父が子に教える昭和史 備忘録(1)
こちらは、
文春新書
の備忘録(1)です。
とても面白かったので、
後学のために備忘録に残しておきたいと考えた次第です。
▽内容:
「日本はなぜ負ける戦争をしたの?」と子供に聞かれたら。あの戦争をめぐる問いに、日本を代表する知性がズバリ答える。満州事変から東京裁判まで、昭和史入門の決定版。
▽目次:
第一部 戦前・戦中篇
1.昭和恐慌 / なぜ起きたのか? (水木楊)
3.二・二六事件 / 昭和最大のクーデターか?(北博昭)
5.南京事件 / 「大虐殺」はあったのか?(北村稔)
6.朝鮮統治 / 植民地化=悪か? (呉善花)
10.新聞の責任 / なぜ戦争に反対しなかった?(山中恒)
11.海軍善玉説 / 陸軍だけが悪いのか?(秦郁彦)
12.エリート参謀 / なぜ負ける戦いを?(波多野澄雄)
13.真珠湾奇襲 / 大勝利がなぜ「騙し討ち」に?(徳岡孝夫)
15.戦艦大和 / 大艦巨砲は時代遅れだったのか?(平間洋一)
16.特攻 / 「必死の戦法」真の立案者は?(森史朗)
17.戦場の兵士 / 軍隊は異常な世界か?(水木しげる)
18.原爆投下 / 米国の戦争犯罪ではないのか?(常石敬一)
19.東條英機 / 日本の独裁者だったのか?(保坂正康)
第二部 戦後篇
21.無条件降伏 / 国体は護持されたのか? (松本健一)
23.シベリア抑留 / 六十万人抑留の真実は?(西木正明)
25.マッカーサー会見 / 天皇はなんと言ったか?(秦郁彦)
27.皇族と華族 / かれらは没落したのか? (後藤致人)
30.民主主義 / 占領軍がもたらしたのか? (岡崎久彦)
31.東京裁判 / 連合軍の報復か正義か? (保坂正康)
ここでは、
印象に残った項目のみ、
まとめておきたいと思います。
長いので、
3回に分けています。
こちらは第(1)回です。
※一部、目次の順序を無視し、
同じような項目の順に並べかえています。
1.昭和恐慌 / なぜ起きたのか?
・時期:
1931年(S6)~1932年(S7)
※本書では上記が「谷底」とされているが、
一般的には1930~1931年と言われている。
・概要:
昭和の初期に日本を襲った大不況。
原因は、先の大戦後のバブルが崩壊したことと、世界恐慌のあおりを受けたこと。
特に農村に与えた影響は大きく、農産物の価格暴落をはじめ、農家の借金がかさみ、娘を遊里に売ったり、学校に行けない学童が頻発。なかには一家離散や故郷を捨てて海外移住をした人も(ペルーのフジモリ元大統領の両親がこれに該当)。東大生も三割しか就職できなかった。
高橋是清(大蔵大臣)による積極財政が展開され(国債発行など)、なんとか持ち直し、成長段階にあった重工業が再び動き出した。
・原因:
―第一次世界大戦後の国内輸出超過に歯止め
―政府の再建策の失敗(浜口雄幸内閣による金本位制=超緊縮財政)
②世界恐慌
―欧州各国が保護主義的な貿易政策に→世界経済は縮小
・その他:
Wikiより
高橋財政によって、日本は円安を利用して輸出を急増させたが、米英などからは「ソーシャル・ダンピング」であると批判を受けた。米英仏など多くの植民地を持つ国は、日本に対抗するため、自らの植民地圏で排他的なブロック経済を構築した(英ポンド、米ドル、仏フラン)。ブロック経済化が進むと、一転して窮地に立たされた日本もこれらに対抗することを余儀なくされ、円ブロック構築を目指してアジア進出を加速させることとなる。日本と同じ後発資本主義国であり、植民地に乏しいドイツ・イタリアも自国の勢力拡大を目指して膨張政策へと転じた。こうした「持てる国」と「持たざる国」との二極化は第二次世界大戦勃発の遠因となった。
2.満州事変 / 日本の侵略なのか?
・時期:
1931年(S6)
・概要:
満州での日本の権益保持と支配権確立のため、関東軍が満州鉄道の線路を爆破した事件。これを機に日本と中国のあいだで武力衝突が起こり、関東軍は満州から中国を追い出した。「侵略」の側面は否めないが、先の日露戦争で得た「権益」を育て、それを守ろうとした「自衛」の面もある。満州建国(運営)は、その後の日本やアジア各国が経済発展するモデルケースになった。
・原因:
―日露戦争でロシアから権益を譲渡された満州鉄道を含め、それまで日本が満州へ積極的に投資してきたものが、中国に奪われそうになったから。
―張作霖(満州軍閥)の取り込みに失敗し、彼の乗った列車が爆破されたことで、息子・張学良が国民党に合流。満州を国民党政府下の領土と宣言。
・結果:
―1933年(S8)に、国民党政府とのあいだに塘沽停戦協定が成立。中国が日本の満州支配を事実上承認。
―官民共同の下で、計画的に重点産業を育てていく方法が功を奏し、満州を短期間のうちに、アジア屈指の工業国にかえた。この手法は戦後日本に適用されて奇跡的な経済発展をもたらし、アジア各国がそれを踏襲。新幹線をはじめ、満州で生まれ、戦後の日本で開花したものはたくさんある。
・その他:
塘沽停戦協定から(日中戦争開始の)盧溝橋事件まで4年間日中の間に戦闘行為はないわけだから、満州事変から第二次大戦までを続けて考える「十五年戦争」という捉え方は実態と乖離
※満州事変における日本の行為は不当として国際的に非難されたため、 同33年(中国との停戦協定の前)、日本は国際連盟を脱退している。
3.二・二六事件 / 昭和最大のクーデターか?
・時期:
1936年(S11)
・概要:
陸軍将校らが、天皇親政による国家改造を目指しておこした、近代最大のクーデター。岡田首相らを襲い、高橋是清ら大臣の命を奪う。この鎮圧も軍事行動でおさめられたが、これを機に、軍部の政治介入が強まる。
・原因:
陸軍における派閥争い(皇道派 vs 統制派)
―軍部中心の高度国防国家を目指す点は同じだが、手段・方法が異なる。
―皇道派は天皇の直接統制による国家改造をめざし、統制派は合法的な国家改造と規律の粛正を目指す(皇道派は精神主義的、統制派は合理的)
―劣勢に立たされた皇道派の青年将校らが、左遷(満州派遣)されそうになり、勢い余って直接行動
・結果:
―昭和天皇の一喝で決起部隊は鎮圧。当初は困惑・呆然とするも、宮中グループの献策を受けて、決起部隊の討伐を決断。天皇親政を掲げた決起軍にとって、この決断は致命的だった。
―事件を鎮圧した陸軍中央部の中堅幕僚(武藤章・石原莞爾)が、革新幕僚グループとして台頭、皇道派を一掃
―同様のテロやクーデターの恐怖をちらつかせながら、陸軍は高度国防国家建設を目指し、政治への干渉を強めていく(日本は一層軍国主義へ)
・その他:
決起グループのクーデター計画は貧しいものだった
彼らにはクーデターの綿密な実行計画も、成功後の新国家建設計画もなかった
集められた将校グループも、(中略)一枚岩ではなかった
事件の企ては初めから破綻の危険を多分にはらんでいた
5.南京事件 / 「大虐殺」はあったのか?
・時期:
1937年(S12)
・概要:
日中戦争開始直後の日本軍が、占領中に南京で敗残兵・捕虜・一般市民などを「大虐殺」したとされる事件。東京裁判で断罪され、日本軍の戦争犯罪の代表的な事件として挙げられることが多い。真相をめぐって、「三十万人大虐殺」説と「事実無根」説がある。どちらも決定的な証拠はないが、日本軍による人道に背く殺害行為があったのは事実。とはいえ、「大虐殺説」は中国が企んだ情報戦でもあり、今でも外交カードとして使われている。日本側も反省に立ちつつ、事実を明らかにしていく必要がある。
・原因:
―「大虐殺」説の根拠は、日本の新聞が報道した陸軍将校の「百人斬り競争」 と、「虐殺」を目撃したという中国側の住民や民間団体の証言
―「事実無根」説の根拠は、「百人斬り競争」という中国兵を刀で倒す「武勇伝」が住民虐殺という殺人競争にすり替えられたことと、住民らの証言が信憑性に欠けること
―中国が日本側の降伏勧告を無視して南京を死守させたことで、多くの中国兵が逃げ遅れ、軍服を脱いで市内に潜伏し、つかまって捕虜になるケースが多かった。当時、そもそも捕虜の扱いが国際法的に定まっておらず、日本軍は食糧難だったこともあり、捕虜を釈放したりあるいは殺害したりした。
・結果:
―戦争に際し、情報を操作して敵(日本)のイメージダウンをはかり、自国への支持を集めようとした中国側の情報戦が汲み取れる。 中国は、いまでも日本の過去の軍国主義を批判すると同時に、常にそれを引っ張り出して、 中国の外交戦略カードにしている。
―日本国内でも、この事件は軍国主義批判の象徴に位置付けられているが、日本側も過去の戦争に反省しながら、歴史事実の確認を積み重ねていかなければならない。
・その他:
―湾岸戦争でも駐米クウェート大使の娘が、米下院公聴会で根拠のない証言をし、反イラク感情を高めたが、戦後、これはクウェート政府の依頼をうけたアメリカの宣伝会社の演出だったことが判明(高木徹『ドキュメント 戦争広告代理店』)
―中国は欧米人を顧問とする国際宣伝処を組織し、特派員ティンパーリーに「南京大虐殺」を国際的に流布させ、情報戦にあたった。
9.従軍慰安婦 / 子供にどう教えるか?
・時期:
1937年~1945年
・概要:
世論でも教育でも、従軍慰安婦における日本国家(軍部)としての関わりの有無や、強制連行の有無ばかりがフォーカスされているが、こと教育においては、そもそも従軍慰安婦とは何か、そういった施設や職業がどうしてできあがったのか、何故必要とされたのかという経緯を、まず考える必要がある。
従軍慰安婦は、日本が南京に進軍する際に、はじめて軍監督のもと設置されたが、もともとは日本軍が現地女性にはたらく暴行を鎮めるために予防措置としてとられた施策だった。
・経緯:
―戦闘行為と性衝動は深い関係があり、太古より軍旅と性は切り離せなかった。その理由として、①軍隊は壮健な成人男性の集団であり、長い間社会から切り離されて集団で行動していれば、性欲処理・昇華の問題が出てくること、②戦闘を前にして死の恐怖や、暴力行使による興奮が、性衝動を亢進させることが挙げられる。
―軍隊を管理するうえで、兵士の性をコントロールすることは必然的な課題であり、①強力な統制力で管理・モラルを貫徹する、②自軍のなかで性欲を処理する(従軍)、のいずれかの方策がとられた。フランス革命後、②の方策が普及していく。
―日本では、第二次上海事変後、はじめて軍の監督のもとに運営される慰安所が設置される。日本軍が上海を陥落させるまでに、多数の戦傷者を出し、その後の南京への進撃も過酷を極める。物資や食料が不足するなか、進軍途中でそれらを現地住民から略奪することも多く、その過程で現地女性への暴行事件が頻発したため、軍としてこれを予防すべく、慰安所を設立。業者をつかって娼婦を集め、戦線拡大とともに慰安所も増設。
―慰安所の娼婦たちにはそれぞれ千差万別の事情があり、プロの娼婦で金目当ての女性、業者によって騙されたり強要されて慰安婦となった女性もいる。
・結果:
強要に軍当局や日本国政府が関わっていたかについて、議論が分かれており、今日でも日本国内はしかり、国際世論をも騒がす問題になっている。
・その他:
日本近代の場合、戊辰戦争の時に奥羽方面で性暴力の事例がかなり報告されているが、日露戦争においては、軍の監理上では、重大な問題は提議されていない。
限りなく拡大していく戦線で戦わされた兵士たちのモラルの低下が、慰安所を産んだわけだが、問題の本質は性欲処理ではない。戦線の拡大を余儀なくしてきた軍中枢の戦略性の欠如こそが問題なのだけれど、その大もとのところは放っておいて、末端を押えるというのが、いかにも日本的なマネージメントだと思う。
われわれは慰安所の存在を到底誇るべきこととも考えることができないし、必要悪としても許容すべきではないと思う。戦争という人間の本質が露呈する場面にこそ、強い抑制と倫理を求める必要がまずあるし、何よりもこうした荒廃が生じないように、国家は戦略的に軍を用いなければならない。
6.朝鮮統治 / 植民地化=悪か?
・時期:
1910年~1945年
・概要:
韓国でも日本でも、植民地化はよくなかった・悪かったとという認識が共通してあるが、その後の政治をみれば、必ずしも「悪」とは言い切れない。植民地化によって、韓国は近代化の布石を敷き、人々の生活水準は併合前より大幅に向上。むしろ、植民地から解放されたあとのほうが、悪政だった。
・経緯:
―日本の武力による圧政に業を煮やした朝鮮人たちが、時の民族代表らに率いられ、民族自決の独立運動を展開(三・一独立運動)。
―これを機に、日本の朝鮮支配は、武断政治から文治政治に舵を切る。朝鮮総督府は、独立運動の要請を受け入れて、総督武官制や軍隊統率権の廃止、憲兵警察の廃止、言論の自由などの法改正を実施。日本内地と同じ学校制度や文化・芸能の活性化など、同化政策を推進。
・結果:
すべてが善政とはいえないが、日本統治の35年間は武力的な威圧をもっての武断政治ではなく、早くから文治政治への転換がはかられ、以後、朝鮮半島では日本敗戦まで大規模な運動は起こらなかった。
・その他:
(著者からみた日本人は)
植民地統治時代に話がおよぶと、みな複雑な思いをもって戦前の日韓関係を「気にしている」ことがありありとうかがえた。少なくとも、何らかの「倫理的な引け目」の感覚が日本人に共通してあるかのように感じられた。
いかに植民地統治下だろうと、嫌なこともあったがいいこともあった、買いもあったが利もあった──それが偽りのない事実ではないか。
植民地化で最も重要なことは、植民地統治者が一般の生活者の生活圏を侵したのか、侵さなかったのかということである。(中略)私が知る限り、日本統治下でそうした事件はほとんど起きていない。
統治する者が同国人だろうと外国人だろうと、日常の生活圏さえ侵さなければそれでいいと考えるのが生活者というものである。(中略)異民族統治が悪で同民族統治が善なのではない。
植民地化を善悪の倫理で意味づけてはならない。問題は、その後の政治がどうだったかということだけだ。植民地からの解放もまた、善悪の倫理で意味づけてはならない。問題は、そのごの金日成や李承晩の統治が、法治主義を逸脱して人々の生活を蹂躪する過酷な悪政だったということである。
7.ノモンハン事件 / 日ソ激突の真相は?
・時期:
1939年(S14)
・概要:
満州西北部ノモンハン付近の広大な草原で、国境線の紛争に発して、ソ連軍と日本の関東軍が武力衝突。国境侵犯という小さな衝突が、両国の戦争指導者たちの功名心のために、大きな戦争・被害を招く。しかも、得たものは何もなく、ムダ戦に終わる。
・原因:
―S7年の満州建国に伴い、満州国とソ連・モンゴルとの間に長大な国境線が形成され、いたるところが不明確だったため。ノモンハン以前にも国境で対峙しているソ満間で、衝突事件が頻発。
―いまは中国国民党との戦いに集中すべし(ソ連との全面対決は避けるべし)とする中央陸軍の指示を、関東軍が無視。
―これに対して、ドイツ・イタリアと同盟を結び、ヨーロッパ問題にまで顔を突っ込もうとしてくる小国日本に、スターリンが激怒。
・結果:
―関東軍は、一個師団がほぼ壊滅。ソ連軍も約25,000人が損耗。両軍とも得るものは何もなく、国境線があらためて画定されただけ。
―停戦後、「ノモンハン事件研究委員会」が組織されたが、二年後に対米英戦争に突入、同じ過ちを繰り返すことに。
―S15年、日独伊三国同盟後、日ソ不可侵条約の締結が企てられ、日独伊ソ四国同盟まで構想される。これで日本は「北進」をやめ、「南進」に舵を切ることに。これが対米英戦争へ発展。
・その他:
小さな国境侵犯の紛争は、両国が雌雄を決せんとするような大戦争へと拡大した。両国の戦争指導者の目先の功名心と闘争心と侮敵意識とが、この愚劣な戦争を惹き起こしたのである。
8.日独伊三国同盟 / なぜ英米を敵に?
・時期:
1940年(S15)
・概要:
日中戦争の終結させるべく、軽い脅しのつもりでドイツ(&イタリア)と同盟したことが、(反戦の世論が渦巻いていた)アメリカに、日本ひいてはドイツと戦う大義名分を与えてしまう。国際情勢をキャッチする情報力もなく、過去の歴史にも疎く、気分で外交政策を進めてしまったことが、英米との実戦対決を引き起こした。
・原因:
―日中戦争を終わらせるため、後ろで中国(蒋介石)を支援している英米を牽制しようと、当時破竹の勢いであったドイツと同盟。最初は軽い脅しのつもりだった。
―反戦世論を逆転し、戦争に参加しようと目論んでいたアメリカの意図を、日本は見誤っていた。見誤った原因は以下の3つ。
①情報力の欠如:
一方は味方、一方は敵だと思っていた独ソ不可侵条約の締結すら察知できなかった
②歴史的視野の狭さ:
西欧の歴史の法則では、独仏露といった大陸国が一時的に勢力を拡げても、必ず英蘭といった海洋国が巻き返すのに、日本は短期的な戦況を長期的な世界情勢と勘違い
③情緒的な国策決定:
近衛文麿首相による日中戦争和平交渉の失敗と、松岡洋右の国際連盟脱退と日独伊ソ四国同盟の構想
―英米強調派が日本の国益を裏切る政策をとりつづけたことで、国内世論が極端な反英米に向かう。英米協調派のひとり・幣原喜重郎は、英米が提唱する民族自決主義を下手に尊重しようと、英米からの中国への共同出兵に応えなかったために、中国と日本を対決させ、孤立化が図られてしまった。この幣原外交における不介入主義は、「満州における日本の権益が脅かされる」と逆に日本人の不安をあおり、満州事件の呼び水に、ひいては日中戦争の泥沼化につながった。
―国連脱退後の孤立感と、反英米感情が相まって、日本はドイツ・イタリアと同盟を組むことに。
・結果:
―日本がドイツ・イタリアと同盟を結んだ後、(開戦前から)アメリカは日本を挑発して戦争に導くための計画を立案。
―S16年に「ハル・ノート」で日本に最後通牒を突きつけ、日本は自滅覚悟で真珠湾攻撃に突入。
・その他:
実際の英米は、(民族自決主義だの国際連盟だの言っていても)理想は理想として掲げつつ、現実には明確な国境追求と高い戦略性をもって外交にあたる二枚腰の国でした。
国際連盟といってアメリカは加盟せず、ソ連は除名され、単なる一組合にすぎないのですが、日本は西洋文明コンプレックスもあって、国際社会から本当に孤立した「気分」に陥ってしまった。さらに、日本は、アジアの盟主としてアングロサクソンと戦うという、アジア主義的な「気分」も加わります。実際に戦争するつもりもなかったのに、「気分」に飲まれて三国同盟までいった面も大きい。
外交だけは、絶対に「気分」や「主義」で行動してはならない。
10.新聞の責任 / なぜ戦争に反対しなかったのか?
・概要:
世論を反戦から遠ざけ日本国民を戦争に導いたのは、メディアの責任も大きいが、戦時中は報道の自由はなかった。新聞は国の広報誌に、大本営発表の内容を国民にそのまま伝える末路媒体でしかなく、許されたのは戦争美談だけという、「仕方のない」環境があった。しかし、報道する側も、軍極主義・国体主義者や、売れる戦争記事を書いて売り上げを伸ばす商業主義者、軍の宣伝のかわりに情報をもらうディベート関係もあり、結果としてメディアは、「仕方ない」環境とその環境にのっかることで戦争を助長してしまった。
・原因:
―満州事変の前までは、一部の新聞で反軍事行動の呼びかけや日本陸軍への批判があったが、軍部は国民の中国に対する敵愾心をあおる情報を大げさに流す。これに新聞社が加担し、戦争突入の世論が出来上がる。
―戦争開始後、天皇が満州事変を称賛する勅語を出してから、新聞は戦争について批判することができなくなった。大日本帝国憲法も、「法律の範囲内に於いて」のみ言論の自由を定めていたため、実質的には言論は政府にコントロールされていた。
―軍部の戦争計画は着々と進められていたが、新聞はそれに反対することも、危険な状況を報道することもできなかった。日中戦争に突入しても、中国側が日本人を排撃したことだけ掻き立て、国民の対中国敵愾心をあおる。南京事件や毒ガス問題、無差別爆撃などは一切報道できず。
―戦争長期化で、うんざりしてきた国民に対しても、戦争指導者たちは「東亜新秩序建設という八紘一宇の顕現を目指す聖戦である」として、戦争を正当化。一方で、米英が中国を背後から支援していることが、戦争の長期化の要因であるとして、米英への敵愾心をあおるような情報を流すよう、新聞社に依頼。
・その他:
書いてはならぬという禁止項目も山ほどあって、軍事に関すること、国の経済計画に関すること、皇室に関することなど、それぞれの省庁の発表以外のことは書けませんでした。
11.海軍善玉説 / 陸軍だけが悪いのか?
・概要:
どこの国でも陸軍と海軍の仲は良くなく、予算の奪い合いでライバル関係になることが多い。日本も然りだが、悪役=陸軍、善玉=海軍という図式は昭和期に入ってから徐々に形成され、東京裁判で固定したイメージとなって現在に及んだ。実際、旧日本軍において、海軍はその人員数のわりに出世や予算が優遇されていたし、世論も好意的だった。海軍善玉説のイメージが根強いのはそれなりに理由があり、戦後、結局は海軍も同罪だったとする論調もあるが、だからといって陸軍に関して同情的・擁護的な論調があるかといえばない。今後も、イメージの逆転はないだろう。
・(海軍に同情的な風潮が強い)原因:
―もともと、世論は海軍に好意的で、それは海軍がもつ巨大艦隊の威容や、気風としての儀礼正しさ・優雅さにもあった。
―戦局の悪化で、陸海軍は互いに責任をなすり付け合うようになるが、終戦の局面で真っ二つに分かれる。陸軍は本土決戦に固執し、海軍は早期終戦を唱えた。
―戦後、海軍は身内のマイナスを外へもらすこともなかったが、陸軍は戦前の派閥抗争を再現して身内を叩き合った。海軍がノスタルジアから過去を礼賛するのに対し、陸軍は埃を出し合う。
12.エリート参謀 / なぜ負ける戦いを?
・概要:
日米開戦の主導力となった陸軍のエリート官僚たちは、日中戦争を早期解決すべく、イギリスと衝突するのはやむを得ないとしても、対米戦は避けるべき事態として捉えていた。しかし、転機における判断と相手(米国)の出方を見誤り、自らの組織の任務に忠実になりすぎて、陸軍の利益を優先させるという目的に至ったところ、みずからも避けたかった日米開戦という結果を招いた。
・原因:
―4つの転機における判断ミス
①日独伊三国同盟の効果が思うように上がらなかったこと:
ドイツがイギリス本土を制圧できなかったので、日本は英仏領インドシナを席巻することができず、依然として重要資源の対米依存から脱却できなかった。
②独ソ戦争の勃発(S16):
日ソ中立条約で日独伊ソ同盟構想が実現したようにみえたが、独ソ戦争によって破綻。北はまず問題ないと思っていた日本は、すでに「北進」から「南進」に方向転換しており、南部仏印へ進駐することを決めていた。
③アメリカによる日本への石油の全面禁輸措置:
日本の南進を快く思わないアメリカは、経済制裁の対抗措置に出る。これに対し、日本は反省どころか、さらに反米感情をあらわにし、南進を進めた。
④陸軍と海軍の開戦決意の乖離:
開戦にあたって海軍が慎重論を唱えていたが、陸軍はすでに兵を動員し、海上輸送で大陸に送り込む準備を整えていたため、強行論を提唱。慎重だった海軍に実戦の準備をさせ、陸軍内部の都合に自縄自縛されるよう開戦に向かう。
―アメリカは、そもそも日本と戦争をする口実をさがしていて、日本はまんまとその罠に引っ掛かってしまう。南進に対する経済制裁に対抗し、最終的に中国からの撤兵を突き付けられ、戦争回避のすべを失う。
・その他:
幕僚たちの思想と行動から言えることは、それぞれの転機において「合理的」にみえる判断を下しても、それが合わさった結論は「非合理」になりうるということである。
転機における選択の多くは、情勢の客観的分析から導かれたというより、官僚的「作文」合戦の結果であった。幕僚たちは自分の組織にとって都合のよい「作文」を作成することに鎬を削った。そして勝ち残った「作文」が、既定の国策として一人歩きし、次の国策決定の基礎となるという繰り返しが、誰も望まない悲劇を招いた。作文に依存する官僚主義の惰性は、中枢官僚が有能で組織が巨大だるほど大きな過誤をもたらすものである。
13.真珠湾奇襲 / 大勝利がなぜ「騙し討ち」に?
・時期:
1941年(S16)12月8日
※上記は日本時間。現地時間では12月7日(朝)。
・概要:
日本の真珠湾攻撃は、その国力差からして、世界の海戦史に残る大勝利だったが、いまでは両国間で、「騙し討ち」という共通の歴史認識となっており、日本の汚点として語られている。本来、日本政府としては攻撃前に開戦通告をアメリカ側に渡すつもりだったが、ワシントンの駐米外交官の失態で、結果として事後報告に。これがアメリカの猛烈な怒りを買って徹底反撃が始まり、その後の日本の国運を傷つけ裏切ることになった。
・原因:
―攻撃計画が事前にアメリカ側に察知されないよう、開戦通告(断交覚書)を十四部に分けて、帝国政府からワシントンの日本大使館に電報。
―電報が届いている頃(現地時間16日夜)、大使館員たちは送別会の食事会に。攻撃当日(17日)の朝になって、電報が届いていることを知る。
―奥村勝蔵書記官のタイプミスで清書にも時間をとられ、結果としてアメリカへの通告は、事後報告となる。
・結果:
―アメリカが対日戦・対世界大戦に参戦する口実を、日本から提供してしまった。
―戦争中、在米日系人は強制収容されることに。
・その他:
ゴングが鳴る前に相手コーナーに歩み寄り、椅子にかけている相手をノックアウトしたのと同じである。F・D・ルーズベルト米大統領は、日本の「卑劣な反則」を巧みに利用し、米国民も怒りに駆られて立ち上がった。米国内の反戦世論は、一度に吹っ飛んだ。
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