安楽死のできる国  ★★★★★

三井美奈さん著

安楽死のできる国

を読み終えました。

 

評価は、星5つです。

 

この本は、

世界で初めて安楽死を合法化させたオランダについて、

その経緯や内容・影響について書かれていますが、

生きるって?死ぬって?

自由って?

個人(主義)って?

といったいろいろな概念についても、

非常に考えさせられる一冊でした。

 

▽内容:

大麻・売春・同性結婚と同じく、安楽死が認められる国オランダ。わずか三十年で実現された世界初の合法安楽死は、回復の見込みのない患者にとって、いまや当然かつ正当な権利となった。しかし、末期患者の尊厳を守り、苦痛から解放するその選択肢は、一方で人々に「間引き」「姥捨て」「自殺」という、古くて新しい生死の線引きについて問いかける―。「最期の自由」をめぐる、最先端の現実とは。

 

つい最近、

アメリカ人の29歳女性が、

今月1日(11/1)に安楽死するとWEB上で宣言したことが、

アメリカはもとより日本でも話題になりました。

 

末期患者が米女性 来月1日「安楽死」公表 | 日テレNEWS24

 

彼女の名前は、

ブリタニー・メイナードさん。

 

彼女は悪性の脳腫瘍におかされ、

このまま何もしないと余命半年、

とはいえ医師から告げられている治療法は、

副作用が深刻で日常生活にも支障をきたしかねず、

治療したからといって病気が治るわけではないとのこと。

 

緩和ケアも視野にいれましたが、

そのうちモルヒネでもおさえられないような激痛に苦しみ、

人格や認識力を失って死ぬという終末を迎えるのがつらくて、

安楽死」を選択することに至ったそうです。

 

彼女はその選択をYouTubeで公開し、

それがきっかけで全米でいま、

安楽死の是非が大論争になっているのだとか。

 

米29歳女性をめぐる「安楽死」大論争:「尊厳をもって生きる」こと | 新潮社フォーサイト

 

日付を決めて安楽死をおこなうことについて、

彼女がこのように言っているのが印象的でした。

 

「それは私の選択なのです。私のこの選択に反対している人は、私が"自分で死ぬ日を決めている"という大きな誤解をしています。そうではありません。私は"生きる日"を決めたいのです」

 

ここでいう”生きる日”とは、

自分らしく生きる日、

要は、

”自分が納得できる生き方をする期間”

ということだと思います。

 

彼女を批判するわけではありませんが、

これは一見、

映画のような綺麗なセリフのように聞こえるものの、

 

裏を返すと、

自分らしく生きれない、

自分が納得できる生き方ができない人生は、

もう死んでいるようなもので、

生きるに値しないということ。

 

これに対し、

人生ってそんな短絡的でいいんだっけ?

生命をあまりにも軽視していないか?

という反対意見が出るのもわからなくもなく、

 

これに

宗教的あるいは政治的な考えがのっかって、

大論争に発展したというのも想像がつきます。

 

実際、

彼女は宣告通り11/1に自ら命を断っており、

カトリックの総本山・ローマのバチカンでは、

批判の声があがっているようです。

 

バチカン、米女性の安楽死批判 「自殺は良くない」:朝日新聞デジタル

 

私自身、

安楽死には賛成なのですが、

世の中には様々な考え方があって、

それこそ生命にかかわる大問題なわけですから、

慎重に事を進めるのには異論ありません。

 

詳細は後述しますが、

いずれにせよ、

このニュースがきっかけとなり、

この本を手に取った次第です。

 

本書は、 

世界に先駆け、

いちはやく国として安楽死を合法化させた

オランダについて説明したものです。

 

今から約10年前(2003年)に書かれたもので、

内容としてはちょっと古いのですが、

三井美奈さんという

読売新聞の記者の方が書いています。

 

実は最近、

世界を脅威にさらしている「エボラ」の記事で、

彼女のお名前を見かけました。

 

エボラ感染看護師が快方に、日本の薬投与と報道 : 国際 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

 

この本を書いたとき、

彼女はベルギーブリュッセル支局に

特派員として駐在していたようですが、

 

どうやら今は、

パリに駐在されているみたいですね。

 

本書を読んで印象的だったのは、

 

・客観的な内容と私見がきっちり分かれていて、

非常にわかりやすかったこと

 

・その客観的内容も、

地道な取材や文献調査をふまえ、

順をおって(整然として)説明されていたこと

 

・文体も歯切れがよく、

アテンションのとりかた・書き方など、

「読者を惹きつけるための記事」に熟練されている感が

 満ち満ちていたこと

 

──などが挙げられます。

 

さて、

ここからは本書の内容にアプローチしていきます。

 

そもそも、

安楽死といっても、

いろんなパターンがあるようで、

 

医者が致死薬を注射して患者を死なせる「積極的安楽死」、

患者自身が処方された致死薬を服用する「自殺幇助」、

疼痛緩和のために生命短縮を伴う鎮痛剤を投与する「間接的安楽死」、

完治を目的としない(諦める)「延命治療の停止」、

 

──大きくは、この4つに分けられるそうです。

 

日本では、

 

意図的に絶命させる「積極的安楽死」や「自殺幇助」を

安楽死といい、

 

「間接的安楽死」や「延命治療の停止」によって、

「安らかな死」を与える・求めるものを

尊厳死というようです。

 

上記のように言い方をかえているのは、

 

安楽死〉が、

PUSH型の死で、

どこか短絡的で非倫理的なイメージを与えるのに対し、

 

尊厳死〉は、

PULL型の死で、

根源的には生を求めつつも、

やむを得ず死に至るという点で、

倫理的に仕方ないというイメージを呈し、

安楽死〉とは一線を画そうとする意図があるようです。

 

とはいえ、

著者も指摘しているとおり、

どちらの死でも・どのパターンでも、

その動機になっているのは個人の「死の権利」

すなわち「自由に死ぬ権利」であることに変わりはなく、

 

日本における、

尊厳死〉という呼称は、

 

語感のよい言葉を使うことで「危険視」されることを避けたとも言える。

 

要するに、

安楽死〉にせよ〈尊厳死〉にせよ、

どちらもおおもとは、

自由に「安らかな死」を求める〈安楽死〉なんだけれど、

安楽死〉と〈尊厳死〉を分けることで、

「死ぬ権利」の突破口を少しでも切り開こうとした(している)のが

日本だということです。

 

また、

興味深かったのですが、

 

実際、尊厳死という言葉はあいまいで、定義は国によって異なる

 

そうです。

 

たしかに、

先の米国女性の記事でも書かれていましたが、

 

ブリタニーさんの選択した死に方は、

医師に致死薬を求め、

それを服用するというもので、

 

これは

先のパターンでいうところの「自殺幇助」にあたり、

日本では〈安楽死〉に該当します。

 

しかしアメリカでは、

これは〈尊厳死〉とみなされています。

 

米国で議論になっている「尊厳死(death with dignity)」は、「医師による自殺幇助」を意味します。しかし、日本で言われている尊厳死(必要以上の延命行為なしで死を迎えること)は、米国では「自然死」を意味しています。この米国での「自然死」については、リビングウィル(生前の意思表示)に基づき、「患者の人権」として、現在ほとんどの州において法律で許容されています。目下、米国で合法化の是非が議論になっている「尊厳死」は、日本で言われている「安楽死」を意味します。

 

彼女の自発的な死は、

(アメリカ国内においては)

容認レベルとしては比較的ハードルの低い「尊厳死」として、

その是非が問われているわけですが、

 

これが日本だったら、

短絡的な「安楽死」の範疇で語られるわけで、

そしたらもっと総バッシングを喰らうのかもしれない。

 

以前、

石飛幸三さんというお医者さんが書かれた

「平穏死」というススメという本を読みましたが、

 

そこには、

日本には延命至上主義という悪しき文化があって、

無駄な延命措置ばかり行われている実態が書かれていました。

 

この延命拒否については、

いまでこそ日本でも議論されるようになって、

リビング・ウィルの認知度も高まってきていると思いますが、

 

すでに欧米では、

無駄な延命をしないという処置は、

先のアメリカのように「自然死」とみなされていたり、

同様にオランダでも「治療の停止」に過ぎないそうで、

いちいち然るべき機関に報告する義務もないそうです。

 

延命措置の停止については、

いずれ日本でも、

欧米のようなフェーズに至るのかもしれませんが、

 

著者の三井さんいわく、

 

日本の場合、

(延命停止も含め)安楽死うんぬんというよりも、

その前に解決すべき問題があって、

それは一言でいうと、

「個人の尊重」だと言っていました。

 

彼女は、

 

日本では、

こと生死のかかわる医療行為に関しては、

患者本人よりも「医師まかせ」「家族まかせ」になることが多く、

ときとして本人不在となることが多々ある点を挙げ、

 

日本では、安楽死の是非論より、患者の自己決定権をどう確立すべきかを探るほうが先決

 

と論じています。

 

まずは、

本人の意思を尊重し、

本人の責任のもと、

治療という医療行為から変えていかなければいけないのですが、

日本にはそういったベースがまだ出来上がっていない。

 

対して、

オランダでは、

そのベースがすでにできあがっている。

 

本書では、

安楽死の普及に必要不可欠な4つの社会的要件

が紹介されていますが、

 

その要件とは、

 

①だれもが公平に高度な治療が受けられる医療・福祉制度②腐敗がなく信頼性の高い医療③個人主義の徹底④教育の普及

 

だそうです。

 

先述の「個人の尊重」は、

この③にあたります。

 

①の医療・福祉制度については、

オランダでは高齢者の医療保険が整っており、

医療費や介護費用など、

社会保障で手厚くカバーされているので、

高齢者の自立を可能にしているのだとか。

 

実際、

オランダにはお年寄りの一人暮らし、

あるいは一世代暮らしが多く、

年をとっても子や孫に頼らずに、

安心して生活できる基盤があるんだとか。

 

日本も介護保険を導入しましたが、

オランダほど医療福祉にまわせる資金がない。

 

日本でも高齢者の一人暮らしは増えていますが、

相変わらず老後は不安だし、

高齢者の医療保障や介護保険は、

もはや破綻しつつあります。

 

そうしたなかで、

安楽死が合法化されてしまうと、

安易に死を選択するお年寄りが増えてしまう。

 

これでは安楽死は合法化されないし、

普及しない。

 

②の信頼性の高い医療については、

オランダでは日本とちがって、

「かかりつけ医」の仕組みが導入されています。

 

安楽死は受けるほうの負担も当然ありますが、

施す側(=医者)の負担ももちろんあって、

彼らに精神的な不安があるとやりづらい。

 

それには法的な支えや、

安楽死そのものに対するノウハウが必要となってきますが、

 

仮にそういったものがあったとしても、

最終的には患者との信頼関係がないと、

不安は拭えないわけで、

 

それを支えるのが

「かかりつけ医」のシステムだといいます。

 

かかりつけ医は患者の性格を熟知し、心身両面で診断できるから、安楽死という難しい決断を下すことができる

 

医者と患者の信頼が築けないような社会では、

いくら安楽死を制度化したところで、

気に入らなかったら金で解決するようなビジネスが横行し、

結局、水面下で不法な安楽死が売り買いされる状況が続くだけ。

 

日本でも、

この危険性は往々にしてあるわけです。

 

そして、

日本で安楽死の制度化が難しいのは、

何より③の個人主義だと著者は言っています。

 

これは何かというと、

 

本人の気持ちを最優先し、

 

安楽死という、自分の生死に関する最重要の問題に、自分自身が向き合って、主体的決断を下せるか、否か

 

ということであり、

 

患者や本人の意思を最優先するベースがないことには、

安楽死の制度ができたにしても、

医者や家族によって安易に制度が利用される恐れがあるわけで、

 

まずは

患者本人の「自己決定権」=「個人主義」を認める社会に変容しなければ、

安楽死を合法化させることは難しいでしょう

というのが彼女の主張でした。

 

最近の日本をみていると、

「個人の自由だろ!」的な発言が多いので、

個人主義の社会に向かいつつあるのかな

と思ったりもするのですが、

 

日本の場合は、

個人の権利だけ主張して、

責任は自分でとらないような、

負の個人主義が横行しているだけなのかもしれません。

 

自分の権利を認めてもらうなら、

他人の権利も認めなければいけないわけですが、

なんか日本って、

「個人の自由」という名目で、

自分だけ認めてもらおうとしすぎる気がする。

 

社会の風潮や枠組みが中途半端だから、

いい加減な個人主義が生じるんだろうし、

本来、人なんてみんな勝手でワガママだから、

その仕組みに乗っかってしまう。 

 

──それが日本だと思います。

 

でも、

オランダは違う。

 

オランダでは、多くの先進国でタブーとされていることが、おおっぴらに認められている。自由を尊ぶ気風は、欧州の中でも特に強い。大人も子供を早くから個人として尊重する。

 

興味深かったのは、

オランダでは、

不良になるのが難しいそうです。

 

たいていのことは認められるので、

そもそも「不良」のレッテルを貼られないし、

逆に自立を迫られるんだとか。

 

著者曰く、

こうしたオランダの社会の枠組み=緩い「社会管理術」こそ、

安楽死を可能にさせたといいます。

 

オランダでは、

売春も麻薬も同性愛もOKですが、

根底にあるのは、

 

オランダは単なる「やり放題」の国ではない。(中略)売春も麻薬も、需要がある以上、闇取引は消えない。頭から禁止したら、マフィアの資金源となり、人身売買やハードドラッグの売買など、さらに深刻な犯罪を招く。それならいっそ、一定範囲で認める代わりに、ガラス張りにして管理しよう、という考え方だ

 

と述べています。

 

彼女は、

続けて以下のように言っています。

 

安楽死も、こうしたオランダ独自の思想に基づく。水面下でこっそり行われる安楽死に目をつぶれば、医師や家族がそれぞれの思惑から患者の要求なしに殺してしまう危険性がある。密室の殺人を防ぐため、「患者本人の自発的要望」に基づく安楽死に限り、一定のルールをつけて認めよう。その代り、届け出制度を敷いて、第三者の目が届くようにしよう、というのが安楽死法の趣旨だ。

 

モノにもよりますが、

日本はどちらかというと

この逆の社会管理術をしている気がします。

 

改正貸金業法しかり、

麻薬取締法しかり。

 

個人を尊重(信用)できないから、

ガチガチに制限して、

なんでも型にはめて評価しようとする。

 

それは決して間違ってはいないけれど、

型にはまらなかったときの落伍(リスク)は、

日本のほうが大きい。

 

不良もそうだし、

闇金もそう、

いまをときめく脱法ドラッグなんて、

まさにその典型的な例だと思います。

 

巨悪を取り締まるために、個人の自由の範囲なら、小さな悪徳は認める

 

──これがオランダ人の誇る社会管理術であり、

安楽死も、

このような思想の延長線上で合法化されたというわけです。

 

著者は、

あるオランダ人介護士の言葉を紹介していましたが、

 

この言葉に、

安楽死を支えるオランダ人の「思想」が

凝縮されているかと思います。

 

「大麻とか売春を認めるオランダについて、君たち外国人は変な国だと思っているだろう。この国では、どうしてもなくならない社会悪は、他人に迷惑をかけない範囲で認めながら、透明な制度を作って管理するのが流儀なんだ。安楽死も同じ。現実を直視して、個人の選択の幅を広げるオランダに、誇りを持っているよ」

 

この緩い社会管理術は、

中世以来のオランダの歴史が築き上げたもので、

本書では以下の二点を

特徴として挙げていました。

 

1.オランダでは早くから商業都市として自治権が認められ、市民文化が栄えていたこと

 

2.宗教の自由とくにカルバン主義の影響

 

1.では、

「金もうけ」するための自由を求め、

各州が団結して専制君主に対抗、

独自の権利(自治権)を獲得して

施政者とは一線を画し、

それが市民文化の隆盛を促したそうです。

 

そのため、

古来から個人の自由度が高く、

宗教の自由も認められていたため、

新教徒や異教徒がオランダには数多く亡命してきたとか。

 

16世紀にヨーロッパを席巻した、

2.のカルバン主義も、

まさにオランダはうってつけの土地であり、

 

彼らの説く「予定説」(堂々と金儲けを推奨)は、

オランダ人に透明度を尊ぶ気風を醸成し、

 

福音主義」は、

死に対する意識が(教会ではなく)個々人に委ねられるきっかけをつくった

と述べています。

 

教会で許しを請えば救われるカトリックと異なり、新教では個人が聖書の言葉を咀嚼しなければならない。その分、信徒は自己の内面に向き合わねばならない。一人で、死の恐怖に向き合わねばならない。

 

ちなみに、

おなじキリスト教であっても、

新教国のほうがカトリック国よりも、

自殺者が圧倒的に多いんだそうです。

 

オランダは新教国のひとつですが、

驚くべきことに、

オランダには自殺志願者の支援団体さえあるといいます。

 

なんとそこでは、

 

薬剤師や医師などの下院十六人が、自殺志願者の相談に応じ、鎮痛剤や睡眠薬の入手の仕方や「確実な自殺方法」を冊子にして希望者に配っている

 

──らしい(驚)!

 

協会方針として、十代の子どもの自殺には応じない

 

という条件はあるものの、

 

実質的には、

自殺に荷担する組織。

 

安楽死を拒否された高齢者などがよく連絡してくるそうで、

自殺を積極的に推進するわけではないが、

 

どうせ死ぬなら、列車への飛び込み自殺など悲惨なやり方より、もっとましな方法をとるべき

 

として、

安全な自殺をサポートしているとか。

 

自殺は公序良俗に反するけれど、

これぞまさに先の

 

巨悪を取り締まるために、個人の自由の範囲なら、小さな悪徳は認める

 

というオランダ独特の考え方を表す言葉だなぁ

と思いました。

 

もちろん、

オランダ国内にだって反対する人たちはいます。

 

患者を「安楽死」させるのではなく、

「緩和ケア」によって最期まで看取るべきとする

ホスピス医の言葉。

 

「現代人は死や死に至るプロセスを、人生の一部として認めようとしない。思うようにならない不完全な人生は、生きるに値しないと短絡的に考える人が、オランダには、なんと多いことか。我々医師は、患者が死を受容できるようにしなくてはならないのですがね」

 

人生は苦痛や試練もひっくるめて人に与えられたもの。我々は、「生かされて生きる」のだから、与えられた最後の瞬間まで生きねばならない。

 

しかしながら、

数のうえでは、

「自分で最後の選択をする自由」を認める安楽死のほうを

支持する人のほうが多いようです。

 

本書は、

 

オランダには三種のパスポートがある。

一つは、海外旅行の出入国時に使う国籍証明のパスポート。残る二つは、「安楽死パスポート」と「生命のパスポート」。いずれも死への旅立ちに使う。

 

という書き出しで始まるのですが、

 

安楽死パスポート」とは、

昏睡時に安楽死させてくださいよ

という意思表示をするもの。

 

逆に、
「生命のパスポート」とは、

昏睡時に安楽死はイヤですよ

という意思表示をするもの。

 

ともに一種の携帯用リビング・ウィルで、

 

両方ともハガキ大で、NGOが発行。取得者は、外出中に事故にあって意識不明になった時に備え、自動車免許や財布と一緒に持ち歩く。

 

発行部数は、

安楽死パスポート」のほうが圧倒的に多く、

「生命のパスポート」の100倍。

 

この「安楽死パスポート」を使う人を含め、

 

オランダでは、

 

年間死者数の二-三%に当たる二千-三千人が安楽死している

 

のだそうです。

 

この数字には、

いわゆる尊厳死(延命停止や疼痛緩和の大量の鎮痛剤投下による縮命)は含まれず、

 

医師が致死薬を患者に注射するか、あるいは患者に致死薬を飲ませて絶命させた「明らか殺人」の場合の合計

 

なんだとか。

 

約10年前のデータなので、

いまはもっと増えているかもしれませんが、

これらの数字を通して言えるのは、

オランダでいかに安楽死が支持されているか

ということです。

 

安楽死パスポート」の内容を聞くと、

日本の「臓器提供意思表示カード」を思い浮かべますが、

日本と違うのは、

臓器を提供するか否かではなく、

安楽死するか否かを示すカードであるということ。

 

これを日本より進んでいる(先進的)と受け止めるか、

逆に退廃的と受け止めるかは人それぞれですが、

 

私個人としては前者で、

いつか日本も、

遅かれ早かれオランダのようなパスポートを持つ日が来るのではないか

と思っています。

(単なる願望でもある)

 

もともと、

安楽死の是非については、

日本より欧米のほうが先行していて、

 

一九三〇年代、英米両国に初めて安楽死協会が結成された

 

そうです。

 

1930年代といえば、日本は昭和初期。

子供がわんさか生まれるなか、

農村不況で皆がひもじい時代。

 

「死ぬ」ことに精一杯どころか、

「生きる」ことに精一杯で、

安楽死」が議論されることなんて、

まずなかったでしょう。

 

ところが欧米では、

すでに「安楽死」が討議されていた。

 

──これには正直、驚きました。

 

なかでもオランダは、

たった30年で合法化にこぎつけ、

2001年に世界で初めて安楽死法を成立させています。

(発効は、2002年)

 

キリスト教の世界において、

そもそも自殺は大きな罪であり、

 

中世以来、自殺者には教会での葬儀が許されないばかりか、遺体はは棒を突き通して街中を引きずり回され、頭を割られ、財産は没収された。欧州では、自殺者に対する凶悪殺人犯並みの「見せしめ刑」が、十九世紀まで生きていた。施政者は、納税や労働の担い手が勝手に自殺することを忌み嫌った。声明は共同体に帰属し、個人が勝手に処分できないものだった

 

とされています。

 

それが時を経て、

 

二十世紀には、植物状態のまま患者を生かし続けるほど医学が進歩し、医師と言う他人が生命の終わるときを決めるようになった

 

──これが当たり前になった。


こうした経緯を踏まえて著者は、

 

オランダの安楽死運動を、「苦痛から逃れる」ことだけが目的と考えるのは誤り

 

で、

 

神や共同体、高度医療に支配されてきた人生の終着点を取り戻す運動

 

といった側面もあると指摘しています。

 

要は、

いままで「生」も「死」も、

神や共同体、医療にゆだねられていたけれど、

個人というものが尊重されるようになって、

それらから解放されるとともに、

「生命の自決権」を主張する動きが出てきた

というわけです。

 

安楽死とは、

個々人の「生命の自決権」を行使して、

安らかに・人間らしく人生を終わらせる死に方です。

 

とはいえ、

キリスト教が浸透する欧米において、

自ら命を断つことは神を冒涜する行為であり、

社会的タブーとされていたわけで、

それをオランダでは、

どう克服していったのかが非常に気になります。

 

その疑問に答えるべく、

話は第二章(オランダ安楽死の歩み)に続きます。

 

ここでは、

 

・1971年にオランダで初めて安楽死合法化運動の発端となる事件が起こり(ポストマ事件)、それが世論を巻き込んで市民運動に発展したこと、

 

・73年には自発的安楽死協会が発足し、

国民の支持を得てオランダの安楽死運動の中心的存在に成長していったこと、

 

・同時に医師会も、

終末期の安楽死容認に動き始めたこと、

 

・そして政界でも中道左派の政党が誕生し(民主66)、

キリスト教的価値観を掲げる保守勢力に対して、

個人の権利・安楽死合法化を主導していったこと

 

──などが説明されています。

 

この民主66とキリスト教系の政党は、

安楽死をめぐって対立していましたが、

政治的に連立政権が成立したことで、

安楽死についても民主66に押される形で、

検討が進んでいったそうです。

 

そして、

82年に起きた事件とその判決によって、

安楽死容認の道が大きく拓かれたとしています。

 

このとき医師会でも、

「無益な延命治療の自粛」が打ち出され、

終末期に限らず、

「患者の自決権」に則って、

安楽死の正当化をガイドラインに定めたそうです。


国民・世論・医学界・法曹界安楽死の是非に沸くなか、

政治も動かざるを得ず、

国会でも安楽死について

討議がなされるようになっていくわけです。


著者はここで、

日本とオランダの違いについて、

簡単に論じています。

 

日本の国会では、安楽死尊厳死が論議されることは、ほとんどない。政治家にとっては、死生観を表明することで批判されるリスクこそあれ、組織票には結びつかない課題だけに、論議対象になりにくいのだろう。だが、オランダでは、安楽死問題が七〇-八〇年代、国会論議を支配した。どの政党も、何らかの法的枠組みが必要という認識では一致していた。

 

いまでこそ、

麻生さんが高齢者医療で「さっさと死ねるように」

発言したことが取り沙汰されていますが、

 

著者の指摘するとおり、

日本では国会レベルで安楽死が討議されるのを

私はまだ見たことがありません。

(やっているのかもしれないけれど)

 

あっても、

一部の議員が尊厳死レベルでの法案提出を試みるくらいで。

 

対してオランダでは、

 

民間レベル(安楽死パスポートの発行)

医学界・法曹界レベル(実際の安楽死事件)

世論レベル

国会レベル(合法化)

 

というように安楽死が普及・議論され、

安楽死が社会に定着していったのが大筋のようです。

 

民間と医学会・法曹界が先に動いて

社会を動かしたと言っても過言ではなく、

これに世論や政治が乗じて、

法制化が進んでいった

 

実際、

90年代には、

「遺体埋葬法」を改定することで、

 

安楽死は刑法犯罪だが、要件を満たしていれば、「不可抗力」によって違法性が阻却され、検察が起訴しない制度が法律で裏付けられた

 

と述べられています。

 

遺体埋葬法とは、

 

元々、人が病院以外の場所で、「変死」した場合、医師が死亡証明を出し、自治体の検視官が異常なしと認めた上で埋葬許可が下りる手続きを定める内容

 

──だそうで、

 

一定の要件下で安楽死をおこなった場合に、

医師は検視官に届け出をしたり、

50の質問に答える報告書を提出するなど、

細かい手順が定められ、

それらを踏めば刑法で起訴されることはない

というわけです。

 

要は、

安楽死は依然として刑法犯罪とされていたけれども、

この法改正によって、

一定の要件下では罪にはならないという点で、

また一歩、

安楽死が容認に向かって前進したということになります。

 

その後、

また安楽死事件が続いたり、

政界でもキリスト教系の政党が政権に入らなかったりで、

ついに2001年に、

安楽死法案が国会に提出されます。

 

今回は、

刑法を改定し、

正面から安楽死を合法化するというものです。

 

この世界初の安楽死法において、

以下の6つの要件がある場合に限って、

オランダでは安楽死が容認されることになったといいます。

 

①患者の安楽死要請は自発的で熟慮されていた
②患者の苦痛は耐えがたく治癒の見込みがない
③医師は患者の病状や見込みについて十分に情報を与えた
④医師と患者が共に、ほかの妥当な解決策がないという結論に達した
⑤医師は少なくとも一人の別の医師と相談し、その医師が患者と面談して要件を満たしているという意見を示した
⑥医師は十分な医療上の配慮を行って患者を絶命させた

 

ここで、
注目すべき点がいくつかあります。

 

・「耐えがたく治癒の見込みがない」苦痛には、

「肉体的苦痛」だけでなく「精神的苦痛」も含まれた

 

16歳以上の未成年にも、

安楽死の自決権が与えられた

 

・刑法改定(=安楽死合法化)にあたって、

本来、政治や民間と一定の距離を置く司法(検察)が、

「便宜主義」に走って社会的風潮に歩み寄った

 

・93年の遺体埋葬法の改定では、

阻却されていたとはいえ、

依然として安楽死は刑法に抵触し、

医師は法的手続きに則って一応送検されていたけれども、

今回の合法化によって、

刑法に抵触しないことになった。

 

背景には、

水面下での非合法的・危険な安楽死の軽減

が目的としてあった

 

・6つの要件さえ満たしていれば、

痴呆が進んで意思表示ができない場合でも、

事前に希望を示しておけば安楽死が成立する

リビング・ウィル(生前意思)が尊重された


著者は、

オランダの安楽死法が、

上記の点において、

「画期的だった」と表現していました。

 

ここで、

五点目について補足しておくと、

 

どうやら、

従来の安楽死に対する法的措置では、

刑法に抵触する以上、

医者側の精神的負担はどうしても払拭できず、

かりに正規の手続きを踏んだとしても、

 

送検されてクロだったら…?

訴えられたらどうしよう…?

──みたいなところは多分にあって、

 

安楽死させても届け出なかったり、

申告しない前提で、

不慣れな安楽死を断行するということがあったようで、

 

オランダは「透明な制度」を作ることで

これらを回避しようとしたというわけです。

 

こうして成立したオランダの安楽死法は、

至るところに影響を及ぼしつつあると、

著者は指摘しています。

 

その一つが、

まず対象となる「人」(あるいは「層」)で、

子供や高齢者・障害者・赤ちゃんなどを挙げています。

 

もう一つは、

「国」

 

まず、

「人」について言うと、

 

先述のとおり、

2002年に発効した安楽死法では、

16歳以上の未成年に安楽死の自決権が与えられていますが、

 

当初の法案では12歳以上だったようで、

 

「親の気持ちを考えて」「子供には重すぎる決定だ」など法案に反対する投書が二万通以上国会に寄せられた結果、政府は法案を修正。十二歳以上十六歳未満の子供については、保護者の同意がある場合に限って安楽死できることになった

 

とあります。

 

しかし著者はこれに対し、

次のように述べています。

 

生まれた時、すでに安楽死容認の社会ができていた世代が増えれば、子供の安楽死権は現実のものとなるに違いない。

 

同様に、

高齢者や痴呆・障害者についても、

現在は安楽死を認める国民的コンセンサスには至っていない

と説明しながらも、

 

それでも、一度突破口が開かれれば、十年先、二十年先には、「患者の自己決定」の美名の下、痴呆老人の安楽死がひんぱんに行われることは否定できない

 

と指摘しています。

 

新生児(赤ちゃん)についても然りで、

 

安楽死は「患者本人の自発的要求」が絶対条件だ。この論理は本来、自分で死の要求ができない新生児には適用できないはずだ

 

と前置きしつつ、

 

だがオランダ人たちは、「新生児にも安楽死は可能」という答えを出そうとしている

 

と言っています。

 

たとえば、

この世に生を受けても、

生まれながらにして重度の障害を負っている赤ちゃん。

 

あるいは、

生まれる前の出生前診断で、

「耐えがたい絶望的な障害」があることがわかってしまった胎児。

 

彼らのように、

「意味ある人生」「人間的尊厳のある人生」を送ることができない場合においては、

医師や保護者の合意のもと、

安楽死させることができる方向にオランダは向かっているのだとか。

 

ちなみに、

何をもって「耐えがたい絶望的な障害」と見なすか

については、

 

政府は、ダウン症HIV感染、筋ジストロフィーなど、新生児が一定期間以上生存可能な場合は対象外と明言している

 

と説明しつつも、

 

(下手に法律で明文化することによって)

「『耐え難い絶望的な障害』の解釈は人によって違う。法が一人歩きして、障害を持つことが、(安楽死の要件になる)『耐え難い苦痛』であるという概念が、社会に広がる危険性がある」

 

と警告する声を紹介しています。

 

印象的だったのは、

障害を持つ子供を授かり、

安楽死させたお母さんのこの一言。

 

(重度障害をもって生まれてくる)子どもは、五十年前なら生後すぐ死んでいた。医療技術の進歩で、こうした自然淘汰がなくなり、重度障害を持つ子供も生き永らえることができるようになった。だから、私たちは問題に直面するようになった

 

私はこれを読んだとき、

ふと、

 

”そうか、

現代の私たちというのは、

そもそも生きていることが実は不自然なのかも”

 

と思ってしまいました。

 

本当は、

いつどこで死んでいてもおかしくなかったんだけど、

医療という人間のつくった技術で、

実は生き永らえているだけ。

 

だから同時に、

 

”生きていることが不自然なら、

死ぬことも不自然であってもいいのでは?”

 

という単純な論理が頭に浮かびました。

 

実際、

「平穏死」という選択』にも書かれていましたが、

死ににくい世の中になっているわけで、

いまの日本の高齢者には、

不自然に生かされている人たちがなんと多いことか。

 

人為的に生き永らえてしまった以上、

人為的に終わらせるのもまた、

ひとつの選択肢としては、

有りなんじゃないかと思います。

 

作家の五木寛之さんも、

著書『下山の思想』のなかで、

以下のようなことを言っていました。

 

──昔は人生50年と言われていたけれど、

いまはめちゃくちゃ寿命が伸びている、

でも本来、

人間の身体は50年くらいが耐用期限で、

50歳過ぎての長生きは相当無理があるんじゃないのか、

そもそも長寿がめでたいというのは、

それが稀有な存在だったからであり、

今の日本のように超高齢化社会で、

これからもっと百歳以上の老人が増えるのを想像すると、

目出たくなんか全然なくて、

むしろ恐ろしい──

 

人間はいずれみずから世を去るときを選択しなければならないのではないか。それを自分で決め、周囲にも理解されて、おだやかに別れを告げる習慣が定着する時代を想像すると、なんとなく憂鬱な気もしないではない。

 

自分はこれを憂鬱とは感じないのですが、

 

彼が指摘しているのは、

まさに「死の自己決定権」=安楽死のことであり、

医療技術の発達したいま、

死ぬに死ねない老人が増えてしまって、

安楽死常態化する時代がやってくるかもしれない

──ということだと思います。

 

話を元に戻しますが、

 

社会的弱者のように、

「意味ある人生」が送れない人たちは、

安楽死を選ぶ権利がある

というオランダの行く末に

著者は疑問をなげかけます。

 

「意味ある人生」とは一体何なのか?

誰にとって「意味ある人生」なのか?

選ぶ権利とはいうけれど、

一体誰がそれを決めるのか?

(本人ではなく)親や医者じゃないのか?

それってもう、

「自己決定権」の範疇を超えちゃってないか?

 

…みたいな感じです。

 

「意味ある人生」については、

 

外部とのコミュニケーションをとる能力の有無や医療への依存度、苦痛の度合い、寿命などから総合的に判断

 

して定義されているそうですが、

 

彼女はこれについて、

次のように問題提起しています。

 

他者とコミュニケーションができず、考えることも感情を表すこともできず、はかなく消える命は、他人に消されても仕方のない「意味のない命」なのだろうか。こう問われれば、簡単にそうだと言えない。私たちは、重度障害者が成長し、成人し、社会に参加している例をいくらでも見ている。どこまでが「意味のない命」なのか、神ならぬ人間が決めることは、果たして許されるのか。

 

これには、

なるほど確かにそうだなー

と思いました。

 

本書では、

 

「現実に目をそむけず、妥当な解決策を探る」オランダ式管理方法

 

を、

 

・「透明性」が高く合理的・現実的

・個人を最優先に尊重

 

一定の評価を下しながらも、

 

安楽死の自己決定権のはらむ危険性、

すなわち、

「情緒的で性急な結論」「単なるわがまま」にも見えるような

安楽死がとりおこなわれることで、

「自殺」との境界線がグレーになったり、

 

社会的弱者の安楽死が容認されてしまうことで、

彼らの生存自体が脅かされると同時に、

安楽死における「自己決定権」の絶対条件が、

本人の範疇を超え他者に渡ってしまうこと

 

──などを問題視しています。

 

彼女はそれを裏付けるように、

社会的弱者の安楽死が容認されてしまう危険性について、

いくつもの声を取り上げています。

 

・オランダ紙:

「痴呆患者に生きる価値はないと考える国民の国。高齢者が周囲に迷惑をかけることができなくなる国。(こんな国を想像すると)恐ろしい光景だ」

 

・心身に重度障害のある妹をもつオランダ患者協会のカウンセラー:

安楽死が容認されると、社会的弱者の障害者や高齢者を『生きなくてもいい命』と見なす考え方が広がるような気がするの。それは恐ろしいことよ」

 

私は、

自殺自体、

反対ではありませんので、

安楽死と自殺の境界線がグレーになることには、

なんら(倫理的な)危機感を抱いてはいません。

 

ただ、

著者の言うように、

社会的弱者の安楽死が容認される副作用は

懸念すべき点ではあるかと思います。

 

私の考えとしては、

本人の意思以外では、

どんな条件でも安楽死を認めるべきではない

と思います。

 

自己判断ができない赤ちゃんにしかり、

障害者にしかり、

判断ができないからといって、

他人がそれを代弁するというのは

やっぱりおかしい。

 

仮に障害をもって生まれても、

本人がもう生きたくないと意思表示したり、

本人が壮絶な苦痛を感じていると

(科学的に)証明される場合において、

はじめて他者の代弁に基づく安楽死が認められるべきであって、

 

親や周りの勝手な判断で、

「意味のない人生」と位置づけ、

第三者が安楽死を選択できるのは、

おかしいと思う。

 

これを〈安楽死〉と言ってはいけない気がする。

誰にとっての〈安楽死〉なのか?

中絶と何がかわらないわけ?

と思ってしまう。

 

あくまで本人主体であるべき。

安楽死にせよ自殺にせよ、

この前提を崩してはいけないと思います。

 

さて、

また話が逸れましたが、

オランダの安楽死合法化の影響その2=「国」についてです。

 

本書によると、

 

オランダの安楽死法成立後、欧州各国で安楽死議論が活発化した

 

とあります。

 

欧州統合の進展でEU内では人の行き来が自由になり、各国の司法格差の解消も進んでいるだけに、オランダの安楽死法の波紋はEU全域に広がった

 

と。

 

EU各国のキリスト教系の保守派議員たちは、

オランダの安楽死法を

「欧州人権条約」に抵触していると非難したそうですが、

 

ベルギーやスイスではオランダに追随する形で、

部分的に安楽死を認める法律を制定したとか。

 

ベルギー法では、

 

積極的安楽死だけを対象とし、自殺幇助を範疇外にしている

 

のが特徴で、

 

この根底には、

カトリック国ならではの

自殺に対する強い「罪悪感」があるそうです。

 

スイスは逆に、

刑法を独自に解釈することで、

自殺幇助のほうを容認しており、

積極的安楽死を禁じているようです。

 

以前読んだ、

福原直樹さんの『黒いスイス』には、

 

スイスもオランダのように古くから地方自治が主流で、

(これはオランダと少し違う点ですが)民族主義的要素が強かったようで、

近隣諸国(とくにドイツ)との緊張関係などによって、

さらに自由を謳歌する気風がより高まった

 

──ようなことが述べれられていました。

 

自由を尊ぶスイスもまた、

売春や麻薬には緩く、

「毒をもって毒を制す」的な社会管理術がとられており、

オランダのそれとよく似ていると思います。 

 

逆に、

安楽死法に激しい拒否反応を示したのは、

ドイツ。

 

その理由について、

著者は次のように述べてます。

 

戦時中、ナチス政権が「優秀な民族を作り上げる」名目で多くの障害者を「安楽死」させた歴史をもつためだ。

 

歴史の過ちを繰り返してはいけないと、

自省であり自制でもある意識が

大きくはたらくのでしょう。

 

前述したとおり、

安楽死常態化してしまうことで、

とくに社会的弱者が社会からはじかれるのは、

懸念すべき点と思います。

 

再掲になりますが、

安楽死制度に反対するオランダ人女性の言葉が、

私はずっと胸に引っ掛かっています。

 

安楽死が容認されると、社会的弱者の障害者や高齢者を『生きなくてもいい命』と見なす考え方が広がるような気がするの。それは恐ろしいことよ」

 

私自身、

安楽死には賛成の立場で、

死ぬのは個人の勝手じゃん!

と強く思っているほうなのですが、

 

個人の勝手といえども、

それをみんな(特に社会的弱者)がやってしまうと、

オランダ人女性が警告するように、

他の弱者の生存を脅かしかねない。

 

こうなると、

単なる個人の問題とは

言いがたい気もしてきます。

 

でも、

だとしたら、

逆もしかりで、

 

たとえば

”障害者でも強く生きられる!”

と宣伝することで、

”障害者だからといって引き籠っているのは落伍者だ!”

という考えが社会に広まるのも、

実は懸念すべきことではないのか?

と思ったりもします。

 

乙武さんが以前、

上記のようなバッシングを受けていた(?)気がするのですが、

 

私も、

これには一理あるなと思っていて、

 

皆が皆、彼のように強くは生きられないし、

身障者であれ健常者であれ、

自分の人生を設計するのは個人の自由なのだとしたら、

自分の生き方を他人に促すべきではない。

 

もしそこに、

他人の人生を意図的にかえようという意思がゼロなのだとしたら、

おそらく安楽死を選択する人も、

他人の人生と意図的にかえようとは思っていないはずで、

 

副作用はどうであれ、

他人の人生を直接的に踏みにじらない範囲においては、

 

やはり、

個人の自由=安楽死はあってよくね?

と思うのです。

 

先の米国人女性の安楽死尊厳死)について、

多くの医療従事者たちが、

彼女の選択を擁護している記事が出ていましたが、

 

そこには、

 

どうして他の人が苦しんでいてもいいと思える人がいるのか自分は理解できない。

 

というコメントがありました。

 

私の感想もこれに少し近いです。

 

そんなにたやすく死なれたら、

一体誰が困るのか?

 

それは、

遺された家族、

遺されたその他の不特定多数のひとたちなのではないか?

 

つまり、

すべて本人ではない人たちで、

 

結局、

(遺された)「自分」がつらいから、

(遺された)「自分」が不利になるから、

だから安楽死に反対しているんじゃないか?

 

──と、

先のコメントの方よりも、

もう少し穿った目で見てしまいます。

 

つきつめると、

結局、「自分」に不都合だから、

彼らは安楽死に反対するんじゃないかと。

 

そんなにホイホイ死なれたら、

家族はつらいし、

医療業界は儲からないし、

税収は減るし、

人口が減ってモノが売れない。

 

それこそ奴隷制じゃないけれど、

他者の恩恵にうえに生活が成り立っていて、

他者に死なれたら困ることになる人たちは、

実はたくさんいるわけで、

そう簡単に死なれちゃうと、

自分たちの生活が脅かされてしまう。

 

だからみんな、

安楽死に反対するんじゃ?と。

 

でも、

もともと人なんてみな、

生まれたくて生まれてきたわけではないのだから、

生きるのを辞めるのも、

生き永らえるのも、

やっぱり個人の勝手!

と思うのです。

 

それを絶対にダメだとまわりが決めるのは、

たとえ家族であっても、

私は違うような気がしています。

 

誰のための命なのか。

 

想いはどうであれ、

究極的にはその人の命でしかないと、

そう思うのです。

 

──いやしかし、

めちゃくちゃ考えさせられたなー、

この本…!

 

■まとめ:

・オランダで安楽死が可能になった経緯や文化的土壌、オランダの安楽死法の内容、賛成者と反対者の声、安楽死(法)を支える社会システム、諸外国への影響・日本との違いなどを、わかりやすく網羅。

・著者はオランダの安楽死法に、「透明で合理的」、「個人の自由を最大限に尊重している」といった一定の評価を下しながらも、「自殺」との境界線の曖昧さや、社会的弱者の生存自体が脅かされること、安楽死における「自己決定権」が他者に渡りつつあることなどを問題提起している。

 

・ちょうどアメリカ(オレゴン)で女性が安楽死した事件もあり、生きるって?死ぬって?自由って?個人の権利って?といった根源的なことについて、深く考えさせられた。

 

■カテゴリー:

政治

国際

哲学・思想

 

■評価:

★★★★★

 

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