読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大河の一滴  ★★★☆☆

五木寛之さん著

大河の一滴

を読み終えました。

 

評価は、星3つです。

 

五木寛之さんのお名前だけは

よく目耳にしていましたが、

彼の著書を実際に読んだのは、

今回が初めてです。

 

ただ、

まだ五木さんに慣れていないせいか、

彼の何が良いのか、

彼の思想の何がこんなに世間に評価されているのか、

この本からだけでは

私は読み取ることができませんでした。

 

著書や小説などを読んで、

作者の方の斬新な発想や自論の展開に感銘を受けたとき、

私はよく、

「目から鱗(が落ちる)」という表現を使うのですが、

 

この著書においては、

まったくゼロというわけでもありませんが、

正直、

期待していたほどのインパクトはありませんでした。

 

考え方はわかるんですが、

どこかで一度は聞いたことのあるようなことで、

そうしたい・そうなりたいけど、

なかなかそうできないからみんな苦しいわけで、

じゃあそのためにどうすればいいのか的な

具体的・実践的なプロセスが欠けているかな、と。

 

それでも、

戦争や満州からの引揚げ、

戦後の貧しい時代を経験してきた方だけあって、

平和ボケしている自分のような人間からは

とても発せられないような言葉だったり、

 

いろんなことをよくご存知で、

へぇーそうなんだ!

というような話を交えていたりで、

 

年の功だったり、

学識の高さだったり、

そういうものを垣間見ることができました。

 

▽内容:

どんなに前向きに生きようとも、誰しもふとした折に、心が萎えることがある。だが本来、人間の一生とは、苦しみと絶望の連続である。そう“覚悟”するところからすべては開けるのだ―。究極のマイナス思考から出発したブッダや親鸞の教え、平壌で敗戦を迎えた自身の経験からたどりついた究極の人生論。不安と混迷の時代を予言した恐るべき名著が、今あざやかに蘇る。“心の内戦”に疲れたすべての現代人へ贈る、強く生き抜くためのメッセージ。

 

このエッセイはそもそも、

『プレジデント』『家の光』『別冊サライ』などの雑誌や

NHKの『ラジオ深夜便』などで

五木さんが発表していた文章や語りを一冊にまとめたもので、

98年に刊行されています。

大河の一滴

大河の一滴

 

 

自分が読んだ新書版は、

2009年に〈新装版〉として再販されているものですが、

内容はおそらく、

前者とさほど変わらないんじゃないかと思います。

大河の一滴 (幻冬舎新書ゴールド)

大河の一滴 (幻冬舎新書ゴールド)

 

 

いま読むと、

だいぶ昔の事件などが取り上げられていて、

多少の時差を感じてしまうのですが、

 

それよりも、

いかにも原稿を寄せ集めた感じがあって、

わりと脈絡に欠けるというか、

思ったことをグダグダ書き連ねている感じがして、

私はそれがちょっとイヤでした。

 

結局、何が言いたいんだ?

この論旨は、どこに向かおうとしているわけ?

というモゾモゾ感が終始つきまとい、

そこがマイナスでした。

 

でも、

エッセイというのは、

そもそもそういうものなのかもしれません。

 

自分が読まないもんだから、

起承転結が明確な小説や論文でないと認められない

と勝手に判断しているだけで。

 

ただ、

先の内容紹介や他の方のレビューにあるように、

「強く生き抜くためのメッセージ」

「生きていくための教科書」

と表現するほどの啓発的な刺激を

自分は受けませんでした。

 

言ってることはなんとなくわかるし、

参考になるところもままあるけれど、

世間が言うほど

そこまで大きな生きるヒントにはならないかなー

という感じです。

 

エッセイだけあって、

感覚の世界で書かれているので、

やっぱりどこか説得力に欠けている。

 

彼は本著のなかで、

近代化によって科学や効率・合理性ばかりが追求され、

情緒的・感覚的なものが排除されてきたことに

警鐘を鳴らしているので、

 

そんな著者に言わせれば、

それこそ感覚の世界をもっと重んじるべし!

と注意されてしまいそうですが、

 

そんな自分ももはや、

良くも悪くもすっかり「現代人」なんだなぁ

と認めざるを得ません。

 

さて、

この本のなかで、

五木さんが言わんとしていたことは、

大きく2つかなと思います。

 

1.

人間は偉大だ!この世は平和だ!人生は素晴らしいものだ!という考えは、幻想だと思ったほうがいい。そう思うから、そうではない状態がいつまでたっても受け容れられない。人間なんてそもそもちっぽけな存在で、小さな水の粒子として大河に連なる一滴にすぎない。この世は不安に満ちていて、心が満たされない人たちがたくさんいて、自殺だって多いわけで、決して平和なんかではない。祝福されて生まれてきたことを、いつまでも引きずっていてもいけない。人生なんて残酷で、その時から病や死に向かって刻々と進んでいるわけで、地獄に生まれてきたんだと思ったほうがいい。そう思っていたほうが、じたばたしても仕方ないと諦めがつくし、絶望や地獄のなかにこそ希望や天国があるということが実感できる。つまり、生きている実感が得られる。人はみな大河の一滴。無力ではないけれど決して万能ではない、ちっぽけな存在。この世は常に不安定で、人生なんて残酷で絶望の連続。まずはそう思うことから始めるべし。

 

2.

戦後の急速な近代化によって、合理的・効率的であることばかり求めてきた結果、失われたものも大きい。<あれか、これか>の二者択一で切り捨てるのではなくて、<あれも、これも>と受容する包容力を持つべきだ。一見、反対のこと・まったく逆のものであっても、光と影・喜びと悲しみのように、どっちかがあるからその逆もあるわけで、どちらか一方に偏ってはいけない。プラス思考でありすぎるのもダメ、人生は素晴らしい・この世は平和だ(そうでないといけない)と妄信しすぎるのもダメ、体だけメンテナンスするのもダメ、メールや電話といった言葉だけに頼りすぎるのもダメ。どうも今、プラス思考であったり、スペシャリスト傾向だったり、新たな生命の誕生ばかり礼賛されているけれど、そんなだから生きることが辛くなっている。マイナス思考だってあってもいいし、ゼネラリストであったっていいし、死から目を反らさないことだって大事だし、体だけじゃなく心も労わる必要がある、言葉だけじゃなくちゃんと面と向き合うことも大切。要はバランスが大事ということ。やたら前向きな人生論や合理的・効率的なことばかりがもてはやされているけれど、このへんで、もっと後ろ向きな考え方や不合理なこと・非効率なことも取り入れるべきではないか。

 

これがおそらく、

五木さんの言いたいことだったかと思います。

 

そもそも著者は、

現代を生きづらい時代・大変な時代だと

とらえている前提があり、

 

自殺やいじめ(の多さ)、

青少年の非行の問題、

現代科学・医学への偏重主義を

著者は嘆いています。

 

簡単に命が傷つけられたり失われたりして、

簡単に「死」というものが決められる時代。

 

その背景にあるのは、

命の重さ・リアリティが欠けてきているということと、

そもそも不幸せだと思っている人が多いということの、

2つがあります、と。

 

前者について、

なぜ命の重さが軽んじられるようになったのか?

という点については、

 

彼は以下のように述べています。

 

非常に通俗的な考えかたなのですが、まず、私たちは死というものの現場に立ち会うことが少なくなった、あるいは死というものをはっきりと眺め、それに接する機会が少なくなったということが、死の実感を喪失させる原因のひとつになっているのかもしれない、と思います。

 

また、

死という定義(=脳死)が

現代医学によってあまりにも

簡単に位置づけられてしまっていることも、

一因だと述べていました。

 

脳死は人間の死であるというのは、国際的にみても常識のようです。そうであるとしても、それはやはり科学の立場ではないかという気が、私の心のなかにはあって、それを押し殺すことがどうしてもできません。(中略)社会が、人間の死は脳死であって、医師によって判定がくだされたあとの体を(臓器移植法のように)どんなふうに損傷しようとも、それはもう死んだ<物>にすぎない、という考えかたをもって進んでいきますと、ますます、人間の命というものの重さや尊さみたいなものが感じられなくなるのではないか、と、ぼくはそんな気がするのです。

 

こうした医学や法律といった文明の神器が、

逆に、

命の重さ・リアリティを失わせているのだと。

 

だから、

命を軽んじるような犯罪や問題が増えていると

彼は主張しています。

 

人間的な死ということを考えないで、科学的な生理的な死ということだけで死者というものを取り扱う、それはおそらくいろんな犯罪と根のところで結びあってくるのではなかろうか。

 

そして、

そのことは自殺だけではなく、

他殺や傷害にも通じているわけです。

 

もっと深刻に考えなければいけない問題は、人間の自損行為、つまり自分の命を傷つけることと他人の命を傷つける他損行為とが、本当は背中あわせの一体になったもののだ、ということです。

 

彼はここで、

ルイス・マンフォードという

アメリカの批評家の言を紹介していますが、

これは興味深かったです。

 

マンフォードという思想家が、自分を愛していない人間は他人を愛することができない、といっています。自分を憎んでいる人間は他人を憎む。自分を軽蔑している人間は他人の命も軽蔑する。だからたとえどんな幼稚な愛であっても、人はせめてナルシシズムからでも出発するしかないのではないか、と。

 

ナルシシズムは決して「悪」ではない

というのが興味深かった点の1つめです。

 

2つめは、

「自分を大事にできない人は、他人も大事にできない」

とはよく聞くものの、

当たり前のことのように言われ続けてきて、

そもそもなんで?ということを考えないまま

この言葉を聞き流している人や使っている大人は

たくさんいると思います。

 

私もその一人で、

なんで?って考えないもんだから、

結果として、

いままで「聞き流して」いたわけですが、

 

そこには自他の「存在」、

もっと言えば「命」があって、

 

自分の「命」「存在」を認めない・重んじてなければ、

そりゃあ他人の「命」「存在」なんでどうでもいいわ

ってなるわな、

と今さら気づきました。

 

どうも自分には、

大多数の他人なんてどうでもいいって思っているフシがある。

 

これをいったら非難轟々かもしれませんが、

ぶっちゃけ、

他人が死のうが生きよう殺されようがどうでもいい。

 

だからって、

あえて自分から

誰かを殺そうとか害を加えようとは思いませんが、

仮に会社の同僚や近所の隣人が、

事故や事件に巻き込まれたって、

正直、自分には関係ないと思っています。

 

家族や友人に対してすら、

自分は思い入れが弱い。

 

もちろん、

関係ないでは済まされないし、

ものすごく衝撃を受けて落ち込んだりするんでしょうが、

逆に自分じゃなくてよかったとどこかで思うかもしれない。

そのくらい冷淡だという自覚があります。

 

なんでだろう?と考えたら、

それは、

自分の命・存在をあんまり認めていないから

というわけです。

 

なるほどなー。

 

…といって、

じゃあ治そう!

とは思わないのですが、

そういうことだったのかー

という驚きがありました。

 

著者はまた、

生きづらくなっている現代の背景として、

(命が軽んじられている以外に)

そもそも不幸せだと思っている人が多い

ということも指摘していますが、

 

著者自身は、 

そもそも苦しみの総量なんていうのは、

いつの時代も変わるものではないと

考えているようです。

 

人生の苦しみの総量は文明の進歩と関係なく一定なのだ。むかしの人が今の私たちより幸せだった、などとは私は思わない。平安時代と、江戸時代と、明治や大正のころと、そして先端技術時代のいまと、人間の営みはほとんど変わっていないような気がする。

 

苦しみの総量は、

時代によってかわるものではないのに、

生きづらい時代・大変な時代だと感じるのはなぜか。

 

それはあまりにも、

ポジティブな考え方だったり、

幸せばかりが礼賛されていて、

人間は素晴らしい!とか、

人生は楽しいものだ!きっと幸せになれる!とか、

世の中は平和が一番!とか、

 

そういうことばかりが謳われ、

そうでないといけない、

そうであるのが当たり前と、

いつのまにかそれが常識になってしまって、

 

私たちの脳みそも、

気づいたら

そういう思考回路になっている。

 

だから、

ちょっと苦しみがあるだけで、

「ヤバい」とか「不幸せ」とか感じてしまう。

 

本当は、

人間なんてちっぽけな存在で、

とるに足りないはかないものであって、

人生は苦しいことだってたくさんある。

 

それが普通なのに、

幸せでないといけない、

すごくないとヤバい、

人生は楽しくなければ意味がない

という「常識」に毒された思考回路が、

現実から目を逸らさせ、

常に私たちに幻想を抱かせる。

 

著者は、

 

前向きに生きることは悪いことではない。プラス思考でおのれを励まし、人間性を信じ、世界の進歩を願い、ヒューマニズムと愛をかかげて積極的に生きることも立派な生きかたである。

 

と前置きしながらも、

 

しかし、一方で現代の人間の存在そのものを悪と見て、そこから出発する生きかたもあるのではないか。その真暗闇の虚空に、もし一条の光がさしこむのが見え、温かな風が肌に触れるのを感じたとしたなら、それはすばらしい体験である。まさに奇蹟のような幸運であると思いたい。まず、これまでの人生観を根底からひっくり返し、「人が生きるということは苦しみの連続なのだ」と覚悟するところから出直す必要があるのではないか。

 

と論じていました。

 

私たちは、人生は明るく楽しいものだと最初から思いこんでいる。それを用意してくれるのが社会だと考えている。しかし、それはちがう。(中略)これをネガティブで悲観的な人生観と笑う人もいるかもしれない。しかし、かつてはブッダ(仏陀)の出発点も、「生老病死」の存在として人間を直視するところからだった。この「生老病死」を人間のありのままの姿とみる立場こそ、史上最大のマイナス思考だといっていい。問題は、そこから出発する、ということではないだろうか。(中略)いまこそ私たちは、極限のマイナス地点から出発すべきではないのか。人生は苦しみの連続である。人間というものは、地球と自然と人間にとって悪をなす存在である。人は苦しみ、いやおうなしに老い、すべて病を得て、死んでいく。私たちは泣きながら生まれてきた。そして最後は孤独のうちに死んでいくのだ。

 

要は、

希望を抱いてばかりだから、

期待してばかりだから、

報われないと息苦しくなるというわけです。

 

人生なんて報われないことのほうが多くて、

極論すれば、

なにも期待しないくらいのスタンスで生きれば、

息苦しさなんて感じないはずだ、と。

 

子育てにしても、

人間関係においても、

期待すべきではない、と。

 

親は子に期待してはいけない。子も親に期待すべきではない。人を愛しても、それはお返しを期待することではない。愛も、思いやりも、ボランティアも、一方的にこちらの勝手でやることではないか。そう覚悟したときに、なにかが生まれる。

 

これはわかります。

 

「期待し過ぎるからいけない」

とはよく聞くハナシで、

本当にその通りだと思う。

 

でも、

私たちは期待してしまうし、

希望を持ってしまう。

 

大事なのは、

どうやって「期待しないようにするか」で、

 

五木さんがおっしゃっていることは、

共感はできるけれど、

誰もが知っている理想論で終わっている

という気もしました。

 

さて、

先に挙げた、

人間は素晴らしい!とか、

人生は楽しいものだ!きっと幸せになれる!とか、

世の中は平和が一番!といった「幻想」は、

 

そもそも、

ルネサンス以降の近代化によって

もたらされた「弊害」であると、

著者は位置づけています。

 

ルネサンスは、「人間は偉大である!」と力強く宣言した時代である。それまでの教会と神の権威のもとでは、人間は卑小でちっぽけな存在でしかなかった。しかし、その小さな存在である人間たちには、現代の私たちのように、自らが宇宙の最強の生物であるというおごりはなかったにちがいない。

 

だから今こそ、

 

私たちはふたたび、人間はちっぽけな存在であると考え直してみたい

 

というのが著者の考えになりますが、

 

彼はまた、

この近代化というのは、

一方を是(イエス)とすれば、

その反対は非(ノー)とする

「二進法」で物事が決められるようになったという特徴があり、

 

その傾向は、

文学や科学・医学でも多々見受けられ、

私たちの価値観や人間関係を大きく変えていった

と指摘しています。

 

戦後、私たちは新しい民主的な近代社会をめざして、焼け跡・闇市から出発するわけですが、そのなかでもっとも嫌われたのは浪花節的なこと、封建的なこと、前近代的なことであり、べたべたした人間関係、濡れた抒情である。(中略)(戦後)私たちが一生懸命、乾いた社会、乾いた文章、そして乾いた人間関係を求めてきた結果、どうなったかということを五十年たってふり返ってみますと、私たちはじつに見事に、めざしたものを実現したという苦い後悔があります。私たちは人間関係においても、文章においても、この社会のありかたにおいても乾ききって、ひょっとしたら、もうひび割れかかっているのではないかと思うような世の中をつくりあげてきてしまったのではないでしょうか。

 

たとえば、

医学においては、

 

かつては<体>と<心>が自然にぴったり一致していたため、人間の学問とか文化の体系というものは非常に大きな、まとまった、全宇宙的な、総合的なものだった

<心>と<体>は深くかかわりあい、人の<命>をささえている、あるいはかたちづくっている

 

とのことですが、

 

かつては人間を全体としてとらえていた医学も、ルネサンスを通過して、近代になると、非常にこと細かく専門化されていきます。それぞれが細かく分かれて、そのなかで、やってもやっても尽きないほどの不思議な世界がある。そしてその専門化していった結果として、たとえば人間の虫歯に関しては歯科という専門の学問が受けもつようになっていく。しかし、本当はそうではないのだ(中略)、人間というものは総体である。

 

と著者は述べています。

 

実際に、 

ご自身がお読みになった歯医者さんの本を読んで、

いよいよそのことを実感なさり、

われわれ読者への説得材料としても取り上げながら、

 

虫歯ひとつにしても、

ただ歯を磨けばいいというわけではなくて、

ストレスをためすぎないように心のケアをすることも、

虫歯予防の一環になる、

つまり、

<心>と<体>の両方のバランスが大事だ

とおっしゃっていました。

 

この虫歯の例のように、

一方を是とすれば、

その反対は非とする二進法で

物事をとらえるのではなく、

どっちもバランスよくとりいれるスタンスが

本来は大事であるというのが、

彼の強い主張でもあります。

 

<あれか、これか>の選択をせずに(中略)、<あれも、これも>人生に大切なこととして抱えこんだら、どうなるのか。光があれば影があり、プラスがあればマイナスがある。生があれば必ず死がある。人間の生命の本質は、これら両極のものが混ざりあったあところにあるのではないでしょうか。あれもこれも、と抱えこんで生じる混沌を認め、もう少しいいかげんになることによって、たおやかな融通無碍の境地をつくることが、枯れかけた生命力をいきいきと復活させることになるのではないでしょうか。

 

あれもこれも、生も死も、光も影も、喜びも悲しみも、みんな抱えこんで生ずる混沌を認め、もう少しいいかげんに行儀悪くなって、たおやかな融通無碍の境地をつくることが、枯れかけた生命力をいきいきと復活させ、不安と無気力のただよう時代の空気にエネルギーをあたえることになるのではないか。いろいろなものを受け入れて、たくさんのものを好きになったほうが人生、楽しいのではないか。

 

デカルト以来、人間を物質としてきちんと科学的に考えるという習慣によって医学や科学はすばらしい進歩を遂げてきた。いまさら神秘主義に立ちもどるのではなくて、人間はたしかに物の側面を備えているけれども、しかし物だけではないことを考えよう。(中略)Aと非Aとが同時に存在しているような状態、これが生きた現実なのではなかろうか。プラスとマイナスがお互いに反撥しあい、また引かれあうような、そういう物の考えかた。両極端のどちらかではなく、<どっちも>という考えかたを、このへんで、もう一ぺんふり返ってみたいという気がします。

 

いま、コンピューターが大変な勢いで普及してきています。ご存知のとおり、コンピューターの世界というのは二進法でできていて、プラスとマイナス、イエスかノーかを問うものです。そこにはよけいな情緒がはいりこむ余地はまったくない。「イエス、バット(だけど)」という気持、どちらとも言いがたいというようなあいまいさが、基本的にはありません。言いかたをかえると、コンピューターというものは非常にドライです。乾いている。そして戦後五十年、私たちが追求してきた世界というものも、やはり乾燥した世界でした。

 

そもそも彼は、

つらい戦争を経験してきて、

もう二度とあの時代に戻りたくないと思う一方で、

「自分が生きている」という「不思議な実感」があった

と述べています。

 

この「生きている実感」というのは、

言い換えれば、

命があることに感謝している状態だったり、

何かに一生懸命打ち込んでいる状態を示すかと思います。

 

戦争前、戦争中、そして戦後、あの時期は、もう、だらだら生きていようがなんであろうが、とにかく時代のぴんと張りつめた雰囲気のなかで、そして人間たちはそれぞれ大きなひとつの、国家とか民族とか、そういう運命のなかに組みこまれている。組みこまれていること自体がいやなことかというと、必ずしもそうではなかった、とぼくは思います。

 

戦争中のことを考え、そして戦後のことを考え、よくもあんなきわどいなかで自分が生きながらえてきたな、あんな悲劇は二度とくり返したくないなと思いつつ、その一方では、いまふり返ってみて、悲惨の極みとしかいえないような、そういう時代に、自分の命がたしかに、あそこには燃えていた、という感覚があります。こういう感覚を無視してきたのが、戦後の民主主義の教育だったのではないか、建前の民主主義の教育だったのではないか。そういうものは錯覚であった、それはまちがっていた、それは安っぽいナショナリズムであった、というふうに言いますけれども、いまの時代のなかで、たとえば非常に反動的な意見のように言われる意見のなかに、やっぱり、かつて自分の命が燃えていた時代というものに対する抑えきれないノスタルジーのようなものを、ぼくはどうしても感じてしまいます。

 

戦争をご経験された方からは、

彼と同じようなことを言われているのをよく聞きます。

 

以前読んだ、

戦争を知らない人のための靖国問題』のなかで、

著者の上坂冬子さんも、

同じようなことをおっしゃられていました。

 

国中が一丸となって突撃していた時代の一種の危険をはらんだ快感が、戦争という二文字の裏側にあるのはたしかで、「二度と戦争はイヤだ」とあっさりいってのけることにはウソがある(中略)。こういう肝心なところで爪の垢ほどもウソが、あってはならない。少なくとも私は爽快感や躍動感を含めて戦中と戦後を生きてきており、戦争の馬鹿馬鹿しさに気づくのに半世紀かかった。

 

話を五木さんに戻しますが、

彼には、

一見背反するような思いというか過去があり、

そういったご自身の過去から、

 

ひとつの事実、ひとつの現実などに対して、ぼくはいつも異なる二つの思い──アンビバレントな感情というのでしょうか、そんな感じを抱いていたという自覚があります。

 

と言っています。

 

そんなご自身の経験をもとに、

<あれか、これか>ですぐに取捨選択するのではなく、

いったんどっちも受容するような、

そのくらいの曖昧さがあってもいいのではないかと、

著者は自論を展開しているのです。

 

両方を経験したり受容することで、

些細なよろこびが

すごく幸せに感じられたり、

ちょっとした努力が

すごいことのように思えたりして、

生きる実感が得られるはずだというわけです。

 

影があるから光がある、

逆もその然り。

 

地獄があるから天国があり、

そもそも地獄も天国もあの世ではなく

今われわれが棲むこの世にある

というのが彼の主張です。

 

そしてここで登場するのが、

五木さんお得意の親鸞です。

 

極楽浄土と一般に重ねていうところから、浄土と極楽は同じ世界のような受けとられかたをしがちだが、私はそうは思わない。浄土は極楽ではない。地獄・極楽とは人が生きている日々の世界そのもののことだろう。(中略)救いがたい愚かな自己。欲望と執着を断つことのできぬ自分。その怪物のような妄執にさいなまれつつ生きるいま現在の日々。それを、地獄という。私たちはすべて一定、地獄の住人であると思っていいだろう。死や、病への不安。差別する自己と差別される痛み。怒りと嫉妬。しかし、宗教とは、地獄にさす光である、と親鸞は考える。苦しむ魂を救うためにこそ信仰はあるのだ。それゆえに地獄に生きる者すべてはおのずから浄土に還る。日々の暮らしのなかでも、一瞬、そのことがたしかに信じられる瞬間がある。それが極楽である。しかし極楽の時間だけが長くつづくことは、ほとんどない。一瞬ののちに極楽の感動は消え、ふたたび地獄の岩肌がたちあらわれる。現実に生きるとは、そのような地獄と極楽の二つの世界を絶えず往還しながら暮らすことだ。

 

彼は続けます。

 

本当のプラス思考とは、絶望の底の底で光を見た人間の全身での驚きである。そしてそこへ達するには、マイナス思考の極限まで降りていくことしか出発点はない。私たちはいまたしかに地獄に生きている。しかし私たちは死んで地獄へ堕ちるのではない。人はすべて地獄に生まれてくるのである。鳥は歌い花は咲く夢のパラダイスに、鳴物入りで祝福されて誕生するのではない。しかし、その地獄のなかで、私たちはときとして思いがけない小さな歓びや、友情や、見知らぬ人の善意や、奇蹟のような愛に出会うことがある。勇気が体にあふれ、希望や夢に世界が輝いてみえるときもある。人として生まれてよかった、と心から感謝するような瞬間さえある。皆とともに笑いころげるときもある。その一瞬を極楽というのだ。極楽はあの世にあるものでもなく、天国や西方浄土にあるのでもない。この世の地獄のただなかにこそあるのだ。

 

だからこそ、

希望や期待ばかり持っていてはだめで、

もっと謙虚にもっとネガティブになったほうが、

全然いいでしょ!

というわけです。

 

いま、人間は少し身を屈する必要があるのではないだろうか。いつまでもルネサンス時代の人間謳歌ではやっていけないのではないか。自分をちっぽけな、頼りない存在と考え、もっとつつましく、目を伏せて生きるほうがいいのではないか。

 

人間なんてちっぽけで、

取るに足らない存在で、

大河に流される一滴の水のようなもの。

人生なんて苦しみの連続でしかない。

 

人間とは哀しいものだと思い、人生は残酷であるのが自然だと考える。それをマイナス思考と恐れることはない。絶望を抱いて生きたからといって、悪い脳内ホルモンが出ては心身をむしばむわけではない。(中略)存在するのは大河であり、私たちはそこをくだっていく一滴の水のようなものだ。ときに跳びはね、ときに歌い、ときに黙々と海へ動いていくのである。(中略)私たちの生は、大河の流れの一滴にすぎない。しかし無数の他の一滴たちとともに大きな流れをなして、確実に海へとくだっていく。高い嶺に登ることだけを夢見て、必死で駆けつづけた戦後の半世紀をふり返りながら、いま私たちはゆったりと海へくだり、また空へ還っていく人生を思い描くべきときにさしかかっているのではあるまいか。「人はみな大河の一滴」ふたたびそこからはじめるしかないと思うのだ。

 

事実、

五木さんご自身も、

つらい戦争をご経験してきて、

何度か自殺することも考えたようですが、

彼をそこから救ったのは、

一見ネガティブ思考にも見えるような、

「わりきり」や「あきらめ」でもあり、

そうすることで、

人の善意や幸福、

自由や感動といったものが得られたそうです。

 

極楽は地獄のなかに、たしかにあったのである。

 

<体>も大事だけど、

<心>も大事、

 

全体も大事だけど、

個別も大事、

 

常識も大事だけど、

個性も大事、

 

言葉も大事だけど、

言葉には限界もあるから、

面授(言葉だけでなく、人間の息づかい、肌の輝き、双眼の色でなにかを伝える方法)も大事。

 

喜ぶことも大事だけど、

悲しむことも大事、

 

励ましも大事だけど、

慰めも大事、

 

プラス思考も役に立つけど、

マイナス思考だってきわめて重要。

 

…要は、

バランスなんです、と。

これが彼のもっとも言いたいことだと思います。

 

バランスよく多くのものに接したほうが、

体だって健康だし、

心も豊かになる。

 

たまたまなにかの偶然で、この時代、同じ国、同じ街、同じ地域に、人の体をもって存在し、また何十年後かにはこの舞台から消えていく人間が、お互いに相手を受け入れ、共感する気持ちで生きていくことが、その<体>と<心>を豊かにし、いきいきとした人生を歩むことになるのではないか。

 

いま、

いろんな問題が日本に蔓延しているけれども、

 

たとえば、

青少年のいじめにしても、

Aは認め非Aは認めないという、

大人が勝手に線引きした「教育」というものによって、

引き起こされていると指摘しています。

 

いじめの問題を、子供は本来、残酷だからとか、いじめによって淘汰されていくんだとか言う人がいるけれど、そうではない。あれは大人の社会の反映です。大人の社会が、元気な人間、明るい人間しか認めないという立場をとるから、そうでない人間を子供たちは攻撃するのではないか。

 

彼はまた、

そもそも人が、

Aとか非Aとか序列づけたり排除したりする根底には、

自己の存在意義が関わっていると述べています。

 

日本人はいま、なにかを必死で求めています。自分たちが生きていく上での確信のようなもの、生きていくささえになる強いバックボーンが欲しいと思っている。それを求めて、みんなが模索しているけれど、まだ見つかってはいないのだと、ぼくは思います。そして、そういう希求に対するひとつの非常に素朴な返答として、とにかく自分だ、自分の生活、自分の家族、それから個人個人の肉体だということになる

 

これはいまでいうところの、

承認欲求みたいなものでしょうかね。

 

「自分が」承認されたい、

「自分が」存在する意義を確信したい、

だからマウンティングと呼ばれるような

序列づけや誇示をする。

 

こうなってくると、

「自分」ばかりが肥大して、

「他者」はどうでもよくなってしまい、

他者との関係がますます薄れてしまう。

 

非常に不確かで不安定なのに、

自由とか個人といったものが尊重されすぎて、

自己を追求し、

序列づけたり排除していていくことが、

蔓延しているいまの社会。

 

以前読んだもので、

ほんとはこわいやさしさ社会』(森真一)

という社会学の本がありますが、

 

内容は、

ざっと以下のようなことが書かれています。

※自身のレビューより

 

現代社会の「やさしさ」を重んじる風潮は、実はとても厳しくて、過酷。そこには行き過ぎた「思いやり」「気遣い」を求める暗黙のルールがあって、わたしたちの人間関係を窮屈にしたり、ときに「こわさ」すら感じさせる。空気を読めない人は「痛い人」になるし、「キャラ」がかぶるのはご法度だし、「上から目線」はとんでもない。だから対人恐怖症が増えたり、WEB上での誹謗中傷やいじめが蔓延するし、見て見ぬふりが増える。内集団(家族や仲間)と外集団(それ以外の他人)の距離は広がるばかり。その背景にあるのは、個人主義・楽しさ至上主義・成長欲求(能力開発)。何をやるのも「人それぞれ」だし、「人生は一度きり、だから楽しまなきゃ損」だし、生きている限りは「力をつけたい・伸ばしたい・成長すべき」と思っている・思いこまされていること。

 

この本と五木さんの主張は、

どこか通じています。

 

五木さんの言う、

「自分たちが生きていくうえでの確信のようなもの」が、

個人主義に帰結し、

 

ルネサンス時代の人間謳歌」が、

飽くなき成長欲求につながり、

 

「濡れた抒情」の排除が、

楽しさ至上主義を醸成してしまった。

 

五木さんはそのことに警鐘を鳴らしていて、

いまのこのご時世を、

「最悪の時代」とすら表現していました。

 

市場原理と自己責任という美しい幻想に飾られたきょうの世界は、ひと皮むけば人間の草刈り場にすぎない。私たちは最悪の時代を迎えようとしているのだ。資本主義という巨大な恐竜が、いまのたうちまわって断末魔のあがきをはじめようとしている。

 

そんな時代だからこそ、

覚悟を決めて、

たとえ時代に反するようなことであっても、

やらないといけないし、

 

マイナス思考から出発して、

<あれも、これも>受容していかないと、

人間は幸せになんてなれないぞ!

と締めくくっています。

 

先の『ほんとはこわいやさしさ社会』もそうでしたが、

結局、

何かひとつに偏るのではなく、

なんでもほどほどに、

バランスが大事ですよ!

というのが両著者の主張です。

 

これは、

本当にそのとおりでなんですが、

言うは易く行うは難しというやつで。

 

ただ、

なんとなく持っておいたほうがよいスタンスとしては、

仮に自分は普通だと思っていても、

実は世の中と比較して普通なだけであって、

その世の中がバランスを崩している可能性は

多分にあるわけです。

 

いつもそういう意識というか、

前提みたいなものを、

自分のなかに客観的にもっていることが

大事なんだろうなぁと思いました。

 

■まとめ:

・自殺、いじめ、残酷な事件…etc. 戦争はなくなったのに、生きづらい時代・大変な時代と感じるのは、命の重み・生きている実感が失われ、人間は偉大で人生は楽しくて世の中は平和が一番というプラス思考だけが独り歩きしているから。プラス思考も大事だけれど、いまこそもっと謙虚にネガティブに、人間なんてしょせんは大河の一滴、ちっぽけでとるにたりない存在で、人生は苦しみの連続、世の中はいざこざがあって当たり前というようなマイナス思考に立ち返る必要がある。そして、<あれか、これか>の二者択一ではなく、ほどほどに<あれも、これも>受容するような、バランス感覚が大事。

・考え方はわかるし共感もできるが、そうしたい・そうなりたいけど、そうできないからみんな苦しいわけで、具体的・実践的なプロセスが欠けているとこが残念だった。主旨は、どこかで一度は聞いたことのあるようなことなので、期待していたほどのインパクトは得られなかった。

・ラジオのトークや雑誌の記事を一冊の本にしたエッセイだけあって、いかにも原稿を寄せ集めた感じがあり、脈絡に欠けるというか、思ったことをグダグダ書き連ねている感が否めなかった。結局マイナス思考とバランスが大事ということはわかったが、途中で論旨がどこに向かおうとしているのかわからなくなった面も多々あった。

  

■カテゴリー:

エッセイ

 

■評価:

★★★☆☆

 

▽ペーパー本は、こちら

大河の一滴 (幻冬舎新書ゴールド)

大河の一滴 (幻冬舎新書ゴールド)

 

 

Kindle本は、こちら

大河の一滴

大河の一滴