「狂い」のすすめ ★★★★☆

ひろさちやさん

「狂い」のすすめ (集英社新書)

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

ひろさちや」というお名前だけは聞いたことがありましたが、

実際、何をされている方なのかはよく知りませんでした。

 

どうやら、

仏教を専門とする宗教評論家で、

本名は「増原 良彦(ますはら よしひこ)」といい、

ひろさちや」はペンネームだそうです。

 

Wikiによると、

以下のように説明がありました。

 

大阪府に生まれ北野高校を経て、東京大学で印度哲学、仏教学を学び、気象大学校で教鞭を執る。教員生活の傍ら、「ひろさちや」のペンネームで平易な言葉で多数の入門書を執筆し、一般の人々に仏教を身近な物として再認識させた。ペンネームの由来は、ギリシア語で愛するを意味するPhilo(フィロ)と、サンスクリット語で真理を意味するsatya(サティヤ)の造語である。

 

ひろさちや」=愛と真理を追求する人

みたいなイメージでしょうか。

 

学歴もさることながら、

教員をやりながら本も書くなんて、

もともと勉強が大好きなんでしょうね。

 

「仏教」とは言いますが、

本書に書かれてあることは、

決して「仏教」をはじめ、

特定の宗教に偏った感じもなく、

まさに「平易な言葉」を用いて、

うまく生きるスベを教えてくれています。

 

まあ、よく聞く話だよねー

っていうものも正直多いのですが、

 

よく聞く話ではあるんだけど、

アプローチの仕方が独特だなー

というのもあって、

面白さが感じられました。

 

決して、

宗教じみた説教にはなっていないので、

ライトに読めると思います。

 

おすすめ。

 

▽内容:

今の世の中、狂っていると思うことはありませんか。世間の常識を信用したばかりに悔しい思いをすることもあるでしょう。そうです、今は社会のほうがちょっとおかしいのです。当代きっての仏教思想家である著者は、だからこそ「ただ狂え」、狂者の自覚をもって生きなさい、と言います。そうすれば、かえってまともになれるからです。人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく生きましょう。「狂い」と「遊び」、今を生きていくうえで必要な術はここにあるのです。

 

まず、

著者が言う「狂う」とは、

精神病理学上の「狂う」ではなくて、

「ふざける」みたいな意味で、

 

世の中で言われていることや世の流れに対し、

なんでも額面どおりに受けとめるのではなく、

ちょっと距離をおいて、

おちょくる・見くびるぐらいがちょうどいい。

そもそも世の中のほうが狂ってるんだから。

 

──と言っています。

 

「狂う」を、

「ふざける」「おちょくる」という言葉に置き換えても

いいかもしれないです。

 

ただこれは、

あくまで「境地」のことを指していて、

あんまり極端に言動に出してしまうと、

人間関係が悪くなることもあるから、

(人間関係を悪化させたくなければ)

周りに合わせることも必要だと、

筆者はおっしゃっていました。

 

口では、

「そうですよねー」「わかりますよー」なんて言っておきながら、

本心ではそんなことないでしょうに、

と嘲笑っていればいい。

 

それだけでなく、

正義をふりかざして、

「正しいこと」「当たり前のこと」を言うのは、

よしたほうがよいとも言っていました。

 

正しいことは言わずにおきましょう。それが人間関係をうまく維持するための、一つの良策だと思います。それから、正しいことをあなたが言うときには、あなたは相手を勝手に裁判にかけて判決を言い渡しているわけです。そのことに気づいてください。(中略)「正しいことを言うな!」は、──何も言わないほうがよい──という意味です。わたしたちが相手に対して何かを言う、はっきりと口に出して言わなくても、心の中で、〈この人はまちがっている〉〈わたしであれば、こんなことはしないのに…〉と思うことも含めて、相手に対してなんらかの「判断」をすることは、結局はその人を裁いていることになるのです。したがって、何も言わない、その人を裁かないほうがよいのです。わたしたちは、聞いてあげればよいのです。

 

ただ聞く、

そしてときには受け流したり、

心のなかで嘲笑う、

それで良いのだと。

 

着るものや食べるものも、

場の空気を乱さないためには、

いちおう適当に流行にのっとけばよくて、

あとは好き勝手やればいい、

だって個人の自由なんだから、

 

──というわけです。

 

もし言動に出すにしても、

自分は世間とは違って「しまっている」という意識のうえでそれをやってしまうと、

俺ってマイノリティー…?みたく

どうしても卑屈になってしまうから、

 

そうじゃなくて、

自分は狂っているから世間とはズレているんだ、「どうよ!」

という意識でやれば、

俺ってマイノリティー!てへ!みたいに、

逆にふざけられる・余裕がもてる。

 

だから狂いなさい、

人生を世間の常識という型にはめず、

もっと自由に「遊べ」と、

彼は言っています。

 

”自由”という言葉、いろんな意味に使われますが、ここでは「自分に由る」という意味です。世間の常識に由って判断するのは「世間由」であって、それだと世間の奴隷です。世間と違った自分の判断に由るのが自由人です。ということは、自由人は世間に楯突いている人間です。世の中をすいすいと泳いでいる人間が自由人に見られそうですが、あんなのは太鼓持ちであって、真の自由人ではりません。真の自由人は世間からちょっと距離を置いて、世間を信用せず、むしろ世間を軽蔑し、軽蔑することによって世間に楯突いている人間です。あなたもぜひ、自由人におなりください。簡単になれますよ。まず、自分が弱者だと自覚すればいい。そうすると、どうせ世間は弱者に味方してくれるわけがないから、世間を信用しなくなる、そうすると、世間の常識に対して眉唾になります。そうすると、自分の独自の思想・哲学が持てるようになります。思想・哲学といったって、そんなに大袈裟なものではありません。〈みなさんはそうおっしゃいますがね、わたしはそうは思いませんよ…〉と心の中で呟く、それだけのことです。

 

一見、

誰もが言っているようなことなんだけれども、

「自由」の語源から、

「世間由」という言葉をつくり、

 

世間の常識に由って判断するのは「世間由」であって、それだと世間の奴隷です

 

と表現しているのが実にユニークでした。

 

全体を通じて、

このようなユニークな表現が多いのですが、

それがなかなか説得力がある。

 

世間を「象」にたとえて、

以下のように表現していたのもおもしろかったです。

 

世間というものは狂象です。(中略)世間というものは、発情期の象でしょうか。近寄ると危険です。世間の常識──制服はいいものだといった常識──に楯突くのは危険です。よしたほうがよろしい。ただ黙って、にやにや眺めているといいのです。そして、心の中では、狂っている世間を軽蔑します。

 

では、

世間と距離をおいて、

「自由に」人生を遊ぶにはどうしたらよいのか。

 

彼はいいます、

人生に目的を求めてはいけない、

人生に意味なんてない、

たまたまこの世に生をうけ、

ついでに生きているだけだ、と。

 

だから、

未来を夢見て、

理想や希望なんて持たないほうがいいし、

過去を振り返って、

反省や後悔なんてしても無駄だ、と。

 

──反省や後悔をするな!希望や理想を持つな!──

(中略)世間の常識だと、失敗したときはしっかりと反省しないといけない、となります。でもね、いくら反省したって、この次、失敗しない保証はありません。われわれが生きてる現実の中で、まったく同じ状況というのはあり得ないのです。失敗するには、そのときどきの条件によって失敗するのですから、いくら反省したところで、この次は別の条件が作用しますから、反省は役に立ちません。それに”反省”といえば立派ですが、実際は反省することは、くよくよ、じくじく後悔することなんです。やめたほうがよい。そして、この次の機会に失敗すれば、そのときにまた〈あっ、しまった!〉と思えばいい。失敗したって、命まで奪われるわけではないでしょう。何度も失敗を繰り返していいのです。失敗を楽しめばいい。それが釈迦の言葉のひろさちや流解釈です。

 

ただただ、

「いま」をとりあえず生きなさい、

引きこもりなら引きこもりを楽しめばいいし、

病気なら病気の範囲で生活を楽しめばいい、

 

そこに理想や希望なんてもってしまったら、

余計に心が煩わされるんだし、

過去を振り返っても何も変わりはしない

 

すべては「諸行無常」なのだから、と。

 

人間は本質的に自由なんです。神が人間を創ったとしても、神の頭の中には何も目的なり用途なりがなかったのだから、人間は自由に生きていいのです。ましてサルトルは神の存在を認めないのだから、人間を束縛するものは何もないのです。それが実在主義の主張です。ということは、人生は無意味なんです。「意味」というものは、いわば神の頭の中にあるものでしょう。そうではなしに、誰かがその「意味」を決めるのだとしたら、いったい誰が他人の生きる「意味」を決定する権限を持っていますか?戦前の日本だと、天皇陛下が国民の生きる「意味」を決定する権限を持っているといった主張もあり得たでしょうが、まさかそこまで言う思想家はいませんでした。でも、なんとなくそのように思わせる風潮はありましたが、あれは国民みんながペテンに引っ掛かっていたのです。だが、戦後になると、こんどは人間の生きる「意味」が多数決的に決まるかのような風潮が生じました。しかし、それもペテンですよ。わたしの生きる「意味」を、わたし以外の人間が決定する権限を持っているはずがありません。だとすれば、それは「無意味」です。人生の「意味」なんて、ありっこないのです。

 

戦後、

生きる意味が「多数決的に決まる風潮」が生じた

という指摘には、

なるほどなーと思いました。

 

最後のくだりが、

自分はいまいち理解ができなかったのですが、

 

わたしの生きる「意味」を、わたし以外の人間が決定する権限を持っているはずがありません。だとすれば、それは「無意味」です。

 

「意味」という言葉を「価値」に置き換える

なんか納得がいきました。

 

自分の生きる「価値」は、

他人には決められない・わからないものなんだから、

そしたら「価値」なんてないんだ、と。

 

そして、

「価値なんてない」ということが、

本当の「人生の価値」なんだ、

だから周りにはばかることなく、

自由に生きてよいのだ、と。

 

「無意味」だというのが、真の「人生の意味」なんです。そして、わたしたちは、ついでに生きているのです。意味のない人生だからこそ、私たちは生まれてきたついでにのんびりと自由に生きられる。誰に遠慮する必要もなく、自分の勝手気ままに生きることができるのです。

 

でも、

著者の考えに同意できなかったところもあります。

 

ひろさちやさんは、

 

人生は無意味なんだし、

どうせいつか死ぬんだから、

下手に生き甲斐とか目的なんかをもってしまうと苦しいばかり、

 

挙句の果てに、

人生の目的=金儲けなんてことになったら、

それこそもう最悪だ…

 

──くらいのことを言っているのですが、

 

自分としては、

「そうだなぁ」と賛成する気持ちが半分、

「そうかな?」と反対する気持ちが半分、

というのが正直なところです。

 

わたしたちはたまたま人間に生まれてきて、生まれたついでに生きているだけだ。別段、それ以上の意味なんてない。(中略)人生に意味があり、目的があるとすれば、わたしたちはその目的に向かってまっしぐらに驀進したくなります。そうすると、競走馬的人生になってしまいませんか。まさか金儲けだけが人生の目的・生き甲斐だと思っている人はいないでしょうが、企業の発展を目指す経営者は、結局は金儲けのために生きていることになるでしょう。でもね、いくら巨悪の富を積んでも、あの世には持っていけないのですよ。金儲けなんて、人生の目的にはなりませんね。

 

狂っている世の中で狂うことが、まともになれる道なんです。まともになるということは、「金・かね・カネ」の狂奔をちょっと醒めた目で眺める心の余裕を得ることです。そうすると自由人になれるのです。それには、人間は誰もが死ぬんだという、冷厳たる真理を直視することです。(中略)もうすぐ死ぬのだとしたら、あくせく働いて金を貯めてどうなるんです?!

 

言っていることはごもっともなんですが、

逆の考え方だってできそうです。

 

人生は儚いから、

どうせいつか死ぬんだから、

だったらせめて、

いい思いがしたい・贅沢したい。

 

だから、

人生が金儲けに終わって何がいけないだ?

 

──みたいな。

 

実際、

そういう人はたくさんいると思います。

 

きっと著者としては、

仏教の教えに精通しているため、

 

理想にせよ希望にせよ、

あるいは「生きる目的」や「生き甲斐」にせよ、

 

根底には「欲望」というものがあって、

 

それはほうっておくと、

化物のようにどんどん膨らんでいくものなので、

何か手に入れるともっともっと手に入れたくなるし、

逆に手放すこともできなくなる、

 

お金なんていうのはその最たるものであり、

ゆえにお金を追いかけてしまうと、

苦しみもがく人生になってしまう、

 

だったらそんなもの持たない方がいい、

ちょっと冷めた目で見るくらいがいい、

そのほうがラクに生きれる、

 

──そういうことを言いたいんだと思います。

 

それだったらわかります。

その通りだと思う。

 

自分はちょうど、

小池龍之介さんの『しない生活 煩悩を静める108のお稽古』を併読しながら、

本書を読んでいたので、

わりとすんなり腹におちましたが、 

 

ひろさんの、

どうせいつか死ぬのに生き甲斐を求めたり、

あくせく働いてどうするの?──的な言い方だと、

自分のように反発する人もいるんじゃないかなと思います。

 

だからこそ、

ここは(この部分こそ)、

宗教的補足があったほうがよかったかな。

 

さて、

著者によると、

人生に目的や「生き甲斐」をもつこと自体が、

もう世間に毒されていると言っています。

 

わたしたちが「生き甲斐」を持とうとしたとき、わたしたちは世間の奴隷にされてしまうのです。そりゃあね、世間は、わたしたちに「生き甲斐」を持たせようとしますよ。世の中で生きているのだから、いや、世間のほうからいえば、おまえたちは世の中で生かしてもらっているのだから、世の中に恩返しをしないといけない。そのために「生き甲斐」を持って生きなさい──と命令口調で言います。つまり、世間はわたしたちに「生き甲斐」を押し付けます。それに騙されてはいけません。(中略)世間は、やれ仕事が生き甲斐だ、元気に働くことが生き甲斐だ、世の中に役立つ人間になることが本当の生き甲斐なんだと、新しい生き甲斐をつくって押し付けます。そんなものに引っ掛かってはいけませんよ。それに引っ掛かると、われわれは世間の奴隷になります。

 

たしかに私たちは、

人生に「生き甲斐」がない・ハリがないと、

なんかダメだと思っている。

 

本当にダメなのか?

 

周りがダメだと言っているから、

なんとなくダメなんじゃないかと思ってしまうだけで、

 

別に、

ハリがない人生を、

ただ飄々と生きていたって、

実はそれはそれで心地よいかもしれません。

 

仕事を辞めた人や転職した人が、

”辞めて自由になったのはいいけど、

 ヒマで何していいかわからないし、

 ダメ人間になりそうだから、

 あまり間をあけずに就職した”

──ということを見たり聞いたりしますが、

 

ヒマだと何がいけなくて、

どこがダメ人間なんでしょうね?

 

いや、

こうやって言ってる自分も、

 

実際、

”ヒマ=避けるべきもの”

”働かない=ダメ人間”

と思っているフシがあるんだけれども、

 

それって本当にそうなのか?

と思います。

 

べつに誰にも迷惑かけてないんだから、

ヒマでも働かなくてもいいんじゃないか?

──と。

 

私たちはつい、

こんなんじゃダメだ!

と自分を律してしまいますが、

 

本心としては、

何もしないほうがリラックスできていい!

と思っているかもしれない。

 

こんなんじゃダメだ!

というのは世間の常識(評価)に惑わされているだけであって、

あれ?本当にダメだっけ?

と見直してみたっていい。

 

これぞ、

著者のいう、

世間に隷属しない自由な考え方かと思います。

 

ちなみにもっというと、

ひろさんは、

たとえ他人に迷惑かけたっていい!

とすら言っていました。

みんなお互いさまなんだから、と。

 

ここからの ”ひろ”モード は、

読んでいてすごく面白かったです。

 

世間に隷属して生きようとする奴隷根性が問題です。世の中の役に立つ人間になろうとする、その卑屈な意識がいけません。

 

世のため人のために役立とうとする意識を、

「卑屈な意識」と言ってしまう。笑

 

でも、

ほんとそうかもしれない。

 

彼は、

無理に人様の役に立とうなんて思うな、

その時点でアンタ世間の奴隷だよ!

──と言っているわけです。

 

仕事についても然りで、

生きるために仕事することは必要だけど、

仕事するために生きているわけじゃない、

それこそ会社という世間に毒されているだけ

 

だから、

成果や評価、

勝ち負けを追求してまで働く必要なんてどこにもない、

 

そもそも、

(仕事するためにに生きているんじゃないんだから)

職を失ったら→ハイ人生終わり!

と思っちゃうこと自体がもう終わってる…

 

──と著者は言っています。

 

大部分の人間は、世間から押し付けられた「生き甲斐」を後生大事に守っています。その結果、会社人間になり、仕事人間になり、奴隷根性丸出しで生きています。そして挙句の果ては世間に裏切られて、会社をリストラされ、あるいは病気になって働けなくなり、それを「人生の危機」だと言っては騒いでいます。おかしいですよ。それは奴隷が遭遇する「生活の危機」でしかないのです。本当の「人生の危機」は、あなたが世間から「生き甲斐」を押し付けられたときなんです。まさにそのとき、あなたは奴隷になったのであり、自由人としてのあなたは死んでしまったのです。それが、それこそが、本当の意味での「危機」だったのです。

 

仕事という「生き甲斐」を押し付けられ、

それを受け入れてしまったときこそ、

「人生の危機」だなんて、

本当に狂ってる!笑

 

でも、

さっきのヒマ=ダメ人間と同じで、

これも正しいと思います。

 

著者によれば、

勉強でもこれは同じことで、

 

本当は勉強したいから大学に行くのであって、

大学に行くために勉強するわけじゃない、

 

大学に行くために勉強するのだとしたら、

もうその時点で、

世間の立派な奴隷であり、

「人生の危機」にどっぷりハマっている、

 

もし、

勉強したいから大学に行く(という人生を歩む)のであれば、

浪人生活を「灰色の受験生活」なんて言うのは

ちゃんちゃらおかしくて、

 

それは世間から、

生きる意味=大学に行く ←だから勉強する

と勝手に定義したものを押し付けられ、

それを疑いもせず飲み込んでしまったから、

「灰色」という表現になってしまうんだ、

そのカラクリに気づくべきですよ、

 

──そんなふうに彼は警鐘を鳴らしていました。

 

働くために生きたり、

大学に行くために勉強に生きたりするのは、

本末転倒だけれど、

 

そもそも、 

理想や希望をもって、

何かのために生きようとすること自体、

絶対それにとらわれてしまうから、

苦しくなって当たり前。

 

目的意識があると、われわれはその目的を達成することだけに囚われてしまい、毎日の生活を灰色にすることになるのです。失敗したっていいのです。出世できなくてもいいのです。下積みの生活でもいい。それでも楽しく生きることができるはずです。

 

希望・理想を持つということは、現在の自分を不満に思っていることと同義です。いまの年収では不満。現在の地位では不足。そう思っているから、希望を持つ。それは”希望”という名の欲張りです。あなたはどうして現在のあなたでいけないのですか。あなたが現在の自分を不満に思っても、あなたはあなたであって、現在の自分以外にないのです。(中略)わたしたちは、自分は自分であって他人ではありません。現在の自分をしっかり肯定し、その自分を楽しく生きればいいのです。それが仏教的生き方だと思います。

 

だから、

人生に目的なんかもってはいけない、

いまの自分を肯定してあげたらいい、

──と彼は述べていました。

 

人生の旅には、目的地があってはならないのです。目的地に到達できるかできないか、わからないからです。目的地というのは、「人生の意味」や「生き甲斐」です。人生に何かの目的を設定し、その目的を達成するために生きようとするのは、最悪の生き方です。(中略)人生の旅は、ぶらりと出かけるのがいいのです。どこに行く当てもない。いわば散歩の要領ですね。

 

わたちたちはここで一つの哲学を確立しましょう。それは、──われわれには、「自分が自分であっていい」という権利があるのだ──という哲学です。わたしは、これこそが「基本的人権」だと思っています。そして、この「基本的人権」を、もっと平たく表現するなら、──そのまんま・そのまんま──になります。「そのまんま」というのは、あるがままです。いまあるがままの自分、そのまんまの自分をしっかりと肯定する。それがわれわれの哲学です。あなたはいま引きこもりです。だとすれば、あなたは「そのまんま」でいいのです。引きこもりでいいのです。あなたががんになった。それじゃあ、「そのまんま」でいいではありませんか。しかし、勘違いしないでください。「そのまんま・そのまんま」といっても、がんの治療をしてはいけないと言っているのではありません。医者にかかってもいいのです。でも、治るまでのあいだは、あなたはがん患者だから、「そのまんま・そのまんま」と思ってください。ましてや治らないときは、「そのまんま・そのまんま」と思うべきです。(中略)引きこもりはよくない、がんは不幸なことだ、と思わないのです。自分には引きこもりのままに生きる権利があるのだ、自分は堂々とがんのまま生きていいのだ、と思うのです。引きこもりやがんをマイナスの価値に考えてはいけません。それがわれわれの「そのまんま・そのまんま」の哲学です。

 

ここで、

人生を旅にたとえ、

そこに目的地があってはいけないと指摘するうえで、

著者がおもしろいことを言っていました。

 

最近の小学生のバス旅行にしても、目的地に着くまでのあいだは、小学生たちがカラオケ大会をやっているそうです。なるほど、新幹線の中の時間は退屈です。車窓の外の景色を楽しむには、あまりにもスピードが出すぎだからです。飛行機の窓から外を見たって、雲しか見えません。いや、窓のある座席に坐れる人は少ないのです。そうすると、目的地に着いてからしか旅を楽しめない。そこに着く前の時間は無駄な時間で、できるだけ短くしたいと考えるようになります。それが目的地主義です。でも、人生を目的地主義にしてはいけません。

  

これには、

たしかに!と思いました。

 

ここでいう「これ」とは、

現代人の旅が「目的地主義」になっていること、

すなわち、

目的地に着くまでの過程はムダだととらえていることですが、

 

なんでもかんでも効率化された昨今、

旅行の計画をたてるのもパッパッパッだし、

グッズをそろえるのもパッパッパッ!

 

昔は、

それこそ紙媒体が中心だったときは、

旅行の計画なんて、

何冊ものパンフやガイドブックを漁り、

行ったことがある人に話を聞いたりして、

そのなかで荒削りに予定を立てたりして、

それがまた失敗したりして、

だから印象に残る旅行も多かったのですが、

 

いまはさほど苦労もせず、

ネットでパッパッパッ!と計画できるから、

旅行の思い出に「計画段階」なんてあまり残らない。

 

自分が3年ほど前に、

バックパッカーをしたときもビックリしたのは、

パッカーたちの情報収集方法です。

 

10年前にも私はパッカーをやっていましたが、

そのときはネットがここまで普及していなかったから、

それこそロンプラとか地球の歩き方とかを駆使し、

あるいはゲストハウスの旅ノートなんかを拝読して、

目的地を探したり、

そこまでの行き方を入手したものですが、

いまはみんな普通にネットを使っている。

 

安宿にもWiFiがあるのが普通だし、

パッカーたちはスマホはもちろん、

下手したらタブレットやラップトップも持ち歩いていて、

端末に格納してある歩き方のPDFを、

パッカー同士で交換したりしている。

 

バックパッカーもハイテクを駆使する時代。

 

海外旅行する若者が減っているといいますが、

経済的要因のほかに、

行かなくても行った気になれるし、

思ったほど感動が得られないのも

要因としてはあるんじゃないかと思います。

 

昔ほど苦労もしないから、

そのぶん感動もないですし。

 

ちなみに私がもっと驚いたのは、

カナダのドミトリーに滞在していたとき、

夜中に笑い声が聞こえるなと思ったら、

滞在するパッカーのひとりが、

ラップトップでYouTubeをみて笑っていたという事件。

 

そいつは次の日もその次の日も、

下手したら朝までYouTubeをみていて、

何しにここに来たんだろう?

と首をかしげたものです。

 

まぁ、自分も何しに来たんだろう…?

って感じだったので、

ヒトのことをとやかく言えませんが。

 

でも、

いま考えたら、

他人の目的を他人の自分がとやかく言う筋合いはないし、

そもそも目的なんかなくてもいいのかもしれない。

 

私は、

YouTubeなんて家でみりゃいいのに、

 コイツ何しにこんなとこ来たんだよ!

 バカじゃーの?"

と毒づいていましたが、

 

裏を返せばそれは、

”旅に出たら旅にふさわしいことをすべき

 YouTubeの視聴なんて旅先ですることじゃない

 旅の目的がYouTubeなんておかしい”

──と、

あたかもそれが常識(正義)であるかのように

思っていたわけですが、

たぶん違います。

 

本当は、

ヤツの笑い声がうるさくて、

夜中に目を覚ましてしまったのがイヤで、

でもそれをイヤだとは言えないから、

正義をふりかざして否定しているだけ。

 

しかも、

仮に正義をふりかざしたところで、

”旅の目的がYouTubeなんておかしい”

という自分こそおかしい。

 

旅だって人生だって、

好きにやればよくて、

家でみてもいいし旅先で一日中みていたって、

それはその人の勝手だと思います。

 

バックパッカーのハイテク事情から少し逸れましたが、

でも、

ひろさんが言わんとすることは、

こういうことなんだと思います。

 

人生という旅に、

目的があってはダメ。

 

それは、

実際の「旅」ひとつをとってもそう。

 

その昔、

徳川家康は、

 

人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず

 

と言ったそうですが(『東照公遺訓』)、

 

これに対して、

ひろさんは次のように意見しています。

 

まあ、「いそぐべからず」というのはいいのですが、なにも重荷を背負う必要はないじゃありませんか。目的地主義になるから、そうなるのです。

 

もっとゆったりやりゃあいいじゃん、と。 

 

また、

フランクリン=ルーズベルト米元大統領の名言

 

今日できる仕事を明日に延ばすな

 

についても、

次のように意見しています。

 

良く考えてみたら、これはイエスに楯突いている言葉ですね。イエスは「明日のことを思い悩むな」と言っているのですから。だとすると、このことわざは反対にしたほうがよさそうです。すなわち、──明日できる仕事を今日するな──となります。それが宗教の教える未来に対する権利放棄であり、神下駄主義のスローガンになります。ところが、何かの本で読んだのですが、ローマにはもっと神下駄主義的なことわざがあるようです。それは、──明日できる仕事を今日するな。他人ができる仕事を自分がするな──です。なるほど、ここまで徹底したほうがいいようです。

 

いいですね、

こういう考え方。

 

仕事一直線のときの自分がこれを読んだら、

バッカじゃね―の!と一蹴していたと思いますが、

いまはなんかわかる気がする。

 

バカでもなんでもいいから、

仕事なんてもっと適当にやりゃあよかったな、

と今は思います。

 

あ!

過去にとらわれるのもダメって言ってたな、たしか。笑

 

いま適当にやれてるんだから、

いいじゃないの!

──こういうふうに肯定することが大事だそうです。

 

本書で印象に残ったことが、

ほかにも2つあります。

 

1つめは、

現代人は「孤独を生きる」覚悟が必要ということ。

 

著者によると、

現代の日本人はとてもさみしくて、

常に癒しを求めているんだけれども、

昔ならそれが「家族」に求められたのに、

今は「家族」ではないところ(学校・会社)に分散しているんだけれども、

 

学校や会社の人間関係というのは、

付かず離れず(敵になったり味方になったり)の関係で、

とても不安定。

 

不安定だから、

なかなか癒しが得られず、

(昔以上に)淋しいまま。

 

若者の間ではもはや当たり前の、

電話やメール・SNSなんていうのは、

その淋しさが顕著に現れている証拠ですね。

 

最近の若者たちは、すぐに携帯電話をかけます。あれは孤独を生きる訓練ができていないからです。淋しいものだから、誰かとつながっていないと安心できない。

 

ひろさんは、

こうした淋しさの癒しを、

「家族」に求められなくなった経緯について、

以下のように説明していました。

 

近代日本の国家は、近代日本の国家というのは明治以降の日本ですが、大家族制度を崩壊させてしまいました。天皇制国家は直接に個々の「臣民」を支配したいので、それには家族制度があっては困るからです。家族制度があると、それぞれの人間は家族の一員であるといった意識を持ちますから、「臣民」意識を持ちません。それが天皇制国家にとっては都合が悪いのです。さらに戦後日本になって、天皇制国家によってほとんど壊された家族制度を、日本人は徹底的に潰してしまった。何を勘違いしたのか、家族制度は封建的という理由で、家の解体をやってのけたのです。その結果、見事な「核家族」になりました。

 

そして彼は、

 

こんな国は、アメリカの中下層と中国、それにイスラエルだけですよ。その他の国では、家族制度はしっかりと残っています。

 

とまで言っています。

 

じゃあ、どうすればいいのか?

 

人間なんて、

突き詰めれば、

いつの時代もどこにいても、

誰だって孤独なんだから、

孤独を生きる覚悟をすべきだ!

──彼はそう言っています。

 

まだ「家族制度」が強かった時代は、

孤独が誤魔化せたけれど、

 

いまは「個」の時代で、

それは個人が尊重されるという面もあるけれど、

孤立化しやすい面もあるわけで、

会社や学校、ネットの世界だけでは孤独は誤魔化しきれない。

 

なぜならそこは、

うつろいやすい不安定な世界だから。

 

我々日本人は、

縄文時代の狩猟型の生活から、

弥生時代の農耕型の生活に移行してから、

 

それまでは遊牧民として、

一定のグループ内では強固に団結して、

ベッタリな関係を維持していたけれども、

 

農耕民族になってからは、

家族以外は敵にもなるし味方にもなってしまった。

 

筆者は、

それが現代にも通じていると述べています。

 

わたしたちにとっての世の中・集団・社会のあり方は、一面では互いに助け合いながら、同時にライバルにもなるといった、非常に厄介なものなのです。

 

彼はこの独自の考え方から、 

日本における隣人関係を、

以下の2つのパターンに分類していて、

それがまた独特で興味深かったですが、

 

①縄文型・牧畜型・浪速型

②弥生型・農耕型・江戸型

 

このパターンでいうと、

今の日本はもちろん②に該当し、

付かず離れずの不安定な人間関係が続いているといってもいい。

 

だから、

余計に孤独。

 

余計に孤独だから、

それを紛らわそうと、

みんな一生懸命もがく。

 

でも報われない。

 

だから、

自覚すべきなんです、

受け入れるべきなんです、

家族関係が強かろうが弱かろうが、

今も昔も根源的にはみんな孤独なんだ、と。

 

ゆえに、

そもそも癒しを求めることが間違っているし、

孤独を感じやすい環境にいればいるほどそうなるんだから、

 

まずは身の置き場所をかえるなりして、

孤独を感じないようにすることも大事だけれど、

 

本質的な解決策としては、

「孤独なのが当たり前」と受けいれ、

「淋しい→癒されたい」と求めないこと。

 

──彼はそのように言っています。

 

人間の孤独を癒してくれるものは何でしょうか…?結論的に言えば、人間の根源的な孤独を癒してくれるものなんてありっこないのです。(中略)わたしたちも(ヤマアラシのように)自我というトゲを持っています。だから、相手とべったりとくっつくわけにはいきません。親子であろうと、夫婦であろうと、くっつけばトゲが痛いのです。かといって離れると淋しい。まさしくジレンマになるのです。したがって孤独の癒しを求めてはいけません。癒されるわけがないのです。そもそも癒しを求めるのがよくない。心が傷ついたとき、癒しを求める人が多いのですが、たとえばサラリーマン生活をしていて心が傷つきやすい環境に身を置いていながら、その環境を変えずに癒しを求めても、癒しが与えられているあいだはとくても、またすぐに心は傷つきます。それよりも、心が傷つかない環境に身を置くことを考えたほうがよいのですが、現代日本の社会生活では、心が傷つかない環境なんてないのです。誰だって心が傷ついています。まあ、人間に二種類あって、鈍感な人と敏感な人がおり、敏感な人が癒しを求めるのですね。でも、癒しは与えられない。そうすると、求めた人はそれだけ多く悩むわけです。

 

この背景には、家族を失い、所属する会社・企業において、人間と人間がライバル関係に立たされてしまった現代日本社会ののっぴきならない状況があります。この状況は、農耕民族である日本人にとってはそれほど奇異なものではありません。農耕民族にとっては、近隣関係は利害の対立を意味するものです。だからヤマアラシのジレンマで、隣人は敵であると同時に味方、味方であると同時に敵という、あいまいな関係でやってきたのです。それでも人々は、それぞれの家族の内部で孤独を癒すことができました。その家族が崩壊したとき、人々は癒すことのできない寂寥感に襲われた。それが現代日本の社会的状況です。

 

私は、

著者のいう「敏感な人が癒しを求め→悩む」という部分を読んで、

ハッとしました。

 

世の中では、

敏感な人というのは、

「繊細な人」とか「傷つきやすい人」とか言われたりして、

あたかも良い意味でつかわれることも多いと思いますが、

実は違うんじゃないか?

 

(自分も含めて)彼らは皆、

誰よりも「淋しい→癒されたい」と望んでいる人たちで、

ただの「淋しがり屋」で「欲張り」なだけではないか?

 

そうなると厄介。

 

いや、

たぶんそれに気づいているから、

「繊細」で「傷つきやすい」人たちは、

「厄介」で「めんどくさい」人たちと実は紙一重だと、

みんな心の中ではわかっている。

 

第三者的にそういう人たちに遭遇したら、

「繊細」「傷つきやすい」といった表現をするけれど、

近しい友人・恋人関係になった途端、

「うざい」「めんどくさい」といった表現にかわる。

自分でもそれを自覚してしまうことすらある。

 

だから、

両者は限りなくイコールというのが、

おそらく正解なんだと思います。

 

綺麗な言い方をしないで、

傷つきやすい=欲が強い=ストレス耐性が弱い=ウザイ

くらい意識したほうがいいと思う。

(自戒の意も込めて…)

 

そう考えると、

鈍感なことは、

実はとても素晴らしいことなのかもしれないですね。

 

無意識に鈍感になることはできなくても、

意識的に鈍感を演じることはできるわけで、

自分は後者の道を歩みたいと思いました。

 

2つめは、

人間の価値は、

世間の物差し=「ゴムの物差し」で測ってはいけないということ。

 

著者いわく、

この世には「世間の物差し」と「仏の物差し」(神の物差し)があって、

 

前者はゴムでできているから、

時と場所によっていろいろな値を示す(伸び縮みしてしまう)。

 

要は、

相対的な価値を測定しているということ。

 

巷で売られている商品のように、

「機能価値」を測るには、

この「世間の物差し」は都合がよい。

 

どっちの商品のほうが、

機能・素材が優れていて使いやすのか?

の判断がつきやすいから。

 

後者は目盛りがないから、

そもそも測ることができない。

なぜ目盛りがないかというと、

仏(神)が「測れない」のではなく「測らない」ようにしたからで、

優劣をつけることを拒んだから。

 

要は、

絶対的な価値を測定しているということ。

 

自分が生きていることや誰かの人生というような

「存在価値」を測るのは、

こっちの「仏の物差し」で測らなければいけない。

 

どの人生が素晴らしくて、

どの人生がつまらないか、

なんていうことはないのだから。

 

人間の価値は──存在価値──で論じられるべきであって、そしてその存在価値を測る物差しは、──仏の物差し──でなければなりません。キリスト教徒であれば、ここは「神の物差し」としてください。人間の物差しはゴム紐の物差しだから、そんなものでは存在価値は測れません。仏の物差しでもってこそ、存在価値が測れるのです。では、仏の物差し(神の物差し)とは、どういうものでしょうか?じつは、それは、目盛りのない物差しです。目盛りがないから、測ることはできません。つまり、それは、「測らない物差し」です。男と女と、いずれの価値が大きいか?われわれはゴム紐の物差しで測って、それを平等にしようとします。両者の価値は等しいということになっていますが、なに、それはタテマエですよ。ですからホンネの部分では、そのゴム紐を伸ばしたり縮めたりしています。しかし、仏の物差しだと、目盛りがないから測れません。本当は測れないのではなしに、測らないのです。そして、どちらも、──すばらしい存在だ──と見ます。(中略)それが仏の物差し(神の物差し)で測った価値です。人間の価値は、その物差しで測られるべきです。ゴム紐の物差しで測った商品価値は、人間の本当の価値ではないのです。わたしたちは、そのことをしっかりと認識しておかねばなりません。

 

”とうとい”という字に”尊”と”貴”があります。(中略)”貴”のほうは、他と比べて貴いのであって、いわばゴム紐の物差しで測った貴さです。貴族のほうが平民よりも貴く、金持のほうが貧乏人よりも貴いのです。それに対して、あらゆる人間の価値を平等に見るのが”尊”です。世間の物差しで測れば、天皇や総理大臣のほうがホームレスより貴いわけですが、それは機能価値です。しかし仏の物差しで測った存在価値は、あらゆる人間が同じく尊いのであって、勝ちに上下はありません。

 

わたしたちが、〈自分の人生はなんてつまらないんだろう…〉と思うのは、世間の物差し(ゴム紐の物差し)で考えているからです。仏の物差しで測れば、あらゆる人の存在価値は同等ですから、つまらない人生なんてないのです。いや、逆かもしれません。すべての人の人生がつまらないのです。

 

このあたりは、

非常に勇気がもらえる話でした。

 

ひろさんは、

差別の問題にしても、

「存在価値」と「世間の物差し」の矛盾を突いて、

鋭い指摘をしています。

 

差別の問題があります。人間を差別してはいけない。それはあたりまえですね。では、差別がいけないのであれば、世間の物差しを使わなければよいのです。学校で成績をつけなければよい。ところが、競争社会をつくって勝ち組・負け組に差別しておいて、言葉の上の差別だけを排除しようとする。おかしいと思いませんか。

 

ほんまやなぁ。

大人って汚い。

 

でも、

じゃあ「仏の物差し」だけでいいのかというと、

彼は決してそうではないと述べています。

 

だが、それはそうとしても、実際問題としては世間の物差しを完全に無視することはできません。世間の物差しは機能価値だけを測るものですが、機能価値を無視してしまっては、世の中は混乱します。政治も経済も、何もかもが機能しなくなります。世間の物差しも、それはそれで必要なんです。問題は、世間の物差しだけでいいか、ということです。いまの日本では、ただただ世間の物差しだけが物差しになっています。それが困るのです。それだと、勝ち組だけに価値があり、負け組に価値がなくなってしまいます。そうして負け組、〈俺の人生に意味がない〉と思ってしまい、〈俺なんてこの世にいないほうがいいんだ〉となります。(中略)世間の物差しは、勝ち組・負け組をつくり、そして勝ち組・負け組の両方を不幸にします。世間の物差しだけでは駄目なんです。わたしたちは、もう一本の物差しを持たねばならない。そして、そのもう一本の物差しは、世間の物差しとはまったく違ったものでなければならないのです。つまり、目盛りのない物差しでなければならない。

 

世間の物差し一本で生きてはいけません。仏教もキリスト教もそう教えています。わたしたちはもう一つの物差しを持つようにしましょう。目盛りのない物差しを。まあ、そんな物差しを持っていると、世間の人々からは狂っていると評されますがね。しかし、幸福になるためには、自由になるためには、われわれは狂う必要があります。世間に遠慮することなく、狂いましょう。目盛りのない物差しを持ちましょう。あなたはどうしてそんなに世間に遠慮するのですか…?!

 

要は、

偏っていてはいけない、

世間だけを鵜呑みにしていてはいけない、

といっているわけです。

  

世間にのっかっているフリをして、

真髄は実は全然ちがうところにあったっていい。

いっそ、のっからなくてもいい。

 

(人生という舞台において)どうか大根役者にならないでください。現代日本人はまじめに働いて大根役者になっています。目的や目標に向かって驀進するのがいい演技だと思っています。でも、そのような演技は大根です。仏のシナリオは、わたしたちが人生を「遊ぶ」ように書かれているのです。わたしはそう思います。

 

これが彼の最も言いたいことでしょう。

 

総じて、

言っていることはそのとおりでして、

自分は今の自分のままでいいんだ!

今のままで十分幸せなんだ!

と勇気がもらえる本でしたが、

なかなかこれが続かない。

 

幸せという概念自体、

そもそも優劣がベースになっているので、

 

やっぱり世間の物差しで測った価値(学歴・年収・肩書きなど)でも、

それがあるほうが幸せなんじゃないか?とか、

 

一番いいのは、

世間の物差しで測った価値と、

自分の絶対価値の両方があることじゃ?とか。

 

わかりやすい例でいうと、

東大出て年収1000万円もらってて立派な職に就いていて、

でも自分は世間とは違うぜ!

世間の考え方なんてクソくらえって思ってるぜ!

と言っている人。

 

もっというと、

自分は世間を認めていないんだけれど、

世間は自分を認めているようなケース。

 

これが実は、

一番幸せなんじゃないか?って思いました。

 

仏教では「世捨て人」といって、

世間を捨てることが教えの本質ですが、

著者曰く、

「世から捨てられた人」でもいい、

どっちでもいいと言っています。

 

でも最後には、

世間の物差しも持ちあわせておいたほうがいい、

そのほうがスムーズに生きられる、

とも言っています。

 

本質と現実は違っていて当然ですが、

現実世界においては、

世に捨てられないくらいの機能価値は、

ないよりはあったほうがよくて、

 

そうなってくると、

結局、一番ラクな生き方は、

(カネも名誉も)得られるならもっておくにこしたことはない、

ま、オレはそんなもん信用してないけどね!

っていうことじゃないかと思ってしまいました。汗

 

…となると、

今の自分だったらダメじゃね?

幸せじゃなくね?

と自信がなくなるわけです。

 

まぁ、

人の心(自信)なんて、

それこそ”諸行無常”だから、

何が一番幸せかなんてわからないですけどね。

 

そうやって無理矢理でも

自分を納得させるしか、

今の私には答えが見つからなさそうです。

 

合掌。

 

■まとめ:

・まあ、よく聞く話だよねーというものも正直多いが、よく聞く話ではあるんだけど、アプローチの仕方が独特だなーという面も多く、面白かった。 宗教じみた説教にはなっていないので、ライトに読める。

・人生に意味なんてない、生き甲斐や目的をもった瞬間から、それは世間の奴隷になった証、未来を夢見て、理想や希望なんて持たないほうがいいし、過去を振り返って、反省や後悔なんてしても無駄。既存の価値観をぶった斬っていくさまが、爽快。瞬間的には勇気をもらえる。

・(しかし)人間の価値は、「絶対価値」であって、「相対価値」ではないというけれど、結局、世間からそれなりに認められるような価値でもないよりあったほうがよくて、そうなると一番ラクな生き方は、金や名誉はもっていることに越したことはなく、でも自分としては、それだけではない・世間はクソだと一定の距離を置くスタンスなんじゃないかと思えてきた。


■カテゴリー:

自己啓発

 


■評価:

★★★★★

 


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