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ほんとはこわいやさしさ社会 ★★★☆☆

森真一さんの

『ほんとはこわいやさしさ社会』
を読みました。
 
評価は、星3つです。
(3と4の間くらいかな)
 
使っている言葉は易しいのですが、
文章の構成と言うか、
つまり何が言いたいのか、
それを明らかにすることで何を説明しようとしているのかが、
たまにわからなくなり、
何度か立ち止まってしまいました。
 
その道に造詣のある学者さんが書いているだけあって、
社会学ってこんなアプローチするんだとか、
そんな理論体系があるんだとか、
内容自体は非常に興味深かったのですが、
 
良くも悪くも学者気質というか、
学術論文のスタイルを踏襲してしまって、
下手に参考文献や引用を挟みこみすぎたために、
かえってまわりくどい論説になっている気がしました。
 

▽内容

「やさしさ」「楽しさ」が無条件に善いとされ、人間関係のルールである現代社会。それがもたらす「しんどさ」「こわさ」をなくし、もっと気楽に生きるための智恵を探る。

 

本書は、
そのタイトルどおり、
現代社会に蔓延する「やさしさ」と、
その「こわさ」について考察した本です。

 

「やさしさ」の正体とは何か?から始まって、
その「やさしさ」が蔓延している背景、
「やさしさ」が「こわい」理由と続いてゆき、
最後に、
これからの「やさしさ」社会のあるべき姿や具体的な方法について、
述べられています。

 

まず筆者は、

この本で取り上げている現代の「やさしさ」とは、

 

”ひとを傷つけないように気を遣う態度やふるまい”

 

と定義しており、

 

いまの日本には、

この「やさしさ」が過度に求められすぎていて、

人間関係に「しんどさ」や「こわい」現象が起きている、

これは本末転倒じゃないか?

と問題提起しています。

 

では、

現代のやさしさの正体とは何か?

 

著者は、

 

現代のやさしさが「やさしいきびしさ→きびしいやさしさ」「治療的やさしさ→予防的やさしさ」というふうに変化してきている

 

と論じています。

 

まず、

「やさしいきびしさ」は、

 

将来、相手が苦労したり傷ついたりしないように、いまは相手にきびしく接して、反省させたり、ある態度や技術を身につけさせる

 

といった接し方を指します。

 

私なりに解釈すると、

”本質的にはやさしいけれど、表面上は厳しい(辛辣)”

ということかなと思います。

 

”愛のムチ”という言葉があります。

 

これは本人のことを思って、

泣く泣く厳しく接することを言いますが、

 

本書でも、

 

これはやさしいきびしさの典型例

 

と述べられていました。

 

これに対して、

「きびしいやさしさ」とは、

 

いま傷つけないように全力を尽くすことを要求

 

する接し方を指します。

 

これも私なりに解釈すると、

”表面上はやさしいけれど、本質的には厳しい(辛辣)”

ということかなと思います。

 

本書では

「謝るくらいなら、最初からあんなことするな!」

という言葉がその例に挙げられていて、

 

傷つけないようにする点で、この考え方はやさしいと言えます。しかし、そこには”相手を不快にしたり、傷つけたりしないよう、いま全力をあげて努力しろ!””もしわたしを傷つけたりしたら、許さないぞ”というきびしさがうかがえます。だから、きびしいやさしさ、なのです。

 

と説明していました。

 

そして、

前者が古いタイプのやさしさで、

後者が新しい・現代的なやさしさだと論じています。

 

両者を二項対立的に並べるのは良いのですが、

このあと「きびしいやさしさ」という言葉が何度も出てくるにあたって、

ん?どっちだっけ?

と頭をかしげることが多く、

あえてこのような表現にしなくてもよかったんじゃないの?

と自分は思ってしまいました。

 

たとえていうなら、

前者(やさしいきびしさ)が本来のやさしさ

後者(きびしいやさしさ)がヘンなやさしさ

みたいなものかと。

 

著者のスタンスとしては、

あくまで学術的に考察していて、

どっちがいいとか悪いとか論じるつもりはないと言っていたので、

”本来のやさしさ”や”ヘンなやさしさ”という価値判断は

あえて添えなかったんでしょうね。

(そういうつもりで論じているのはバレバレでしたが…笑)

 

また、

「治療的やさしさ」→「予防的やさしさ」については、

 

治療的やさしさは、相手につけてしまった傷をことばで癒すことこそ、やさしさだ、と考えます。一方の予防的やさしさは、相手を傷つけないようにすることこそ、やさしさだ、とみなします。

 

と説明されています。

 

「やさしいきびしさ」も「きびしいやさしさ」も、

相手を傷つけるのは良くないとみなしているわけですが、

 

(本質的にはやさしいけれど、表面上は厳しい)

「やさしいきびしさ」のほうは、

長い目でみているだけに、

こころの傷はいつか治るものととらえています。

 

もしいま傷つけてしまっても、

将来的に本人のことを思えば仕方ない、

あとでいくらでもやさしさでフォローできるというわけです。

 

これが「治療的やさしさ」というわけです。

 

対して、

(表面上はやさしいけれど、本質的には厳しい)

「きびしいやさしさ」のほうは、

いまそのときしかみていないので、

一度傷つけてしまったらおしまい、

傷はいつまでたっても残るととらえています。

 

傷つけてしまったら最後、

だから、

極力傷つけないように考えて対処しなければいけません。

 

これが「予防的やさしさ」です。

 

「きびしいやさしさ」「治療的やさしさ」のほうが、

時間的にも心理的にも余裕がありますが、

 

「やさしいきびしさ」「予防的やさしさ」には、

そのような余裕がありません。

 

彼は言います、

 

何をすれば相手が傷つくのかを、最初にすべて正確に予測するのは不可能

 

なんですが、

 

その不可能なことを要求するのが、予防的やさしさというルールなのです

 

…と。

 

だから、

しんどくて厳しいものだと。

 

例として、

「わたし、~が好きかもしれない」と、

自分の意見をあえて曖昧な感じにする言い方や、

わざと顔をゆがめて友人とプリクラを撮る態度

などが挙げられており、

 

これらは、

相手を傷つけないように、

「予防的やさしさ」が働いているからこその

言動なのだと言っていました。

 

この「きびしいやさしさ」「予防的やさしさ」こそが、

現代のやさしさ=多数のひとにとってのやさしさであり、

対人関係のルールになっているわけですが、

 

このルールはまた、

非公式のルール=暗黙のルールでありながら、

(たとえば路上駐車のような公式ルールと比べても)

効力の強いルールだと述べられていました。

 

ただでさえ余裕がないのに、

ルールとしての効力(拘束力)も強く、

私たちはがんじがらめになっているわけです。

 

結果、

電車やバスなどで、

携帯電話で大声で話している人を注意しなかったり、

お年寄にあえて席を譲らなかったりすることも。

 

これらは、

目の前にいる人に恥をかかせまいとする、

「予防的やさしさ」の現れなんだそうです。

 

必要以上に気を遣い、

あるいは気を遣うことが求められ、

いまそのときにとらわれて、

常に相手を傷つけまいとして、

がんじがらめになっている。

 

やさしいはやさしいんだけれど、

息苦しくて、なんだかしんどい。

 

それが「きびしいやさしさ」であり、

言い換えると、

「過酷なやさしさ」と表現してもよいかもしれません。 

 

 

では、

その「きびしいやさしさ」の特徴は?

 

筆者は、

近代化は多様な価値観・道徳観をもたらしましたが、

この社会変動は一方で「危機」でもあったと述べています。

 

理由は、

共同体を運営するのにあたって、

必要不可欠な共通性が欠如しているから。

 

人々は、

「人格崇拝」というあらたな道徳を生み出すことによって、

この共通性の欠如を補ったとしています。

 

この人格崇拝には「相互行為儀礼」といって、

具体的には、

敬意(思いやり)・品行(自尊心)・修復(謝罪)などの態度がありますが、

 

近代社会では、ひとびとの関係が敬意・品行・修復でなりたっている

 

…そうです。

 

これが近代社会の特徴なのかどうなのかは、

学が浅い自分にはちょっと疑問なんですが。。。

(主従関係はあるにせよ、いつの時代でも基本的にはそうなんじゃ?と思ってしまうわけです)

 

それはさておき、

著者いわく、

現代の「きびしいやさしさ」にあるのは、

 

敬意を過剰に強調し、修復の意味を過小評価する態度

 

としています。

 

相手を思いやることを過度に意識し、

関係修復のために謝るなんてことはレベルが低い。

 

「謝るくらいなら、最初からするな」というくらいですから、

謝ることなんていうのは、

そもそもダサいとみなしている。

 

これ、

自分に置き換えてみると、

私もよく言っている(言っていた)ので、

私こそ「きびしいやさしさ」依存症かもしれないです。

 

本書では、

敬意の過大評価・修復の過小評価が、

「きびしいやさしさ」の特徴の1つ目だとすれば、

 

”人間関係、とくに仲間うちの人間関係は対等であるべき”

という対等性の原則が、

「きびしいやさしさ」の特徴の2つ目に挙げられています。

 

その場が重い雰囲気にならないよう、

若者が友人に悩みを相談しないのは、

いまそのときその場にいる相手や仲間を尊重して、

予防的なやさしさが働くわけですが、

 

なぜそれが働くかといえば、

相談する・されることで、

友人関係に優劣がつくのを避けるためだと。

 

また、

他人からの「上から目線」な意見の申し入れに対して、

それを「押し付け」と感じたり、

強い嫌悪感を抱いたりするのもまた、

意見を言う・言われることで、

上下関係が出来ることを拒むからだと。

 

このように、

「きびしいやさしさ」のもとでは、

私たちは対等性(の原則)が壊れる・壊されることに、

ものすごく神経質になっています。

 

対等性が崩れないよう、

友人には相談しないし、

「上から目線」な意見もしない。

 

均衡を保つべく、

いつも気を遣って、

やさしさを振りまいている。

 

長い目でみれば、

一方でAが秀でるところがあれば、

他方でBが優るところもあって、

トータルでは対等になるようなケースでも、

 

「きびしいやさしさ」では、

「いまそのとき」を重視しているので、

少しのあいだでも上下関係になりたくない

という願望・要望が生じるんだとか。

 

「キャラ」もそうです。

 

対等性を保つために、

ひとはときに「キャラ」を創り上げます。

 

著者が、

 

対等性の原則は、あらゆる差異を認めないわけではありません。たとえば横の差異は認めます。縦の差異、上下の差異が容認できないのです。

 

と述べているように、

 

集団の中で一定の役割を担うような「キャラ」に立てれば、

みんなと楽しく時間を過ごすことができますが、

ひとたび「キャラがかぶる」ことがあると、

そこに優劣関係や競争関係が生まれてしまう。

 

「キャラ」の演じ方が上手/下手、という上下の差がでてきてしまうのです。上下関係が入りこんでくると、下位(劣位)におかれたひとが楽しいわけがありません。「キャラ」を導入したのは、楽しくすごすためですから、上下関係や競争関係はぜひとも回避しなければならない問題となります。

 

このように、

「対等性の原則」は、

仲間うちで優劣関係ができないよう、

常に配慮することが求められますし、

 

先述の「敬意の過大評価・修復の過小評価」は、

前もって傷つけないように、

常に神経をとがらせておかなければいけません。

 

これらが「予防的やさしさ」の特徴ですが、

どちらもシビアで過酷なわけで、

これが「きびしいやさしさ」と言う所以なのだと。

 

 

ではでは、

どうしてこんなことになったのか?その背景は?

 

なぜこのように、

シビアで過酷なやさしさが求められるようになったのか?

 

筆者は、

以下の3つを指摘しています。

 

1.人生の自己目的化

2.楽しさ至上主義

3.能力開発の情熱

 

1.人生の自己目的化とは、

人生を自分のためだけに使う態度のことを指し、

 

自己こそが人生をささげるべき、もっとも価値あるものとみなす価値基準

 

と定義しています。

 

戦争まではイエ・土地・血筋のため、

戦時中は国家のため、

戦後は会社のため、

…というふうに、

我々日本人は生きてきたわけですが、

 

イエも国家も会社も、

「聖なる」存在の地から追いやられたいま、

 

現代の日本人は、自分のために生きるしかなくなりました。そして、イエや国家、会社の神聖さが衰退するにつれ、自己が相対的に神聖さを増し、もっとも「聖なる」存在となった

 

この、

自己の神聖化こそ、

人生の自己目的化の始まりです。

 

イエ・国家・企業の「川」を流すことに生きる意味を感じなくなった日本人は、いわば「水たまり」のような存在です。「川」から解放された「水たまり」は、「川の流れ」に人生がのみこまれることはなくなりました。だから、自由です。

 

親はイエや血筋を残すよう、

子供には期待しなくなったし、

お国のために命を賭ける時代は終わりました。

 

人生の自己目的化とは、

すなわち、

個々人の自由な意思が尊重される個人主義

と言ってもよいのかなと思います。

 

「きびしいやさしさ」「予防的やさしさ」が

蔓延するようになった理由の1つは、

人生が自己目的化され、

個人の自由が尊重されるようになったから。

 

何をやるにも、

それは個人の勝手だから、

それに対していちいちああだこうだ助言・進言するのは、

お節介だと。

 

こうして我々は、

個人の意思を尊重しなければ!

常に意識せざるを得なくなったわけです。

 

ちなみに、

人生の自己目的化は、

あくまで「自己目的化」であって「利己目的化」ではないと、

筆者は補足しています。

 

その理由として、

イエ・国家・企業の「川」に流されることは、

「自己」「個性」がないとして、

どこか否定的にみなす風潮も出てきており、

 

それだけに

 

自己のためだけに生きざるをえない状況、自己以外の力によって「流される」ことに罪悪感・劣等感を感じざるをえない状況がある

 

として、

 

自分のためだけに生きることを「わがまま」だとか、「自分勝手」「利己主義」とは言えません

 

と説明していました。

 

こうして、

”人生は自分のため(だけ)にある”

と考えるようになった現代人は、

 

”人生は一度きり”

”楽しまないと、もったいない”

と思うようになります。

 

ここで生まれたのが、

2.(楽しさ至上主義)だと。

 

わたしたちは日常生活で、幸せ(ハピネス)をもとめて、仲間と楽しい(ハッピー)時間をすごそうとします。できるだけ、不快なことを避けようとします。

 

人と一緒にいる以上、

楽しさを求めることが当然で、

 

前述の「敬意の過大評価」も「対等性の原則」も、

楽しさを求めすぎるばかりに、

重要視されるようになったと述べられていました。

 

楽しいことが第一だから、

そのためには相手を尊重しなければいけないし、

自分も尊重されるべきであると。

 

そこに上下関係ができてはダメだし、

自分の「キャラ」も立っていなければいけない。

 

そして、

「場の空気を読む」ことも非常に大事!

 

きびしいやさしさ・予防的易しさを重視するひとびとは、場がスムーズに流れ、人間関係がなめらかであることを、重視していました。そのための基本的なこころ構えが「場の空気を読む」ことなのです。

 

著者によると、

 

”「場の空気を読む」のが下手なひと”

や、

”集団で楽しむ技術が高度化しているなかで、そのレベルについていけないひと”

が、

いわゆる「痛い」ひとであり、

 

「場の空気を読む」という点で、一段劣っているひとは、対等性の原則に反します。そして、なめらかな関係をこわし、楽しいはずの場をシラケさせてしまいます。

 

として、

「場の空気を読む」ことが、

いかに大事になっているか、

「きびしいやさしさ」につながっているか、

を指摘しています。

 

”人生は自分のため(だけ)にある”

”(自分の)人生は一度きり”

という意識はまた、

 

楽しさと同時に、

人間として最大限成長すべし!という価値基準をも生み出した

と筆者は述べています。

 

”人間として最大限成長すべし!”とは、

実は私が勝手に言い換えた言葉ですが、

彼はこれを、

3.能力開発への情熱

と表しています。

 

これは、

 

(自身がもてる)”能力をぜんぶ発揮したい”という価値基準

 

であり、

 

ここでいう能力とは、

学力や仕事上の才能だけでなく、

暴力・権力・金力・魅力・論力なども指しているそうです。

 

彼は、

この能力開発は、

一方で対等性の原則に反し、

優劣関係ができあがってしまうが、

 

だからこそ、

能力の違いを隠して、

みんな対等と思える関係を無理やりつくろうと装うような、

不自然な言動すら必要になってくるのだ

と論じています。

 

あえて「キャラ」をつくる

という行為がそれです。

 

自分の「キャラ」を設定し、縦の違いではなく、横の違いによって結ばれることにして時間をすごそうとする

 

わざと顔をゆがめて友人とプリクラを撮る行為もそう。

 

きっと彼女は、

日々自分の美貌(能力)を高めようと邁進していますが、

いざそれで一緒に映る友人と優劣がついたらマズイ。

 

だから、

あえて顔をゆがめて写真を撮る。

 

この不自然な言動こそ、

まさに「予防的やさしさ」であり、

変な気遣い=きびしいやさしさというわけです。

 

彼は、

「楽しさ至上主義」と「能力開発の情熱」の葛藤が、

きびしいやさしさ・予防的やさしさを生む

と述べていました。

 

ここで興味深かったのは、

能力に対する過度な情熱・関心の上昇が、

逆に能力が「低下」しているイメージを醸成しているのだという、

著者の指摘です。

 

能力「低下」をうるさく言う時代、「低下論」が常識になっている現代は、能力への関心が「上昇」している時代なのです。能力への関心が「上昇」しているからこそ、能力が「低下」しているように感じ、能力「低下」について大騒ぎするのです。

 

これには、

なるほどなーと思わされました。

 

ただ、

文脈的に置かれている位置がよくなくて、

かえって、

ここは何を解明する章だったっけ?

と読者を路頭に迷わすことになったんじゃないかと思います。

 

つまりここでは、

「能力開発の情熱」がなぜ「きびしいやさしさ」を生んでいるのか?

について言及するべきですが、

 

「(能力)低下論」や「関心の上昇」が、

うまく文脈に乗れていないのです。

 

きっと、

そもそも能力開発の高まりには、

”人生は自分のためにある”という個人主義のほか、

世間(世論)がやたらそれを礼賛したり、

うまいように扇動しているさまを

論じたかったんだと思いますが、

 

とらえようによってはこれ、

文脈とは関係なく、

ただ自論を挿入したいだけじゃん!

とも受け取れます。

 

そういう意味で、

著者も編集者も、

もう少し文脈を考えたらいいのにと思いました。

(ただのクレームだな、これ…)

 

さて、

いよいよここから後半です。

 

前段までは、

過程や原因を要約してきましたが、

ここからは、

「きびしいやさしさ」が呈する「こわさ」(の本質)について。

 

著者は、

 

やさしさルールがあまりにもきびしくなって、過剰にやさしくしなければならないからこそ、逆に、こわい現象も起きている

 

と述べています。

 

どういうことなのか。

 

まず、こわさ1.

ひとはこわいものだと考えるようになったこと。

 

現代のやさしさ社会に生きる我々は、

相手を傷つけないように、

常に楽しくすごせるように、

 

ひとを「腫れもの」に触れるかのようにとりあつかう

 

のが特徴だといいます。

 

うかつに触ればすぐ傷ついてしまうし、

メディアや教育の場ではもう何年も前から、

子どもを傷つけるとこわいことになると、

言われ続けています。

 

このことは逆に、

傷つけられたら牙をむく権利がある

という意識を植え付けたとしています。

 

”恥をかかせたりして、傷つけられたら、いつでも爆発してやる”と無意識のうちに考える日本人の大量生産、という結果

 

をもたらし、

 

”自分はばかにされていないか”とつねに気にする日本人の大量発生

 

をも呈してしまった、と。

 

こんな現代の日本人を、

彼は「身分差のない武士」と表現していました。

 

予防的やさしさを実践する現代日本人は、”恥をぜったいかきたくない””恥をかかせてはいけない”と強く考える点で、気位だけは武士みたいな存在です。

 

民主主義の現代、全員が武士的存在となってしまった結果、おたがいを「腫れもの」「爆発物」としてあつかい、対等性の原則を何としてでも守らないといけなくなったのです。

 

彼はまた、

この「現代の武士」はつねに、

対人恐怖症にあるとも述べていました。

 

この現代の武士は、対人恐怖症です。ひとがこわいくせに、こわがってはいけない、という葛藤につきまとわれているからです。

 

このように、

現代の(きびしい)やさしさ社会は、

自他ともに「腫れもの」・「爆発物」であるとして、

人は本来こわいものなんだと受け止めているわけです。

 

次に、こわさ2.

気遣いや思いやり(=やさしさ)が伝わりにくくなっていること。

 

著者は、

 

予防的やさしさは”~しない”というかたちをとりがちだ

 

として、

 

きびしいやさしさや予防的やさしさがもたらす、もうひとつの皮肉な結果は、やさしさが伝わりにくいことです。やさしさどころか、思いやりの欠如、マナー・礼儀知らず、とみなされることも、しばしばです。

 

と述べています。

 

たとえば、

高齢者に席をゆずらなかったり、

叱られてるときに「すみません」と言わず黙って聞いているのは、

こっちが相手のことを考えてそうしているつもりでも、

相手や第三者からすると失礼なヤツ!と受け取られることも。

 

これは、

行き過ぎたやさしさのもたらすジレンマであり、

「こわさ」の一つでもあるということです。

 

この結果、

社会的に問題になった事件もあって、

彼はここで「サンダーバード事件」を挙げています。

 

相手を尊重するあまり、

電車内で起きた強姦に対しても「見て見ぬふり」。

 

車内レイプしらんぷり 「沈黙」40人乗客の卑劣 - ライブドアニュース

 

この背景には、

やはり「個人主義」があって、

「ひとそれぞれ」の意思を尊重しなければ

という価値基準が大きく働いています。

 

「ひとそれぞれ」で”他者を傷つけてはならない”のであれば、ひとはかなり慎重に行動しなければならなくなります。

 

このことが、

我々をかなり窮屈にさせ、

慎重にもさせるというわけです。

 

それもまた、

「しんどさ」という名の「こわさ」である、と。

 

こわさ3.は、

昨今の悪質化するいじめやかげぐちを挙げています。

 

最近のいじめは、

学校裏サイトのネットいじめに代表されるように、

リアルの場(学校)ではみんな笑顔なのに、

ネット上では誹謗中傷が書き込まれていて、

しかもハンドルネームを使って、

相手が誰だかわからないようになっているそうです。

 

このような悪質ないじめが起こる背景に、

彼は、

「きびしいやさしさ」「予防的やさしさ」があると指摘しています。

 

予防的やさしさの社会では、自分も他者も傷つかないように慎重にことばを選んで人間関係をつくる

 

そのため、

表面上では円滑な人間関係を演じるけれども、

そこには必ずひずみが生じていて、

一度誰かが「かげぐち」を言えば、

ネットではさらに追随・結託しやすくなっているのだと。

 

ネットいじめの隆盛は、楽しさ至上主義とも関連しています。かげぐちには、それほど親しくないひと同士をかんたんに結びつける作用があるからです。

 

社会学の概念で、

集団に及ぼす影響をあらわす言葉として、

「統合作用」と「分離作用」という言葉があるそうですが、

 

本書を読むと、

「かげぐち」には、

まさにこの2つの作用があることがわかります。

 

いじめの対象を集団から分離し、

共通の話題をもつことで統合もする。

 

ネットはその作用がはたらきやすい場を、

集団に提供しているというわけです。

 

著者は、

このようないじめに見られる根本的な要因を、

下記のように論じています。

 

あまりにも傷つく・傷つけられることに敏感であるがゆえに、相手に対して感じていることを率直に言うこともできない状況が、やさしさとは対極にあるネットいじめの増加につながっている

 

現代ほどきびしいやさしさの人間関係ではなく、傷つく・傷つけることにもう少し寛容な社会であれば、ネットいじめもこれほどには広がらなかったのではないか

 

これは学生のいじめに限らず、

ネット上の誹謗・中傷や、

それに近いようなコメントもそうだと思います。

 

私は、

Yahoo!ニュースなどでコメントを書きまくる人って、

ちょっと気持ち悪いと思うことがあります。

 

どうでもいいことで、

いちいち揚げ足をとったり、

特定の人物を攻撃したり。

 

いざ対面したら、

直接、相手にそんなコメント言えんのかよ?

と聞いてみたくなるような人がいっぱいいます。

 

なぜか。

自分もそういうところがあるから。

 

WEBという匿名性が保たれたなかでは、

堂々と意見を述べやすいです。

 

でも、

いざ不特定多数のユーザーや、

当の本人が目の前にいたら。

 

自分はこんなふうに意見できるだろうか?

別にいいけど、堂々とはたぶん無理。

…とか考えたりもします。

 

だから、

WEB上の誹謗・中傷も、

きっとそうなんじゃないかと。

 

森さん(著者)が言うように、

やさしさルールが厳しすぎて、

みんなリアルの場で言いづらいから、

WEBという匿名性が保たれる場で、

いっきにひずみが生じてしまうんじゃないかと。

 

最後に、

こわさ4.として、

思いやりの落差拡大と暴力

を挙げています。

 

どういうことかというと、

 

社会学には、

「統合定量の法則」という概念があって、

これは、

”ひとが他者と持つことのできる人間関係の量は一定”

ということらしいですが、

 

この「統合定量の法則」に則ると、

 

仲間や友人にたいしてあまりにやさしすぎると、仲間以外のひとたちにはやさしくなくなってしまうこわい現象

 

が発生し、

 

ここに、

「思いやりの落差」が生じる

ということのようです。

 

現代の「行き過ぎたやさしさ」がはびこる社会においては、

その場の空気やその場にいる仲間を気にするあまり、

(あるいは、その場にいなくても携帯などを通じて)

 

たとえまわりに迷惑をかけることになっても、

「ノリ」をよくして一体感を醸成することが、

対等性を保つための手段であり、

それを注意してきた人には、

暴力的行為も辞さない。

 

だから、

「きびしいやさしさ」は「こわい」のだと。

 

うーん、

これもわかるなー。 

 

振り返れば、

自分も若いとき、

なんであんなバカなことしたんだろう?

と思う言動が多々ありますが、

 

そこには、

単純な自分の好奇心でもあったかもしれませんが、

 

自分の「キャラ」を立たせたり、

集団で一体感を味わうためだったり、

いまさら人のせいにするつもりもありませんが、

自分だけのためというより、

周りの自分のためにとった行動だったと思ったりもします。

 

警察官を鬼ごっこの「鬼」とみなして逃げることで、

最近世間を騒がせたこのニュースも、

おそらくその一例でしょう。

 

著者は、

こうしたことが起こる理由を、

以下のように述べていました。

 

仲間集団が不安定だからです。仲間集団が安定するには、おたがいに信頼しあう必要があります。しかし、予防的やさしさを実行するために、対等性の原則を守り、自分の悩みも打ちあけられない関係では、なかなか信頼関係は育ちません。

 

これには、

8割型賛成ですが、

あとの2割は反対かなー。

 

わりと信頼関係が築けていても、

楽しさのため・団結をもとめるために、

まわりに多少迷惑をかけてでもやる行為って、

たまにあったりしますし。

 

必ずしも「仲間関係が不安定」とは、

言い切れないのではないかと思いました。

 

さて、

最後に著者は、

では理想のやさしさ社会はどうあればいいのか?

について言及しています。

 

端的に言うと、

彼は、

やさしさそのものは決して悪いことではないわけだから、

もっと気楽なやさしさ社会を目指せばいい

と言っています。

 

それは、

古いタイプの「治療的やさしさ」「やさしいきびしさ」であってもいいし、

 

たとえば、

「悪口祭」や「ザットナ」という、

特定の地域でおこなわれていた儀式を真似て、

昔の人の知恵を知ったり、

そこからヒントを得たりすることも有用だと言っています。

 

やさしさ社会の陰湿な攻撃を少しでも減らすには、条件つきの攻撃の必要性を多くのひとが認識して、文化としての「智恵」を継承していくことが、大切なことだと思うのです。

 

また、

「きびしいやさしさ」の背景にある、

「楽しさ至上主義」についても、

どこかできちんと割り切る必要があると言っていました。

 

要は、

”人生は楽しいことばかりじゃない”ということを、

常に認識しておく必要があるというわけです。

 

これは、

簡単そうですごく難しい。

 

個人の意思が尊重され、

何をやっても基本的には自由な今の社会では、

常にうまくいくようなチャンスは、

いつもそこに転がっていると思いこみがちです。

 

やろうと思えば、

人生はいつだって楽しくできる。

もっともっと楽しめる。

 

友人の○○ちゃんやお隣の○○さんは、

いつも楽しそうだし、

テレビをつければ、

楽しそうで仕方ない芸能人が笑いっぱなし、

書店に行けば、

成功論や人生論を謳ったそれ系の本なんかもどっさり積まれています。

 

気の持ちようや、

ちょっとした選択で、

人生は意外と楽しめるはずだと、

大勢のひとは思っています。

 

いや、

思わされているといったほうが正しいかもしれませんが。

 

実際、そうかもしれません。

 

でも、

絶対にうまくいかないことだってあります。

 

それでも、

このときこの選択をしていればうまくいくはずだと、

いろんな情報がささやいてくる。

 

思うに、

「予防的」なのは、

何も「やさしさ」だけではないような気がするのです。

 

仕事で「事後報告になってしまいますが…」と言う場合、

どこか心苦しいというか悪びれているケースが多々ありますし、

少し会社で不祥事が起これば、

「危機管理はどうなってるんだ?!」が騒がれる。

 

常に先のことを予測し、

行動するのが当たり前化している。

 

先のことが読めないビジネスパーソンは、

ぶっちゃけ「仕事ができないの人」というレッテルが貼られます。

 

そうやって、

過度に先々のことを前もって予防しようとするから、

どこかで「ひずみ」が発生するんじゃないかと思うのです。

 

わかりやすいのは医療です。

 

予防医学の発展は、

不要な医療行為までも拡げてしまったわけです。

 

近藤誠さんの『医者に殺されないための47の心得』や

石飛幸三さんの『平穏死という選択』などでも

取り上げられていましたが、

 

日本で当たり前とされている医療行為には、

なんと不要なものが多いことか。

(あくまで私感です)

 

楽しくなければいけない、

そのためには長生きすべきだ、

病気が再発・悪化しないように、

いまできることを少しでもやっておくべきだ…

 

これは、

受動的な医療行為もそうですが、

能動的な治療探しもそうだと思うのです。

 

治すこと・前のように健康な身体に戻すこと、

同年代の友人のようにバリバリ働くこと…。

 

それらにとらわれすぎの、

腰痛や頭痛などのドクターショッピングも、

過度な「予防」意識から生じていると思います。

 

先読みしないほうがいいとは思いませんが、

先読みしすぎるのもよくない。

どこかで必ず「ひずみ」が生まれるから。

 

何事も「ほどほど」がいいんだと思います。

 

何か起こると、

メディアはすぐ、

なぜこんなことが?もっとこうしていれば!

と騒ぎ立てる。

 

それが間違っているとは思いませんが、

起こってしまったものは仕方ないんだから、

それをどうするか?解決策は?

ということに力を注いだほうがいいんじゃないかと思うのです。

 

報道だけではなく、

私たちの意識もそうです。

 

ビジネスも、

予防的なところばかりを商機としないで、

起こってしまうことを前提に解決するような商品・技術にこそ、

実は宝の山が隠されているかもしれないですし。

 

最終章では、

そんなことを考えてしまいました。

 

全体的に、

現代社会を「やさしいけどこわい」という切り口で、

考察した本書には考えさせられましたし、

内容的にもなかなか面白かったです。

 

まったく関係ありませんが、

私は本書での”あとがき”が結構よかったと思っていて、

これ、自分が若い時に出会っておきたかったアドバイスだなー

と心底思いました。

 

最後に、学問に関心がある若い読者にひとこと。

わたしは、本書で言うところの人生が自己目的化した現代人の典型です。本書では若者のやさしさを中心に分析しましたが、じつは私自身の分析でもあったのです。やさしさの問題はほかでもない、わたしにとって切実な問題だということです。たんに学問上、研究上の問題ではないのです。自分にとって切実な問題でないと、考える気にもならないので、わたしの勉強の仕方は偏っていますし、そもそも不勉強です。

でも、開き直るつもりはありませんが、あなたも自分にとって切実な問題にだけ取り組めばいいのです。(中略)問題に時間をかけてとりくむうちに、いろいろと知識や情報をあつめざるをえなくなってきます。(中略)必要になったとき、はじめて知識はあなたの身につくのです。それがあなたの経験と直結すれば、「智恵」となっていくはずです。

 

 

■まとめ:

現代社会の「やさしさ」を重んじる風潮は、実はとても厳しくて、過酷。そこには行き過ぎた「思いやり」「気遣い」を求める暗黙のルールがあって、わたしたちの人間関係を窮屈にしたり、ときに「こわさ」すら感じさせる。空気を読めない人は「痛い人」になるし、「キャラ」がかぶるのはご法度だし、「上から目線」はとんでもない。だから対人恐怖症が増えたり、WEB上での誹謗中傷やいじめが蔓延するし、見て見ぬふりが増える。内集団(家族や仲間)と外集団(それ以外の他人)の距離は広がるばかり。その背景にあるのは、個人主義・楽しさ至上主義・成長欲求(能力開発)。何をやるのも「人それぞれ」だし、「人生は一度きり、だから楽しまなきゃ損」だし、生きている限りは「力をつけたい・伸ばしたい・成長すべき」と思っている・思いこまされていること。
社会学の概念や、著者独自の考え方がわかりやすい言葉で述べられていて、内容的には非常に興味深かったが、下手に論文の体裁にこだわりすぎたせいか、文章の構成・流れなどが悪い部分もあって、ところどころで読んでいて目的(テーマ)を見失いそうにもなった。
・「やさしさ」だけではなく、何事においても、「前もって予防しなければ!」という過剰な意識こそ、ところどころで私たちに、帳尻のあわない「ひずみ」をもたらしていると思った。なんでも「ほどほど」がいい。
 

■カテゴリー:

 

■評価:

★★★☆☆
 

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