まんがで読破 こころ ★★★☆☆

夏目漱石原作

こころ (まんがで読破)

を読み終えました。

 

評価は、星3つです。

 

誰もが知る、

夏目漱石の代表作。

 

…なのですが、

これまで実は、

自分は読んだことがないという。恥

 

いまさら原作を読むのも億劫だし、

とはいえ名作というからには、

どんなもんか知りたい。

 

こういう人には、

イーストプレス社の【まんがで読破シリーズ】は

是非おすすめです。

 

自分も以前に、

このシリーズの『蟹工船』を読みましたが、

 

内容こそ「ふ~うん…」に尽きましたが、

タイトルや作者の名前は聞いたことがあっても、

おおまかなあらすじすら知らなかったので、

手軽に読めてよかったです。

 

本書もまた同様に、

夏目漱石の名作に簡単に触れることができてよかったです。

 

 

▽内容:

人間を信用せず、豊富な知識を持ちながら仕事にも就かず、美しい妻と隠居生活を送る「先生」には、人には言えない暗い過去があった。ある日、「先生」の不思議な魅力に惹かれていた「私」のもとに突然、一通の遺書が届く。遺書が物語る「先生」の壮絶な過去とは?日本文学史に輝く文豪・夏目漱石が人間のエゴイズムに迫った名作を漫画化。

 

さて、

内容はどうだったかというと…。

 

話の中身については、

結論から言えば、

一人の女性をめぐる男同士の嫉妬・裏切りと、

そこからくる葛藤や自責の念に苦しむ男の話です。

 

一見、

「私」が主人公かと思いきや、

「私」はどちらかというと脇役で

謎に包まれた「先生」の過去を引き出すための、

見かけ上の主役でしかない。

 

漱石が描きたかったのは、

本当は「先生」のほうだったんだろうな

というのは、

素人の私でも容易に想像が尽きます。

(原作を読んでいない分際でなんですが…)

 

地方出身の「私」は、

日々の生活のために

やりたくもない仕事をして無駄な人生を送るより、

勉強してエリートになって

自分が本当にやりたいことを見つけようと

上京して帝国大学に入ったものの、

 

結局やりたいことなど見つからず、

だからといって、

やりたくない仕事に就くのもイヤで、

無益で怠惰な日々を送っていました。

 

ここだけ読むと、

今も昔も、

大学生ってあんまりかわらないんだな、

と思っちゃいます。

 

──話は戻りまして、

 

そんな「私」が出会ったのが、

親の財産を食いつぶして働かずに、

とはいえ学識は高く知識も豊富な「先生」。

 

こんな自分なら、

そんな彼からなら、

人生の本質が学べるかもしれないと、

「私」は「先生」を慕うようになります。

 

ところがある日、

「先生」は「私」を、

冷たく突き放します。

 

先生:

もう私のところへは来ないでください

 

突然の出来事に、

「私」はびっくりして、

その理由を尋ねると、

「先生」は次のように答えています。

 

先生:

君は淋しさから私の所に来ているだけです

そして結局君は──…

私を裏切る

 

ここでいう「淋しさ」とは、

何かを求めながら

それを得られない物足りなさであり、

 

たとえば、

恋を求めながら

相手を得られないこともそうだし、

 

自らの進むべき道を求めながら

それが一向に得られないこともそう。

 

得られない・わからないから、

「先生」のところに来ているだけで、

 

実は、

それは「先生」でなくても、

とりあえず自分が共感できたり、

あるいは共感してもらえそうな人であれば、

誰でもいい──。

 

「先生」からすると

「私」とは、

こんなふうに映っていたのかと思います。

 

お前は俺のことを信じて来ているわけではない。

だってお前は俺のこと表面上しか知らないし、

本当の俺の姿や今まで俺がどんな人生を歩んできたのか、

何も知らないだろう?

本当の俺を知ったら、

お前は俺を見放すかもしれない。

 

「先生」の真意はこんな感じだと思いますが、

「私」は、

「淋しさから来ているだけ」という言葉のみだったらまだしも、

「私を裏切る」という言葉にショックを受けます。

 

私:

僕はそんなにケイハクな男に見えますか?

僕はそんなに信用できない男ですか?!

 

自分としては、

「先生」を人生の師として仰ぎ、

信用して頼っているのに、

”裏切る”ってなんだよ?!

──みたいな

 

それに対して先生は、

こう返します。

 

先生:

君が信用できないんじゃない

私は──

人間全体を信用していない

 

そしてここから

「先生」の、

〈なぜ人を信じられなくなったか?〉ストーリーが始まるわけです。

 

これぞ本作の目玉。

 

「先生」は、

なぜ人を信じられなくなったのか。

 

その経緯をまとめると、

こうなります。

 

・両親の死後、親戚とカネの問題で揉め、「カネで人は変わる」と人間不信に陥った

  ↓

・人間不信に陥った自分の心を取り戻すきっかけになったのは、そんな自分をあたたかく受け入れ、家族のように接してくれた下宿先の奥さんと娘さん(静)。そんな静に恋心を抱くほどまで、「先生」は人間としての心をとり戻す。

  ↓

・人としての余裕も出てきた「先生」は、自分のように・あるいは自分以上に人を信じず、学問に徹して偏屈になっている「友人K」が見放せず、老婆心で同じ下宿に誘う。

  ↓

・下宿中も「友人K」は、学問をきわめるためには禁欲し、精神的向上心を育むべきとひたすら「先生」に語る

  ↓

・ところが「友人K」は、密かに静に想いを抱いていることを「先生」に白状する。「先生」は、これを「友人K」の裏切りと受け止める。一方で、「友人K」は、禁欲だの精神的向上心だのと自他を戒めてきたにもかかわらず、女性を愛してしまった自分を許せず、葛藤。

  ↓

・愛をとるか精神的向上をとるかで迷う「友人K」は、どうすればよいか「先生」に相談。静をとられたくない「先生」は、もちろん後者だと指摘。”愛は捨てるべきだが、お前には本心でその覚悟はあるのか?”と詰問した「先生」に、「友人K」は”覚悟ならある”と答える。

  ↓

・「友人K」の”覚悟”とは、実は静に対する愛の告白ではないかと焦った「先生」。彼は先を越されてはなるまいと、下宿先の奥さんに、静との結婚を申し入れ、彼女のとの結婚が決まる。

  ↓

・「先生」はついに「友人K」に言いだせず、謝罪もできず、「友人K」は下宿先の奥さんからそのことを聞き、遺書を遺して自殺。

  ↓

・遺書には「先生」への恨みつらみなどは書いておらず、「自分は薄志弱行で到底先行きの望みがないから自殺する」「もっと早く死ぬべきだったのに何故今まで生きていたんだろう…」と記されていた。

  ↓

・ホッとしたのもつかの間、「先生」との部屋を隔てる襖には、おびただしい血しぶきが。

  ↓

・この「友人K」の自殺で、「先生」は彼を裏切ったことから一生逃れられなくなってしまい、自分に絶望。

 

「先生」はこれを、

父の容体の悪化で実家に帰郷してなかなか帰ってこない「私」に、

手紙で打ち明けています。

 

その手紙は、

最後に次のように終わります。

 

記憶してください

私はこんな風に生きてきました

この打ち明けられた私のヒミツは

すべてあなたの心の中にしまっていてください

 

そして彼(先生)は、

自らの命を断つという──。

 

まぁ、

このことを打ち明けたいと思っていた「先生」もまた、

真の理解者が欲しかったというか、

淋しい人間だったんだなと思います。

 

でも彼は、

「私」の反応も待たずに、

死を遂げるわけですから、

「私」の理解(=本当の俺を知って欲しい気持ち)より、

自責の念のほうが勝っていたのでしょう。

 

なんとも苦々しい終わり方ですが、

マンガを読む限りは、

太宰治の『人間失格』なんかに比べると、

全然人間らしくていいかなと思いました。

 

人間を信じていない自分は

どこか崇高でどこか人と違うんだ、

だから死ぬんだ、

──俺って格好いいでしょ?的な太宰のそれ(大庭)と、

 

人間を信じていない自分は、

そういっておきながら自分が一番信じられないんだ、

偉そうに人のせいにしているけど、

本当は自分が一番最低なんだ、

そんな人間は生きている資格はない、

だから死ぬんだ、

──ごめんなさい的な漱石のこれ(先生)。

 

「先生」が信用できないのは、

”人間全体”といっているけれども、

 

私は──

人間全体を信用していない

 

実は一番信用していないのは、

他でもない自分なんだと思います。

 

もちろんそこには、

最初に自分を裏切り、

精進の道から愛の道へ舵を切ろうとした「友人K」が含まれているとはいえ、

 

もっとも忌むべきは、

最終的に「友人K」を裏切り、

彼の”覚悟”を理解しようとしなかった自分自身であり、

そんな自分が許せない。

 

いまの私なら、

漱石の作品に出てくる、

この「先生」のほうを「人間らしい」と評価します。

 

いや、

「人間らしい」という言い方は、

ちょっと違うかな。

 

太宰の作品も、

それはそれで「人間らしい」ので。

 

漱石のこの作品のほうが、

「好感が持てる」死に方だった、

といったほうが適切かもしれません。

 

昔は、

この作品自体を知らなかったのもあるし、

なんとなく太宰のニヒリズムがクールだなと思っていたフシもあって、

そもそもこんな比較も評価もしなかったのですが、

 

いま内容を知ると、

自分としては、

読了感も共感度も漱石のほうに軍配があがりました。

 

そもそもこんな比較している人いるのかな?

と思ったら、

知恵袋でこんなスレを発見。笑

 

夏目漱石の「こころ」か太宰治の「人間失格」両方ご存知の方、もしも1... - Yahoo!知恵袋

 

うーん、、、

個人的には、

もうちょっと突っ込んだ分析みたいなものが知りたかっただけに、

これではチョット物足りず。笑

 

でも結局、

『こころ』のなかの「先生」にしても、

人間失格』の「大庭」にしても、

悲哀的な男のロマンが描かれている点は共通していて、

 

自分が最もツッコミたいのは、

一番可哀想なのは、

何も知らない奥さん(静)じゃね?!

ということ。

 

夫は常にイライラし、

やさぐれてるし、

働かないし、

挙句の果てに自殺してしまうなんて、

嫁からすればいい迷惑だろうに…

と思ってしまいました。

 

だから自分には、

なぜこれが「名作」なのか、

正直ちょっとよくわからなかったです。

 

漱石というナルシストと、

その作品をクールだと評価する人たちのナルシストっぷりに、

若干、辟易すら覚えてしまう。。。

 

自分は決してフェミニストではないと思っていますが、

上記の「評価する人たち」には、

どうせ男性が多いんだろうな…

と思わずにはいられません。笑

 

あ、でも、

これはマンガしか読んでいないからであり、

 

実は、

静は二人から愛されていたことを知っていた、

そのうえで「先生」を選んだ、

──ということであれば、

 

必ずしも、

男のロマンに偏り過ぎ…!

とは言えないのですが。

 

あと、

気になった点がひとつ。

こっちはクレームではありません。

 

「友人K」が下宿先で変死を遂げたとき、

「先生」との部屋を隔てるフスマに見たものは、

一体なんだったのか?

 

ただの血しぶき?

それとも、

あえてふすまに血を塗ったのか?

だとしたらそれは誰が?

「友人K」か?

 

こればっかりは原作を読みたくなります。

 

いや、さっきの「静」の描かれ方も、

マンガではなく原作ではどうだったのか知りたいです。

 

ということで、

原作への関心が俄然わきあがってまいりました。

 

そういう意味においても、

ストーリーとしては、

(良くも悪くも)気になる作品だったので、

評価は星3つにしました。

 

原作を読んだら、

またレビューを書きたいと思います。

 

■まとめ:

・マンガで夏目漱石の代表作が読めて、おおすじが手軽にわかってよかった。

・端的に言うと、一人の女性をめぐる男同士の嫉妬・裏切りと、そこからくる葛藤や自責の念に苦しむ男の話。

・結局は、悲哀的な”男のロマン”が描かれていて、漱石のナルシストっぷりや、それを”名作”として評価した人たちの男性的なナルシストっぷりが、逆に気持ち悪いなと思った面もあるが、(それはマンガだからなのかもしれないので)原作を読んでみたくなった。他にもストーリーで気になる点もあり、原作に興味が湧いた。

 

■カテゴリー:

マンガ

 

■評価:

★★★☆☆

 

▽ペーパー本は、こちら

こころ (まんがで読破)

こころ (まんがで読破)

 

 

Kindle本は、いまのところ出ていません

 

※原作のほうは、Kindle版(無料)で出ています。

こころ

こころ

 

 

 

「私はうつ」と言いたがる人たち ★★★★☆

香山リカさん著

「私はうつ」と言いたがる人たち

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

著者の香山さんは、

テレビでもよくお見かけする精神科医。

 

香山さんの著書では、

2年ほど前に、

しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール

という本を読んだことがありますが、

 

これは正直、

それほど印象に残っていないので、

今回もあんまり期待はしていなかったんですが、

 

今回は、

その期待を上回る結果になりました。

 

前回がわりと一般論っぽくて、

新しい視点に欠けている感があったのに対し、

 

今回は精神医学の観点から、

専門的な見解を踏まえつつ、

社会的に蔓延化している「うつ」について分析している点で、

 

ナルホド、そういうとらえ方ができるんだ!

とか

たしかに、そういう面はあるかもしれない!

というような「!」がありました。

 

おもしろかったです。

 

▽内容:

仕事を休んでリハビリがてらに海外旅行や転職活動に励む「うつ病セレブ」、その穴埋めで必死に働きつづけて心の病になった「うつ病難民」。格差はうつ病にもおよんでいる。安易に診断書が出され、腫れ物に触るかのように右往左往する会社に、同僚たちはシラケぎみ。はたして本人にとっても、この風潮は望ましいことなのか?新しいタイプのうつ病が広がるなか、ほんとうに苦しんでいる患者には理解や援助の手が行き渡らず、一方でうつ病と言えばなんでも許される社会。その不自然な構造と心理を読み解く。

 

この本が出版されたのは2008年で、

前掲『しがみつかない生き方』より、

ちょっと前の著書になります。

 

最近、

自分のまわりでも、

この本にとりあげられているような、

自称「うつ」的な人がいて、

 

(自分はなんら迷惑も被害も被っていませんが)

別の友人がそのことで苦労?していたので、

この本を読んでみようと思いました。

 

彼女は30代半ば。

新卒入社以来、

ずっとひとつの会社で営業職として働くベテラン。

 

このところ遅くまで仕事に追われる毎日で、

クライアントからのクレーム、

新人の教育、

一緒にやっているパートナーとの仕事に対する温度差などもあって、

ついに出社拒否に。

 

仕事量や内容にも不満がたまり、

パートナーや新人にもイライラ、

仲の良い他の同僚が、

高いパフォーマンスで仕事をして昇進、

また別の同僚は、

自分よりゆったり仕事して、

20時くらいには帰れている毎日。

 

なんで自分だけがこうなのか?

こんなに頑張っているのに。

一体、いつまでこの状態が続くのか。

 

苛立ち・倦怠感・焦燥感など、

いろんな気持ちが込みあげてきたのでしょう、

急に職場で涙が止まらなくなり、

朝、会社にも行けなくなってしまったそうです。

 

休職して病院にも通いました。

 

通った病院も複数にわたり、

あるときは適応障害

またあるときは自律神経失調症

そして最近では初期の躁うつ病といわれたり。

 

睡眠薬、安定剤、抗うつ剤漢方薬

いろいろ処方されたそうです。

 

彼女を心配する同じ会社の同僚は、

時々彼女と会って様子をうかがっていましたが、

会社の外での彼女は、

めちゃくちゃ元気。

 

とても病気がある人には思えないほどハツラツとしているし、

付き合っている男性とはお盛んで、

BBQや飲み会にも顔を出している。

 

そのくせ、

仕事の話になると、

自分の上司がどれだけクソか、

会社がどれだけ組織としてなっていないか、

自分が関係するパートナーや新人がいかに使えないか、

 ──などなど、

自分がこうなったのは周りのせいと言わんばかりに

愚痴のオンパレード。

 

その友人(同僚)は、

次のように言っていました。

 

たしかに彼女のチームには組織的な問題があるのは事実、

でも皆心配して彼女を休ませている。

 

彼女が休みの間、

ただでさえ回っていない仕事を、

皆で分担してなんとか回している。

 

それなのに、

彼女は愚痴を言うだけ。

 

しかも、

プライベートでは元気なのに、

仕事になるとやる気が起きないなんて、

彼女にも「わがまま」なところはあるんじゃないか、

 

病気なのは仕方ないけれど、

その病気を見守るべく、

他のメンバーは心配して助け合っている。

 

だからといって

復職しろとは言えないし、

自分には言う資格もないけれど、

もう少し申し訳なさというか、

謙虚な気持ちがあってもいいんじゃないか?

 

すべてを周りのせいにして、

愚痴ばかり言って、

それでいてプライベートを満喫してるから、

接しているとイヤになってくる…

 

──およそそんなことを、

その友人は言っていました。

 

これを聞いたとき、

難しい問題だなと思いました。

 

私が彼女に接して感じたのは、

病気という面もあるかもしれませんが、

彼女の気の持ち方が、

彼女を病気にさせてしまったんじゃないかと。

 

その気の持ち方とは何か?

 

──それは、

主観的にいうと「嫌悪感」、

客観的にみたら「ワガママ」というヤツです。

 

身体的にも精神的にもつらい、

まわりはどんどん昇進したり、

あるいは早く帰れたりしているのに、

自分は毎日追い詰められて仕事している、

もうこんな毎日はイヤだ!

会社になんか行きたくない。

 

そして本当に行けなくなり、

病院に行ったら、

それらしい診断名がつけられる。

 

──これが真相かと思います。

 

要するに、

「プッツン」です。

 

「プッツン」して病気になった。

 

あるいは、

「プッツン」が病気を利用した

といってもいい。

 

なぜそれが真相だと思うのかというと、

自分にも同じ経験があるからです。

 

私も一時期、

体のあちこちが不調で、

不調であること自体もそうですが、

そこからくる不安や不眠も相まって、

消化器や腰痛の薬のほかに、

安定剤・睡眠薬抗うつ剤を服用していました。

 

当時は、

夜は終電・朝は始発といった多忙な毎日で、

かれこれ10年くらい、

パソコンのモニターをみながら

ランチも自席で済ますような生活を続けていたので、

もちろんストレスはものすごくあった。

 

でも、

自分としてはすでにそのストレスに気づいていて、

いま思い返すと、

そのストレスを受け入れることがイヤになったから、

病気になった気もしています。

 

最初の5~6年こそ、

そんなストレスになんか負けてたまるか!

といったコンチキショー根性で乗り越えていましたが、

 

後半から徐々に、

表面上はストイックに装いつつも、

毎日イヤだなーと思って仕事をしたと思います。

 

他の人は早く帰れているのに、

なんで自分だけ?

 

──そして、

終盤はもう、

完全に自分の気持ちに気づいていた。

 

結婚もして、

経済的に逼迫しているわけでもないのに、

そもそもこんなに働く必要なんてあんのか?

 

やりたくないやりたくないやりたくない…。

 

──毎日そう思っていました。

 

人間は、

気づいている・気づいていないにせよ、

嫌がっていると、

それを避けるための口実を探してきてしまうものです。

 

本書のなかで、

 

うつ病の”無意識的利用”

 

という表現がありましたが、

まさにそれに近い状態だったと思います。

 

私の場合は、

うつ病なのか何病なのか、

結局はっきりしなかったけれど、

おそらく心身症の一種であり、

 

香山さんの言葉を借りると、

窮地から脱するために、

心身症という病気を無意識に利用したんだと思います。

心身症という病気に無意識に罹患したというか。

 

病気を利用し、

病気になるべくしてなった。

 

先の知人のケースも、

私のケースもそうですが、

病気になったことそれ自体は、

ある意味仕方なくて、

たしかに環境のせいもありますが、

半分は自分のせいでもあると思います。

 

大事なのは、

とにかくイヤだと思っていたこと、

だから逃げたということ。

──この真実から目を逸らさず、

きちんと向き合って認めることです。

 

イヤだと思って逃げたことそれ自体は、

他人からいいとか悪いとか言われる筋合いはなく、

自分でいかようにでも評価すればいいのであって、

とにかくウソ偽りのない自分を見定めることが

大事だと思います。

 

中途半端に、

病気のせいで自分はこうなった、だから仕方ないんだ

と思っていたら、

いつまでたっても何も解決しない。

 

そうではなくて、

病気をよんだのは自分で、

自分がそこから逃げたくて、

病気を利用し、

病気になるべくしてなったということを、

 

私も含めて、

いわゆる「うつ病」や「心身症」、

あるいは「うつっぽい人たち」はみな、

認識しておいたほうがいい。

 

そのうえで、

どうしてイヤだったのか、

なぜ逃げたかったのか、

イヤだと思わないようにする(なる)にはどうすればいいのか?

──といったことを考えないと、

本当に何もかわらないと思います。

 

薬も必要かもしれませんが、

認知行動療法もいいでしょう。

 

しかし何より大事なのは、

すべて正直に自分を見直し、

受け入れることが大前提で、

まずそこから始めなければ、

招いてしまった病は去らない。

 

時間はかかるでしょうが、

まずは自分におおもとの原因をあて、

環境なんていうのはひとつの起爆剤にすぎない

という観点で見直していったほうが、

ずっと根治率は高いと思います。

 

自分は1年くらいかかって

ようやくその領域にたどり着いたくらいです。

 

長年腰痛に苦しんだ夏樹静子さんも、

その著書『椅子がこわい』のなかで、

 

プライドが高ければ高い人ほど、

自己流の考え方・解釈にこだわり、

思い込みが強ければ強い人ほど、

痛みや病気にとらわれなかなか治らない

──というようなことを言っていました。

 

病気になったのは仕方ない、

病気なんだからやむを得ない、

あの環境が自分を病気にさせた、

 

そうやって「病気」や「環境」のせいにしてばかりで、

本当は自分が逃げているんだということを、

見て見ぬふりするような高慢ちきな人間は、

いつまでたっても「病気」から逃れられない。

 

いったん治っても、

自分の「心」が治っていないので、

いつまた再発するかわからない。

 

繰り返しますが、

そもそもは、

自分が招いた病気なのです。

逃げる口実として病気になった。

 

何病とかストレスで病気になったとかいう前に、

ストレスと感じている自分、

その状態から逃げ出したいと思っている自分を、

素直に認めることです。

 

環境やストレスのせいだったら、

プレッシャーや殺人的スケジュールに追われる芸能人は

みんなうつ病になるだろうし、

激務が原因なら、

長時間労働の人はみーんなうつ病になるはず。

 

もちろん、

起爆剤にはなると思います。

 

でも、

うつにならない人だってたくさんいる。

 

ならば自分にも何か原因があるわけで、

 

うつにならない人は、

同じストレスがあってもそれをイヤだと感じていない・感じてはいけない、

あるいは生きるうえで仕方ない、

──くらい諦めて受け入れている。

 

うつになるような人は、

イヤだと思っているし、

こんなことやる必要(意味)はない、

こんなのは自分じゃない・もっとラクで楽しい人生があるはず!

──どこかでそう思っている。

 

いくら見かけでは、

責任ある仕事を任せてもらってる・大変だけどやり甲斐はある、

なーんて言ってても、

本当の自分の気持ちは逃げたくて仕方ない。

 

もはや負け犬です。

 

私たちは、

自分が負け犬であることを正直に認めるべきなのです。

 

私は、

うつ病になるのは自分が弱い・自分が悪いという説は、

あながち間違いではないと思います。

 

自分がイケてないことを認めたくないから、

病気で誤魔化そうとしているのです。

 

話を戻しますが、

本書で問題になっているのは、

実は逃げたあと・誤魔化したあとの対応であり、

これが「ワガママ」なのかどうかだと思います。

 

自らの欲や都合だけを押しとおして、

他人に迷惑をかけてしまえば、

多少なりとも「ワガママ」になるのでしょうし、

 

迷惑をかけないようやり過ごせば、

それは「ワガママ」とみなされません。

 

仮に他人に迷惑をかけたとしても、

不快感を与えず上手いことやれば、

「ワガママ」とは言われない。

 

たとえば、

 

①イヤだと思っていた

②病気になるべくしてなった

③休職

④その間、自分の仕事を誰か他の人がやる

⑤その人は不快に思う

 

この時点で、

うつ病だろうと何病だろうと産休であろうと、

完全に「ワガママ」なのです。

 

私も一時、休職しましたが、

いま考えたら、

仕方ないことだったとはいえ、

ワガママだったと思います。

 

仮にこれが、

次のようなパターンだったらどうか。

 

①イヤだと思っていた

②病気になるべくしてなった

③病気だとは認めたくないし、

他の人に迷惑をかけるわけにいかない

④続行

⑤悪化

⑥休職

⑦その間、自分の仕事を誰か他の人がやる

その人は不快に思う

 

③→④の時点では、

「ワガママ」ではありませんが、

⑥→⑧の時点では、

立派な「ワガママ」になります。

 

ところが、

 

⑦その間、自分の仕事を誰か他の人がやる

⑧'でもその人は、それを不快には思わない

 

だったらどうでしょうか。

これだと「ワガママ」にはならない。

 

うつ病であれなんであれ、

それこそ今問題になっている妊婦さんであっても、

結果として他人に迷惑をかけ、

その他人が不快だなと感じれば、

それは「ワガママ」になるし、

感じなければ「ワガママ」にはならないのです。

 

ごくシンプルに考えたら、

そういうことなのです。

 

「ワガママ」を通した以上、

しかるべき対応をするのが本来はスジで、

申し訳ないと思う気持ちを呈したり、

 

仮にそう思っていなくても、

まわりとのトラブルを避けたいのであれば、

謙虚に装うのが適していると思います。

 

あるいは、

「ワガママ」と受け止められる前に、

先の⑦→⑧’のように、

まわりから不快には思われないように、

事前の根回しや、

あるいはさも申し訳なさそうに平謝りするとか、

そういう対応が必要なんだと思います。

 

つまるところ、

そういったフォロー的な対応がされていないことが問題なのであって、

すべて「病気」「妊娠」のせいにして、

なんでもアリ状態になっているのが、

いま蔓延している「うつ病」や「逆マタハラ」の実態なのではないでしょうか。

 

彼女はこれを「権利の乱用」と言っていました。

本当にそうだと思います。

自分を振り返ってみても、

残念ながらそうだったと思います。

 

仕事というのは、

本来、

やらなくてはいけないもの。

 

それがイヤになったとき、

それから逃げること・逃げたいことはタブーなわけで、

そういう自分を認めたくない。

 

でも、やりたくない。

 

そういうときはサボったり、

仮病して休んだり、

あえて手を抜いたりするわけですが、

 

そんなことをしても一時しのぎだとわかっていたり、

途方もない壁が、

なかば永遠に立ちはだかっていると思ったとき、

 

ついに人は、

「プッツン」するわけです。

 

でも、

先に述べたとおり、

逃げることを認めたくないし、

かとって辞めるわけにもいかない。

 

自分のキャリアに対するプライドもあるから、

いまの仕事を失うのはマズイという不安もある。

 

でもでも、

逃げたい・イヤで仕方ない、

しかしだからといって、

ダダをこねるのはみっともない。

 

じゃあどうする?

 

そうだ、

「病気」があるじゃん!

となるわけです。

 

意識的にただ「プッツン」してしまったら、

それはダダをこねているようなものだから、

 

病気をつかって「プッツン」する、

あるいは、

「プッツン」が病気を利用する

 

このときは、

半分は意識的だけども

半分は無意識で「プッツン」しているといってもいい。

 

そして、

ぜんぜん無意識なときもあります。

完全な「うつ病」というのは、

まさにこれだと思います。

 

前掲『椅子がこわい』でいうところの、

「疾病逃避」というヤツでしょう。

 

「あなたの意識している心は本当に仕事をしたがっているのかもしれない。しかし、あなたの気がつかない潜在意識が、疲れきって悲鳴をあげているのです。そこで病気になれば休めると考えて、幻のような病気をつくり出して逃避しているのです。それがあなたの発症のカラクリなのです」

※夏樹静子『椅子がこわい―私の腰痛放浪記』より

 

本書では、

「疾病利得」という表現をしています。

 

意識の上では、なりたくない、治りたい、と思っているのに、何物かが彼らを治癒から遠ざけている

 

その「何物か」こそ、

「無意識」という代物だと。

 

無意識は、自分がうつ病だと自己申告し、そうありつづけることが追うラスになることを本人に知られないように巧妙に計算し、そのうえでうつ病の症状を生み出し続けるのだ。だから結果的には、この病であることは彼らにとってなんらかの利益をもたらす。本人の思惑ではないこの利益を、精神医学の世界では「疾病利得」と呼ぶが、現代社会で”自称うつ病”は、いろいろな意味でもっとも疾病利得が得られやすい病気となっているとも言える。

 

では、

完全な「うつ病」と、

半意識的・半無意識的に病気を利用した「それ以外」を、

どう見分けるのか。

 

著者は、

本当の「うつ病」というのは、

時と場所を選ばないということを

第一義的に挙げていましたが、

 

それ以外に、

ベテラン精神科医のこんな言葉を紹介していました。

 

うつ病と診断してがっかりした人はうつ病うつ病と診断して喜ぶ人はうつ病じゃない」

 

要するに、

うつ病」と診断されて、

やっぱりそうか・これは病気だから仕方ないんだ

と納得してしまうケースは、

 「うつ病」もどきになるようです。

 

もどきの人にとっては、

自分が調子が悪かったり逃げたい口実が、

これでしっかり出来上がったわけなので、

妙に納得して時として喜ぶ。

 

本書では、

こうしたうつ病の無意識的利用を、

 

窮地に立たされ、正当な方法では願望の実現がむずかしいと思った人が、いわゆる”最後の手段”を使って願いをかなえる、というやり方

 

 と表現していました。

 

そしてその背景には、

以下のような事象があると、

著者は指摘しています。

 

いま、「うつ病」は自分の置かれた不本意な状況や調子の悪さを自分で納得し、まわりに理解してもらうための”最適なひとこと”になりつつある。

 

「病気を同情や責任逃れの手段にしたい」と心のどこかで考えている人にとって、うつ病は「使える病」になってしまっている 

 

ではでは、

いったいなぜ、

うつ病がかくも「使える病」になったのか。

自称「うつ病」の人たちが増えたのか。

 

本書で指摘されていることを要約すると、

大きく4点。

 

1.

「問題や事件が起きると、なんでもすぐ”心の問題”として語ろうとする傾向」が増え、プライバシーや人権という美名のもと、”心の問題”について批判することは許されない雰囲気が醸成された

 

学問の発展やメディアの拡散によって、

”心の問題”に対する理解が広まった一方で、

なにかあるとすぐ”心の問題”扱いする。

 

そもそも”心の問題”でその人を批判するのは、

人権侵害になるから、

そうなっちゃうともう批判できない。

 

そんな空気が常態化してしまったことが、

自称「うつ病」が増えている原因の1つだと。

 

著者によると、

日々、芸能ネタや政治家の行動として、

云々言われているようなことも、

 

あくまで日常心理や常識の範囲内で考えるべきことであって、精神科医や心療内科医、臨床心理士が登場して診断や治療の方針を専門用語を使ってあれこれ語り、マスコミや世間もそれについて”心の問題”として議論する、という種類のものではない

 

と言っています。

 

2.

うつ病が誰でもなりうるもの・被害者的な疾患として広く認知されるようになったため、自分のアイデンティティの柱になっていること

 

著者によると、

もはや日本は”一億総うつ病化の時代”で、

 

前掲1.のように、

すっかり一般的な病気として定着しています。

 

でもその病気は”心の問題”だから、

個人に原因を追求するのは許されず、

 

じゃあ病気の原因は何?

ってことになると、

おのずとそれが社会に向くのは当然で、

やれストレス社会がどうの、

やれ成果主義がどうの…となる。

 

”心の問題”を抱えたうつ病の人たちは、

そんな社会の犠牲者だという見方も当然増えます。

 

要するに、

「かわいそうな人」という見方です。

 

だからこそ、

企業は福利厚生でうつ病になった社員のケアをするようになったわけだし、

国や自治体の社会保障も「うつ病」をカバーするようになっている。

 

こういう見方が社会に広まれば、

それを逆手に注目や同情を得ようとする人たちが出てくるのも、

ある意味当然というか、

自然の成り行きというか。

 

普通の人とはちがう何かを求めている人たちにとって、

まわりから同情も得られる「うつ病」は、

恰好のアイデンティティとなるわけです。

 

個人的に興味深かったのが、

以下です。

 

ごく一部の人たちのあいだでは、最近はうつ病というアイデンティティさえ、すでに”使えないもの”になりつつあるようだ。あまりにも多くの人が「うつ病」と名乗るようになり、この病名は決してめずらしいものではなくなったからだ。「ほかの人たちとは一線を画した非凡な私でいたい」と思う人にとっては、うつ病は物足りない診断名になってしまったのだ。

 

では、

そういう人たちが次に注目している病気は何か。

 

彼女はそれを「線維筋痛症」だといっていました。

 

線維筋痛症とは 線維筋痛症友の会 JFSA

 

もちろん、

すべての患者さんが、

自らのアイデンティティのためにこの病気に望んで罹患していると言っているわけではありません。

 

ポストうつ病として、

無意識的に利用され、

発現している・増えているのが、

線維筋痛症」だというわけです。

 

この病気は、

全身性の原因不明の慢性疼痛で、

かくいう自分も一時期、

それを疑ったことがあります。

 

それくらい、

身体の不調にとらわれていたわけですが、

 

いま思うと、

うつ病」はイヤだから、

(自分がそんな精神的にもろい人間だとは認めたくないから)

自分が納得できる疾患を求めていたんじゃないかと

そんなふうに感じるのです。

 

うつ病」はもはやポピュラーな病気で、

「かわいそうな病気」という見方が広まった一方で、

「精神的に弱い人間がなる病気」という見方も

依然としてあるわけで、

 

かくいう私はどうだったかというと、

 

まわりからは

「かわいそうな病気」として見られたい、

でも自分では

「精神的に弱い人間がなる病気」と見下している、

 

──そんな矛盾する気持ちだったのが正直なところで、

 

自分が精神疾患じゃないとしたら、

じゃあなんだ?

それは「線維筋痛症」なんじゃ?

と自己診断していた経緯があります。

 

これだって、

いまだから冷静にそう分析できるんですが、

当時は本当にそうなんじゃないかと思っていたから、

実際に「線維筋痛症」を診断できるクリニックを訪れたわけで、

 

香山さんのご指摘を自身にあてはめると、

まんざらハズレではないと思えたのです。

 

いずれにしても、

病気自体のアイデンティティ化が、

その病気の定着・量産を招いているということです。

 

いつか線維筋痛症も、

うつ病のように、

とらえ方がかわる時代が来るのかもしれません。

 

「そうだと診断されてショック」から、「そうだと診断されずにショック」へ。「そう診断されたくない」から「そう診断されたい」へ。「うつ病」ほど、その受け止められ方や意味が変わった疾患もないのではないだろうか。

 

いやすでに、

もうかわっているのかもしれなくて、

白黒つけないと気が済まない・疾患を突き止めたいからこその、

線維筋痛症」なのかもしれません。

 

すごく苦しくて痛いんだけども、

診断名がついて、

どこかホッとするような感じ。

あとはその疾患を薬や何やらで治していくしかない。

 

本当は、

自分の気持ちや考え方に問題があるのに、

病気にして投薬治療で治そうとする。

 

うつ病にしたって線維筋痛症にしたって、

これで治るわけがないと、

今ならそう思ってしまいます。

 

話は戻りますが、

この「うつ病」のアイデンティティ化において、

著者はこれまた面白いことを言っていました。

 

それは、

 

うつ病はいいけど精神疾患にはなりたくない

 

ということ。

 

うつ病精神疾患のひとつだと思いますが、

本書を私が勝手に整理した限りでは、

 

どうも精神疾患には、

大別して以下のふたつがあるようで、

 

気分障害

うつ病適応障害躁うつ病双極性障害Ⅱ型)

 

人格障害

統合失調症解離性障害境界性パーソナリティ障害

 

というふうに分けられるようですが、

 

うつ病」をアイデンティティ化している人たちにとって、

人格障害精神障害(精神ヤバい系)だけれども、

うつ病はそうではないという位置づけをしている。

 

要は、

本来は同じ精神疾患なんだけれども、

自分の物差しで、

病気を選んでいるということです。

 

この指摘には、

ナルホドナと思いました。

 

で、

うつ病でもない・パニックでもない人たちが、

次に探すのが「線維筋痛症」だと。

 

彼らにとってこれは、

うつ病」と同じく、

”精神ヤバい系”ではない、「かわいそうな病気」だから。

 

私の場合、

うつ病を含むすべてが”精神ヤバい系”だと認識していたので、

そうではない説明のつく原因を、

線維筋痛症」に求めたんだなと思いました。

 

3.

うつ病」に対する誤解、不適切な診断基準によって、安易に「うつ病」と診断するケースが増えたこと

 

これが、

自称「うつ病」あるいは「うつ病もどき」が増えている理由の3つめです。

 

ここは専門的なので、

私も細かいところはよくわからなかったのですが、

 

著者の言っていることを要約すると、

だいたいこんな感じになるかと思います。

 

・「病因」やきっかけがどうであれ、発現している症状さえあてはまれば、うつ病と見なすのが現行の診断基準。それだと不十分で、なんでもかんでも広い意味でのうつ病になってしまう。

 

・確定診断にあたり、本来は一定期間の経過診察が必要だけれども、医療の世界においてもまた、すぐに結果(効率)を出すことが求められているから、医者は患者の症状の自己申告だけですぐに判断を下し、必要に応じて診断書を書いてしまう

 

こうした医療界の現実もまた、

うつ病もどきを量産しているわけです。

 

うつ病」や「うつ病以外」の精神疾患心身症は、

実際、

診察する精神科医によって病名がかわるのはよくあることで、

それくらい曖昧で見分けがつきにくいものだといいます。

 

器質的な疾患がみられないだけに、

症状から短絡的に診断してしまいがちで、

 

言わば、

うつ病」も「うつ病もどき」もいっしょくたに

同じものとして料理されている状態にあるというのが、

今の精神医療の現実なんだとか。

 

4.

「悩みを悩みとして抱えることができずに、すぐに気持ち落ち込み、身体のだるさといった症状に変えてしまう」ことが増えたこと

 

著者はこれを

 

「現代人は悩めなくなった」

 

と表現しています。

 

現代人は弱くなったとか、

ストレス社会のせいだとか、

いろいろ言われているけれど、

 

いずれも間違いではないと思う

と前置きしつつ、

以下のように述べています。

 

親子の悩み、恋愛の悩み、社会に対する悩み、そして生や死、存在の悩み。人生に悩みはつきもののはずだが、いまの人たちはそれらにじっくり向き合い、葛藤し煩悶し、文学や哲学、宗教、人生の先輩などに答えを求めようとしてさまよう、といったことがとても苦手だ。それよりも「あ、これってうつ病かも。つまり、脳の中のセロトニン不足よね」と考えてSSRIを飲んだり、短期の認知行動療法のプログラムに参加したりするほうが、よほど効率的だし、おかしな言い方だが”気がラク”だ。悩みは内面から生じるが、病気だとすればそれは”外から降ってきた”と考えられるからだ。

 

「悩み」や「迷い」を病気や症状に転換して、医療の次元の問題にしてしまう。自分自身のことなのに、「病気に見舞われた」と、どこか他人事にしようとしてしまう。

 

私は、

これが最も印象的でした。

 

冒頭に取り上げた、

知人や自分の経験は、

まさにこれだと思ったからです。

 

ドンピシャ。

 

香山さん、

すごいこと言うなぁと思いました。

 

効率や合理性を追い求めすぎた結果が、

これなんだと思います。

 

社会が効率とか合理性を求めているから、

自分もまたそうする。

 

調子が悪い・しばらくサボりたいと思っても、

じっくり休んでいるヒマなんてない。

常に結果を出すことを求められているから。

 

でも、

じっくり休んでいるヒマがないのは、

本当は昔の人のほうが強いはずで、

 

いまはむしろ、

休んでも死にやしないし、

なんとかなってしまう。

 

だからこそ悩む、迷う、葛藤する。

 

ちょっとくらい休んでもいいんじゃないか、

どうせ死にやしないし。

 

でも、

休んだら何言われるかわからないし、

評価にもひびくかもしれない。

 

ひょっとしたら自分も、

働く気すら失うかもしれない。

 

いやいや、

そもそもこれって逃げたいだけじゃね?

逃げたら負けじゃね?

 

でも待てよ、

逃げてもいいんじゃないか?

負けて何が悪いんだっけ?

 

てか、

逃げるとか負けるとか言う前に、

そもそも自分は何がしたいんだっけ?

どう生きていきたいんだっけ?

 

ああもういやだ、

こんなこと考えても仕方ないし、

かったるいし重いし暗くなる。

 

はやくラクになりたいし、

はやくこの状態に白黒つけて、

なんとかしなきゃいけない!

 

そこに病気が付け入るんだと思います。

病気を呼んでしまうというか。

 

悩んでいる余裕もないくらいに、

経済的あるいは身体的に日々追われていたら、

たぶん病気は別の形でやってくるでしょう。

(それこそ器質的な疾患など)

 

本当は悩む余裕はあるのに、

その余裕は「甘え」だと認めたくないし、

早くなんとかしなくてはという「焦り」もある。

 

本当はとても時間がかかる答え探しなのに、

早く白黒つけなくては、

早くこの状態にケリをつけなくてはと、

自分で自分を急き立て、

効率的に・合理的に回答を得ようとする。

 

そのとき、

うつ病」を利用するわけです。

 

悩む余裕があるという「甘え」と、

されどその悩みに、

真正面から向き合いたくない「逃げ」が、

効率的・合理的な理由を求めて、

そのいきつく先は「病気」になるというフロー。

 

香山さんも、

悩みをすぐ病気に置き換えてしまう現代人の脳の回路には、

資本主義経済やネット社会の影響があると論じています。

 

彼女は、

 

「売れるものがよいもの」と考える市場原理主義に基づく経済のグローバリゼーション化や、「速ければ速いほどよい」とされるネット社会が生み出した社会構造的な問題なのではないか、と思う

 

と述べられており、

 

現代を生きる私たちには、なんの得にもならない悩みごとを悩んでいるヒマなどない、ということだ

 

と記していました。

 

以上の4つが、

「私はうつ」と言いたがる人たちを発生せしめ、

あるいは量産せしめている要因です。

 

もう一度、

おさらいしておきます。

 

1.

「問題や事件が起きると、なんでもすぐ”心の問題”として語ろうとする傾向」が増え、プライバシーや人権という美名のもと、”心の問題”について批判することは許されない雰囲気が醸成された

 

2.

うつ病が誰でもなりうるもの・被害者的な疾患として広く認知されるようになったため、自分のアイデンティティの柱になっていること

 

3.

うつ病」に対する誤解、不適切な診断基準によって、安易に「うつ病」と診断するケースが増えたこと

 

4.

「悩みを悩みとして抱えることができずに、すぐに気持ち落ち込み、身体のだるさといった症状に変えてしまう」ことが増えたこと

 

 

著者はまた、

こうした自称「うつ病」や「うつ病」もどきが横行することによる弊害についても論じています。

 

その1つは、

本当にケアが必要な「うつ病」患者あるいは予備軍に、

的確な医療ケア・公的ケアが施されていないことです。

 

本書では、

自称「うつ病」の人たちのせいで、

本当に「うつ病」になってしまった人のケースを挙げ、

そういう人たちが逆にケアを受けられず、

うつ病難民」と化してしまった人や、

 

あるいは、

大企業のように福利厚生が整っていなくて、

うつ病が進退に悪影響をもたらした人のケースを紹介し、

 

同じ「うつ病」といえども、

そこには明らかに「格差」があると問題提起しています。

 

「私、うつ病なんです」と堂々と言える恵まれた立場の人と、ギリギリまでそれを隠さなければんらない中小企業の社員。うつ病の世界でも格差が進行しつつある

 

「私はうつ」と大手を振って、

「ゴネ得」的・言ったもん勝ち的に、

権利を乱用するような「うつ病セレブ」がいる一方、

 

うつ病と言えなくて、

「尽くし損」的に容態を悪化させてしまう「うつ病難民」もいる。

 

社会において「うつ病」が容認されるようになった陰で、

待遇・処遇に格差が出てきているというわけです。

 

また、

2つめには、

なんでもかんでもうつ病と診断して、

適切な医療行為が施されないことで、

副作用や再発が発生していることなども指摘されていました。

 

たとえば、

躁うつ病の名前で知られる「双極性障害Ⅱ型」には、

SSRIのような抗うつ剤を投与することはむしろNGで、

投与すると症状が悪化したり長引いたりするそうです。

 

ところがこの双極Ⅱ型は、

うつ病適応障害・気分変調性障害といった疾患や、

境界性パーソナリティ障害のような人格障害との判別が難しく、

SSRIが投与されてしまうことも多々あるんだとか。

 

かといって、

厳密に区別しようとしたところで、

答えがでないことのほうが多く、

種類も増える一方で現実的ではないそうです。

 

そうなると問題は、まずは「しっかりとした治療や休養が必要なうつ病」と「それ以外のすべて」を見極めることだけが大切、ということになる

 

と彼女は主張していました。

 

長くなりましたが、

概して以下のようなことが

本書で述べられていた内容です。

 

・いま日本には、

自称「うつ病」あるいは「うつ病もどき」が増えている

という状況が生じている。

 

・その背景には、

なんでも”心の問題”としてうつ病を容認したり、

安易にそれと診断するようになった社会の変化と、

 

病気にアイデンティティを求めたり、

疾病者としての権利を主張するようになった個人の変化がある。

 

さらに、

個人も社会も、

人間のもっている悩みや不満を、

なんでもすぐに病気とか症状に変えてしまい、

悩みと向き合わなくなったことも大きい。

 

・その陰で、

適切なケアが受けられず難民化している人たちがいたり、

逆に不適切な治療を施されて、

長期化や再発が生じている。

 

彼女は最後に、

次のように自論を述べています。

 

ほんとうに必要な人が気軽に精神医療を受けられることがいちばん重要なのは言うまでもない。ただ、私たちの世界を深みのある豊かなものにするためには、時間をかけて悩み、苦しみ、答えを出そうともがき苦しむことも必要なのではないだろうか。「私ってうつ病だから」とだれもが安易に口にして、薬を飲んだり長期休職することが人間の進歩だとは、とても思えない

 

本当にその通りだと思いました。

 

これだけ医学が発展しているのに、

社会の制度も成熟しているのに、

そして労働時間も減っているはずなのに、

なぜ自殺者や精神疾患が増え続けているのか。

 

これは先日読んだ『下山の思想』で、

五木寛之さんも言っていましたが、

 

結局、

科学のオウンゴールというか、

 

答えが見えないものを、

なんでもすぐ白黒つけて解明しようとする現代医療の罠だというわけです。

 

香山さんは、

そこにじっくり腰をすえて向き合いなさい、

と言っている。

 

私は自分の経験からしても、

本当にそうだと同調することができます。

 

ただ、

ちょっと違うのは、

「時間をかけて」という以上、

「薬を飲んだり長期休職すること」もまた、

あってもいいというのが私の考えです。

 

それは周りにとっては「ワガママ」かもしれないけれど、

結果として、

本当に自分と向き合うことができれば、

それはとても貴重な、

そして一番の「治癒」になると思います。

 

そして、

立ち直って、

素直に謝罪したり、

あるいは同じ「ワガママ」をくり返さないこと。

 

これが何より大事なことではないかと思うのです。 

 

今日は、

すでにまとめてしまったので、

「■まとめ 」は省きます。

 

次は、

五木寛之さんと香山さんの

鬱の力

を読みたいと思います。

 

■カテゴリー:

健康・医学

 

■評価:

★★★★☆

 

▽ペーパー本は、こちら

「私はうつ」と言いたがる人たち (PHP新書)

「私はうつ」と言いたがる人たち (PHP新書)

 

 

Kindle本は、いまのところ出ていません

下山の思想 ★★☆☆☆

五木寛之さん

下山の思想

を読み終えました。

 

評価は、星2つです。

 

先日、

同じ五木寛之さんの『大河の一滴』という著書を読みましたが、

 

内容としては、

だいたいこれと同じようなことが書いてあったのと、

 

体裁的にも、

思いついたことをとりあえず片っ端から書いている感があって、

決して論理的とはいえず、

考察の深堀にも欠けていて、

いまひとつパッとしない感じがありました。

 

著者自身、

【おわりに】で、

この自著を「雑文」と表現されていますが、

本当にそのとおり。

 

Amazonなどでは

「哲学・思想」のカテゴリーに分類されているので、

私も当初は

これにならってカテゴライズしようかと思ったのですが、

 

読んでみたら、

あまり理路整然としていないし、

決して学術的でもなんでもない、

ただの五木さんの「エッセイ」でしかない(笑)。

 

ただ言いたいことを、

筆のおもむくままに書き連ねただけじゃねーか!

と思ったので、

自分としては『大河の一滴』同様、

こちらも「エッセイ」としてカテゴライズしました。

 

ちなみに、

大河の一滴』が98年の刊行で(新装版は2009年)、

こちらの『下山の思想』は2011年。

 

両方とも、

本屋さんで目玉的に売られていた記憶があるのですが、

読んだあとの自分の感想としては、

彼のエッセイは、

名前負けしている感があります。

 

もう少し具体的に言うと、

小説家・放送作家としての功績で有名になりすぎて、

あとは何書いても売れちゃう的な。

 

出版社がそこに目をつけ、

エッセイも書かせて、

五木寛之」という名前だけで、

もう立派な宣伝になるわけで、

中身はオッサンの独り言でも全然OK。

 

ちょっと独創的なところがあれば、

根拠や考察が甘くても、

五木寛之」の名前で十分売れる。

 

──だいぶ酷評になってしまいましたが、

なんだかそんなニオイがプンプンしました。

 

とはいえ、

 

酷評しまくったからといって、

かわりに擁護するわけでもないのですが、

 

感覚でモノを言っているわりには、

(いや、だからこそなのかもしれませんが)

共感できる部分も結構あって、

決して全部が全部、

つまらないというわけではありません。

 

私は五木さんの良さは、

いろんなことをよく知っていて、

「雑文」であるにせよ、

うまくそれを入れ込んでくるところだと思います。

 

提供される側としては、

世話好きのオッサンに、

ちょっとした薀蓄を教わっているような、

親近感みたいなものを感じます。

 

彼は仏教に精通しているので、

法然親鸞にも詳しく、

 

たとえば、

いわゆる南都北嶺でおなじみの「顕密仏教」について、

次のように説明してくれます。

 

今の私たちは、

南無阿弥陀仏の念仏に帰依する浄土宗(あるいは浄土真宗)こそ、

鎌倉時代から一世を風靡し、

現在まで広く親しまれていると思いがちだけれど、

実はそうではない、

古くから比叡山高野山で教えられていた、

専門的で高尚な「顕密仏教」は依然として強い影響力を持っていて、

現在までその影響は残っている

 

また、

論語』のなかに出てくる

〈貧にして怨むなきは難し。富みて驕るなきは易し〉

という一句を取り上げ、

 

その意味を

 

アドバンテージを有する者が、謙虚にふるまうのは、それほど難しいことではない。逆に、貧する者がおだやかにそれに耐えることのほうが、はるかに難しい

 

と説明し、

以下のように自身のコメントを付記しています。

 

もてる者の驕らぬことを世間は多とする。しかし、それは思ったより楽にできるものなのだ。むしろ、逆境にあって世を呪わぬことのほうが、はるかに困難なことだ。孔子という人は、人心の機微に通じたところがるなあ、と、しみじみ思った

 

これには

へぇそんな言葉があるんだー

と思いましたし、

 

聖人君子とはいえ、

いつも頭でっかちなことばかり言っているわけではない、

ちゃんと人の心の機微に寄り添ったことを言っているんだよ、

──と五木さんから教わっている気もしました。

 

同様に、

 

養生に貯金なし、という。

同じく、記憶にも貯金はない。昔、学生のころに読んだ小説のことなど、いまはほとんどおぼえていない。貯金はあっという間に消えてしまうものなのだ。だから、養生も日々これに努めるしかないのである。昨日、これだけ運動したから今日はいいだろう、とはいかない。体も、頭も、日々ちゃんとガソリンを入れなければもたないのだ。

 

記憶もそうだ。思いだし、正確なディテールを語ったり書いたりすることで、わずかに残る部分がある。

 

と述べられているのも、

印象的でした。

 

彼は、

こういう名言や名句を引用し、

それを簡単にさばいて、

ちょっとそれに味付けして、

さっと私たちの前に出すのが上手だと思います。

 

ときに、

思いもよらぬ「へぇ」が生まれる。

 

逆に、

体系的に整理したり、

客観的に論理だてて説明するのはヘタクソ。

 

でも、

ご本人としても、

”データや理論が全てではない”と豪語し、

”感覚が大事だ”と主張しているので、

それでいいんだと思います。

 

読む側も、

彼に客観性や論理性などを求めてはいけないのかもしれない。

 

近所にいる、

ちょっと世話好きなオッサンに、

たまに話を聞くのもまた一興

 

…みたいなスタンスで、

彼のエッセイを読むのがちょうどいいのかも

と思いました。

 

▽内容:

どんなに深い絶望からも人は起ちあがらざるを得ない。すでに半世紀も前に、海も空も大地も農薬と核に汚染され、それでも草木は根づき私たちは生きてきた。しかし、と著者はここで問う。再生の目標はどこにあるのか。再び世界の経済大国をめざす道はない。敗戦から見事に登頂を果たした今こそ、実り多き「下山」を思い描くべきではないか、と。「下山」とは諦めの行動でなく新たな山頂に登る前のプロセスだ、という鮮烈な世界観が展望なき現在に光を当てる。成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す画期的思想。

 

本書の裏表紙にも書かれている、

上記の内容を噛み砕いて説明すると、

だいたい次のような感じになるかと思います。

 

・明治以来、日本は高みを目指して成長しつづけてきた。今もまだ、より一層の成長を求めてみんな躍起になっているけれど、登山にたとえて、戦後の高度成長期あたりまでを「登る」フェーズだとしたら、今はもう「下る」フェーズ。

 

・登山においては、「登る」ことだけがすべてではない。「下る」こともまた重要なシメの部分。「登る」ときはひたすらそれに熱中するけれど、「下る」ときはのびやかに、かつ細心の注意を払いながら、登ってきた過程や次なるチャレンジについて考えるとき。

 

・いまこの時代を「下山」のフェーズにあると考えれば、いまこそ鷹揚に、けれども冷静に・注意深く、来し方・行く末についてじっくり考える時代であり、積極的に打って出ていく時代ではない

 

・すでに少子化、経済成長の鈍化などすでに停滞感がみられ、震災や原発事故がそれに追い打ちをかけるように日本を突き落したけれど、そこから這い上がって、困難を打開し、さらなる高みを狙うという時代はもう終わったこれからは、既存の価値観を捨て、限られた資源・限られた成長のなかで、どうつつましく生きるかという方向に舵をきるべき。

 

「下山」の思想とは、そうした一種の諦めに近い、後ろ向きな姿勢で物事をとらえていく考え方。そもそもこの世に絶対とか真実なんていうものはほとんどないわけで、たとえ後ろ向きであっても、それが普通なんだと鷹揚に受け止め・受け入れるような覚悟をもつべき。

 

・「下山」の境地からこれまで登ってきた道を思うとき、それが仮に滅茶苦茶つらい道のりだったとしても、それをどうとらえるかは人それぞれの自由。過去はいかようにも評価できる。過去を振り返るのは現実から目を逸らしてダメだという否定的な意見があるけれど、ノスタルジックに、甘い郷愁を抱いて、過去を振り返るくらいの楽しみ方をしたっていいのではないか。そのくらい鷹揚な・ライトな気持ちで、今という時代を生きてもいいんじゃないか。

 

以上が、

五木さんの言う、

「下山」という思想の主旨かと思います。

 

彼は、

いま我々がいる場を、

山登りにたとえ、

「下山」という表現を使っていますが、

 

製品のライフサイクルでいうと、

 

1.導入期

2.成長期

3.成熟期

4.衰退期

 

この3→4のところに、

今の日本はいるんだ

と主張しています。

 

そうかとおもうと

 

いま、この国は、いや、世界は、登山ではなく下山の時代にはいったように思うのだ。

 

とおっしゃっていて、

一瞬、日本だけでなく、

「世界全体」がこのフェーズにあるかのようにも受け取られるのですが、

 

よくよく読んでみると、

その前に、

「世界の先進国」という言葉が出てきています。

 

要するに、

 

彼が言っている「世界」とは「世界の先進国」で、

それは

日本が今まで模倣してきた欧米列強を指しているわけで、

 

日本も含めて先進国はみな、

もはや「下山」している、

成熟期から衰退期にさしかかっているんだ、

 

──著者はおそらく、

そう言いたいんだと思います。

 

著者はまた、

人生のライフサイクルにたとえ、

 

「下山」は、さしずめ「林住期」から「遊行期」への時期だ

 

とも言っています。

 

古代インドには、

次の人生を四つに分ける思想があったそうです。

 

「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」

 

要は、

人生にもピークがあるように、

日本というこの国もまたピークがあって、

もうそれは通り越したんだ

と言っているわけです。

 

私は、

どうもこれが納得できない。

 

いや、

言っていることはわかるし、

五木さんの展開するニヒリズム思考にも、

全く賛成なんですが、

 

いま日本は、

下山のフェーズにあると感性で語るのは、

腑に落ちないのです。

 

ちょっとうまく言えないのですが、

 

何千年もあとに、

いまの日本は下山の時代にあるとは言い切れないわけで、

あくまでそれは、

今の、今だけの視点でしかないのでは?

と感性でいうなら尚更そう思うのです。

 

だから、

下山の時代にあるという一言で、

時代論として語られるのが、

どうも納得できませんでした。

 

ひとの人生は絶対にいつか終わるけれど、

国家・社会においてはいつ終わるかわからない。

時は永遠に流れ続けるわけで、

終わりは見えない。

 

そこに果たして、

ライフサイクルのような区分をあてはめちゃっていいの?

 

五木さんがすんなりとそのように言えるのは、

ご自身のいまいる場所(年齢)が、

すでに登山を終えて、

下山のフェーズにあるからであって、

 

それだから

なんだか説得力があるように思えるんじゃないか?

 

言い方をかえると、

五木さんが20代・30代で今このときを生きていたら、

こういうふうには書けなかったんじゃないか?

と思うわけです。

 

同じように、

登山を終えた中高年の方々は

これを読んで納得できると思うんですが、

若い人たちはどうだろう?と

少し懐疑的になってしまいます。

 

この本のなかで、

彼が「下山」のフェーズに位置づけているのは、

あくまで日本という社会全体なんですが、

ベースになっているのは自分の人生なんじゃないの?

ただの自分の人生論なんじゃないの?

というくらい、

ちょっと穿った目線で見てしまう。。。

 

とはいえ、

 

感性の赴くままに語られた時代論としては、

ちょっと無理があるなとは思いつつ、

日本の成長が鈍化しているのは事実だし、

これ以上高望みして一体どうするんだ?

という考えには、

いたってアグリーです。

 

常に前向きで先に進もうとする世の中の動きに、

ちょっと距離をおいて勘ぐってみたり、

常識にとらわれないようにすることが、

下山の時代においては必要で、

 

”当たり前”だと言われていることを

”当たり前”だと思ってはいけないし、

”前向き”だけではなく”後ろ向き”なことも必要、

ずっと”前向き”に生きようとするから、

ひずみが生まれるわけで、

ときには”後ろ向き”さも大事。

 

だいたい現代人は、

なんでも二分法で白黒つけようとするけれど、

白黒つけられなかったり、

どちらも併存することのほうが多いのが実態で、

そもそも二分法なんていうのは簡単で合理的だから、

便宜的に多用されているだけ、

もう少しグレーという曖昧さを広い心で受けとめるべき、

 

なんでも白黒つけて、

科学的に解明しようとするから、

(昔だったら病気ではない人が)病気とされ、

鬱病も増えて、

結果として医者は超激務になって、

必要なところに必要な医療がまわらなくなって…

という悪循環が生じている。

 

──これらが、

五木さんの主張する

下山において必要な戦術(あるいはキャッチアップすべきポイント)で、

 

これには、

本当にそうだなぁ

と共感しました。

 

特に、

下山のフェーズにおいて、

医療もこれ以上進歩させる必要はあるのか?

と懐疑的になっているところが印象的でした。

 

いまいちど、

下山の境地から人生を見直すとき、

人間にとって生老病死は当たり前。

人は絶対にいつか死ぬわけだから、

人間は生まれたときからもうすでに老いはじめている、

けれど科学は、

どんどん人間を「死」や「老」から遠ざけようとしている。

 

人間は百二十歳くらいまでは生きれるという。医学、栄養学、公衆衛生などの発達とともに、人は長く生きることが可能になってきた。

 

その結果、

高齢者が増える。

 

高齢者が増えるということは、

イコール病人が増えるということであり、

これだけ医療が発達しているにもかかわらず、

この国は病人だらけ。

 

病人が増えれば、

またそれを科学でなんとかしようとする。

 

これについて

五木さんが次のように述べているのが、

とても印象に残りました。

 

人間はいずれみずから世を去るときを選択しなければならないのではないか。それを自分で決め、周囲にも理解されて、おだやかに別れを告げる習慣が定着する時代を想像すると、なんとなく憂鬱な気もしないではない。

 

石飛幸三さんは、

「平穏死」という選択』という著書のなかで、

日本の医療界には延命至上主義という

旧態依然とした悪習がはびこっていて、

目の前に患者がいる限り、

それを何があっても死なせてはいけない考え方がある、

これが見直されない限り、

日本で穏やかに死ぬことは定着しない、

だからこそいまこそリビング・ウィルが大事ですよ、

と提唱しています。

 

日本は、

どんどん死ぬに死ねない国になっているわけですが、

 

五木さんの言うように、

いつか「みずから世を去るときを選択しなければならない」ときが、

日本にもやってくるのかもしれません。

(個人的には、もうそのようにして欲しいですが)

 

先日、

安楽死のできる国』という本も読みました。

 

これは、

オランダにおける安楽死合法化の軌跡と内容をまとめたものです。

 

著者の三井さんは、

 

日本はオランダとちがって、

個人の自由や権利がそこまで認められていないので、

安楽死云々の前にまず個人主義が定着しないと、

日本での安楽死はまず難しいだろう、 

 

──と述べられていましたが、

これだけ高齢化社会・病人大国になってくると、

何百年後は正直どうなっているかわかりません。

 

ひょっとしたら、

五木さんが想像するような時代が

現実に到来しているかもしれない。

 

本書では、

医療の発達はまた、

それまでグレーだったものが

クロとして病気が確定されてしまうという、

「病気と病人の拡大再生産」をもたらしたとも

指摘されています。

 

そして、

日本で自殺者は相変わらず増え続けているが、

その理由の一番は健康問題だという。

これだけ医療がめざましい進歩をとげて、

制度も充実しているのに、

どうして健康問題で自殺する人が増えているのか?

という疑問を呈し、

 

その答えは、

 

きっと社会そのものが、病気と病人を拡大再生産するシステムと化してきたのではないか

 

現代の医療そのものに、どこか大きな問題がひそんでいるのではないか

 

というふうに言っています。

 

ここはちょっと微妙で、

「どこか」ってどこだよ?!

ハッキリさせてよ!

と言いたくなります。

 

自分から疑問を投げかけておいたくせに、

オッサン、ちょっと答えが曖昧すぎるだろ?!

と思わずツッコミたくなりました。

 

このへんの考察がほんと中途半端。

 

風呂敷だけ広げて、

自分の言いたいことを適当に投げておいて、

あとはそれをどう包むか・どううまく持つかは、

読者のほうでどうぞ…みたいな。

 

まさに「雑文」。

 

私の勝手な想像ですが、

五木さんの「雑文」を整理すると、

ざっと以下のような仮説が組み立てられます。

 

医療の進歩

(しかし同時に)医療行為で体を蝕む機会も増える

病気になる人が増えた

不治の病と断定される人も増える

人生に絶望

病院に行っても治らない・副作用が強いのに治療という名目で医療行為を受ける

経済的・肉体的・精神的に追い詰められる

自殺者が増える

 

データが全てではないから、

自分は実感を大事にする!

というスタンスは理解したので、

 

じゃあその「実感」でもいいから、

答えを綺麗に用意しておけよ!

と批判したくなりました。

(もう批判してるけど…)

 

しかし五木さん、

この世を嘆いているというか、

本当に自殺者が多いことを嘆いているなぁと思います。

それくらい自殺者バナシが多い。

 

先の『大河の一滴』でもそうでしたが、

いまの日本は命が軽んじられていることを問題視していましたが、

本書でもまた然り。

 

物価のデフレおりも、命のデフレ、魂のデプレッションを憂うる時代にはいってきた

 

意地悪するつもりはありませんが、

ときには後ろ向きであることも大事だ

とおっしゃられる以上、

命をながらえることに全力を注いだのがこれまでだったら、

これからは下山のフェーズとして、

命の終わりを自分で決めるのもやむを得ない

とはとらえられないのかな?

──と不思議でもありました。

 

これは、

私の読み方が甘いだけかもしれないのですが…。

 

五木さんの文章は、

どうしても感性で書かれているところが大きいので、

理路整然としないところがあり、

ときに矛盾しているなと感じることも

随所であります。

 

それにいちいち突っかかるくらいなら、

それこそ最初から期待してはいけなくて、

 

次回からはもう、

そういうものだと思って読むことにしよう!

と思いました。

 

これぞまさに、

下山の境地?

 

■まとめ:

・書いてあることは『大河の一滴』など、他のエッセイとだいたい同じ。日本の社会のピークはもう過ぎた。いまは、ギアをシフトに入れ替えて、坂を下るとき。下山という諦めにも似た境地で、つつましく生きるべき。そのほうが軽やかに生きれる。

・科学や医学も然り。これ以上、高望みしてどうする?下山の境地から人生を見直すとき、人間にとって生老病死は当たり前、でも科学はそれらを遠ざけようとしている。それが逆にどんどん病気をつくりだし、みずから生を終わらせることを選択する人も増えている。いまいちど、下山の境地に立ち戻るべきではないのか。

・言っていることに共感できるところは多々あったが、どれも感性で書かれている部分が多く、理路整然としなかったり、ときに矛盾していると感じる部分もあった。決して体系的・論理的に書かれたものではないので、考察や論拠が甘すぎ!とツッコミたくなる箇所も。哲学や思想といった学術的な要素を求めてはならず、あくまでエッセイとして読むべき。

 

■カテゴリー:

エッセイ

 

■評価:

★★☆☆☆

 

▽ペーパー本は、こちら

下山の思想 (幻冬舎新書)

下山の思想 (幻冬舎新書)

 

 

Kindle本は、こちら

下山の思想

下山の思想

 

 

 

安楽死のできる国  ★★★★★

三井美奈さん著

安楽死のできる国

を読み終えました。

 

評価は、星5つです。

 

この本は、

世界で初めて安楽死を合法化させたオランダについて、

その経緯や内容・影響について書かれていますが、

生きるって?死ぬって?

自由って?

個人(主義)って?

といったいろいろな概念についても、

非常に考えさせられる一冊でした。

 

▽内容:

大麻・売春・同性結婚と同じく、安楽死が認められる国オランダ。わずか三十年で実現された世界初の合法安楽死は、回復の見込みのない患者にとって、いまや当然かつ正当な権利となった。しかし、末期患者の尊厳を守り、苦痛から解放するその選択肢は、一方で人々に「間引き」「姥捨て」「自殺」という、古くて新しい生死の線引きについて問いかける―。「最期の自由」をめぐる、最先端の現実とは。

 

つい最近、

アメリカ人の29歳女性が、

今月1日(11/1)に安楽死するとWEB上で宣言したことが、

アメリカはもとより日本でも話題になりました。

 

末期患者が米女性 来月1日「安楽死」公表 | 日テレNEWS24

 

彼女の名前は、

ブリタニー・メイナードさん。

 

彼女は悪性の脳腫瘍におかされ、

このまま何もしないと余命半年、

とはいえ医師から告げられている治療法は、

副作用が深刻で日常生活にも支障をきたしかねず、

治療したからといって病気が治るわけではないとのこと。

 

緩和ケアも視野にいれましたが、

そのうちモルヒネでもおさえられないような激痛に苦しみ、

人格や認識力を失って死ぬという終末を迎えるのがつらくて、

安楽死」を選択することに至ったそうです。

 

彼女はその選択をYouTubeで公開し、

それがきっかけで全米でいま、

安楽死の是非が大論争になっているのだとか。

 

米29歳女性をめぐる「安楽死」大論争:「尊厳をもって生きる」こと | 新潮社フォーサイト

 

日付を決めて安楽死をおこなうことについて、

彼女がこのように言っているのが印象的でした。

 

「それは私の選択なのです。私のこの選択に反対している人は、私が"自分で死ぬ日を決めている"という大きな誤解をしています。そうではありません。私は"生きる日"を決めたいのです」

 

ここでいう”生きる日”とは、

自分らしく生きる日、

要は、

”自分が納得できる生き方をする期間”

ということだと思います。

 

彼女を批判するわけではありませんが、

これは一見、

映画のような綺麗なセリフのように聞こえるものの、

 

裏を返すと、

自分らしく生きれない、

自分が納得できる生き方ができない人生は、

もう死んでいるようなもので、

生きるに値しないということ。

 

これに対し、

人生ってそんな短絡的でいいんだっけ?

生命をあまりにも軽視していないか?

という反対意見が出るのもわからなくもなく、

 

これに

宗教的あるいは政治的な考えがのっかって、

大論争に発展したというのも想像がつきます。

 

実際、

彼女は宣告通り11/1に自ら命を断っており、

カトリックの総本山・ローマのバチカンでは、

批判の声があがっているようです。

 

バチカン、米女性の安楽死批判 「自殺は良くない」:朝日新聞デジタル

 

私自身、

安楽死には賛成なのですが、

世の中には様々な考え方があって、

それこそ生命にかかわる大問題なわけですから、

慎重に事を進めるのには異論ありません。

 

詳細は後述しますが、

いずれにせよ、

このニュースがきっかけとなり、

この本を手に取った次第です。

 

本書は、 

世界に先駆け、

いちはやく国として安楽死を合法化させた

オランダについて説明したものです。

 

今から約10年前(2003年)に書かれたもので、

内容としてはちょっと古いのですが、

三井美奈さんという

読売新聞の記者の方が書いています。

 

実は最近、

世界を脅威にさらしている「エボラ」の記事で、

彼女のお名前を見かけました。

 

エボラ感染看護師が快方に、日本の薬投与と報道 : 国際 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

 

この本を書いたとき、

彼女はベルギーブリュッセル支局に

特派員として駐在していたようですが、

 

どうやら今は、

パリに駐在されているみたいですね。

 

本書を読んで印象的だったのは、

 

・客観的な内容と私見がきっちり分かれていて、

非常にわかりやすかったこと

 

・その客観的内容も、

地道な取材や文献調査をふまえ、

順をおって(整然として)説明されていたこと

 

・文体も歯切れがよく、

アテンションのとりかた・書き方など、

「読者を惹きつけるための記事」に熟練されている感が

 満ち満ちていたこと

 

──などが挙げられます。

 

さて、

ここからは本書の内容にアプローチしていきます。

 

そもそも、

安楽死といっても、

いろんなパターンがあるようで、

 

医者が致死薬を注射して患者を死なせる「積極的安楽死」、

患者自身が処方された致死薬を服用する「自殺幇助」、

疼痛緩和のために生命短縮を伴う鎮痛剤を投与する「間接的安楽死」、

完治を目的としない(諦める)「延命治療の停止」、

 

──大きくは、この4つに分けられるそうです。

 

日本では、

 

意図的に絶命させる「積極的安楽死」や「自殺幇助」を

安楽死といい、

 

「間接的安楽死」や「延命治療の停止」によって、

「安らかな死」を与える・求めるものを

尊厳死というようです。

 

上記のように言い方をかえているのは、

 

安楽死〉が、

PUSH型の死で、

どこか短絡的で非倫理的なイメージを与えるのに対し、

 

尊厳死〉は、

PULL型の死で、

根源的には生を求めつつも、

やむを得ず死に至るという点で、

倫理的に仕方ないというイメージを呈し、

安楽死〉とは一線を画そうとする意図があるようです。

 

とはいえ、

著者も指摘しているとおり、

どちらの死でも・どのパターンでも、

その動機になっているのは個人の「死の権利」

すなわち「自由に死ぬ権利」であることに変わりはなく、

 

日本における、

尊厳死〉という呼称は、

 

語感のよい言葉を使うことで「危険視」されることを避けたとも言える。

 

要するに、

安楽死〉にせよ〈尊厳死〉にせよ、

どちらもおおもとは、

自由に「安らかな死」を求める〈安楽死〉なんだけれど、

安楽死〉と〈尊厳死〉を分けることで、

「死ぬ権利」の突破口を少しでも切り開こうとした(している)のが

日本だということです。

 

また、

興味深かったのですが、

 

実際、尊厳死という言葉はあいまいで、定義は国によって異なる

 

そうです。

 

たしかに、

先の米国女性の記事でも書かれていましたが、

 

ブリタニーさんの選択した死に方は、

医師に致死薬を求め、

それを服用するというもので、

 

これは

先のパターンでいうところの「自殺幇助」にあたり、

日本では〈安楽死〉に該当します。

 

しかしアメリカでは、

これは〈尊厳死〉とみなされています。

 

米国で議論になっている「尊厳死(death with dignity)」は、「医師による自殺幇助」を意味します。しかし、日本で言われている尊厳死(必要以上の延命行為なしで死を迎えること)は、米国では「自然死」を意味しています。この米国での「自然死」については、リビングウィル(生前の意思表示)に基づき、「患者の人権」として、現在ほとんどの州において法律で許容されています。目下、米国で合法化の是非が議論になっている「尊厳死」は、日本で言われている「安楽死」を意味します。

 

彼女の自発的な死は、

(アメリカ国内においては)

容認レベルとしては比較的ハードルの低い「尊厳死」として、

その是非が問われているわけですが、

 

これが日本だったら、

短絡的な「安楽死」の範疇で語られるわけで、

そしたらもっと総バッシングを喰らうのかもしれない。

 

以前、

石飛幸三さんというお医者さんが書かれた

「平穏死」というススメという本を読みましたが、

 

そこには、

日本には延命至上主義という悪しき文化があって、

無駄な延命措置ばかり行われている実態が書かれていました。

 

この延命拒否については、

いまでこそ日本でも議論されるようになって、

リビング・ウィルの認知度も高まってきていると思いますが、

 

すでに欧米では、

無駄な延命をしないという処置は、

先のアメリカのように「自然死」とみなされていたり、

同様にオランダでも「治療の停止」に過ぎないそうで、

いちいち然るべき機関に報告する義務もないそうです。

 

延命措置の停止については、

いずれ日本でも、

欧米のようなフェーズに至るのかもしれませんが、

 

著者の三井さんいわく、

 

日本の場合、

(延命停止も含め)安楽死うんぬんというよりも、

その前に解決すべき問題があって、

それは一言でいうと、

「個人の尊重」だと言っていました。

 

彼女は、

 

日本では、

こと生死のかかわる医療行為に関しては、

患者本人よりも「医師まかせ」「家族まかせ」になることが多く、

ときとして本人不在となることが多々ある点を挙げ、

 

日本では、安楽死の是非論より、患者の自己決定権をどう確立すべきかを探るほうが先決

 

と論じています。

 

まずは、

本人の意思を尊重し、

本人の責任のもと、

治療という医療行為から変えていかなければいけないのですが、

日本にはそういったベースがまだ出来上がっていない。

 

対して、

オランダでは、

そのベースがすでにできあがっている。

 

本書では、

安楽死の普及に必要不可欠な4つの社会的要件

が紹介されていますが、

 

その要件とは、

 

①だれもが公平に高度な治療が受けられる医療・福祉制度②腐敗がなく信頼性の高い医療③個人主義の徹底④教育の普及

 

だそうです。

 

先述の「個人の尊重」は、

この③にあたります。

 

①の医療・福祉制度については、

オランダでは高齢者の医療保険が整っており、

医療費や介護費用など、

社会保障で手厚くカバーされているので、

高齢者の自立を可能にしているのだとか。

 

実際、

オランダにはお年寄りの一人暮らし、

あるいは一世代暮らしが多く、

年をとっても子や孫に頼らずに、

安心して生活できる基盤があるんだとか。

 

日本も介護保険を導入しましたが、

オランダほど医療福祉にまわせる資金がない。

 

日本でも高齢者の一人暮らしは増えていますが、

相変わらず老後は不安だし、

高齢者の医療保障や介護保険は、

もはや破綻しつつあります。

 

そうしたなかで、

安楽死が合法化されてしまうと、

安易に死を選択するお年寄りが増えてしまう。

 

これでは安楽死は合法化されないし、

普及しない。

 

②の信頼性の高い医療については、

オランダでは日本とちがって、

「かかりつけ医」の仕組みが導入されています。

 

安楽死は受けるほうの負担も当然ありますが、

施す側(=医者)の負担ももちろんあって、

彼らに精神的な不安があるとやりづらい。

 

それには法的な支えや、

安楽死そのものに対するノウハウが必要となってきますが、

 

仮にそういったものがあったとしても、

最終的には患者との信頼関係がないと、

不安は拭えないわけで、

 

それを支えるのが

「かかりつけ医」のシステムだといいます。

 

かかりつけ医は患者の性格を熟知し、心身両面で診断できるから、安楽死という難しい決断を下すことができる

 

医者と患者の信頼が築けないような社会では、

いくら安楽死を制度化したところで、

気に入らなかったら金で解決するようなビジネスが横行し、

結局、水面下で不法な安楽死が売り買いされる状況が続くだけ。

 

日本でも、

この危険性は往々にしてあるわけです。

 

そして、

日本で安楽死の制度化が難しいのは、

何より③の個人主義だと著者は言っています。

 

これは何かというと、

 

本人の気持ちを最優先し、

 

安楽死という、自分の生死に関する最重要の問題に、自分自身が向き合って、主体的決断を下せるか、否か

 

ということであり、

 

患者や本人の意思を最優先するベースがないことには、

安楽死の制度ができたにしても、

医者や家族によって安易に制度が利用される恐れがあるわけで、

 

まずは

患者本人の「自己決定権」=「個人主義」を認める社会に変容しなければ、

安楽死を合法化させることは難しいでしょう

というのが彼女の主張でした。

 

最近の日本をみていると、

「個人の自由だろ!」的な発言が多いので、

個人主義の社会に向かいつつあるのかな

と思ったりもするのですが、

 

日本の場合は、

個人の権利だけ主張して、

責任は自分でとらないような、

負の個人主義が横行しているだけなのかもしれません。

 

自分の権利を認めてもらうなら、

他人の権利も認めなければいけないわけですが、

なんか日本って、

「個人の自由」という名目で、

自分だけ認めてもらおうとしすぎる気がする。

 

社会の風潮や枠組みが中途半端だから、

いい加減な個人主義が生じるんだろうし、

本来、人なんてみんな勝手でワガママだから、

その仕組みに乗っかってしまう。 

 

──それが日本だと思います。

 

でも、

オランダは違う。

 

オランダでは、多くの先進国でタブーとされていることが、おおっぴらに認められている。自由を尊ぶ気風は、欧州の中でも特に強い。大人も子供を早くから個人として尊重する。

 

興味深かったのは、

オランダでは、

不良になるのが難しいそうです。

 

たいていのことは認められるので、

そもそも「不良」のレッテルを貼られないし、

逆に自立を迫られるんだとか。

 

著者曰く、

こうしたオランダの社会の枠組み=緩い「社会管理術」こそ、

安楽死を可能にさせたといいます。

 

オランダでは、

売春も麻薬も同性愛もOKですが、

根底にあるのは、

 

オランダは単なる「やり放題」の国ではない。(中略)売春も麻薬も、需要がある以上、闇取引は消えない。頭から禁止したら、マフィアの資金源となり、人身売買やハードドラッグの売買など、さらに深刻な犯罪を招く。それならいっそ、一定範囲で認める代わりに、ガラス張りにして管理しよう、という考え方だ

 

と述べています。

 

彼女は、

続けて以下のように言っています。

 

安楽死も、こうしたオランダ独自の思想に基づく。水面下でこっそり行われる安楽死に目をつぶれば、医師や家族がそれぞれの思惑から患者の要求なしに殺してしまう危険性がある。密室の殺人を防ぐため、「患者本人の自発的要望」に基づく安楽死に限り、一定のルールをつけて認めよう。その代り、届け出制度を敷いて、第三者の目が届くようにしよう、というのが安楽死法の趣旨だ。

 

モノにもよりますが、

日本はどちらかというと

この逆の社会管理術をしている気がします。

 

改正貸金業法しかり、

麻薬取締法しかり。

 

個人を尊重(信用)できないから、

ガチガチに制限して、

なんでも型にはめて評価しようとする。

 

それは決して間違ってはいないけれど、

型にはまらなかったときの落伍(リスク)は、

日本のほうが大きい。

 

不良もそうだし、

闇金もそう、

いまをときめく脱法ドラッグなんて、

まさにその典型的な例だと思います。

 

巨悪を取り締まるために、個人の自由の範囲なら、小さな悪徳は認める

 

──これがオランダ人の誇る社会管理術であり、

安楽死も、

このような思想の延長線上で合法化されたというわけです。

 

著者は、

あるオランダ人介護士の言葉を紹介していましたが、

 

この言葉に、

安楽死を支えるオランダ人の「思想」が

凝縮されているかと思います。

 

「大麻とか売春を認めるオランダについて、君たち外国人は変な国だと思っているだろう。この国では、どうしてもなくならない社会悪は、他人に迷惑をかけない範囲で認めながら、透明な制度を作って管理するのが流儀なんだ。安楽死も同じ。現実を直視して、個人の選択の幅を広げるオランダに、誇りを持っているよ」

 

この緩い社会管理術は、

中世以来のオランダの歴史が築き上げたもので、

本書では以下の二点を

特徴として挙げていました。

 

1.オランダでは早くから商業都市として自治権が認められ、市民文化が栄えていたこと

 

2.宗教の自由とくにカルバン主義の影響

 

1.では、

「金もうけ」するための自由を求め、

各州が団結して専制君主に対抗、

独自の権利(自治権)を獲得して

施政者とは一線を画し、

それが市民文化の隆盛を促したそうです。

 

そのため、

古来から個人の自由度が高く、

宗教の自由も認められていたため、

新教徒や異教徒がオランダには数多く亡命してきたとか。

 

16世紀にヨーロッパを席巻した、

2.のカルバン主義も、

まさにオランダはうってつけの土地であり、

 

彼らの説く「予定説」(堂々と金儲けを推奨)は、

オランダ人に透明度を尊ぶ気風を醸成し、

 

福音主義」は、

死に対する意識が(教会ではなく)個々人に委ねられるきっかけをつくった

と述べています。

 

教会で許しを請えば救われるカトリックと異なり、新教では個人が聖書の言葉を咀嚼しなければならない。その分、信徒は自己の内面に向き合わねばならない。一人で、死の恐怖に向き合わねばならない。

 

ちなみに、

おなじキリスト教であっても、

新教国のほうがカトリック国よりも、

自殺者が圧倒的に多いんだそうです。

 

オランダは新教国のひとつですが、

驚くべきことに、

オランダには自殺志願者の支援団体さえあるといいます。

 

なんとそこでは、

 

薬剤師や医師などの下院十六人が、自殺志願者の相談に応じ、鎮痛剤や睡眠薬の入手の仕方や「確実な自殺方法」を冊子にして希望者に配っている

 

──らしい(驚)!

 

協会方針として、十代の子どもの自殺には応じない

 

という条件はあるものの、

 

実質的には、

自殺に荷担する組織。

 

安楽死を拒否された高齢者などがよく連絡してくるそうで、

自殺を積極的に推進するわけではないが、

 

どうせ死ぬなら、列車への飛び込み自殺など悲惨なやり方より、もっとましな方法をとるべき

 

として、

安全な自殺をサポートしているとか。

 

自殺は公序良俗に反するけれど、

これぞまさに先の

 

巨悪を取り締まるために、個人の自由の範囲なら、小さな悪徳は認める

 

というオランダ独特の考え方を表す言葉だなぁ

と思いました。

 

もちろん、

オランダ国内にだって反対する人たちはいます。

 

患者を「安楽死」させるのではなく、

「緩和ケア」によって最期まで看取るべきとする

ホスピス医の言葉。

 

「現代人は死や死に至るプロセスを、人生の一部として認めようとしない。思うようにならない不完全な人生は、生きるに値しないと短絡的に考える人が、オランダには、なんと多いことか。我々医師は、患者が死を受容できるようにしなくてはならないのですがね」

 

人生は苦痛や試練もひっくるめて人に与えられたもの。我々は、「生かされて生きる」のだから、与えられた最後の瞬間まで生きねばならない。

 

しかしながら、

数のうえでは、

「自分で最後の選択をする自由」を認める安楽死のほうを

支持する人のほうが多いようです。

 

本書は、

 

オランダには三種のパスポートがある。

一つは、海外旅行の出入国時に使う国籍証明のパスポート。残る二つは、「安楽死パスポート」と「生命のパスポート」。いずれも死への旅立ちに使う。

 

という書き出しで始まるのですが、

 

安楽死パスポート」とは、

昏睡時に安楽死させてくださいよ

という意思表示をするもの。

 

逆に、
「生命のパスポート」とは、

昏睡時に安楽死はイヤですよ

という意思表示をするもの。

 

ともに一種の携帯用リビング・ウィルで、

 

両方ともハガキ大で、NGOが発行。取得者は、外出中に事故にあって意識不明になった時に備え、自動車免許や財布と一緒に持ち歩く。

 

発行部数は、

安楽死パスポート」のほうが圧倒的に多く、

「生命のパスポート」の100倍。

 

この「安楽死パスポート」を使う人を含め、

 

オランダでは、

 

年間死者数の二-三%に当たる二千-三千人が安楽死している

 

のだそうです。

 

この数字には、

いわゆる尊厳死(延命停止や疼痛緩和の大量の鎮痛剤投下による縮命)は含まれず、

 

医師が致死薬を患者に注射するか、あるいは患者に致死薬を飲ませて絶命させた「明らか殺人」の場合の合計

 

なんだとか。

 

約10年前のデータなので、

いまはもっと増えているかもしれませんが、

これらの数字を通して言えるのは、

オランダでいかに安楽死が支持されているか

ということです。

 

安楽死パスポート」の内容を聞くと、

日本の「臓器提供意思表示カード」を思い浮かべますが、

日本と違うのは、

臓器を提供するか否かではなく、

安楽死するか否かを示すカードであるということ。

 

これを日本より進んでいる(先進的)と受け止めるか、

逆に退廃的と受け止めるかは人それぞれですが、

 

私個人としては前者で、

いつか日本も、

遅かれ早かれオランダのようなパスポートを持つ日が来るのではないか

と思っています。

(単なる願望でもある)

 

もともと、

安楽死の是非については、

日本より欧米のほうが先行していて、

 

一九三〇年代、英米両国に初めて安楽死協会が結成された

 

そうです。

 

1930年代といえば、日本は昭和初期。

子供がわんさか生まれるなか、

農村不況で皆がひもじい時代。

 

「死ぬ」ことに精一杯どころか、

「生きる」ことに精一杯で、

安楽死」が議論されることなんて、

まずなかったでしょう。

 

ところが欧米では、

すでに「安楽死」が討議されていた。

 

──これには正直、驚きました。

 

なかでもオランダは、

たった30年で合法化にこぎつけ、

2001年に世界で初めて安楽死法を成立させています。

(発効は、2002年)

 

キリスト教の世界において、

そもそも自殺は大きな罪であり、

 

中世以来、自殺者には教会での葬儀が許されないばかりか、遺体はは棒を突き通して街中を引きずり回され、頭を割られ、財産は没収された。欧州では、自殺者に対する凶悪殺人犯並みの「見せしめ刑」が、十九世紀まで生きていた。施政者は、納税や労働の担い手が勝手に自殺することを忌み嫌った。声明は共同体に帰属し、個人が勝手に処分できないものだった

 

とされています。

 

それが時を経て、

 

二十世紀には、植物状態のまま患者を生かし続けるほど医学が進歩し、医師と言う他人が生命の終わるときを決めるようになった

 

──これが当たり前になった。


こうした経緯を踏まえて著者は、

 

オランダの安楽死運動を、「苦痛から逃れる」ことだけが目的と考えるのは誤り

 

で、

 

神や共同体、高度医療に支配されてきた人生の終着点を取り戻す運動

 

といった側面もあると指摘しています。

 

要は、

いままで「生」も「死」も、

神や共同体、医療にゆだねられていたけれど、

個人というものが尊重されるようになって、

それらから解放されるとともに、

「生命の自決権」を主張する動きが出てきた

というわけです。

 

安楽死とは、

個々人の「生命の自決権」を行使して、

安らかに・人間らしく人生を終わらせる死に方です。

 

とはいえ、

キリスト教が浸透する欧米において、

自ら命を断つことは神を冒涜する行為であり、

社会的タブーとされていたわけで、

それをオランダでは、

どう克服していったのかが非常に気になります。

 

その疑問に答えるべく、

話は第二章(オランダ安楽死の歩み)に続きます。

 

ここでは、

 

・1971年にオランダで初めて安楽死合法化運動の発端となる事件が起こり(ポストマ事件)、それが世論を巻き込んで市民運動に発展したこと、

 

・73年には自発的安楽死協会が発足し、

国民の支持を得てオランダの安楽死運動の中心的存在に成長していったこと、

 

・同時に医師会も、

終末期の安楽死容認に動き始めたこと、

 

・そして政界でも中道左派の政党が誕生し(民主66)、

キリスト教的価値観を掲げる保守勢力に対して、

個人の権利・安楽死合法化を主導していったこと

 

──などが説明されています。

 

この民主66とキリスト教系の政党は、

安楽死をめぐって対立していましたが、

政治的に連立政権が成立したことで、

安楽死についても民主66に押される形で、

検討が進んでいったそうです。

 

そして、

82年に起きた事件とその判決によって、

安楽死容認の道が大きく拓かれたとしています。

 

このとき医師会でも、

「無益な延命治療の自粛」が打ち出され、

終末期に限らず、

「患者の自決権」に則って、

安楽死の正当化をガイドラインに定めたそうです。


国民・世論・医学界・法曹界安楽死の是非に沸くなか、

政治も動かざるを得ず、

国会でも安楽死について

討議がなされるようになっていくわけです。


著者はここで、

日本とオランダの違いについて、

簡単に論じています。

 

日本の国会では、安楽死尊厳死が論議されることは、ほとんどない。政治家にとっては、死生観を表明することで批判されるリスクこそあれ、組織票には結びつかない課題だけに、論議対象になりにくいのだろう。だが、オランダでは、安楽死問題が七〇-八〇年代、国会論議を支配した。どの政党も、何らかの法的枠組みが必要という認識では一致していた。

 

いまでこそ、

麻生さんが高齢者医療で「さっさと死ねるように」

発言したことが取り沙汰されていますが、

 

著者の指摘するとおり、

日本では国会レベルで安楽死が討議されるのを

私はまだ見たことがありません。

(やっているのかもしれないけれど)

 

あっても、

一部の議員が尊厳死レベルでの法案提出を試みるくらいで。

 

対してオランダでは、

 

民間レベル(安楽死パスポートの発行)

医学界・法曹界レベル(実際の安楽死事件)

世論レベル

国会レベル(合法化)

 

というように安楽死が普及・議論され、

安楽死が社会に定着していったのが大筋のようです。

 

民間と医学会・法曹界が先に動いて

社会を動かしたと言っても過言ではなく、

これに世論や政治が乗じて、

法制化が進んでいった

 

実際、

90年代には、

「遺体埋葬法」を改定することで、

 

安楽死は刑法犯罪だが、要件を満たしていれば、「不可抗力」によって違法性が阻却され、検察が起訴しない制度が法律で裏付けられた

 

と述べられています。

 

遺体埋葬法とは、

 

元々、人が病院以外の場所で、「変死」した場合、医師が死亡証明を出し、自治体の検視官が異常なしと認めた上で埋葬許可が下りる手続きを定める内容

 

──だそうで、

 

一定の要件下で安楽死をおこなった場合に、

医師は検視官に届け出をしたり、

50の質問に答える報告書を提出するなど、

細かい手順が定められ、

それらを踏めば刑法で起訴されることはない

というわけです。

 

要は、

安楽死は依然として刑法犯罪とされていたけれども、

この法改正によって、

一定の要件下では罪にはならないという点で、

また一歩、

安楽死が容認に向かって前進したということになります。

 

その後、

また安楽死事件が続いたり、

政界でもキリスト教系の政党が政権に入らなかったりで、

ついに2001年に、

安楽死法案が国会に提出されます。

 

今回は、

刑法を改定し、

正面から安楽死を合法化するというものです。

 

この世界初の安楽死法において、

以下の6つの要件がある場合に限って、

オランダでは安楽死が容認されることになったといいます。

 

①患者の安楽死要請は自発的で熟慮されていた
②患者の苦痛は耐えがたく治癒の見込みがない
③医師は患者の病状や見込みについて十分に情報を与えた
④医師と患者が共に、ほかの妥当な解決策がないという結論に達した
⑤医師は少なくとも一人の別の医師と相談し、その医師が患者と面談して要件を満たしているという意見を示した
⑥医師は十分な医療上の配慮を行って患者を絶命させた

 

ここで、
注目すべき点がいくつかあります。

 

・「耐えがたく治癒の見込みがない」苦痛には、

「肉体的苦痛」だけでなく「精神的苦痛」も含まれた

 

16歳以上の未成年にも、

安楽死の自決権が与えられた

 

・刑法改定(=安楽死合法化)にあたって、

本来、政治や民間と一定の距離を置く司法(検察)が、

「便宜主義」に走って社会的風潮に歩み寄った

 

・93年の遺体埋葬法の改定では、

阻却されていたとはいえ、

依然として安楽死は刑法に抵触し、

医師は法的手続きに則って一応送検されていたけれども、

今回の合法化によって、

刑法に抵触しないことになった。

 

背景には、

水面下での非合法的・危険な安楽死の軽減

が目的としてあった

 

・6つの要件さえ満たしていれば、

痴呆が進んで意思表示ができない場合でも、

事前に希望を示しておけば安楽死が成立する

リビング・ウィル(生前意思)が尊重された


著者は、

オランダの安楽死法が、

上記の点において、

「画期的だった」と表現していました。

 

ここで、

五点目について補足しておくと、

 

どうやら、

従来の安楽死に対する法的措置では、

刑法に抵触する以上、

医者側の精神的負担はどうしても払拭できず、

かりに正規の手続きを踏んだとしても、

 

送検されてクロだったら…?

訴えられたらどうしよう…?

──みたいなところは多分にあって、

 

安楽死させても届け出なかったり、

申告しない前提で、

不慣れな安楽死を断行するということがあったようで、

 

オランダは「透明な制度」を作ることで

これらを回避しようとしたというわけです。

 

こうして成立したオランダの安楽死法は、

至るところに影響を及ぼしつつあると、

著者は指摘しています。

 

その一つが、

まず対象となる「人」(あるいは「層」)で、

子供や高齢者・障害者・赤ちゃんなどを挙げています。

 

もう一つは、

「国」

 

まず、

「人」について言うと、

 

先述のとおり、

2002年に発効した安楽死法では、

16歳以上の未成年に安楽死の自決権が与えられていますが、

 

当初の法案では12歳以上だったようで、

 

「親の気持ちを考えて」「子供には重すぎる決定だ」など法案に反対する投書が二万通以上国会に寄せられた結果、政府は法案を修正。十二歳以上十六歳未満の子供については、保護者の同意がある場合に限って安楽死できることになった

 

とあります。

 

しかし著者はこれに対し、

次のように述べています。

 

生まれた時、すでに安楽死容認の社会ができていた世代が増えれば、子供の安楽死権は現実のものとなるに違いない。

 

同様に、

高齢者や痴呆・障害者についても、

現在は安楽死を認める国民的コンセンサスには至っていない

と説明しながらも、

 

それでも、一度突破口が開かれれば、十年先、二十年先には、「患者の自己決定」の美名の下、痴呆老人の安楽死がひんぱんに行われることは否定できない

 

と指摘しています。

 

新生児(赤ちゃん)についても然りで、

 

安楽死は「患者本人の自発的要求」が絶対条件だ。この論理は本来、自分で死の要求ができない新生児には適用できないはずだ

 

と前置きしつつ、

 

だがオランダ人たちは、「新生児にも安楽死は可能」という答えを出そうとしている

 

と言っています。

 

たとえば、

この世に生を受けても、

生まれながらにして重度の障害を負っている赤ちゃん。

 

あるいは、

生まれる前の出生前診断で、

「耐えがたい絶望的な障害」があることがわかってしまった胎児。

 

彼らのように、

「意味ある人生」「人間的尊厳のある人生」を送ることができない場合においては、

医師や保護者の合意のもと、

安楽死させることができる方向にオランダは向かっているのだとか。

 

ちなみに、

何をもって「耐えがたい絶望的な障害」と見なすか

については、

 

政府は、ダウン症HIV感染、筋ジストロフィーなど、新生児が一定期間以上生存可能な場合は対象外と明言している

 

と説明しつつも、

 

(下手に法律で明文化することによって)

「『耐え難い絶望的な障害』の解釈は人によって違う。法が一人歩きして、障害を持つことが、(安楽死の要件になる)『耐え難い苦痛』であるという概念が、社会に広がる危険性がある」

 

と警告する声を紹介しています。

 

印象的だったのは、

障害を持つ子供を授かり、

安楽死させたお母さんのこの一言。

 

(重度障害をもって生まれてくる)子どもは、五十年前なら生後すぐ死んでいた。医療技術の進歩で、こうした自然淘汰がなくなり、重度障害を持つ子供も生き永らえることができるようになった。だから、私たちは問題に直面するようになった

 

私はこれを読んだとき、

ふと、

 

”そうか、

現代の私たちというのは、

そもそも生きていることが実は不自然なのかも”

 

と思ってしまいました。

 

本当は、

いつどこで死んでいてもおかしくなかったんだけど、

医療という人間のつくった技術で、

実は生き永らえているだけ。

 

だから同時に、

 

”生きていることが不自然なら、

死ぬことも不自然であってもいいのでは?”

 

という単純な論理が頭に浮かびました。

 

実際、

「平穏死」という選択』にも書かれていましたが、

死ににくい世の中になっているわけで、

いまの日本の高齢者には、

不自然に生かされている人たちがなんと多いことか。

 

人為的に生き永らえてしまった以上、

人為的に終わらせるのもまた、

ひとつの選択肢としては、

有りなんじゃないかと思います。

 

作家の五木寛之さんも、

著書『下山の思想』のなかで、

以下のようなことを言っていました。

 

──昔は人生50年と言われていたけれど、

いまはめちゃくちゃ寿命が伸びている、

でも本来、

人間の身体は50年くらいが耐用期限で、

50歳過ぎての長生きは相当無理があるんじゃないのか、

そもそも長寿がめでたいというのは、

それが稀有な存在だったからであり、

今の日本のように超高齢化社会で、

これからもっと百歳以上の老人が増えるのを想像すると、

目出たくなんか全然なくて、

むしろ恐ろしい──

 

人間はいずれみずから世を去るときを選択しなければならないのではないか。それを自分で決め、周囲にも理解されて、おだやかに別れを告げる習慣が定着する時代を想像すると、なんとなく憂鬱な気もしないではない。

 

自分はこれを憂鬱とは感じないのですが、

 

彼が指摘しているのは、

まさに「死の自己決定権」=安楽死のことであり、

医療技術の発達したいま、

死ぬに死ねない老人が増えてしまって、

安楽死常態化する時代がやってくるかもしれない

──ということだと思います。

 

話を元に戻しますが、

 

社会的弱者のように、

「意味ある人生」が送れない人たちは、

安楽死を選ぶ権利がある

というオランダの行く末に

著者は疑問をなげかけます。

 

「意味ある人生」とは一体何なのか?

誰にとって「意味ある人生」なのか?

選ぶ権利とはいうけれど、

一体誰がそれを決めるのか?

(本人ではなく)親や医者じゃないのか?

それってもう、

「自己決定権」の範疇を超えちゃってないか?

 

…みたいな感じです。

 

「意味ある人生」については、

 

外部とのコミュニケーションをとる能力の有無や医療への依存度、苦痛の度合い、寿命などから総合的に判断

 

して定義されているそうですが、

 

彼女はこれについて、

次のように問題提起しています。

 

他者とコミュニケーションができず、考えることも感情を表すこともできず、はかなく消える命は、他人に消されても仕方のない「意味のない命」なのだろうか。こう問われれば、簡単にそうだと言えない。私たちは、重度障害者が成長し、成人し、社会に参加している例をいくらでも見ている。どこまでが「意味のない命」なのか、神ならぬ人間が決めることは、果たして許されるのか。

 

これには、

なるほど確かにそうだなー

と思いました。

 

本書では、

 

「現実に目をそむけず、妥当な解決策を探る」オランダ式管理方法

 

を、

 

・「透明性」が高く合理的・現実的

・個人を最優先に尊重

 

一定の評価を下しながらも、

 

安楽死の自己決定権のはらむ危険性、

すなわち、

「情緒的で性急な結論」「単なるわがまま」にも見えるような

安楽死がとりおこなわれることで、

「自殺」との境界線がグレーになったり、

 

社会的弱者の安楽死が容認されてしまうことで、

彼らの生存自体が脅かされると同時に、

安楽死における「自己決定権」の絶対条件が、

本人の範疇を超え他者に渡ってしまうこと

 

──などを問題視しています。

 

彼女はそれを裏付けるように、

社会的弱者の安楽死が容認されてしまう危険性について、

いくつもの声を取り上げています。

 

・オランダ紙:

「痴呆患者に生きる価値はないと考える国民の国。高齢者が周囲に迷惑をかけることができなくなる国。(こんな国を想像すると)恐ろしい光景だ」

 

・心身に重度障害のある妹をもつオランダ患者協会のカウンセラー:

安楽死が容認されると、社会的弱者の障害者や高齢者を『生きなくてもいい命』と見なす考え方が広がるような気がするの。それは恐ろしいことよ」

 

私は、

自殺自体、

反対ではありませんので、

安楽死と自殺の境界線がグレーになることには、

なんら(倫理的な)危機感を抱いてはいません。

 

ただ、

著者の言うように、

社会的弱者の安楽死が容認される副作用は

懸念すべき点ではあるかと思います。

 

私の考えとしては、

本人の意思以外では、

どんな条件でも安楽死を認めるべきではない

と思います。

 

自己判断ができない赤ちゃんにしかり、

障害者にしかり、

判断ができないからといって、

他人がそれを代弁するというのは

やっぱりおかしい。

 

仮に障害をもって生まれても、

本人がもう生きたくないと意思表示したり、

本人が壮絶な苦痛を感じていると

(科学的に)証明される場合において、

はじめて他者の代弁に基づく安楽死が認められるべきであって、

 

親や周りの勝手な判断で、

「意味のない人生」と位置づけ、

第三者が安楽死を選択できるのは、

おかしいと思う。

 

これを〈安楽死〉と言ってはいけない気がする。

誰にとっての〈安楽死〉なのか?

中絶と何がかわらないわけ?

と思ってしまう。

 

あくまで本人主体であるべき。

安楽死にせよ自殺にせよ、

この前提を崩してはいけないと思います。

 

さて、

また話が逸れましたが、

オランダの安楽死合法化の影響その2=「国」についてです。

 

本書によると、

 

オランダの安楽死法成立後、欧州各国で安楽死議論が活発化した

 

とあります。

 

欧州統合の進展でEU内では人の行き来が自由になり、各国の司法格差の解消も進んでいるだけに、オランダの安楽死法の波紋はEU全域に広がった

 

と。

 

EU各国のキリスト教系の保守派議員たちは、

オランダの安楽死法を

「欧州人権条約」に抵触していると非難したそうですが、

 

ベルギーやスイスではオランダに追随する形で、

部分的に安楽死を認める法律を制定したとか。

 

ベルギー法では、

 

積極的安楽死だけを対象とし、自殺幇助を範疇外にしている

 

のが特徴で、

 

この根底には、

カトリック国ならではの

自殺に対する強い「罪悪感」があるそうです。

 

スイスは逆に、

刑法を独自に解釈することで、

自殺幇助のほうを容認しており、

積極的安楽死を禁じているようです。

 

以前読んだ、

福原直樹さんの『黒いスイス』には、

 

スイスもオランダのように古くから地方自治が主流で、

(これはオランダと少し違う点ですが)民族主義的要素が強かったようで、

近隣諸国(とくにドイツ)との緊張関係などによって、

さらに自由を謳歌する気風がより高まった

 

──ようなことが述べれられていました。

 

自由を尊ぶスイスもまた、

売春や麻薬には緩く、

「毒をもって毒を制す」的な社会管理術がとられており、

オランダのそれとよく似ていると思います。 

 

逆に、

安楽死法に激しい拒否反応を示したのは、

ドイツ。

 

その理由について、

著者は次のように述べてます。

 

戦時中、ナチス政権が「優秀な民族を作り上げる」名目で多くの障害者を「安楽死」させた歴史をもつためだ。

 

歴史の過ちを繰り返してはいけないと、

自省であり自制でもある意識が

大きくはたらくのでしょう。

 

前述したとおり、

安楽死常態化してしまうことで、

とくに社会的弱者が社会からはじかれるのは、

懸念すべき点と思います。

 

再掲になりますが、

安楽死制度に反対するオランダ人女性の言葉が、

私はずっと胸に引っ掛かっています。

 

安楽死が容認されると、社会的弱者の障害者や高齢者を『生きなくてもいい命』と見なす考え方が広がるような気がするの。それは恐ろしいことよ」

 

私自身、

安楽死には賛成の立場で、

死ぬのは個人の勝手じゃん!

と強く思っているほうなのですが、

 

個人の勝手といえども、

それをみんな(特に社会的弱者)がやってしまうと、

オランダ人女性が警告するように、

他の弱者の生存を脅かしかねない。

 

こうなると、

単なる個人の問題とは

言いがたい気もしてきます。

 

でも、

だとしたら、

逆もしかりで、

 

たとえば

”障害者でも強く生きられる!”

と宣伝することで、

”障害者だからといって引き籠っているのは落伍者だ!”

という考えが社会に広まるのも、

実は懸念すべきことではないのか?

と思ったりもします。

 

乙武さんが以前、

上記のようなバッシングを受けていた(?)気がするのですが、

 

私も、

これには一理あるなと思っていて、

 

皆が皆、彼のように強くは生きられないし、

身障者であれ健常者であれ、

自分の人生を設計するのは個人の自由なのだとしたら、

自分の生き方を他人に促すべきではない。

 

もしそこに、

他人の人生を意図的にかえようという意思がゼロなのだとしたら、

おそらく安楽死を選択する人も、

他人の人生と意図的にかえようとは思っていないはずで、

 

副作用はどうであれ、

他人の人生を直接的に踏みにじらない範囲においては、

 

やはり、

個人の自由=安楽死はあってよくね?

と思うのです。

 

先の米国人女性の安楽死尊厳死)について、

多くの医療従事者たちが、

彼女の選択を擁護している記事が出ていましたが、

 

そこには、

 

どうして他の人が苦しんでいてもいいと思える人がいるのか自分は理解できない。

 

というコメントがありました。

 

私の感想もこれに少し近いです。

 

そんなにたやすく死なれたら、

一体誰が困るのか?

 

それは、

遺された家族、

遺されたその他の不特定多数のひとたちなのではないか?

 

つまり、

すべて本人ではない人たちで、

 

結局、

(遺された)「自分」がつらいから、

(遺された)「自分」が不利になるから、

だから安楽死に反対しているんじゃないか?

 

──と、

先のコメントの方よりも、

もう少し穿った目で見てしまいます。

 

つきつめると、

結局、「自分」に不都合だから、

彼らは安楽死に反対するんじゃないかと。

 

そんなにホイホイ死なれたら、

家族はつらいし、

医療業界は儲からないし、

税収は減るし、

人口が減ってモノが売れない。

 

それこそ奴隷制じゃないけれど、

他者の恩恵にうえに生活が成り立っていて、

他者に死なれたら困ることになる人たちは、

実はたくさんいるわけで、

そう簡単に死なれちゃうと、

自分たちの生活が脅かされてしまう。

 

だからみんな、

安楽死に反対するんじゃ?と。

 

でも、

もともと人なんてみな、

生まれたくて生まれてきたわけではないのだから、

生きるのを辞めるのも、

生き永らえるのも、

やっぱり個人の勝手!

と思うのです。

 

それを絶対にダメだとまわりが決めるのは、

たとえ家族であっても、

私は違うような気がしています。

 

誰のための命なのか。

 

想いはどうであれ、

究極的にはその人の命でしかないと、

そう思うのです。

 

──いやしかし、

めちゃくちゃ考えさせられたなー、

この本…!

 

■まとめ:

・オランダで安楽死が可能になった経緯や文化的土壌、オランダの安楽死法の内容、賛成者と反対者の声、安楽死(法)を支える社会システム、諸外国への影響・日本との違いなどを、わかりやすく網羅。

・著者はオランダの安楽死法に、「透明で合理的」、「個人の自由を最大限に尊重している」といった一定の評価を下しながらも、「自殺」との境界線の曖昧さや、社会的弱者の生存自体が脅かされること、安楽死における「自己決定権」が他者に渡りつつあることなどを問題提起している。

 

・ちょうどアメリカ(オレゴン)で女性が安楽死した事件もあり、生きるって?死ぬって?自由って?個人の権利って?といった根源的なことについて、深く考えさせられた。

 

■カテゴリー:

政治

国際

哲学・思想

 

■評価:

★★★★★

 

▽ペーパー本は、こちら

安楽死のできる国 (新潮新書)

安楽死のできる国 (新潮新書)

 

 

Kindle本は、こちら

安楽死のできる国(新潮新書)

安楽死のできる国(新潮新書)

 

 

光の海 ★★★★☆

小玉ユキさんのマンガ

光の海

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

前回の『羽衣ミシン』に続きまして、

このところ、

小玉づいております。

 

これもよかったなぁ~。

 

いちおう短編集なので読み応えには欠けるのですが、

(逆にサラリと読めます)

小玉ユキさんの初期の作品として、

その後の

羽衣ミシン』や『坂道のアポロン』にも通ずる、

切なさ・清らかさがありました。

 

▽内容:

先輩、人魚はじめてですか?  海や川に人魚が住む、わくわくするような日常。そこに生きる人間たちの、ごまかしのない姿を、しなやかな感性と細やかな視点で描き出した珠玉のオムニバス。
とある海辺の町、寺の坊主・秀胤(しゅういん)は、住職の孫・光胤(こういん)の言動が何かと気に食わない。明るく奔放で人気があり、住職の血を引く光胤には、かわいい恋人までいる。いい加減なあいつばかりが、なぜ?…悶々(もんもん)とする秀胤だったが!?
●収録作品/光の海/波の上の月/川面のファミリア/さよならスパンコール/水の国の住人

 

前回読んだ『羽衣ミシン』が、

「鶴の恩返し」をヒントに描かれた物語であるのに対し、

こちらは「人魚」が土台になっています。

 

つまり、

伝説(昔話?)がモチーフになっているという点では、

ふたつの作品は共通しています。

 

そのせいか、

ともに現代の架空の話なのに、

ノスタルジックな雰囲気に溢れている。

 

あの『坂道のアポロン』もそうでした。

 

あれはそもそも時代設定が昭和の半ばだったので、

昭和の雰囲気があふれるのは、

当然といえば当然なんですが、

 

それだけに、

今のようなシステマチックな世界観というより、

バンカラで優しくて泥臭い感じが広がっていて、

みずみずしい感じ。

 

──それが彼女の作品に共通する素晴らしさだと思います。

 

タイトルにもなっている第一話の「光の海」では、

受験にやぶれた末、

苦難を乗り越えてようやく僧侶の道を歩むようになった秀胤と、

住職の孫・光胤の話。

 

秀胤が不器用で消極的、

どちらかというとネクラな性格であるのに対し、

光胤は器用で自由奔放、

いつもサーフィンと人魚に明け暮れて、

それでいて周囲からも好かれる存在。

 

コツコツ真面目に修行を積んできた秀胤からすると、

光胤はうらやましい反面、

疎ましい存在でもあるわけで、

それは人魚への慕情を通して、

いよいよ明らかになっていきます。

 

職業上のライバルだけでなく恋敵にもなっていく。

 

そんな光胤が、

ある日、

交通事故であっけなく死んでしまいます。

 

住職に次ぐナンバー2のポジションも、

見た目も器用さも血縁も、

すべて自分から奪っていった光胤でしたが、

急にこの世から消えてしまう。

 

秀胤はそれを人魚に伝えることができません。

 

僧侶というのは、

人が亡くなったときに、

遺された人たちも哀しい思いをしないよう、

「手当て」をするのがその仕事なんだ、

君にも「手当て」してあげるから!

と約束しておきながら、

 

いざ光胤が亡くなってしまうと、

読経は全然読めないし、

人魚にも対して「手当て」できない自分がいる。

 

そして気づくのです、

 

──ああ 

僕はあいつのすべてに

憧れとったんや

くるおしいほどに

 

疎ましいと思っていたのは、

彼に対してものすごく憧れたのに、

いっこうに近づけない自分がいたから。

近づこうともしなかったから。

 

それがわかった秀胤は、

いまから近づこうと決心します。

 

そして、

光胤が使っていたサーフボードに乗って、

海に出かけていく。

 

うまく言う必要なんかない

こわがってほっとくほうが残酷や

今日は跳びまわってないな

岩場におるんやろうか──

寂しくて泣いとるかもしれへん──

そしたら頭なでてやるから

約束守るから

頼むから 姿 消したりせんといてくれ──

 

そうやって、

ずっとゆらゆら光る水面を見ながら、

人魚が出てくるのを待っている。

 

ときに、

光胤と人魚がたわむれる幻覚が見えるし、

 

こうしていると、

ものすごく気持ちがしずまりかえる。

 

物語は、

 

この幻見たさに

私はこの海通いをやめられずにいるのかもしれません

 

という一文で終わります。

 

光胤を追いかけ、

人魚に会うために勇気を出し、

海に出るようになったら、

その海がおもいのほか気持ち心地よくて秀胤をかえた

という結末。

 

この光胤と秀胤の対極的な性格は、

坂道のアポロン』の、

センとボンみたいでした。

 

お互い真反対にいながら、

憧れてもいる存在。

 

私はこの「光の海」が、

この作品集のなかでは一番印象に残りました。

 

二作目の「波の上の月」は、

同性愛を描いたものなんですが、

全然気持ち悪さを感じさせなかった。

 

小玉さんが描くと、

同性愛すら清らかに見えてきます。

 

三作目の「川面のファミリア」もよかったです。

 

両親が離婚し、

父親と暮らす少女が、

父の新しい恋人でもある人魚に、

はじめは嫉妬を感じながらも、

その距離を縮めていく話。

 

最後のほうに、

主人公の女の子が、

 

お父さんに人魚と結婚しないの?

って聞いたら

結婚なんて人間だけのルールでしょうが

と笑われた

 

とつぶやくシーンがあります。

 

このセリフに、

自分は秀逸さを感じずにはいられませんでした。

 

なんだろうなぁ、小玉ユキさん。

独特のセンスを持っているんだよなー。

 

読了後に、

元気が出る!というトーンでは決してありませんが、

じんわりきて優しい気持ちになれます。

 

寝る前とかに読むといいかも。

 

■まとめ:

・人魚という伝説(昔話)をモチーフとしているだけに、ノスタルジックな雰囲気に溢れており、それだけに、今のようなシステマチックな世界観はなく、バンカラで優しくて泥臭い感じが広がっていて、みずみずしい感じがある。これぞまさに、小玉マジック。

・タイトル作「光の海」の二人の登場人物(秀胤と光胤)の関係は、その後のヒット作『坂道のアポロン』に出てくるボンとセンの関係を彷彿とさせる。対局的な性格として描きながらも、自分を変えてくれた貴重な存在として位置づけている。五つの話のなかでは、これが一番印象に残った。

元気が出る!というトーンではないが、読了後は、じんわりきて優しい気持ちになれる。

 

■カテゴリー:

少女マンガ

 

■評価:

★★★★☆

 

▽ペーパー本は、こちら

光の海 (フラワーコミックス)

光の海 (フラワーコミックス)

 

 

Kindle本は、こちら

光の海 (フラワーコミックスα)

光の海 (フラワーコミックスα)

 

 

 

羽衣ミシン ★★★★☆

小玉ユキさんのマンガ

羽衣ミシン

を読みました。

 

評価は、星4つです。

 

小玉ユキさんといえば、

坂道のアポロン』でブレイクした作家さん。

 

あの作品を読んだときの、

衝撃というか、

感動といったらなかったので、

 

今回、

アポロン以前に描かれたこのマンガも

読んでみることにしました。

 

▽内容:

さえない大学生・陽一(よういち)は、ある日、橋に引っかかった白鳥を助ける。その夜、見知らぬ女の子が唐突に陽一の部屋を訪れ、女の子と縁のない陽一は仰天! 彼女は、「自分は陽一に助けられた白鳥」などというのだが、そんなことって…!?透明感と潔さに、心ふるえる青春物語。かきおろし番外編「かえりみち」収録。

 

登場人物は、全部で4人。

 

気は弱いけど素朴で優しい陽一(よういち)、

白鳥の女の子・美羽(みわ)、

陽一の幼馴染でネットショップのオーナー・糸織(しおり)、

そのネットショップのニットクリエーター・沓澤(くつざわ)。

 

アポロンも、

主要人物はボンとセンとりっちゃんの3人で、

こっちのキャラクターも抜群によかったけれど、

今回のキャラも、

それぞれ個性的でピュアでよかったです。

 

彼女の作品に出てくるキャラクターは、

みんないいヤツが多い。

 

といっても、 

100%いいヤツっていうわけではなくて、

それなりに妬んだり僻んだりするところもあって、

それがまた人間らしくていいと思います。

 

そういう内面の妬みとか僻みと向き合って、

どうにかしていくのが人間というもの。

 

見て見ぬふりをして通り過ごすこともあれば、

ぐっと耐えて乗り越えることもあったり、

ときには予想もしないところで誰かに助けられたり…。

 

この漫画もまた、

そういった人間の機微というか、

葛藤とか他人とのかかわりあいとかが、

繊細に描かれていて、

よく出来ているなぁと思います。

 

ストーリーは、

鶴の恩返しがモチーフになっているのですが、

あれと違うのは、

「絶対に中を覗かないでください」

といった条件がないこと。

 

鶴の恩返しでは、

機を織る姿を見ないことを条件に、

美女は人間界に留まり、

それを亭主がうっかり見てしまったがために、

別れなければいけないという結末なので、

 

ある意味、

約束を破ったお前が悪い!

と男性のほうを非難することができるんですが、

 

こっちは違う。

 

最後は、

美羽の姉がやってきて、

無条件に美羽を連れ戻しに来ます。

 

陽一は、

ずっと美羽と暮らせるものと思っていて、

まさに幸せの絶頂にいたのに、

突然、彼女は姿を消してしまう。

 

なんの約束もしていないので、

仕方ないっちゃ仕方ないんだけど、

 

こっちはもう、

陽一かわいそうだな、オイ…

っていう結末でした。

 

結局、

美羽との出会いは、

一冬の良き思い出で終わりということ。

 

それがとてもせつなかったです。

 

でも、

美羽が来たことで、

陽一は橋をつくるという夢をかなえることができたし、

 

沓澤も糸織も、

お互いにとって大事な存在だということがわかって、

結ばれたわけで、

 

彼女を取り巻くまわりの世界は、

確実に「いい方向」に進んだともいえます。

 

幸せを運ぶ白鳥の少女。

 

──それが美羽だったというわけです。

 

私が好きなシーンは、

ミシンをもらった美羽と、

帰宅途中の川の土手で、

陽一がそのミシンを美羽にかわって持つところ。

 

純情な美羽に、

陽一はなぜか突然、

自分の夢を語ってしまいます。

 

陽一:

俺 橋 大好きなんだ

いつか自分で設計した橋を架けるのが夢なんだ

 

彼は、 

自分の言ったことが恥ずかしくなって、

 

い いや

それだけなんだけど

 

と顔を赤らめてしまう。

 

それに対して、

美羽がどう反応するかと思いきや、

 

美羽:

じゃあ私の夢は

その橋を見ることです

 

と返すのです。

 

陽一、ビックリ。

 

私も、ビックリ。

 

なんだこの素敵なセリフ?!

 

そして、

陽一は美羽の手にあったミシンを奪います。

彼女にかわって重いミシンを持とうとするわけです。

 

そのときの陽一の心の声が、

また素敵すぎる。

 

美羽さん俺 こんな気持ちはじめてで

喜びと感動で飛んでしまいそうだから

ミシンくらいの重さがちょうどいいんだ

 

一見、

めちゃくちゃ気障なセリフなんだけれど、

 

全然そう思わせない、

というか

むしろキュンとなってしまうのは、

 

 陽一のキャラクターのせいもあるし、

作品全体に漂う気品のせいもあります。

 

これはもう、

作者の腕によるところとしか言いようがありません。

 

このシーンこそ、

『羽衣ミシン』という

タイトルを象徴するクライマックスだった気がしています。

 

先述のとおり、

最後は哀しいんだけれども、

何とも言えない切なさと清らかさが残りました。

 

美羽がコンビニの唐揚げを食べて、

吐いてしまうところも、

ユーモアがあってよかった。

共食いだもんねぇ…。笑

 

涙あり・笑いあり・人間くささもあるのに、

なぜか気品あふれるピュア・ストーリーでした!

 

 

■まとめ:

・『坂道のアポロン』ばりに、登場人物のキャラが秀逸。個性的でピュア、人として誰もがもつような妬みやひがみも描いていて、人間くさくて良い。

・キュンとなってしまうセリフやコピーが所々にあるが、気障な嫌らしさをまるで感じさせないところがすごい。涙あり・笑いあり・人間くささもあるのに、ピュアな気品が溢れている作品。

・ハッピーエンドではないけれど、哀しさ・切なさと同時に、なんともいえない清らかさ・すがすがしさを感じる。

 

■カテゴリー:

少女マンガ

 

■評価:

★★★★☆

 

▽ペーパー本は、こちら

羽衣ミシン (フラワーコミックス)

羽衣ミシン (フラワーコミックス)

 

 

Kindle本は、こちら

羽衣ミシン (フラワーコミックスα)

羽衣ミシン (フラワーコミックスα)

 

 

 

 

 

下町ロケット  ★★★★★

池井戸潤さん

下町ロケット

を読み終えました。

 

評価は、星5つです。

 

おもしろかった!

 

夜、眠れなかったので、

この本に頼りましたが、

逆に入り込みすぎて、

余計に寝れなくなるという…。

2日くらいで一気に読みました。

 

池井戸さんの本では、

いまのところ、

これがベストかもしれません。

 

昔からこの本の名前だけは、

やたらと電車の交通広告などで目にしていましたが、

まさかここまでだったとは。

 

さすが、直木賞受賞作品。

 

さすが、池井戸潤

 

泣けました。

 

▽内容:

「お前には夢があるのか? オレにはある」

研究者の道をあきらめ、家業の町工場・佃製作所を継いだ佃航平は、製品開発で業績を伸ばしていた。そんなある日、商売敵の大手メーカーから理不尽な特許侵害で訴えられる。
圧倒的な形勢不利の中で取引先を失い、資金繰りに窮する佃製作所。創業以来のピンチに、国産ロケットを開発する巨大企業・帝国重工が、佃製作所が有するある部品の特許技術に食指を伸ばしてきた。
特許を売れば窮地を脱することができる。だが、その技術には、佃の夢が詰まっていた――。
男たちの矜恃が激突する感動のエンターテインメント長編!
第145回直木賞受賞作。

 

この小説、

のっけから主人公が逆風にさらされるところから始まります。

 

まずは、

宇宙科学開発機構のロケット開発において、

自ら手掛けたエンジンの開発ミス。

 

責任を追及され、

組織における前途が閉ざされたなか、

今度は父親の死に直面。

 

彼は、

研究職を辞して家業を継ぐことになりますが、

同じ研究者だった妻からも見放され離婚。

 

母と娘を抱え、

小さな下町の製造会社(佃製作所)で、

従業員数十人を養いながら、

なんとか経営を軌道に載せてきたところ、

今度は主要取引先の大企業(京浜マシナリー)から、

取引停止を告げられる。

 

売上の一割を占める大型の取引先だっただけに、

その痛手は大きく、

営業上ピンチを迎えます。

 

悪いことは続くもので、

そうしたさなか、

競合大手メーカー(ナカシマ工業)から、

特許侵害で訴えれる。

 

目論みとしては、

佃製作所の足元をみていて、

やつらが弱っている隙に特許の裏を突き、

裁判の長期化をはかって、

さらなる経営難に追い込んだところを買収しちゃえ、

というのがそのシナリオ。

 

ピンチのうえに、

大ピンチです。

 

シナリオどおり、

裁判が泥沼化する最中、

これを機に特許のとりかたを見直したことがきっかけとなり、

 

今度は、

政府へのロケット開発・納入をおこなっている

巨大企業(帝国重工)を敵にまわすことになってしまう。

 

これがまた、

予期せぬ大ピンチ!

 

読んでいても、

本当に苦難の連続

 

どうなる?どうなる?

とハラハラドキドキ。

 

これが全く親近感のもてない主人公だったら、

どうにでもなれば?

という感じですが、

この主人公はそうじゃない。

 

ある意味、

可哀想すぎて判官びいきしてしまう面も否めませんが、

キャラクター的に憎めない。

 

むしろ、

応援したくなってしまう。

 

いわゆる”我”(ワガママ?)のような、

人間くさい、あるいは醜い面も持ちつつ、

そんな自分をかえりみて反省したり、

あるいは諦めたり、

謙虚になるところはなって、

人をたてたり、

ちゃんと謝ったり。

 

要は、

単なる「いい人」ではないわけです。

 

だから、

決して偽善者にも思えないし、

架空の人物とはいえ、

とても身近な存在に感じる。

 

それは、

前述のように、

人間の一見「醜いなぁ」と思うようなところも、

きちんと描いているからだと思います。

 

私たちも、

仕事なんかで絶対に自分が正しいと思って、

強い姿勢・口調にでた日、

 

帰りの電車でふと、

やっぱ今日は言い過ぎたかなかぁ…とか

よく考えてみたらアイツの言ってることも正しいよな…とか、

そうやって自分をふりかえって反省したり、

 

いやそうは言っても仕方なかったんだ…と

無理やり自分を納得させたりして、

そういうことは誰しも経験があるわけで。

 

池井戸潤の描く主人公は、

(生い立ちや在籍する企業といったバックボーンはさておき)

ちょっと頑張れば近づけそうな人で、

決して手の届かないような人ではない、

だからつい応援したくなるんだ、

…なんてことを誰かが言っていた気がしますが、

本当にそうだと思います。

 

気持ちのうえでは等身大みたいな。

 

…とかいっちゃって

じつは自分なんて、

等身にも及ばないかもしれないけれど、

かといって、

決して理解できないような人物じゃない。

 

それが池井戸さんの描く人物像で、

だからこそリアルだったりする。

 

この小説に出てくる佃航平も、

またその一人でした。

 

人物像といえば、

主人公だけでなく、

その取り巻きや敵対関係にある人たちの人物描写も、

メリハリがあってよかったです。

 

私が好きなのは、

同じ佃製作所の経理部長・殿村。

 

厳密には、

取引先の銀行からの出向者であり、

最初は

自他ともに部外者的存在かのように描かれていた殿村ですが、

物語の進行にしたがって、

だんだん彼の良さが出てくる。

 

もともと不器用で口達者でない彼は、

その部外者的意識から遠慮がちで、

言うことも遠回しな表現が多く、

 

佃もその扱いに困っているところが見受けられましたが、

 

実は正義感が強く、

義理や人情を大事にする、

まじめで思いやりのある人間。

 

小さな下町の工場に、

技術面で先を越されてしまった帝国重工が、

(部品発注ではなく)特許使用のライセンス契約をもちかけようと、

不当ともいえる取引前の審査をおこなったとき、

彼らは佃製作所をあからさまに見下して、

重箱の隅をつつくような粗探しや否定、

暴言を繰り返します。

 

佃側では、

血気盛んな営業の若手リーダー、

江原がまず反撃する。

 

江原:

「中小企業未満ですね。あなた、なにしにここに来てるんですか。我々は貴重な時間を費やしてこれだけの資料を作成してるんですよ。しっかり評価する気がないんなら、止めませんか。迷惑です」

 

そりゃそうだ。

 

だって、

一生懸命、

徹夜で作業したんだもん。

 

それを、

いい加減なデータだなんて、

自分たちが大手だからって、

勝手に決めつけるんじゃねーよ!

…と読んでるこっちだってそう思います。

 

でも、

そんなふうに言われると、

大企業のプライドが許さない。

 

帝国重工側の査定担当の一人:田村は、

思わず売り言葉に買い言葉で言ってしまう。

 

田村:

「(取引前評価を)止めていいのなら、そうしたいもんだな」

「部品供給だなんて、分不相応なことをいってないで、特許使用契約にしておけば、お互いに無駄が省けただろうにな」

 

そして、 

ここであの殿村が、

一撃をぶちかますのです。

 

殿村:

「なにか勘違いされていませんか、田村さん」

「こんな評価しかできない相手に、我々の特許を使っていただくわけにはいきません。そんな契約などしなくても、我々は一向に困ることはありません。どうぞ、お引き取りください」

 

おまえたちのような輩と

無理に取引しなくたって

全然こっちは構わないんだよ!

 

だから、

「どうぞ、お引き取りください」

というこの一言。

 

よく言ってくれた!

 

少なからず、

そう思った読者は多いのではないでしょうか。

 

あくまで観客なんですが、

この時点で完全に、

佃製作所を応援するサポーターになってしまっているわけです。

 

帝国重工側は、

小さな下町の工場のことだ、

目先の資金が欲しいに決まっている、

ちょっと無理難題を押しつければ、

すぐにこちらの要求(特許使用契約)を飲むにちがいないと、

ハナから見下している。

 

実際、

佃側でも、

目先の利益をとる特許契約派と、

いままでの技術開発と製造という軸にこだわって、

長期的な成長を目指す部品供給派とで、

いわゆる内部分裂が起こっていました。

 

そこに、

社長をはじめとする経営側が、

後者のビジョン(技術開発と製造を軸とした長期的成長)で

なんとか推し進めていこうと舵を切ったところでした。

 

部品供給の線がダメなら、

帝国重工との取引自体を諦めるという覚悟をもって。

 

帝国重工としては、

まさか相手がそこまで覚悟して臨んでいるとは

予想だにしていないわけです。

 

だから、

ちょっと無理難題を押しつければ、

折れるだろうと甘くみていた。

 

これこそが彼らの傲慢であることを、

読んでいるこちらは知っています。

 

対する佃側は、

彼らのそうした具体的な思惑には気付かないものの、

明らかに見下されていることだけはわかる。

 

そこで、

当初、部品供給に反対していた江原たち若手は、

プライドを傷つけられて反発心が芽生えます。

 

大企業の無理難題に対して、

やってやろーじゃねーかコンチキショウ!

と寝る間を惜しみ、

いつも以上に完璧な仕事をこなしていく。

 

彼らの傲慢な姿勢が、

逆説的に、

分裂していた社内を一つにしてしまったのです。

 

私たち読者は、

帝国も佃もどっちの考え・スタンスも知っている。

 

でも、

小説のなかの彼らは、

お互いの目的を知らない。

 

ここに内部告発者がいたりして、

目的を知ったほ一方が、

うまく交渉をリードする

…という話の展開もありえますが、

 

今回、作者がとった道は、

あくまでお互い知らないまま進み、

帝国側の、

相手の覚悟を知らない・知ろうともしない傲慢さが、

かえって佃に勝機を与えてしまうというウルトラC

 

ときに予想もしない相手(あるいは競合)の失態が、

自社の窮地を救うことは、

現実のビジネスでもよくある話で、

 

作者が仕掛けたこのウルトラCは、

ウルトラでありながらも、

決して例外でもない。

 

それを知っているから、

ただの小説のなかの話にも思えません。

 

傲慢さは仇になる

──そういう意識を私たちも常にもっていないといけないな

と思いました。

 

我々は、

そういった双方の思惑や、

現実世界で本当にありうることだと知っているだけに、

この着地がどうなるものかと

ハラハラしながら見守ります。

 

気づいていない彼らの傲慢さに、

気づいているこちらとしては、

早く言ってやれー!

とばかり思っているから。

 

だから、

殿村のシメの一言は、

ものすごい爽快感でした。

 

「こんな評価しかできない相手に、我々の特許を使っていただくわけにはいきません。そんな契約などしなくても、我々は一向に困ることはありません。どうぞ、お引き取りください」

 

まじでスカッとしたなー、

あのシーン。

 

殿村に対する主人公の接し方も、

だんだん変わっていきます。

 

会社を救おう・伸ばそうとする、

殿村の真摯な向き合い方に、

はじめは、

「ありがとうな、殿村さん」

と言っていた佃ですが、

 

いつのまにか

「ありがとうな、トノ」

というようになっていたのが印象的です。

 

ここでも、

度重なる試練が、

逆説的に二人の距離を縮めたわけです。

 

そのちょっと前ですが、

会社の方針に反対派だった佃製作所の若手が、

帝国の査定団を受け入れるにあたり、

会社にポスターを貼ったシーンもよかったです。

 

「──佃品質。佃プライド。」

 

これを目にした佃は、

殿村から事情を聞いて、

そして徹夜明けの本人たちを目の前にして、

胸に熱いものが込みあげます。

 

佃:

「ご苦労さん」

「頼んだぞ、みんな。それと──ポスター、ありがとな」

 

いや、ホントご苦労さん。

関係ないけど、こっちからもありがとう。

と、

自分まで熱いものが込みあげました。

 

主人公や殿村のみならず、

先の江原もよかったし、

技術バカの山崎もよかった。

 

登場人物がそれぞれ役割分担されていて、

みんなよかったです。

 

また、

この小説は、

いろんな対立の構図が登場するのですが、

解説で村上貴史氏が言っているように、

そこには必ずしも一方が善で一方が悪という

偏った価値感は含まれていません。

 

中小企業 vs 大企業、

技術開発 vs 営業拡大、

夢(信念) vs 現実(妥協)、 

…などなど。

 

一見、

中小企業を食い物にする大企業は本当に最低だ!

という描かれ方をしているように見えますが、

全員が全員、悪者かというと、

決してそうではない。

 

帝国重工の戝前も浅木も、

自らの信念に基づいて体制側に反旗を翻し、

ある意味で佃の理解者になったわけですし、

 

自らの理想を盾に勝手に別れた妻も、

特許侵害の裁判の際に神谷弁護士を紹介してくれて、

佃の窮地を救ってくれます。

 

この神谷弁護士とは、

正直、

もう少し会話があるとよかったと思います。

 

なぜ神谷は佃を応援することになったのか。

元々契約関係にあった原告(=ナカシマ工業)との間に何があったのか。

そのナカシマとの裁判に勝ったときどう思ったのか。

…などなど。

 

欲張りかもしれませんが、

できればこれを、

神谷氏のナマの言葉で聞きたかったかな、と。

 

ここが唯一のがっかりポイントでした。

 

それこそ肉付けされなさすぎて、

一番、

非リアルに感じたところかもしれないです。

 

さて、

話をもとに戻しますと、

 

先にあげた

技術開発 vs 営業拡大、

夢 vs 現実、

という対立構図は、

おもに佃製作所の内部の話ですが、

 

これも、

誰が正解で誰が間違いとは言い切れませんし、

作者自体、

そこに善悪や是非の価値判断はつけていません。

 

技術開発に莫大な資本を投下するのは、

長期的な成長戦略を描くには必要なことだし、

かといって足元の営業をおろそかにしては、

会社はまわらなくなってしまう。

 

佃が夢を追いかけるのが利己的ならば、

従業員が現実的に家族を守ろうとするのも利己的だし、

 

現実世界においても、

俺についてこいという経営者がいれば、

部下に権限移譲して

うまく回している経営者だっているわけで、

 

要は、

どっちにもどっちの言い分があって、

どれが正しいというわけでは決してない。

 

それが正しいと信じて、

あるいは間違ったときにはそれを謙虚に認めて、

軌道修正するしていくしかない。

 

物事というのは、

結局そんなもんなんだと思います。

 

そういうことをリアルに描いているから、

この小説はググッと入り込めるんだと思います。

 

仲間につても、あるいは闘いの構図についても、池井戸潤は、画一的にならないようにきっちりと配慮している。 大企業=悪、といった紋切型ではないのだ。大企業のなかにも佃製作所と理想を共有できる人物もいれば、自分の仕事に誇りを持ち、その信念に基づいて行動する人物もいる。そうした人々も佃製作所の仲間なのだ。同様に、佃製作所=善、といった描き方もしていない。佃製作所のなかにも、異なる価値観が存在し、会社の存亡の危機のなかにあってさえ一枚岩になれずにいる。こうした意見の相違を描くさじ加減が絶妙で、人間関係は実に生々しい。

 

先に述べた解説で、

村上氏は上記のように評していますが、

本当にそのとおりだと思いました。

 

氏は、

本作において、

こうした価値観の対立構図・人間関係の描き方のほかにも、

「チームワーク」だったり、

「夢を追って進み続けることの素晴らしさ」だったり、

 「技術を語る面白さ」などを

大変評価しています。

 

「チームワーク」については、

まさに戦友という言葉がそうであるように、

試練が大きければ大きいほど、

いざこざが多ければ多いほど、

その絆は強く、

厚い信頼感が生まれるわけで、

 

苦難続きの佃製作所(というストーリー展開)だったからこそ得られた、

何にも替えがたい副産物であり、

それがリアルに読者に伝わってくるのかと思います。

 

「夢を追って進み続けることの素晴らしさ」や

「技術を語る面白さ」については、

モチーフを「ロケット」にした設定が、

実はすごく功を奏したと思います。

 

ロケットというのは、

人類にとって、

まさに「夢」や「技術」のシンボルです。

 

現実的にも、

そこにかかる技術やコスト・時間、

関係者の期待や熱意は、

どれをとっても莫大なもので、

 

そうした努力や手間ひま・想いをのせて、

宇宙という無限の空間に飛び立っていくわけですから、

これを「夢の結晶」あるいは「(最先端)技術の塊」と言わずに何という

…的な世界だと思います。

 

それがどんなにすごいものかわかっているから、

関係者はもちろんのこと、

見ているこちらまでもが

あの飛び立つときの高揚感や緊張感に

胸をつかまれる。

 

ロケットというのはそういうもので、

だからこそ、

それがうまく打ち上げられたときには、

感動はもう頂点に達するわけで、

 

この小説もまた、

見事にクライマックスを迎える

という展開になっています。

 

これがロケットじゃなくて、

たとえばいま話題の国産小型飛行機(MRJ)だったとしても、

池井戸さんの術にハマれば

それなりに感動するんでしょうが、

 

やっぱり、

より重厚でリスクも高い「ロケット」だったからこそ、

「夢」や「技術」の素晴らしさを

多くの読者に与えることができたのかと思っています。

 

 

■まとめ:

・苦難の連続で、終始どうなることやらとハラハラドキドキしながら読み進んだ。主人公や取り巻きたちの人物像が、とても人間臭く描かれていて、親近感がもてたこともあり、そこに判官びいきもまじって、気づいたら佃製作所のサポーターになっていた。

・対立の構図や人間関係がわかりやすく、すごくリアルに描かれていて、感情移入しやすかった。苦難の連続が逆に会社のチームワークを強くしていくサマも、現実的でかつ感動的だった。

・夢や技術のつまった「ロケット」をモチーフにしたからこそ、それらの素晴らしさを多くの読者に与えることができたと思う。最後にロケットが無事、打ち上げに成功するシーンは、お約束どおりに物語もクライマックスを迎え、感動。泣けた。

 

■カテゴリー:

経済小説

 

■評価:

★★★★★

 

▽ペーパー本は、こちら

下町ロケット (小学館文庫)

下町ロケット (小学館文庫)

 

 

Kindle本は、いまのところ出ていません