他人と深く関わらずに生きるには  ★★★★★

池田清彦・著

他人と深く関わらずに生きるには

のブックレビュー:後半(引用メモ)です。

 

あまりに衝撃的な(面白い)内容だったので、

いつにも増して、

ついついメモが多くなりました。(笑)

 

▽感想は、こちら(前半)

他人と深く関わらずに生きるには ★★★★★ - pole_poleのブログ

 

 

後半では、

印象に残った内容を、

今回は「引用」の形で残しておこうと思います。

(そのほうが、著者の人となりが自然にでるので…)

 

Ⅰ 他人と深く関わらずに生きたい

1.濃厚な付き合いはなるべくしない

聞かれもしないのに意見をしない。自分の流儀を押しつけない。要するに、相手をコントロールしない、ということが他人と付き合う上で一番大事なことだ。他人をコントロールしたいのは権力欲の顕れである。

 

なぜ、友とつき合うのか。身も蓋もない言い方をすれば、結局それは自分が楽しくなるためだろう。友とつき合って苦しくなったら損ではないか。友とはなるべく淡々とつき合おう。そういうつき合い方を望まない人とは、最初からつき合わないほうがよいのだ。

 

2.女(男)とどうつき合うか

(男女の交わりが淡々としているわけにはいかないかもしれないが)原則的には、青い手をコントロールしないこと、相手の心の中にずかずかと入っていかないこと、はとても大事である。結婚相手は自分と最も親しい友人であり、時に幻想を共有する同志なのだ。

 

ほとんどの動物では、セックスは単なる自然現象であって、恋愛といった複雑な心的な機構とは無縁であろう。人間でもそういう人がいるが、互いに合意の上であれば、愛があろうがなかろうが別に何の問題もない。愛のないセックスはいけません、とおためごかしを言う人もいるけれど、そう思う人は自分だけそうすればよいのであって、他人のセックスのやり方に干渉するのは余計なお世話である。

 

3.車もこないのに赤信号で待っている人はバカである

自動車の影すら見えないのに赤信号の前でじっと待っている人がいる。交通ルールの原理教の鏡である。私はこういう人を見ると、国家にたましいを抜かれちゃったんじゃないかと思い、気の毒になってくる。車が来なければ、信号などあってもなくても同じなのだから、信号を無視するのは当たり前なのだ。イヌだってネコだってそうしている。動物的機能という点では、イヌ・ネコよりアホである。

 

青信号で歩道を渡っている集団登校の列に自動車が突っ込んで、沢山の子供が亡くなるいたましい事故が時々起きる。一人一人の子供が自分で判断して歩道を渡ればこういう事故は起きない。誰かの判断を盲信したり、国家が決めたルールをただ守ってさえすれば、安穏に生きられると思っているとしたら、何十年か後にやってくるであろう乱世を生き延びられないであろう。

 

交通ルールは何のためにあるのか。もちろん事故を減らして、死んだりケガをしたりする人を減らすためだ。しかし、国家というシステムはひとたび法律が制定されると、何のために法律があるのかを忘れて、法律を守らせること自体を人々に強制する装置になってしまう。たとえば、シートベルトの着用を義務づける交通ルールがある。シートベルトを着用しないで損害をこうむるのはシートベルトを着けていない本人なのだから、これを法律で強制するのはバカげている。究極のパターなリズム(おせっかい主義)である。国家の決めることは何でも正しく、国民は無知な子供みたいなものだから、国家の言うことをハイハイと言って聞いていればよい、という考えである。

 

4.病院にはなるべく行かない

現代人はなぜこんなに病院が好きなのか。それは子供の時から、健康は正常でかけねなしに善であり、病気は異常で悪であると教えられるからである。どんなささいな異常でも直ちに治して正常にならないと気がすまない。かなりの人は、こういった健康原理教の信者になっているのではないかと私は思う。(中略)七十歳や八十歳になって、具合の悪い所は全くなく、二十歳や三十歳の時と同じように元気な人がいたとしたら、その人は健康かもしれないが異常であろう。

 

病院に行っても医者任せにはしないこと。痛みや苦しみを緩和してもらうことを最優先して、その後のことはゆっくり考えればよい。患者はお客様で医者はサービス業なのだ、ということを頭の隅に入れておこう。

 

5.心を込めないで働く

あなたが現時点で百億円のお金を持っているとしたら、労働は全くしなくても生きていけるし、そのことをうしろめたく感じ理由は全くない、と私は思う。小浜逸郎は『人はなぜ働かなくてはならないのか』と題する本の中で、「労働とは、一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認されるための、必須条件なのである」と書いているが、よくこういうウソを抜け抜けとつくなぁ、と私は思う。労働を、食うために、時間とエネルギーを費やすこと、と定義すれば、全く労働をしなくとも、それだけで社会的人格としてのアイデンティティを承認されない、ということは全然ない。

 

上司も客もみなロボットだと思って、心を込めずに働くと、ずいぶんと気が楽になると私は思う。そしてさらに重要なことは、そういう自分がカッコイイと思いこむことである。心を込めて働いている同僚を心の底でバカにする余裕があるともっとよい。但し、顔だけはニッコリ笑って、口には決して出してはいけないよ。余暇は自分の好きなことをして遊べばよい。労働は食べるためと割り切れば、心は結構軽くなると思う。

 

6.ボランティアはしない方がカッコいい

大分前に小中学校の先生になる資格(教員免許)を取る条件に、ボランティア(介護実習)を義務づける法案が国会を通って、一九九八年度に入学した学生から適用されているはずだ。義務のボランティアは、実はボランティアではなく強制労働である。この法案を議員立法した張本人は田中真紀子である。私はこの時から、田中真紀ををバカで卑怯な奴だと思い続けてきた。

 

お礼を言われることを期待して行う行為は、それであなたが気落ちがよくなるのだから、すでに無償ではない。ただで気持ち良くなろうというのは、よく考えればずるい。だから、落としたカギを教えてやるのは、相手がお礼を言おうが言うまいが、そのことに心を動かされずに、日常茶飯事のごとく行うときだけ、無償の行為なのである。これが真のボランティアであろう。

しかし、世間で言ういわゆるボランティアは普通は自分が楽しくなるためにするのだから実は真のボランティアではないのだ。

 

どんな行為であれ、人に迷惑をかけない限り、行動自体に絶対的価値の差はない。同じ行動が、状況と時代背景により、仕事になったり、遊びになったり、ボランティアになったりするだけだ。とりわけ現代では、世間というえたいの知れない怪物が、どんな行動がボランティアであるかを決め、ボランティアをすることは良いことだ、という宣伝に余念がない。世間というのは、あなたをコントロールしようとする最もたちの悪い、見えない権力であるから、くれぐれもだまされないようにね。落としたカギを拾ってあげるといった無意識のボランティアは別として、意識してボランティアをする時には、自分が本当にしたいかどうか、よくよく考えてから決めようね。やりたくないボランティアはやらないほうが上品なのだ。そんな行為をボランティアと称するにせよ、行為そのものが絶対的に善であることはないのだから、ボランティアをやらないことに、うしろめたさを感じる必要は全くない。

 

世間の目を気にして、やりたくもないボランティアをやっている人は下品でありバカである。世間が何と言おうと、世間とはアホの代名詞だと思えばよいのだ。イヤイヤやるくらいならボランティアはしない方がむしろ上品なのだから、自分の矜持を保つためにも、やりたくもないボランティアはしなくてよいのだ。

 

イヤイヤやるボランティアは、実はされる方にとっても迷惑だということも知ってほしい。たとえば、ボランティアで老人介護に来て、ずさんででたらめな介護をしたとしよう。ボランティアする方は、ボランティアする人はエライという世間の風潮の中で、精神的に優位にあり、やってあげている、と思いがちだ。世間の風潮がそうだと、介護される方も文句を言えないような精神状態に追い込まれ易い。苦痛を与えられて、無理矢理有難うと言わされたらかなわない。お金を払ってやってもらった方がよほど快適であろう。

イヤイヤやるボランティアほどではないにせよ、本人が好きでやっているボランティアも実は大同小異で似たような所があるのではないか、と私は思う。たとえば、ボランティアで老人ホームに、劇や楽器演奏をやりに行く人たちがいる。中には楽しみにしている老人もいるかもしれないが、イヤイヤ駆り出されている老人もいるに違いない。それでも義理で拍手のひとつもせねばなるまい。無理矢理ヘタな劇を見させられ、更にはヘタな演奏まで聞かされて、今日は疲れたなぁ、もう勘弁してほしい、とほとほとイヤになっている老人たち。一方で、みなさん、喜んで頂いて嬉しいデース、来年また来マース、と有頂天になってはしゃいでいるボランティアたち。これじゃ、どっちがボランティアかわからねえ。ボランティアする方は楽しいかもしれないが、される方は迷惑ということもあるのだ。自分の楽しみのために人に迷惑をかけてはいけないのである。

 

7.他人を当てにしないで生きる

これはものすごく重要なことなんだけれど、だれもあなたのことを無償で大切にする義務はないし、誰かに無償で大切にされる権利も全くないのだ。もちろん、学校に行けば学校はあなたのお勉強を様々な方法で支援してくれるだろうし、病院に行けば、もしあなたが病気ならば様々な方法で病気を治すべく努力してくれるだろう。しかし、それはあなたという特定の個人が大切だからそうしているわけでは決してなく、システムとしてそうなっているからにすぎない。金を払ってしてもらうサービス以上のことを他人にしてもらう権利があると考えてはいけないのである。

 

(相手の頼みを聞いてやったのにもかかわらず、自分の頼みを断られると誰でもムカつくが)ムカつくのが好きな人は勝手にすればいい訳だけど、ムカつきたくない人は、どうすればよいのか。最初から無理をしなければならない頼みは、どんな親友の頼みでも聞かなければよいのである。簡単にできる頼みごとは聞くにしても、それ以外の頼みは自分がその頼みを引き受けて楽しい場合以外は断ればよい。相手の頼みを聞くのに無理をしているから、恩を売った気分になるのだろう。無理をしなければ、恩を売った気分にならないわけだから、仇で返された気分にもならないと思う。(中略)他人と気持ちよく長くつき合うには、恩を売ったり買ったりしない方がよいのである。

 

8.おせっかいはなるべく焼かない

他人におせっかいを焼くのは権力欲の顕れに決まっている。頼まれたり、相談されたりしないのに、他人にああしろ、こうしろ、とおせっかいを焼くのはやめようね。他人が何をしようと他人の勝手なのだ。あなたには関係ないのである。(中略)最悪なのは、あなたの行為は世間が許さないよ、といった正義の仮面をかぶったものいいで相手におせっかいを焼くことである。

たとえば、新しく引っ越してきた人に、「この町内会のしきたりはこうなっているんだから、さしでがましいとは思いますが、かくかくしかじかのようにした方がいいですよ」と言う。本当にさしでがましいと思うなら、黙ってろ。町内会など知ったことか。バカヤロウ。(中略)

あるいは、「あなたのやり方では世間に通用しないから、こうした方がいいんじゃないだろうか、と老婆心ながら忠告したい」なんてふざけたことを言う奴がいる。世間に通用するかどうかはやってみなきゃわかんないんだから、余計なお世話である。それに責任はオレが取るんだから、あんたには関係ない。(中略)

世間という物語を背負って、他人におせっかいを焼くのはやめようね。それはあんたがバカだって証明以外の何ものでもないんだから。

 

9.退屈こそ人生最大の楽しみである

10.自力で生きて野垂れ死のう

 

Ⅱ 他人と深く関わらずに生きるためのシステム

1.究極の不況対策

消費財を買ったお金を、すべて例外なく必要経費として認めればよい。(中略)そのかわり消費税を20~30%ぐらいにすればよい。とりあえず、三年ぐらいの時限立法にすれば、消費不況はあっという間に終わるに違いない。

 

 

金持ちになるべく気持ちよくお金を使って頂くことが景気回復の道なのである。そのためには、お金を使えば使うほど、所得税は安くなりますよ、と甘言のひとつも必要なのだ。お金持ちがお金を使うのは、社会のためのノブレス・オブリージュ(高貴な人の義務)なのである。あなたは今貧乏で、金持ちクタバレと思っているかもしれないが、自給自足生活か狩猟採集民にならない限り、金持ちがクタバル前にアンタが先にクタバルのは確実なのだから、金持ちをおだてて、お金を使わせる政策に、賛成しようね。

 

2.国家は道具である

世の中には様々な人がいる。金持ちもいれば貧乏人もいる。才能のある人もいれば無能な人もいる。国家はそういうすべての人にとって、なるべく平等に役に立つ道具であってほしい。

まず使い方が簡単なこと。読み・書き・そろばんができる程の人ならば、誰でも理解できる道具でなければならない。現行の法律は沢山ありすぎるし、複雑すぎて、専門家以外は理解できない。法律は必要最小限でよいし、しかもなるべく簡単なものでなければダメである。弁護士をやとって法律の抜け道を考えられる人には、法律は複雑なものでもよいだろう。法律の専門家は、法律が誰にでもわかる簡単なものになったら、自分たちの存在理由がなくなって困るだろう。官僚は自分たちが法律の運用権を握っていることによって、権力を維持している面が強いので、法律は一般国民にはなるべく判らない、難しいものの方が有難いに違いない。

現行の国家は、こうした人たちの特権を守るために、法律を無闇に難しくしているのではないか、と私は思う。しかし、法律というのは素直に考えれば、法律関係者の利益を守るためにあるわけではないのはもちろんだ。誰でも理解できる法律であれば、一般国民にとってはとても便利だ。

 

国家が少子化をコントロールして子供の数を増やそうと考えたとする。まずやることは、子供を沢山作った人に便利あるいは有利になるような様々な法律を作ることだ。(中略)しかし、こういうやり方こそ、唾棄すべきパターなリズムの典型なのだ。子供を作ろうが作るまいが、それは人々の勝手なのだから、国家(一部の人々)が余計なことを考える必要はないのである。国家は道具なのだから、主人(国民)をさしおいて、余計な法律を作って、余計なことをしてはいけないのである。

 

国家は、人々の自由と平等を守るために、必要最小限のことをすればよいのであって、それ以外のことをする必要はないのだ。もっと強く言えば、それ以上のことをするのは罪悪なのである。

 

(裁判所などが犯人を裁くときには)情状酌量をしたり刑の執行を猶予してはいけない。個々人の考えや犯罪を犯した背景は様々であり、そのうちのどれはより許されて、どれはより許されないか、という判断は人によりけりであろう。国家(裁判所)は道具なのだから、そういう判断をする権利は金輪際ないのである。情状酌量の余地がなければ、裁判はとっても簡単である。殺人は無期懲役、レイプは懲役6年、放火は懲役7年とか決めておけば、それですむ。

 

国家が国民をコントロールしようとするのは罪悪である。法律は様々な考えをもつ人や様々な生活様式をもつ人に等しく平等でなければならない。そのためには、国家が余計な価値判断をしてはいけないのである。国家は様々な価値基準をもつ個人にとって等しく使い勝手のよい道具にならなければならないのだ。法律はそのためにこそあるのだ。他のすべてを忘れても、これは忘れてはいけないほど重要なことだと私は思う。

 

3.構造改革とは何か

役所補助金(税金)の分配権限と認許可権を与えている仇は、構造改革など、所詮、絵に描いた餅にすぎないのだ。構造改革をする目的は、税金をなるべく使わないで、国民の自由と生命を守れる道具(国や自治体)をつくることにあるのだから。

 

構造改革が進まない最大の理由は、政府や官僚や自治体が、現場の組織や民間企業や一般国民をコントロールしたいという欲望(権力欲)を捨てることができないからだ。

 

たとえば、大学改革という名のバカ騒ぎがここ何年も続いている。(中略)本当は大学はすべて民営化して、いかなる大学にも補助金はビタ一文やらないかわりに、コントロールも一切しないのが一番の構造改革なのだ。かなりの大学はつぶれるだろうが、それはそれで仕方がないのだ。

 

国家を使い勝手のよい道具にするためには、最終的には、国民のために必要最小限のことだけをするできるだけ小さな政府、でき得る限りの民営化、補助金の全廃、役所の許認可権のでき得る限りの撤廃などをめざすべきだと思う。究極的には、どんな商売をするにも資格のいらない社会をめざすめきなのである。

 

4.文部科学省は必要ない

義務教育を行うのに、国家があれこれおせっかいを焼く必要はない。

 

まず、誰でも自由に義務教育学校を開設してよいことにする。これには何の資格もいかなる役所の認可もいらない。

(中略)どんな教育をするかは完全に学校の自由にさせる。どんな先生を雇うかも学校の裁量であり、給料をどれだけ払うかも学校の自由である。先生になるにはどんな資格もいらない。どの学校に行かせるかは完全に親の自由である。国はただ、一定限度以上の生徒を集めた学校に、自動的に税金を払えばよいのだから、教育委員会文部科学省も不必要なのである。

 

(上記のようにすれば)親のニーズに合わせようと学校は多様化して、親は自分の子供に一番相応しいと思う学校に通わせることができるようになるだろう。様々な価値観や様々な生き方に呼応して、様々な義務教育学校が出現するのは、とても好ましい。日の丸や君が代が好きな親は、毎日、日の丸を仰いで君が代を歌わせる学校に子供を通わせればよいし、体育の授業なんて不必要だと思っている親は、体育のない学校に子供を通わせればよい。国家が教育内容を統制するのはそもそも罪悪なのである。国家は国民の道具なのだから、国民に対してああせい、こうせいと指示するのは、よけいなお世話である。よけいなお世話のために、文部科学省教育委員会を税金で運営しようというのはムダの極みであろう。

 

5.働きたい人には職を

 

6.原則平等と結果平等

原則平等というのは、市場で競争するための条件が同じということであって、努力したものは報われるのは当然なのだ。規制緩和とは、市場で競争する条件に差をつける制度をなるべく撤廃しろということに他ならない。(中略)

くだらない規制が全部撤廃されて、スタート時の平等も含め、原則平等が保証されていれば、結果平等について考慮する必要は基本的にはない。

 

人はだれでも市場の自由競争から離脱する権利はある。しかし、その責任は自分でとらなければならないのであって、それで食えないからといって、誰かに助けを求めるのは筋違いであろう。しかし、働きたいのに職も賃仕事も与えられないとしたら、それは間違っている。働く意欲のある人に、職を世話するのは、社会の義務であると私は思う。

 

所得税は間違っていると思う。大金持ちに対する税を極大にしなければならないのは、世代を継続する相続税と贈与税であって、所得税ではない。公正な競争で得た所得に対して税をかけるのは基本的に間違っている。金をいくら稼いでも使わなければ、本人は何も物質的には楽しいことはないわけだから、その意味でも所得に税をかけるのは間違っている。(中略)税は消費に対してこそかけるべきなのである。

 

7.自己決定と情報公開

8.個人情報の保護と差別

 

以上です。

 

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他人と深く関わらずに生きるには (新潮文庫)

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