下山の思想 ★★☆☆☆

五木寛之さん

下山の思想

を読み終えました。

 

評価は、星2つです。

 

先日、

同じ五木寛之さんの『大河の一滴』という著書を読みましたが、

 

内容としては、

だいたいこれと同じようなことが書いてあったのと、

 

体裁的にも、

思いついたことをとりあえず片っ端から書いている感があって、

決して論理的とはいえず、

考察の深堀にも欠けていて、

いまひとつパッとしない感じがありました。

 

著者自身、

【おわりに】で、

この自著を「雑文」と表現されていますが、

本当にそのとおり。

 

Amazonなどでは

「哲学・思想」のカテゴリーに分類されているので、

私も当初は

これにならってカテゴライズしようかと思ったのですが、

 

読んでみたら、

あまり理路整然としていないし、

決して学術的でもなんでもない、

ただの五木さんの「エッセイ」でしかない(笑)。

 

ただ言いたいことを、

筆のおもむくままに書き連ねただけじゃねーか!

と思ったので、

自分としては『大河の一滴』同様、

こちらも「エッセイ」としてカテゴライズしました。

 

ちなみに、

大河の一滴』が98年の刊行で(新装版は2009年)、

こちらの『下山の思想』は2011年。

 

両方とも、

本屋さんで目玉的に売られていた記憶があるのですが、

読んだあとの自分の感想としては、

彼のエッセイは、

名前負けしている感があります。

 

もう少し具体的に言うと、

小説家・放送作家としての功績で有名になりすぎて、

あとは何書いても売れちゃう的な。

 

出版社がそこに目をつけ、

エッセイも書かせて、

五木寛之」という名前だけで、

もう立派な宣伝になるわけで、

中身はオッサンの独り言でも全然OK。

 

ちょっと独創的なところがあれば、

根拠や考察が甘くても、

五木寛之」の名前で十分売れる。

 

──だいぶ酷評になってしまいましたが、

なんだかそんなニオイがプンプンしました。

 

とはいえ、

 

酷評しまくったからといって、

かわりに擁護するわけでもないのですが、

 

感覚でモノを言っているわりには、

(いや、だからこそなのかもしれませんが)

共感できる部分も結構あって、

決して全部が全部、

つまらないというわけではありません。

 

私は五木さんの良さは、

いろんなことをよく知っていて、

「雑文」であるにせよ、

うまくそれを入れ込んでくるところだと思います。

 

提供される側としては、

世話好きのオッサンに、

ちょっとした薀蓄を教わっているような、

親近感みたいなものを感じます。

 

彼は仏教に精通しているので、

法然親鸞にも詳しく、

 

たとえば、

いわゆる南都北嶺でおなじみの「顕密仏教」について、

次のように説明してくれます。

 

今の私たちは、

南無阿弥陀仏の念仏に帰依する浄土宗(あるいは浄土真宗)こそ、

鎌倉時代から一世を風靡し、

現在まで広く親しまれていると思いがちだけれど、

実はそうではない、

古くから比叡山高野山で教えられていた、

専門的で高尚な「顕密仏教」は依然として強い影響力を持っていて、

現在までその影響は残っている

 

また、

論語』のなかに出てくる

〈貧にして怨むなきは難し。富みて驕るなきは易し〉

という一句を取り上げ、

 

その意味を

 

アドバンテージを有する者が、謙虚にふるまうのは、それほど難しいことではない。逆に、貧する者がおだやかにそれに耐えることのほうが、はるかに難しい

 

と説明し、

以下のように自身のコメントを付記しています。

 

もてる者の驕らぬことを世間は多とする。しかし、それは思ったより楽にできるものなのだ。むしろ、逆境にあって世を呪わぬことのほうが、はるかに困難なことだ。孔子という人は、人心の機微に通じたところがるなあ、と、しみじみ思った

 

これには

へぇそんな言葉があるんだー

と思いましたし、

 

聖人君子とはいえ、

いつも頭でっかちなことばかり言っているわけではない、

ちゃんと人の心の機微に寄り添ったことを言っているんだよ、

──と五木さんから教わっている気もしました。

 

同様に、

 

養生に貯金なし、という。

同じく、記憶にも貯金はない。昔、学生のころに読んだ小説のことなど、いまはほとんどおぼえていない。貯金はあっという間に消えてしまうものなのだ。だから、養生も日々これに努めるしかないのである。昨日、これだけ運動したから今日はいいだろう、とはいかない。体も、頭も、日々ちゃんとガソリンを入れなければもたないのだ。

 

記憶もそうだ。思いだし、正確なディテールを語ったり書いたりすることで、わずかに残る部分がある。

 

と述べられているのも、

印象的でした。

 

彼は、

こういう名言や名句を引用し、

それを簡単にさばいて、

ちょっとそれに味付けして、

さっと私たちの前に出すのが上手だと思います。

 

ときに、

思いもよらぬ「へぇ」が生まれる。

 

逆に、

体系的に整理したり、

客観的に論理だてて説明するのはヘタクソ。

 

でも、

ご本人としても、

”データや理論が全てではない”と豪語し、

”感覚が大事だ”と主張しているので、

それでいいんだと思います。

 

読む側も、

彼に客観性や論理性などを求めてはいけないのかもしれない。

 

近所にいる、

ちょっと世話好きなオッサンに、

たまに話を聞くのもまた一興

 

…みたいなスタンスで、

彼のエッセイを読むのがちょうどいいのかも

と思いました。

 

▽内容:

どんなに深い絶望からも人は起ちあがらざるを得ない。すでに半世紀も前に、海も空も大地も農薬と核に汚染され、それでも草木は根づき私たちは生きてきた。しかし、と著者はここで問う。再生の目標はどこにあるのか。再び世界の経済大国をめざす道はない。敗戦から見事に登頂を果たした今こそ、実り多き「下山」を思い描くべきではないか、と。「下山」とは諦めの行動でなく新たな山頂に登る前のプロセスだ、という鮮烈な世界観が展望なき現在に光を当てる。成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す画期的思想。

 

本書の裏表紙にも書かれている、

上記の内容を噛み砕いて説明すると、

だいたい次のような感じになるかと思います。

 

・明治以来、日本は高みを目指して成長しつづけてきた。今もまだ、より一層の成長を求めてみんな躍起になっているけれど、登山にたとえて、戦後の高度成長期あたりまでを「登る」フェーズだとしたら、今はもう「下る」フェーズ。

 

・登山においては、「登る」ことだけがすべてではない。「下る」こともまた重要なシメの部分。「登る」ときはひたすらそれに熱中するけれど、「下る」ときはのびやかに、かつ細心の注意を払いながら、登ってきた過程や次なるチャレンジについて考えるとき。

 

・いまこの時代を「下山」のフェーズにあると考えれば、いまこそ鷹揚に、けれども冷静に・注意深く、来し方・行く末についてじっくり考える時代であり、積極的に打って出ていく時代ではない

 

・すでに少子化、経済成長の鈍化などすでに停滞感がみられ、震災や原発事故がそれに追い打ちをかけるように日本を突き落したけれど、そこから這い上がって、困難を打開し、さらなる高みを狙うという時代はもう終わったこれからは、既存の価値観を捨て、限られた資源・限られた成長のなかで、どうつつましく生きるかという方向に舵をきるべき。

 

「下山」の思想とは、そうした一種の諦めに近い、後ろ向きな姿勢で物事をとらえていく考え方。そもそもこの世に絶対とか真実なんていうものはほとんどないわけで、たとえ後ろ向きであっても、それが普通なんだと鷹揚に受け止め・受け入れるような覚悟をもつべき。

 

・「下山」の境地からこれまで登ってきた道を思うとき、それが仮に滅茶苦茶つらい道のりだったとしても、それをどうとらえるかは人それぞれの自由。過去はいかようにも評価できる。過去を振り返るのは現実から目を逸らしてダメだという否定的な意見があるけれど、ノスタルジックに、甘い郷愁を抱いて、過去を振り返るくらいの楽しみ方をしたっていいのではないか。そのくらい鷹揚な・ライトな気持ちで、今という時代を生きてもいいんじゃないか。

 

以上が、

五木さんの言う、

「下山」という思想の主旨かと思います。

 

彼は、

いま我々がいる場を、

山登りにたとえ、

「下山」という表現を使っていますが、

 

製品のライフサイクルでいうと、

 

1.導入期

2.成長期

3.成熟期

4.衰退期

 

この3→4のところに、

今の日本はいるんだ

と主張しています。

 

そうかとおもうと

 

いま、この国は、いや、世界は、登山ではなく下山の時代にはいったように思うのだ。

 

とおっしゃっていて、

一瞬、日本だけでなく、

「世界全体」がこのフェーズにあるかのようにも受け取られるのですが、

 

よくよく読んでみると、

その前に、

「世界の先進国」という言葉が出てきています。

 

要するに、

 

彼が言っている「世界」とは「世界の先進国」で、

それは

日本が今まで模倣してきた欧米列強を指しているわけで、

 

日本も含めて先進国はみな、

もはや「下山」している、

成熟期から衰退期にさしかかっているんだ、

 

──著者はおそらく、

そう言いたいんだと思います。

 

著者はまた、

人生のライフサイクルにたとえ、

 

「下山」は、さしずめ「林住期」から「遊行期」への時期だ

 

とも言っています。

 

古代インドには、

次の人生を四つに分ける思想があったそうです。

 

「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」

 

要は、

人生にもピークがあるように、

日本というこの国もまたピークがあって、

もうそれは通り越したんだ

と言っているわけです。

 

私は、

どうもこれが納得できない。

 

いや、

言っていることはわかるし、

五木さんの展開するニヒリズム思考にも、

全く賛成なんですが、

 

いま日本は、

下山のフェーズにあると感性で語るのは、

腑に落ちないのです。

 

ちょっとうまく言えないのですが、

 

何千年もあとに、

いまの日本は下山の時代にあるとは言い切れないわけで、

あくまでそれは、

今の、今だけの視点でしかないのでは?

と感性でいうなら尚更そう思うのです。

 

だから、

下山の時代にあるという一言で、

時代論として語られるのが、

どうも納得できませんでした。

 

ひとの人生は絶対にいつか終わるけれど、

国家・社会においてはいつ終わるかわからない。

時は永遠に流れ続けるわけで、

終わりは見えない。

 

そこに果たして、

ライフサイクルのような区分をあてはめちゃっていいの?

 

五木さんがすんなりとそのように言えるのは、

ご自身のいまいる場所(年齢)が、

すでに登山を終えて、

下山のフェーズにあるからであって、

 

それだから

なんだか説得力があるように思えるんじゃないか?

 

言い方をかえると、

五木さんが20代・30代で今このときを生きていたら、

こういうふうには書けなかったんじゃないか?

と思うわけです。

 

同じように、

登山を終えた中高年の方々は

これを読んで納得できると思うんですが、

若い人たちはどうだろう?と

少し懐疑的になってしまいます。

 

この本のなかで、

彼が「下山」のフェーズに位置づけているのは、

あくまで日本という社会全体なんですが、

ベースになっているのは自分の人生なんじゃないの?

ただの自分の人生論なんじゃないの?

というくらい、

ちょっと穿った目線で見てしまう。。。

 

とはいえ、

 

感性の赴くままに語られた時代論としては、

ちょっと無理があるなとは思いつつ、

日本の成長が鈍化しているのは事実だし、

これ以上高望みして一体どうするんだ?

という考えには、

いたってアグリーです。

 

常に前向きで先に進もうとする世の中の動きに、

ちょっと距離をおいて勘ぐってみたり、

常識にとらわれないようにすることが、

下山の時代においては必要で、

 

”当たり前”だと言われていることを

”当たり前”だと思ってはいけないし、

”前向き”だけではなく”後ろ向き”なことも必要、

ずっと”前向き”に生きようとするから、

ひずみが生まれるわけで、

ときには”後ろ向き”さも大事。

 

だいたい現代人は、

なんでも二分法で白黒つけようとするけれど、

白黒つけられなかったり、

どちらも併存することのほうが多いのが実態で、

そもそも二分法なんていうのは簡単で合理的だから、

便宜的に多用されているだけ、

もう少しグレーという曖昧さを広い心で受けとめるべき、

 

なんでも白黒つけて、

科学的に解明しようとするから、

(昔だったら病気ではない人が)病気とされ、

鬱病も増えて、

結果として医者は超激務になって、

必要なところに必要な医療がまわらなくなって…

という悪循環が生じている。

 

──これらが、

五木さんの主張する

下山において必要な戦術(あるいはキャッチアップすべきポイント)で、

 

これには、

本当にそうだなぁ

と共感しました。

 

特に、

下山のフェーズにおいて、

医療もこれ以上進歩させる必要はあるのか?

と懐疑的になっているところが印象的でした。

 

いまいちど、

下山の境地から人生を見直すとき、

人間にとって生老病死は当たり前。

人は絶対にいつか死ぬわけだから、

人間は生まれたときからもうすでに老いはじめている、

けれど科学は、

どんどん人間を「死」や「老」から遠ざけようとしている。

 

人間は百二十歳くらいまでは生きれるという。医学、栄養学、公衆衛生などの発達とともに、人は長く生きることが可能になってきた。

 

その結果、

高齢者が増える。

 

高齢者が増えるということは、

イコール病人が増えるということであり、

これだけ医療が発達しているにもかかわらず、

この国は病人だらけ。

 

病人が増えれば、

またそれを科学でなんとかしようとする。

 

これについて

五木さんが次のように述べているのが、

とても印象に残りました。

 

人間はいずれみずから世を去るときを選択しなければならないのではないか。それを自分で決め、周囲にも理解されて、おだやかに別れを告げる習慣が定着する時代を想像すると、なんとなく憂鬱な気もしないではない。

 

石飛幸三さんは、

「平穏死」という選択』という著書のなかで、

日本の医療界には延命至上主義という

旧態依然とした悪習がはびこっていて、

目の前に患者がいる限り、

それを何があっても死なせてはいけない考え方がある、

これが見直されない限り、

日本で穏やかに死ぬことは定着しない、

だからこそいまこそリビング・ウィルが大事ですよ、

と提唱しています。

 

日本は、

どんどん死ぬに死ねない国になっているわけですが、

 

五木さんの言うように、

いつか「みずから世を去るときを選択しなければならない」ときが、

日本にもやってくるのかもしれません。

(個人的には、もうそのようにして欲しいですが)

 

先日、

安楽死のできる国』という本も読みました。

 

これは、

オランダにおける安楽死合法化の軌跡と内容をまとめたものです。

 

著者の三井さんは、

 

日本はオランダとちがって、

個人の自由や権利がそこまで認められていないので、

安楽死云々の前にまず個人主義が定着しないと、

日本での安楽死はまず難しいだろう、 

 

──と述べられていましたが、

これだけ高齢化社会・病人大国になってくると、

何百年後は正直どうなっているかわかりません。

 

ひょっとしたら、

五木さんが想像するような時代が

現実に到来しているかもしれない。

 

本書では、

医療の発達はまた、

それまでグレーだったものが

クロとして病気が確定されてしまうという、

「病気と病人の拡大再生産」をもたらしたとも

指摘されています。

 

そして、

日本で自殺者は相変わらず増え続けているが、

その理由の一番は健康問題だという。

これだけ医療がめざましい進歩をとげて、

制度も充実しているのに、

どうして健康問題で自殺する人が増えているのか?

という疑問を呈し、

 

その答えは、

 

きっと社会そのものが、病気と病人を拡大再生産するシステムと化してきたのではないか

 

現代の医療そのものに、どこか大きな問題がひそんでいるのではないか

 

というふうに言っています。

 

ここはちょっと微妙で、

「どこか」ってどこだよ?!

ハッキリさせてよ!

と言いたくなります。

 

自分から疑問を投げかけておいたくせに、

オッサン、ちょっと答えが曖昧すぎるだろ?!

と思わずツッコミたくなりました。

 

このへんの考察がほんと中途半端。

 

風呂敷だけ広げて、

自分の言いたいことを適当に投げておいて、

あとはそれをどう包むか・どううまく持つかは、

読者のほうでどうぞ…みたいな。

 

まさに「雑文」。

 

私の勝手な想像ですが、

五木さんの「雑文」を整理すると、

ざっと以下のような仮説が組み立てられます。

 

医療の進歩

(しかし同時に)医療行為で体を蝕む機会も増える

病気になる人が増えた

不治の病と断定される人も増える

人生に絶望

病院に行っても治らない・副作用が強いのに治療という名目で医療行為を受ける

経済的・肉体的・精神的に追い詰められる

自殺者が増える

 

データが全てではないから、

自分は実感を大事にする!

というスタンスは理解したので、

 

じゃあその「実感」でもいいから、

答えを綺麗に用意しておけよ!

と批判したくなりました。

(もう批判してるけど…)

 

しかし五木さん、

この世を嘆いているというか、

本当に自殺者が多いことを嘆いているなぁと思います。

それくらい自殺者バナシが多い。

 

先の『大河の一滴』でもそうでしたが、

いまの日本は命が軽んじられていることを問題視していましたが、

本書でもまた然り。

 

物価のデフレおりも、命のデフレ、魂のデプレッションを憂うる時代にはいってきた

 

意地悪するつもりはありませんが、

ときには後ろ向きであることも大事だ

とおっしゃられる以上、

命をながらえることに全力を注いだのがこれまでだったら、

これからは下山のフェーズとして、

命の終わりを自分で決めるのもやむを得ない

とはとらえられないのかな?

──と不思議でもありました。

 

これは、

私の読み方が甘いだけかもしれないのですが…。

 

五木さんの文章は、

どうしても感性で書かれているところが大きいので、

理路整然としないところがあり、

ときに矛盾しているなと感じることも

随所であります。

 

それにいちいち突っかかるくらいなら、

それこそ最初から期待してはいけなくて、

 

次回からはもう、

そういうものだと思って読むことにしよう!

と思いました。

 

これぞまさに、

下山の境地?

 

■まとめ:

・書いてあることは『大河の一滴』など、他のエッセイとだいたい同じ。日本の社会のピークはもう過ぎた。いまは、ギアをシフトに入れ替えて、坂を下るとき。下山という諦めにも似た境地で、つつましく生きるべき。そのほうが軽やかに生きれる。

・科学や医学も然り。これ以上、高望みしてどうする?下山の境地から人生を見直すとき、人間にとって生老病死は当たり前、でも科学はそれらを遠ざけようとしている。それが逆にどんどん病気をつくりだし、みずから生を終わらせることを選択する人も増えている。いまいちど、下山の境地に立ち戻るべきではないのか。

・言っていることに共感できるところは多々あったが、どれも感性で書かれている部分が多く、理路整然としなかったり、ときに矛盾していると感じる部分もあった。決して体系的・論理的に書かれたものではないので、考察や論拠が甘すぎ!とツッコミたくなる箇所も。哲学や思想といった学術的な要素を求めてはならず、あくまでエッセイとして読むべき。

 

■カテゴリー:

エッセイ

 

■評価:

★★☆☆☆

 

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