影の銀行)をつくってお金をあつめ、不動産開発に充てるという、非公式な融資を継続(シャドーバンキング)

 

・ところが、ここにきて不動産の需給バランスが崩れ、明らかに供給過多。実際、地方のいたるところに、鬼城(ゴーストタウン)が出現。デフォルトの連鎖が発生するのも、もはや時間の問題。リーマンショックサブプライムローン住宅ローン)の焦げ付きが発端だったが、中国のバブル崩壊は街(都市開発)ローンの焦げ付きが発端になるかも。

 

習近平国家主席は、もともと江沢民派ではあったが、同じ江沢民派で前国家主席胡錦濤は、江沢民の影響が強すぎて自分のやりたいことをやれなかったので、江沢民からの決別をめざしている。そのために、共産党首脳陣の汚職を摘発して(周永康事件)腐敗撲滅を掲げているが、これはあくまで建前であって、実際は権力闘争の色が濃い。従来、中国では、共産党政治局で常務委員まで務めた人は、どんな疑惑があっても摘発しないという不文律があったが、習近平はそのタブーをやぶることに。中国では共産党員には警察が手を出せないので、まず彼は、周永康共産党から除名し、一般市民となったところで警察が逮捕→検察が起訴という手順を踏んだ。

 

・中国の5つの自治区では、トップこそ、その民族の代表が務めるものの、ナンバー2は漢民族がおさえている。いわば傀儡政権胡錦濤政権時代に、「西部大開発」の名目で莫大な資金を投下し、新疆ウィグル・チベットの両自治区の開発を推進。その結果、いまでは数の上で漢民族のほうが多くなり、もともとの民族が少数民族になって追いやられている。古い文字や町並みも失われつつある。

 

北朝鮮金正恩第一書記は、事実上のナンバー2であり、中国とのパイプも太い張成沢(叔父)を処刑。政府が公約していた平壌市内の都市開発を、本来は資材不足や人手不足が原因で遅延が発生しているにもかかわらず、その原因と責任を彼になすりつけ、排除したのが実態。権力の集中を狙う。現在の日韓関係の悪化をみて、日本に歩み寄りを見せる一面も。

 

第6章: アベノミクスはどこへ向かうのか?

アベノミクスの経済政策は、「金融緩和」「財政政策」「成長戦略の3つで、「三本の矢」といわれている。長いデフレから脱却し、再びインフレ気味にしようというのがアベノミクスの狙い。90年代後半に生じたバブル崩壊は、もともとインフレを狙った政策が招いたものなので、今回も慎重さが必要。

 

・第2次安倍政権発足より1年の中間評価は、「金融緩和」はA、「財政政策」はB、「成長戦略」はE(ABE)。「金融緩和」で株価水準はあがり、円安・ドル高も進行、輸出産業が大幅に収益を改善、景気回復に活路を開く。「財政政策」は公共事業を増やしたものの、震災の復興事業や消費税増税による駆け込み需要などもあって、建設資材や人手が足りていない状態(供給不足)、遅れが生じている。成長戦略」は戦略自体が手薄で、「薬のネット販売」「国家戦略特区」「TPP」など、まだまだ試行・懸案状態のものが多い。

 

・TPPは、日本の食糧自給率の低さから、おもに農作物の関税撤廃に懸念が大きく、足踏み状態。日本の食品安全基準についても、アメリカなどから非関税障壁とクレームがつけられており、見直しを求められている状態。

 

・「財政政策」の1つとして消費税増税が位置づけられているが、安倍首相が考えているのは、消費税増税財政再建を目指すだけでなく、投資をすることで新たな税収を生み、財政を立て直して景気を上向きにするというもの(「ベストシナリオ」)。

 

長期金利(10年の国債金利)が低い(安い)と、市場で売買される国債の価値が高いということなので、国債の信用もそれだけ高い。つまり、国の財政が評価されているということ。消費税増税後の長期金利は、低水準を保っているので、現段階では成功への期待感のほうが大きい。国の財政に対する評価が低いとき、国債の信用度は下がり、逆に長期金利は上がる。長期金利は、国の財政の体温をはかるもの

 

靖国神社はもともと、東京招魂社といって、戊辰戦争における明治新政府軍の戦没者を慰霊するために建てられた神社。西郷隆盛西南戦争で賊軍に属したため、明治維新の立役者であっても対象外。それ以降、お国のために死んでいった人たちの霊を祀るようになる。神道では、死んだら誰もが「神」となり、靖国神社に祀られている神様は246万柱以上。

 

靖国神社国家神道の中心的存在となり、戦争における日本人の天皇を頂点とする軍国主義に利用されたため、戦後、GHQより政教分離が徹底される。

 

・そもそもA級・B級・C級といった戦犯のランクは、罪の重さではなく、罪の種類で分類されている。サンフランシスコ講和条約の締結後、戦犯の罪は消滅し、すべて「公務死」として定義されるに至ったため、それまでNGだったA級戦犯(平和に対する罪の犯罪者)が靖国に合祀されるが、これが国内外で問題に。また、政府要人の靖国参拝も、国内では政教分離の観点から問題視され、国外(おもに中韓)でも「近隣諸国の感情を傷つける」として批判。

 

東京裁判は、戦争に勝った連合国側が負けた側を一方的に裁いたもので、このとき断罪された【平和に対する罪】は、いってみれば事後法。本来、近代法の概念では、後からできた法律で、その法律ができる以前の出来事を裁くことはできないということもあって、東京裁判の判決(←事後法)は無効とする意見もある。

 

・安倍首相は、第一次内閣誕生の際、アメリカより先に中国を訪問して、日中関係の劇的な改善に寄与A級戦犯に問われた岸信介(容疑者として逮捕されたがのちに釈放)の孫ということもあり、靖国に対する思い入れはあったが、結局、靖国参拝に至らぬまま辞職。第二次内閣では、靖国参拝を半ば公約していたので、13年末に参拝。中国をはじめ、アメリカからも非難をうけたが、安倍さんとしては戦後レジーム(戦後、連合国が勝手につくった国際秩序)からの脱却」を図りたい思いがある。その意味で、彼は本質的には反米主義者

 

・「特定秘密保護法」は、情報の入手先であるアメリカからの圧力を背景に成立。建前としては、国民の安全にかかわる情報を「特定秘密」に指定し、政府のなかから外部に漏らさないようにするための法律だが、現行する「国家公務員法」や「自衛隊法」以外に、より強度な罰則を求めるアメリカに配慮して制定。

 

・「特定秘密保護法」には問題点が3つある。①「何を秘密にするか」の範囲が広く、拡大解釈が可能なため、施政者にとって都合の悪い情報は隠し放題。②第三者によるチェック機関がないので、中立性・公平性に欠ける。③秘密の指定期限が長い(最長60年)ため、自分が生きている間に公にならなければいいと、歯止めがかからず、なんでも秘密にしがち。国民の知らないところでとんでもないことが起きていた、という危険性は大いにある。

 

・沖縄基地問題は、民主党鳩山内閣のときに、普天間の県外移転が公言されるが、移転地が決まっておらず白紙撤回。自民党・第二次安倍内閣になって、辺野古移転が提案されたのを、仲井間知事が承認。辺野古にはもともと、アメリカ海兵隊の基地(キャンプ・シュワブがあり、ここに接続する形で埋め立てすれば利便性もよい。ただし、この移転費用は全額日本政府がもつうえ、沖縄県にも振興予算を確保を約束しているので、国庫の費用負担は莫大。名護市・市長選挙では辺野古移転反対の稲嶺氏が勝利しているので、市長権限で工事の停滞もありうる。

 

オバマは駐日大使にキャロライン・ケネディを選定、これは大統領選で政治資金集めに貢献してくれた「論功行賞」でもある。また、日本にはケネディファンも多く、「オバマは日本を重視している」と思わせるうまい人事でもあるが、本来、彼女は政治や外交についてはドシロウト。日本という同盟国だからこそできる”お飾り大使”。腕利きのプロの外交官は、基本的に反米諸国(中国、ロシア、中東など)に送られる。

 

安倍政権外交政策では、憲法9条の改正が最終目標。国防軍を保持し、集団的自衛権を行使できるようにすること。自衛権には、自分の国は自分で守るという「個別的自衛権」と、仲の良い国同士で互いに守りあうという「集団的自衛権」の2種類があり、国家として日本も両方の権利をもっているものの、憲法9条では、国際紛争を解決する手段としての武力行使を禁止しているため、集団的自衛権は「持っているが行使できない」状態。

 

憲法そのものを改正するのは相当な時間を要するので、安倍さんは解釈改憲で、集団的自衛権の行使を閣議決定したい。そのために、内閣法制局長官も賛成派の小松一郎(前フランス大使)を起用。しかしこれ(閣議決定による断行)では、政権交代のたびに、総理大臣の一存で憲法の解釈がかわってしまうおそれがある。

 

---------ココまで

 

相変わらず、

「そうだったのか!」ポイントが結構ありました。

 

シリア内戦が、

サウジ vs イランの代理戦争になってきているのも

「へえ!」でしたし、

 

そのシリア内戦に、

アメリカがなぜ軍事介入しなかったのかも

「へえ!」でした。

まさかプーチンの提案に乗せられたとは。

 

アメリカはもはや、

国際社会におけるプレゼンスを失い始めている。

 

だから韓国も、

アメリカと中国を両てんびんにかけて、

どちらについたほうが得策かを

計算しはじめているんだな、と。

 

ではなぜアメリカはいま、

国際的な立ち位置が弱くなってきているのか。

 

その1つは、

単に国外より国内

シフトチェンジしはじめているから。

 

要は、

国内のことで手がいっぱい。

雇用問題やら格差拡大やら経済低迷やら。

 

つい最近、

こんなニュースがありました。

 

米下院共和党、「オバマケア」めぐり政権を提訴 (AFP=時事)

 

オバマケア自体は、

すでに合憲という判決が出ているものの、

記事によると、

 

オバマケアは従業員50人以上の企業にフルタイムの従業員への医療保険の提供を義務づけており、雇用主がこれを怠った場合には罰金を科すと規定している。しかし、政府は昨年、この規定の実施を2015年まで先送りすることを決定。

 

どうやら、

この対応(先送りにしたこと)が、

勝手な越権行為だとして、

共和党のジョン・ベイナーさんは、

オバマ政権を提訴しているわけです。

 

池上さんの解説を読んだあとにこの記事を読むと、

彼ら(共和党)は、

もはや現政権の重箱の隅をつつくというか、

揚げ足取りをしている気配すらある。

 

記事にはまた、

以下のような記載があるのですが、

 

共和党は、今回の提訴を大統領が行政権の乱用を繰り返したことへの挑戦だと位置付けており、同党のジョン・ベイナー(John Boehner)下院議長は、「大統領は何度も米国民の意思を無視し、下院の議決を経ずに連邦法を書き換えた」と述べた。

 

この「下院の議決を経ずに」というのは、

要は、

「【共和党が多い下院】の議決の経ずに」

ということであり、

共和党のオレたちを無視すんじゃねーよ!的な

敵対心むきだしといったところでしょうか。

 

そもそも自分は、

アメリカの上下両院において、

与野党のねじれ現象が起きていることすら知らなかったので、

 

本書を通じて、

上院=与党(民主党)が優勢

下院=野党(共和党)が優勢

ということを改めて知り、

 

また、

先の中間選挙で、

この上院の議席が逆転し、

下院でもさらに共和党が議席数を伸ばしたことで、

民主党オバマ政権)=”大敗”と報じられたのかと、

今さらながら理解できました。

 

オバマ民主、歴史的大敗 中間選挙 共和が上下院制す :日本経済新聞

 

池上さんによると、

共和党が下院の議席数を伸ばしたのは、

10年に一度おこなわれる選挙区の見直しがきっかけで(2010年)、

彼らが選出されやすいように、

選挙区の区分けの仕方をかえたそうです。

 

池上さんは、

【エピローグ】で、

これからの時代に求められるのは、

「即戦力」ではなく、

「自ら考え、自ら道を切り開いていく能力」だと断言しており、

 

いまの日本人は、

与えられたルールのなかで一生懸命努力してきたけれど、

ルールがかわったとたんに使い物にならなくなる、

これからはルールメーカーになる必要がある、

と述べられていました。

 

共和党はまさに、

選挙区(の見直し)という新しいルールをつくったわけで、

えげつないかもしれないけれど、

彼らのその行動こそ、

時流をかえたといっていいかもしれない。

 

池上さんはまた、

 

ルールメーカになるには、即戦力を養っているのでは無理です。柔軟性があり、人が考えつかないようなことを考える力が必要です。近年、リベラルアーツ(幅広い教養)の重要性が叫ばれているのはそのためです。

 

と説いていますが、

これにも「なるほどなぁ」と頷けました。

 

どうも私たちは、

専門特化とかスペシャリティとか、

”専門性”こそが効率的で重要という見方に傾いている気がします。

 

教育もそう、

キャリアもそう。

 

そのほうがたしかに、

はやくスムーズに問題解決できるし、

はやくたくさん稼げる(生産できる)。

 

そもそも分業とか専門特化なんていうのは、

効率が最優先の資本主義社会では、

あって当たり前なんですが、

逆にそのことで、

偏りが出ているのも事実だと思います。

 

自分はこれさえ知っていればいい、

それ以外はムダだから切り捨て。

 

だから、

個人の考え方が大きく偏ってしまう。

 

でも、

だからといって収入が減るわけではない。

 

むしろ、

スペシャリティとして重宝され、

収入が上がることのほうが多いかもしれない。

 

そしたら余計に、

これでいいんだ・このほうがいいんだと

誰だって思うわけで。

 

上記はあくまで、

仕事に対する向き合い方のたとえで述べていますが、

仕事が人生の大半を占める人たちにとって、

仕事での向き合い方が

だんだん仕事以外での向き合い方にも似てくる。

 

そうすると、

自分勝手で独りよがりな人間は確実に増えます。

 

それが私は、

「今」なんじゃないかと思うのです。

自分も含めて。

 

本当は、

もっと違う意見とか、

真反対の分野のことを、

私たちは知っておいたほうがいい

 

ネットの世界なんていうのは、

まさにこれ。

 

池上さんも、

次のように提言しています。

 

ネットは、自分が知りたい情報だけしか入ってこないメディアなのです。できるだけ多くの言論、意見に触れることが、現代に生きる人間には必要です。

 

私自身、

ネットの恩恵をめちゃくちゃ受けていて、

それはとても効率的でいいものだと思っている。

 

でも、

どんどん考え方が偏っているのも事実で、

それは年のせいかと思っていたけれど、

たぶんそれだけではない。

 

ネットの恩恵や効率という美名のもと、

都合のよい情報だけしか取得しないようになっているから、

どんどん考えや性格が偏ってきているんだと思います。

 

たぶん、

私だけじゃなく、

そういう人は結構いると思う。

 

最近、

五木寛之さんの『大河の一滴』や『下山の思想』を読んだり、

香山リカさんの『私は「うつ」と言いたがる人たち』なんかも読んで、

 

実は「グレー」とか「曖昧(であること)」 って、

とても大事なんじゃないかと思い始めてきました。

 

結局、

バランスです。

 

効率的なことも大事だけれど、

非効率的なことも大事、

ポジティブもいいけど、

ときにはネガティブさも必要、

専門的な深堀りも大事だけど、

幅広い知識もあったほうがいい。

 

みんなそう言っていたのに、

誰しもが一度はそう教えられているはずなのに、

今ようやく、

それを理解した気がしています。

 

次は、

筑紫哲也さんの『スローライフ―緩急自在のすすめ (岩波新書)

を読んでみたいと思っている今日この頃。

 

話をもとに戻しますが、

アメリカを頂点とする国際秩序が崩れ始めているいま、

日本もアメリカだけに頼っていてはまずい。

 

でも、

短期的にはやはりアメリカに頼らざるを得ない。

 

だから、

アメリカの言うことを聞くべく、

特定秘密保護法」を制定させたし、

集団的自衛権」だって行使できるようにしておかないとまずい。

 

安倍さんは本質的には「反米主義者」である

という池上さんの指摘には、

正直ビックリしましたが、

 

彼は言ってみれば国粋主義者で、

日本の国力を少しでも伸ばしたい。

 

しばらくは、

アメリカの力を借りなければいけないけれど、

長い目でみたときには、

アメリカに頼らなくても、

日本でなんとかできる枠組みをつくっておきたい。

だから憲法9条を改正したい。

 

でも、

そのためには、

諸外国と協調すべきところはして、

バランスをとっていかなければいけない。

 

それが政治なのでしょう。

 

私は、

安倍さんがプーチンと親密な外交を繰り広げていたことを、

全く知りませんでしたし、

オバマと犬猿の仲であることも意外だったのですが、

 

彼の政治家としての外交手腕は、

シロウトの自分からみても、

結構高いのではないでしょうか。

 

本書を読んで、

理解がしやすくなったニュースは他にもあります。

 

タイムリーなところでいうと、

これ。

 

新疆ウイグル自治区で暴徒が飲食店街襲撃、4人死亡 警察が暴徒11人射殺 (産経新聞)

 

池上さんは、

中国の「西部開発」について、

漢民族自治区の民族を排除していると言っており、

自治区の民族が何かやらかすと、

すぐ「テロ」と断定して封じ込めると言っていましたが、

 

この新疆ウィグルの事件も、

早速、

「暴徒」「ウィグル族によるテロ事件」

というふうに報道されています。

(さすが産経!笑)

 

このニュースもタイムリー。

 

ムバラク元大統領「無罪」 旧体制への回帰、鮮明 エジプト (産経新聞)

 

池上さんは、

アラブの春」のあとの、

エジプトの混迷についても解説してくれていましたが、

 

ムバラクさんを「有罪」にすると、

ムバラクと一緒に体制を維持してきた軍部も、

「有罪」ということになりかねない。

 

いまの軍事政権を運営するシシ大統領としては、

それは絶対に避けなければいけない。

だから彼は「無罪」となったわけです。

 

この「無罪」判決には、

各地で反対デモも起きているようなので、

まさかの「ムバラク返り咲き」はあり得ないと思いますが、

”やっぱり旧体制(軍事政権)じゃないとダメでしょ”的な流れになるのは、

もう目に見えているので、

シシさん率いる軍事政権が今後も続くのでしょう。

 

あと、

中国はシリアのアサド政権を擁護しており、

 

池上さんによると、

 

「それぞれの国のことは、それぞれの国で解決すべきで、国連やほかの国が口出しすべきではない」

 

というのが彼らのスタンスということでしたが、

 

それはつまり、

自分たちがこれからやることについても、

おまえら何もいってくんじゃねーぞ!

と釘をさしているようなもので、

 

たとえば、

これがいい例です。

 

中国「部外者に口出しの権利ない」南シナ海「人工島」開発で

 

中国はいま、

アフリカやら東南アジアで、

「うまみ」を得ようと躍起になっている。

 

彼らとしては、

自分たちがそこでやることに、

諸外国から文句を言われたくないわけで、

 

だから、

第三国における内戦にも、

当事者主義を主張している。

 

じゃないと筋が通らないから。

 

自分は親中派でもなんでもないですが、

欧米の汚いやり方とはまた違うやり方で、

彼らは主義主張を通しているわけで、

ある意味わかりやすくてシンプルだなと思いました。

 

池上さんは、

基本的にどっちがいいとも悪いとも言わず、

ただ客観的に説明をしてくれるので、

そのニュートラルさがとてもいいと思います。

 

でも、

それをどうとらえるか、

どう考察するかがとても大事で、

 

エピローグで筆者は、

「自分なりの意見を持とう」と言っています。

 

そのために、

先に述べたバランス感覚や、

メディアリテラシーが必要になってくる。

 

日本の原子力はもう国内では使えないから、

外国に売るしかないと、

安倍さんによるトップセールスが行われているのが現状ですが、

池上さんはこれについて、

 

原発を輸入する国は「核兵器に転用したい」という野望を持っていないとは限りません。平和利用されないというリスクがあることも忘れてはなりません。

 

と警告しています。

 

単純に「売れてよかったね!」とか

「その手があったか!」だけではなくて、

その先(裏)にある意図を考えることが、

実はとっても大事。

 

これぞ、

著者自身の言う「メディアリテラシー」であり、

「メディアを読み解く力」というわけです。

 

それでいうと、

慰安婦問題における日本の対外交渉もしかりで、

 

日本としては、

「国家が従軍慰安婦を強制したという証拠はない」といって、

従軍慰安婦国が関わったか否かのレベルで発言をしているけれども、

 

池上さん曰く、

 

(このような政府答弁は)あたかも日本政府が責任逃れをしているように受け取られてしまっています。歴史的に何があろうと、現代においては「慰安婦」は女性に対する重大な人権侵害と受け止められています。「日本が国家として強制したのではないのだ」といくら強調しても、現代では通用しないのです。(中略)日本政府として、対外的な広報戦略を抜本的に見直す必要があるでしょう。

 

と言っています。

 

実はここは、

是非もう一歩踏み込んで、

具体的にどういった広報戦略が考えられるのか

教えてほしかった!

 

ただ、 

福田和也さんも『父が子に教える昭和史』で、

従軍慰安婦については次のように論じられており、

池上さんの指摘に通ずるところがあります。

 

われわれは慰安所の存在を到底誇るべきこととも考えることができないし、必要悪としても許容すべきではないと思う。戦争という人間の本質が露呈する場面にこそ、強い抑制と倫理を求める必要がまずあるし、何よりもこうした荒廃が生じないように、国家は戦略的に軍を用いなければならない。

 

そもそも「慰安所」という存在自体、

許容してはいけないというわけです。

 

池上さんも、 

慰安婦問題にしろ靖国問題にしろ、

 

ただ「日本人の思い」を掲げても説得はできないでしょう。世界に通用する論理の構築あるいは言動が必要なのです。

 

と自論を展開していますが、

本当にそのとおりだと思います。

 

世界で問題になっているのは、

慰安婦に国が関わったかどうかじゃないし、

 

靖国問題において、

日本の国内ではもう戦犯処理は終わっているとか、

そもそも東京裁判自体が無効だからとか、

そんな話を今さらしたところで全く意味がない。

 

そういう意味では、

戦争を知らない人のための靖国問題』の著者・上坂さんとは、

ちょっと意見が異なってしまうのですが、

いくら日本の事情を伝えても、

納得してもらえるわけがないと思うのです。

 

我々が靖国という「場所」にこだわりすぎていたら、

何も解決しない。

 

以下はあくまで私の個人的な考えにすぎませんが、

お国のために亡くなった戦没者については、

たとえば原爆や空襲の犠牲者も含め、

それこそ国会議事堂や皇居で追悼記念式典をやればいい。

 

そうすれば、

政教分離の原則にも反しないし、

やれ戦犯がどうだと、

近隣諸国の国民感情を逆なですることもない。

 

靖国が日本人にとって、

とても重要な精神的どころであることは確かだけれど、

大事なのは、

彼らを弔い、

戦争という過ちを二度と起してはならないという言動のほうであって、

ただ靖国に行けばいいってもんじゃない。

 

そして、

池上さんが言うとおり、

「世界に通用する論理」でなければ、

いつまでたっても埒があかない。

 

靖国参拝という形式主義に凝り固まらず、

もっと柔軟に、

本質に立ち戻ってはどうでしょうか。

 

池上さんが、

おもしろいことを言っていたのですが、

 

韓国の反日感情のおおもとは、

日本が戦争に負けたことで、

自動的に独立が転がり込んできたという経緯にあり、

建国当初から反日感情が続いているそうです。

 

同じように、

東南アジアも日本に占領されたのに、

ベトナムインドネシアもマレーシアも、

反日感情は相対的に希薄。

 

日本軍によってひどい目には遭ったけれど、自分たちの手で独立を勝ち取った誇りがある、だから反日にはならない。

 

──と。

 

きちんと段階を踏んで、

日本を排斥し、

膿を出したのが東南アジア諸国であり、

 

逆にその段階を経ぬまま、

膿がたまったまま、

今に至っているのが韓国だと。

 

だから、

反日感情が払拭されていない。

ケリがついていない。

何かあれば、

すぐ日本に矛先が向く。

 

彼はこのように言いたいのかと思います。

 

この指摘、

鋭いなぁと思いました。

 

私は、

この本のタイトルが、

あまりにも「釣り」っぽくて、

イマイチ好きになれないのですが、

 

書いてあることはとてもわかりやすく、

指摘や考察もまた鋭く、

この本を読んでからニュースを読むと、

いろいろなことがすんなり理解できます

 

ぶっちゃけ、

われわれ一般市民としては、

知らなくたって恥なんてかけばいい、

かいてナンボだと思うので、

本当にこの本のタイトルには反対なんですが、

 

知るとためになるのは間違いないので、

知るとわかる世界の大問題

とかにすればいいんじゃ?と思いました。笑

 

とはいえ今回もまた、

とても勉強になりました!

 

もう一度、

過去4作を読み直したいと思いました。

 

■まとめ:

ウクライナ問題、オバマ政権の凋落(アメリカ中間選挙における大敗)、東アジア情勢と反日問題など、2014年の主要なニューストピックスをまとめて解説。ダントツのわかりやすさと、客観的・中立的な説明。

・ちょうど第二次安倍政権衆議院解散と総選挙を控えているいま、アベノミクスのおさらいと途中経過がわかって、参考になった。

・解説だけでなく、池上さん独自の考察や指摘も含まれていて、これがまた斬新で鋭い。効率や専門性が重視されがちないま、私たちは、もっと広くいろいろなこと・意見を知るべきだと思った。

 

■カテゴリー:

政治

 

■評価:

★★★★☆

 

▽ペーパー本は、こちら

 

Kindle本は、こちら

 

 

 

 

 

ハピネス ★★★★☆

桐野夏生さん作

ハピネス

を読みました。

 

評価は、星4つです。

 

期待していた以上におもしろかった!

 

この人はやっぱり、

女性の陰湿な世界とか、

嫉妬・欺瞞・確執とかを描くのがめちゃくちゃ上手。

 

わりと暗い作品が多いけれど、

女性の方であれば、

結構、

共感できる部分はあるんじゃないでしょうか?

 

▽内容:

三十三歳の岩見有紗は、東京の湾岸地区にそびえ立つタワーマンションに、三歳二カ月の娘と暮らしている。結婚前からの憧れのタワマンだ。
おしゃれなママたちのグループにも入った。そのリーダー的な存在は、才色兼備の元キャビンアテンダントで、夫は一流出版社に勤めるいぶママ。
他に、同じく一流会社に勤める夫を持つ真恋ママ、芽玖ママ。その三人とも分譲の部屋。しかし有紗は賃貸。そしてもう一人、駅前の普通のマンションに住む美雨ママ。
彼女は垢抜けない格好をしているが、顔やスタイルがいいのでいぶママに気に入られたようだ。
ある日の集まりの後、有紗は美雨ママに飲みに行こうと誘われる。有紗はほかのママたちのことが気になるが、美雨ママは、あっちはあっちで遊んでいる、自分たちはただの公園要員だと言われる。
有紗は、みんなには夫は海外勤務と話しているが、隠していることがいくつもあった。
そして、美雨ママは、有紗がのけぞるような衝撃の告白をするのだった……。
「VERY」大好評連載に、新たな衝撃の結 末を大幅加筆!

 

はじめて桐野さんの作品を読んだのは、

東京島』だったかと思います。

無人島に漂着し、

逆ハーレムのなかで女を売りにしながら、

いかに貪欲に狡猾に生き延びるかという話。

(…だった気がする)

 

結構、衝撃的だったなぁ。

その後、映画化もされていましたね。

(映画は観ていません)

 

それから、

OUT(アウト)』も読みました。

 

弁当工場で働くパート主婦たちの、

閉塞感・陰湿なエネルギーをこれでもかというほど

描き切った作品。

 

個人的にはこっちのほうが衝撃的だったし、

先が気になって一気読みしました。

 

これで味をしめてから、

次に手をつけたのが『グロテスク』。

 

美しい妹と醜い姉・級友たちの、

名門女子校に渦巻く嫉妬や悪意、

その後の人生の転落を描いたもの。

 

こちらも全体的に暗いのですが、

暗いという点においては、

先の2作品とそれほどかわらないものの、

読了感はこれが一番、

どんよりした気分になったのを憶えています。

 

あと、

全体を通して淡々とした語り口調だったのもあって、

先を読ませるようなスピード感には欠けていました。

 

で、

桐野さんの作品のなかでは、

本作が4作目となるわけです。

 

今回は、

ママ友の世界がテーマになっています。

 

先の3作が、

無人島やら弁当工場やら娼婦の世界で生きる女性を

フォーカスしているのに対し、

 

こちらは、

豊洲の高層マンションに住む

ママたちの世界に照射をあてている。

 

前者(群)が、

わりと社会の底辺を描いていたのに対し、

後者は、

いわゆる”勝ち組”的なセレブママたちを描いている。

 

桐野さんのファンの中には、

これがちょっといただけないと言う方もいらっしゃるようで、

 

Amazonのレビューを読むと、

どうした?!」という声や、

らしくない」という声、

主人公の生き方、(ママ友の世界の)描き方も、すべてが中途半端」といった声が

目につきました。

 

たしかに、

先の桐野作品を読んだ限りでは、

すべてに共通するのは、

読了後の”救いようのなさ”で、

陰湿さ・閉塞さすべてが尖っている。

 

でも、

この作品は、

意外とハッピーエンドだったりもする。

”救われた”感がある

 

子育てやママ友、

タワーマンションの無機質な人間関係など、

ねっとりとした閉塞感という点においては、

桐野さん特有の雰囲気はあると思うのですが、

 

”えーそこまでいっちゃう?!”

”ヤバい、どん底感ハンパない…”

 

──みたいな”どろっどろっ感”は、

この作品は薄かったかもしれません。

 

しいて言えば、

”ちょいどろ”かなぁ。

 

だから、

桐野作品が大好きという方には、

パンチが弱いと感じられたんだと思いますが、

自分としては、

以下3つの観点から、

総じて高い評価になりました。

 

1.ストーリーの展開が気になり、思わず一気読み

 

ここで描かれているママ友とかタワマンの世界は、

自分からすると、

マジでアホらしいと思うし、

逆に可哀想だなとも思ってしまうくらいなのですが、

 

世界観はさておき、

ストーリーの展開としては、

興味をひきつけられました。

 

ママ友どうしの色恋沙汰がいつバレて、

どう揉めて、

そして、

どのように彼女たちの仮面がはがれていくのか、

 

あるいは、

主人公がママ友たちの間で見せているソトヅラも、

いつか本当の姿がバレてしまうのか?

 

そしたら、

主人公もタワマンを出るのか?

夫とは離婚するのか?

もう一人の子はどうするのか?

 

…などなど。

 

なんだかんだ気になって、

一気読みしてしまいました。

 

主人公の人生のリスタートに関しては、

私も、

こんな終わり方ってあるか?

綺麗にまとめすぎなんじゃ?

──と、

ちょっと物足りなさを感じた一人ではありますが、

 

思わず一気読みしてしまったという意味では、

それなりにハラハラドキドキして面白かった

と思います。

 

舞台設定(豊洲)が、

自分の住んでいるところに近いということも、

惹きつけられやすかった点ではありますが。

 

2.子供は絶対イヤだという気持ちと、子供ってやっぱりいいなという気持ちが両方発生

 

先に書いたことと若干重複しますが、

本書で描かれているママ友の世界が、

わりとリアルな実態であるとしたら、

たとえそれが極端なケースであるにしても、

 

自分は絶対、

子供を持つ親になりたくないし、

間違ってもタワーマンションなんかで生活したくない、

と思ってしまいました。

 

私が普段よく通る公園でも、

ママさんたちがよく集まってワイワイやっているんですが、

あのなかにいったいどれくらいの

愛想笑いや社交辞令が渦巻いているかと思うと、

めちゃくちゃ気持ちが悪い。。。

 

色眼鏡で見過ぎという自覚はありますが、

ただでさえそんな自分なのに、

いくら子供のためだからと、

ましてや見栄や嫉妬だらけのタワマンセレブに混じって、

着ている物や乗っている車、

住んでいる階数や子供の進路などを、

チェックしチェックされるような世界なんて、

絶対にごめんだと思ってしまいます。

 

つまりは、有紗たちもママも、子供という生き物と、それに伴う雑多な物や出来事を、どう大人たちの暮らしに合わせてアレンジしていくかという闘いを続けているのだった

 

ここでいう「大人たちの暮らし」とは、

社会的なルール・常識が守られる合理的な空間であり、

見栄や嫉妬が渦巻く腹黒い空間でもあります。

 

そこに子供を合わせる。

 

あるいは、

(子供がいることで)

子供をもつ親たちの世界に合わせる。

 

それならいっそ、

子供なんて持たない方がいい。

 

ついつい、

自分はそう思ってしまうのです。

 

でも、

先のレビューアさんから

”中途半端”とダメだしされていた主人公(有紗)ではあるものの、

そんな主人公が立ち直る原動力になったのは、

娘(花奈)の存在が一番大きかったと思います。

 

他の子に比べてどんくさくて、

発育も少々悪い娘だけれど、

けなげで無垢で優しい女の子。

 

この本を読んでいると、

ママたちがどいつもこいつも腹黒すぎるせいもあって、

子供(なかでも花奈)がとても清らかで、

いとおしい存在に感じてくるのです。

 

そして、

そんな三歳の小さな女の子が、

主人公を救い、奮い立たせ、離れた夫婦を一つに戻す。

 

──となると、

やっぱ子供っていいなぁ!とも思ってしまう。笑

 

この点も、

本書の”救われた”感のひとつで、

 

私の中に、

このような子供に対するアンビバレントな感情が生じました。

 

3.結末の”ちょい”どんでん返しには、喝采と不完全燃焼の複雑な後味

 

前掲の【内容】にも転載したとおり、

物語の最後は、

「新たな衝撃の結末」が出迎えてくれるわけですが、

 

おそらくそれは、

1でも取り上げた、

ママ友どうしの色恋沙汰で、

 

具体的には、

「いぶママ」vs「みうママ」の勝敗の行方かと思います。

 

要するに、

結局、そっちが勝っちゃうのかよ!?

というオチがあるわけですが、

 

このオチ自体は、

どうも私はしっくりきませんでした。

 

なんというか、

モヤモヤ感・残尿感がある感じです。

 

じゃあ、

いぶママの、

あの銀座デートはなんだったんだ?

という疑問が浮かび上がるのですが、

 

それはきっと、

いぶママが自慢していたような、

「妊娠」がきっかけなんかじゃなくて、

 

有紗が想像していた、

(わが子の)「青学合格」か、

あるいは、

浮気がばれかけた夫が、

ご機嫌とりのために仕込んだものか、

たぶんそのどちらかでしょう。

 

このへんがわかりづらくて

若干イラっとしました。

 

どうせ「みうママ」と「いぶママ」の夫が結ばれて、

その前に「いぶママ」の化けの皮を剥いでいくなら、

彼女のついたウソを、

思いっきり・わかりやすくなじってほしかったです。

 

こちらとしては、

「いぶママ」の醜態がどんどん明らかになっていくにつれて、

よっしゃザマーみろ!的な気持ちになっていただけに、

最後の終わり方が本当に微妙すぎました。

 

いや、それで、

「みうママ」と「いぶママ」の夫が

よりを戻すというのも別にいいんですが、

なんかそれにしては脇の固め方がザツだなぁ…

という印象をもちました。

 

ところどころ、

”中途半端”な感じはありましたが、

私個人としては、

概ね面白かったという感想です。

 

でもこれ、

先のレビューアさんがご指摘のとおり、

たしかに有紗の生き方は”中途半端”で、

そんな主人公に「共感できない」という声もあるように、

 

男手を頼らず女手ひとつで子供を育てているシングルマザーとか、

あるいは結婚したくてもできない、

子供が欲しくてもできない、

世の中の女性からすると、

 

なんてお気楽なヤツなんだ、

甘ったれんじゃねーよ!

 

という声も聞こえてきそうです。

 

そういう意味では、

彼女の生き方それ自体は、

いまこのご時世では、

同じ女性からの共感(賛同)を得られにくいと思いますが、

 

彼女の生きる世界(ママ友や女性特有の世界)は、

拒否反応を示されながらも、

あるある・わかるー!

といった共感が得られるのではないでしょうか。

 

文庫化されるのも、

時間の問題ですな。

 

■まとめ:

・ママ友の世界に渦巻く閉塞感を描いた作品だが、桐野夏生さんにしては、珍しい?ハッピーエンド。桐野さん特有の”どろっどろっ感”を求める人には物足りないかもしれないが、それなりに”どろどろ感”はある。

・いろいろ中途半端なところもあるが、ストーリーの展開が気になり、思わず一気読みしてしまったという点では、ハラハラドキドキして面白かったといえる。

・主人公の生き方には共感・賛同できないが、主人公を取り巻く世界(ママ友や女性特有の世界)には、(たいていの女性なら)拒否反応しつつも、あるある!わかるー!的な共感が残るのではないだろうか。

 

■カテゴリー:

小説

 

■評価:

★★★★☆

 

 

▽ペーパー本は、こちら

ハピネス

ハピネス

 

 

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