「平穏死」という選択  ★★★★★

医療崩壊という言葉を最近よく耳にします。

 

それは社会保険のなかのひとつとしての、

医療保険(健康保険)制度の崩壊を指していることもあれば、

保険制度のみならず、

現在の日本の医療システム全体を指していることもあると思いますが、

 

とにかくいま、

日本の医療がヤバい!

という感は、素人の私でもなんとなく感じています。

 

以前からこの手の話には興味があったのですが、

法律とか制度的なことがどうも苦手だったのと、

まだ三十代のしがない一市井人にとっては、

将来の日本のことを言われても、どこかやっぱり他人事でしかなくて。

私みたいな人が、政治家には絶対になってはいけないと思います。笑

 

そうした医療全体をとらえる大枠の話は、

いずれまた何かの機会に読んでみたいと思っていますが、

今回、その医療のなかの一問題にフォーカスした本を読んでみました。

 

石飛幸三さん著、

「平穏死」という選択

です。

 

ここで取り上げているお話を一言でいうと、

終末医療の在り方について。

 

我々日本人が、老いて最期を迎えるとき、

いまどんな医療(介護)が施されていて、

そこにはどんな問題があって、

その根底にあるもの(原因)は何で、

今後どうしていくべきなのか?

ということを、

世田谷区の特別養護ホーム常勤医師でもある、

石飛幸三先生が世の中に問いかけています。

 

▽内容:

なぜ8割の人が安らかに死ねないのか。本人の意思を確認できないまま、老衰末期の高齢者に胃ろうなどの人工栄養が機械的に処置されている現実。医療の進歩と行き過ぎた延命至上主義が私たちから穏やかな死を奪う。このままでいいのだろうか?外科医から特養の常勤医へ転身した著者の「往生の哲学」が、いずれ死を迎える私たちすべてに生き方への深遠な問いを投げかける。

 

老後はまだ先の問題とはいえ、

三十路になって、それまでの不摂生がたたり、

体を壊してしまった私にとって、

それまで縁遠かった病院や医療というものが、

すっかり身近な存在になってしまいました。

 

この2,3年で使った医療費はウン十万にものぼり、

ドクターショッピング、膨大な薬、高慢な態度の医者を

これでもかというほど見てきました。

 

よくよく説明もせずに薬だけ投与する病院(医者)、

こんなに具合が悪い人っているのか?!と驚くばかりの患者の列。

これでは患者一人に割くことができる診療時間なんて限られているな、

医者が忙しくて対応がザツになるのも仕方ないな、

なんていうことも感じるようになりました。

 

幸いにして決定的に重症なものは何もなかったので、

死というものを切実に捉えたことはありませんが、

それでも弱った体を目の当たりにして、

いつか私も死ぬんだな、

ということをこれまで以上に間近に感じたものです。

 

そして、

死ぬときは苦しまずに死にたい、

こんな病院で荒っぽく扱われるくらいなら、

ぽっくり逝かせてほしい、

と密かに思ったりもしました。

 

私くらいの年齢でも、

 老後に対する漠然とした不安を抱えている方は多いと思いますが、

意識的にせよ、さほど意識しないにせよ、

 細かいことを知ってしまうと、もっと不安になるから、

だからあえて「漠然とした不安」でとどめている人も

結構多いのではないかと思います。 

 

(老後のことなんて)面倒くさいから、

積極的には知ろうとしない、まだ知らなくてもいいかな、

…といった塩梅で。

 

そういった方には、むしろ、

この本は読まない方が良いかもしれません。

そのくらいリアルな老後が描かれています。

 

怖いもの見たさでも、

多少は来たるべき自身の老後を

現実的に少しでも知っておいたほうが良い

と思っていらっしゃる方には、是非お勧めです。

 

今現在、ご両親などの介護にあたられている方も、

読んでみる価値はあると思います。

 

そのくらい、

超高齢社会ニッポンがかかえる

終末医療のリアルな現状が描かれています。

 

決して厳しい現実だけではありません。

介護の方や看護婦の方、

石飛先生に共感する医師の方のお手紙なども紹介されていて、

人と人とのつながりというか、

最期を看取るときのあたたかさすら伝わってきて、

何か心の奥底でじんわりくるような現実もこの本の中にはあります。

 

著者の石飛先生は、広島の呉服屋に産まれ、

慶應の医学部に進学し、その後、ドイツに留学して、

血管外科を極めた超エリート。

 

東京済生会中央病院の副医院長までのぼり詰め、

血管外科医としてもご活躍されながら、

病院内の不正事件に立ち会った結果、

人生は一転、地位も名誉も失って…

というドラマのようなご経歴をお持ちの方です。

 

この経験を通して、私は人間の弱さを痛切に感じました。順調にいっている時には、本当に大切なことは見えないことを知りました。

 本当に自分のことが見えるのは、成功体験ではなくむしろ逆境の中です。我々は苦しみを通して自分を知り、心の柔軟性を得るのです。不幸な体験を通して人に優しくなれるのです。生きる意味は誰かが教えてくれるものではない、山坂越えて生きることを通して自分でつかむものだと思います。

 芦花ホームで常勤の医師が病気で倒れて後任が見つからずに困っているという話を聞いたのは、そんな時でした。人間としてどう生きるか、医療で人を治すとはどういうことかということを深く考えなおすようになっていた私は、老いの終焉の現場に行けば、人生という物語の最終章が見えるかもしれない、高齢者に対する延命医療の限界がわかるかもしれないと思い、名乗りをあげたのです。

 

もともと、急性期病院の外科医として、

高齢者の方の治療にもあたっていた彼ですが、

そのときはとにかく目の前の患者の病気を治すことだけに一心不乱で、

その人の今後の一生についてまでは考えてもいなかったと振り返っています。

 

そして、いまこそ、

「診て」「看る」医者が必要だと唱えています。

 

そもそもこの日本では、

8割の人が自宅で死にたいと願いながら病院で死んでいる

という実態があります。

 

その根底にあるのは、

「死なせてはいけない」「方法があるのなら、処置しなければならない」

という延命至上主義です。

 

この延命至上主義が、

医療を施す側も受ける側も、

もはや悪しき文化としてはびこっているのが、

今の日本だということです。

 

石飛先生によると、

そもそも老衰は病気ではなく、自然の摂理としています。

 

老衰末期の高齢者は、がんなどの病気をかかえていても

ほとんどの場合、苦痛を感じることなく亡くなるそうです。

 

なので、

通常の病気と同じような処置をすることは、

逆に痛みや苦痛を生じさせ、

間違った医療の向き合い方だとしています。

 

さらに彼は、

日本でこのように病気と老衰が区別されていない理由を

下記のように説明しています。

 「こうしなければならない」「最低これだけは入れなければならない」という思い込みが終末期の医療にはいろいろ見られます。

 そこには、そもそも医学が死をタブー視してきたという背景があるように思います。

 この世に生まれて、生かし続ける、医学はそこまでの学問でした。死ぬことは医療の敗北であり、それは宗教の領域だとして避けていました。(中略)

 しかし高齢化の世の中になり、医学の進歩により、生き続けさせる方法が考えられると、老衰という自然の摂理と、それをなんとかしなければならないとする延命措置との間で衝突が起きているのです。

 

また、彼は、

こうした延命至上主義を、

自然死というあり方を知らない医療従事者の一方的な押し付けであり、独りよがりなヒロイズム

とまで言い切っています。

 

本来患者本人のためだるべき医療技術が、「あるならしなければならない」という本人の駅とはかけ離れた考えで活用されている。これが、老衰の現場で起きていることの実態です。

 

老化の果て、老衰という状態は、病気ではありません。テープを逆回しにするように、命の状態を巻き戻すことはできないのです。老衰の人に対処する医療として、胃ろうを造って延命させるというのは、自然への冒涜といってもいいのではないでしょうか。

 

こうした延命至上主義を普遍化させてしまっているのは、

ひとつには法整備がきちんとなされていないからのようです。

もうひとつには医療システムの問題。

 

まず法の側面

 

助ける方法があるのにそれを行わないことは、

介護する家族からすると、

保護責任者遺棄致死罪に問われるリスクがあり、

医者からすると、

仮に家族や患者からの同意があっても、

承諾殺人罪」という不作為殺人罪に問われるリスクがあるのが、

いまの司法の実情だそうです。

 

第5章で、

「平穏死」に賛成する黒田弁護士の考察が紹介されていますが、

そのなかの一節が非常に興味深いものでした。

 

尊厳死安楽死の違法・適法をめぐって、これらを抜本的に解決するためには、裁判所などの司法機関が言うとおり、司法ではなく立法・行政に委ねるべき問題であるという一面があるのは認めるが)

 司法が扱う問題が事後処理的であるからと言って、本来、司法は常に受身のままでよいのかという思いもあります。

 裁判所には使い忘れて久しい「違憲立法審査権」があります。裁判所は、立法された法律を前提にその解釈により具体的事案を解決するための具体的な規範を定立するのが通常の役割ですが、裁判所に「違憲立法審査権」が認められているということは、立法された法律そのものを否定する機能をも有しているわけです。法律を否定するということは法律と別の規範を作ることを意味しますので、法に具体的な定めがないものであっても、具体的な規範の定立を行って、社会に問題提起する姿勢があってもよいのではないかと思います。司法が必要以上に消極的であることは決して国民にとって幸福なことではなりません。

 

違憲立法審査権」という言葉をよく知りませんでしたし、

そういう使い方もあるんだなというのは驚きでした。

 

裁判所のお偉いさん方、もっと働けよ!

民間企業でそんな受け身な仕事ばかりやっていたら、文句いわれるよ!

と思いました。笑

 

ただ、「違憲立法審査権」うんぬんというより、

そもそもはじめからこんな複雑な手続きをとらなければならないのがおかしな話で、

どんな死に方をするかなんて個人の自由なんだから、

もっと個人を尊重すべきだと私は思います。

 

池田清彦が言うとおり、

日本の国家が大きな政府になりすぎていて、

これなんかはまさに「国家による余計なおせっかい」そのものだと思います。

 

▽参考:池田清彦

他人と深く関わらずに生きるには ★★★★★ - pole_poleのブログ

 

欧米なんかは、国によっては、

老衰の高齢者に不要な医療を施すことが罪になるそうで、

よっぽど自然でよいと思います。

 

次に医療システムの側面

 

介護保険が発足して、医療と介護が分断されてから、

いちばん高齢者のことをわかっている老人ホームの常勤医は、

介護施設で医療行為をしても点数にならない(=ビジネスにならない)

という実態があるそうです。

 

これなどは、介護保険制度の負の遺産でしょう。

 

こういう日本の医療制度のおかしなところは、

もっとたくさんあるのだと思います。

 

このままでは国民皆保険制度が崩壊すると言われて久しい今日この頃、

最近でもこんなニュースが流れていたりしますが、

 

4月から変わる「お薬」事情 飲み残し500億円、うがい薬61億円にメス:株/FX・投資と経済がよくわかるMONEYzine

 

これだって行政の取り組みとしては「遅い!」としか言いようがない。

 

そもそも個人のカルテや投薬情報を統一化すべきで、

必要以上に薬を出して(売らせて)はいけないわけで、

そういう対策を先にしないで、

「お薬まだ残ってますよね~?」なんていちいち聞いたって、

そんなのは小手先の解決策でしかないと思います。

バカだなー。。。

 

いずれにしても、

石飛先生のいう「平穏死」には、私も大賛成です。

 

医師であれば一度は読むというハリソン内科教科書に、

こんな言葉があるそうです。

 

「食べさせないから死ぬのではない、死ぬのだから食べないのだ」

 

食べさせないと餓死して死ぬのではない。もうまのなく死ぬから食べないのです。

もう締めくくりなのです。「食べる必要がない」のです。認知症で言葉や意思として「食べたくない」と伝えることはできなくても、体が食べたくないと反応しているのです。それなのに私たちは、「食べさせなければ死んでしまう」と一方的に思い込み、何とか食べさせようとして誤嚥させ、肺炎を引き起こしていたのです。

 

十年くらい前に、

父方の祖父母が立て続けに亡くなったのですが、

祖母は認知症で施設に入れられ、

最期は病院で管だらけになって息を引き取りました。

 

祖父はそれから二年後に、後を追うように亡くなりましたが、

認知症などは引き起こしていなかったので)施設には入れず、

「ばあちゃんのように病院で管だらけになるもの可哀想だから」

ということで、

体が悪くなっても基本的には在宅介護をしていました。

 

東京から駆けつけたときには、

すでにほとんど意識はなく、

私たち孫が部屋で看病しながら静かに亡くなりました。

 

いま思うと、あれが本来の死に方だったのかもしれません。

息が苦しそうで可哀想だなと思いましたが、

誰も病院に入院させようとはしませんでした。

 

食事もまったくとれませんでしたが、

石飛先生(ハリソン先生?)の言葉を借りれば、

食べないから死ぬのではなく、死ぬから食べなかったのでしょう。

 

祖母のように(いくら意識がないとはいえ)管でつながれて、

病院のベッドで死ぬようなことがなくてよかったと思います。

 

もうこれは最期だとわかったら、

(苦しむのを取り除くだけで)無駄な医療はすべきではないのです。

 

この高齢化社会、はっきり言えば、ただその生物学的病態だけを診てそれを変えようとすることよりも、老衰を受容して生活の質を支援することのほうが本人のためになると言えましょう。

 

病院は、先のある人を治すところ。本当は、もうどうにもならない人に来られても困るのです。本音をいえば、病院だって「なんでこんな年寄りをわざわざ送ってきたのか。今さら何をしろというのか」と言いたいのです。

 

 その昔、日本でも、

社会を循環させるシステムとして、

「姥捨て山」という悲しい風習があったとされていますが、

 

石飛先生は最後に、

今の日本は形をかえた姥捨てが存在すると指摘しています。

それは老いること自体を否定する「棄老」と定義し、断罪しています。

 

昔の「姥捨て」は、老いること自体は認めつつも、

その対象者を社会からはじき出していた仕組みであるのに対し、

いまの「姥捨て」は、老いること自体を認めずに、

その対象者を社会からはじき出さないよう共存する仕組みです。

 

共存なんて綺麗言で、

もはや共存できないから死ぬのです。

静かに死なせてあげたいし、私もそうしたいです。

 

祖父母の死を実際にこの目でみて、

石飛先生のこの本を読んで、心からそう思いました。

 

■まとめ:

・超高齢社会ニッポンがかかえる終末医療のリアルな現状が描かれているので、将来の老後を「漠然とした」ままで据え置きにしたい人には勧められない。

我々日本人が、老いて最期を迎えるとき、どんな医療(介護)が施されていて、そこにはどんな問題があって、その根底にあるもの(原因)は何で、今後どうしていくべきなのか?ということを、世の中に説いている。

・いまの日本は行き過ぎた延命至上主義がはびこっていて、老衰は病気ではないのにもかかわらず、不要な医療が垂れ流されている。医療崩壊と言われて久しいのに、このようなムダな医療に対する行政司法の対応が遅れている。

 

■カテゴリ:

哲学・思想

 

■評価:

★★★★★

 

▽ペーパー本は、こちら

「平穏死」という選択 (幻冬舎ルネッサンス新書 い-5-1)

「平穏死」という選択 (幻冬舎ルネッサンス新書 い-5-1)

 

 

▽Kindel本は、こちら

「平穏死」という選択 (幻冬舎ルネッサンス新書)