父が子に教える昭和史 備忘録(2)
こちらは、
文春新書
の備忘録(2)です。
とても面白かったので、
後学のために備忘録に残しておきたいと考えた次第です。
▽内容:
「日本はなぜ負ける戦争をしたの?」と子供に聞かれたら。あの戦争をめぐる問いに、日本を代表する知性がズバリ答える。満州事変から東京裁判まで、昭和史入門の決定版。
▽目次:
第一部 戦前・戦中篇
1.昭和恐慌 / なぜ起きたのか? (水木楊)
3.二・二六事件 / 昭和最大のクーデターか?(北博昭)
5.南京事件 / 「大虐殺」はあったのか?(北村稔)
6.朝鮮統治 / 植民地化=悪か? (呉善花)
10.新聞の責任 / なぜ戦争に反対しなかった?(山中恒)
11.海軍善玉説 / 陸軍だけが悪いのか?(秦郁彦)
12.エリート参謀 / なぜ負ける戦いを?(波多野澄雄)
13.真珠湾奇襲 / 大勝利がなぜ「騙し討ち」に?(徳岡孝夫)
15.戦艦大和 / 大艦巨砲は時代遅れだったのか?(平間洋一)
16.特攻 / 「必死の戦法」真の立案者は?(森史朗)
17.戦場の兵士 / 軍隊は異常な世界か?(水木しげる)
18.原爆投下 / 米国の戦争犯罪ではないのか?(常石敬一)
19.東条英機 / 日本の独裁者だったのか?(保坂正康)
第二部 戦後篇
21.無条件降伏 / 国体は護持されたのか? (松本健一)
23.シベリア抑留 / 六十万人抑留の真実は?(西木正明)
25.マッカーサー会見 / 天皇はなんと言ったか?(秦郁彦)
27.皇族と華族 / かれらは没落したのか? (後藤致人)
30.民主主義 / 占領軍がもたらしたのか? (岡崎久彦)
31.東京裁判 / 連合軍の報復か正義か? (保坂正康)
ここでは、
印象に残った項目のみ、
まとめておきたいと思います。
長いので、
3回に分けています。
こちらは第(2)回です。
※一部、目次の順序を無視し、
同じような項目の順に並べかえています。
14.零戦 / 世界一の戦闘機の敗因は?
・時期:
1940年(S15)から制式採用
※発端は、山本五十六が海軍航空本部技術部長だったときに、航続性能の高い軍用機の開発を進めさせたことに始まり、三菱重工の堀越二郎率いる若いチームがこれに答えた。
・概要:
零戦は、速い・旋回性能がよい・航続距離が長いという機動性に長けており、一対一での格闘戦では無敵で、日米開戦後、半年くらいは破竹の勢いだった。しかし、途中でアメリカが一機のゼロ戦を捕獲し、徹底的に研究、零戦の弱点とそれに対する突破口を突き止める。逆に、一時の成功体験に慢心し、相手を知ることを怠った日本は、後続機の開発も遅れ、最期は特攻機として使い、終戦を迎えた。
・原因:
①実体としての零戦の欠点:
機体を軽くするために、防備性に劣り、高さや垂直動作に弱い。
②アメリカの徹底的な技術&戦術開発:
―日本の零戦に対して、アメリカは、エンジンの馬力が大きく防備性も高い航空機を開発(グラマンF6F)、高さや垂直動作(急降下)に強い機体を続々生産。
―これによって、零戦より上空から急降下し、一撃してすぐに逃げる「ヒット・エンド・ラン」や、二機がジグザグ飛行して零戦を挟み撃ちにする「サッチ・ウィーブ」などの新戦術も開発。
③相手を知ることを怠った日本の慢心:
初期の零戦の成功体験に慢心し、後続機開発や新戦術開発にも遅れをとる。日本はアメリカの「サッチ・ウィーブ」戦法に最後まで気がつかなかった。
・結果:
―ラバウル周辺での空戦を境に、空の主導権は一変してアメリカに。
―日本海軍はベテランパイロットたちの多くをソロモン沖海戦までに失う。
―航空機の生産力でも、日米両国の差は歴然に。
・その他:
身軽さという点に特化した日本の零戦開発は、人命保護は二の次という戦略思想のうえに成り立っていた。それに対してアメリカは「資源としての人間」を重視する。ベテラン操縦士を失うことは、航空機自体よりも損失ははるかに大きい。あとから補充がきく機体に較べ、よく訓練され修羅場をくぐり抜けてきた練達のパイロットは、他に替えがたい航空兵力だからだ。
慢心は悲惨な結果を招く。転落の芽は成功のうちに胚胎している。その論理を直視する謙虚な目を忘れるなということを、零戦は教えている。
15.戦艦大和 / 大艦巨砲は時代遅れだったのか?
・時期:
S8年(1933)建造計画
S16年(1941)竣工
・概要:
日本の技術の頂点を極め、壮絶な最期を遂げたとして誉れも高い戦艦大和は、一方で「時代遅れの鉄の塊」だったとも揶揄されている。これは、(大和のような)大艦巨砲主義に頼ったのは失敗だった・時代遅れだったという批判だが、敗因は海軍が大事なところで大和を出し惜しみし、うまく使いこなせなかったことにある。大和建造の過程で得られた新技術や工程管理は、戦後の日本の復興の際に大きく貢献し、決して(時代遅れの)負の遺産とは言えない。
・経緯:
―日露戦争の日本海海戦の勝利で、世界に勇名を轟かせた日本海軍は、その後、列強からの圧力により、米英の6割の海軍力に(ワシントン・ロンドン軍縮会議)。期限失効のS10年より、海軍力の再整備に取り組み、「数の少ない艦船でいかに米英と互角に戦うか」に集中。結果として一艦あたりの質を高めるべく、口径の大きい主砲を装備した巨大戦艦(大和・武蔵)を開発。近くで敵の砲弾を受けることなく、遠くから相手に損害を与えることができる(アウトレンジ戦法)。
―大艦巨砲主義およびアウトレンジ戦法自体は合理的な戦術で、列強各国もこれに固執していたが、どちらかというと日本は、山本五十六を筆頭に、列強より早く大艦巨砲主義から航空主兵へ転換を図ろうと考えていた。
―しかし、一度着手しはじめた大型軍備の建造を中止することは至難の業で、結局、建造したはいいが、海軍は兵力温存のために大事なところで大和を出し惜しみ。これが日本海軍の敗因にもつながる。
・その他:
戦わない大和は「大和ホテル」とか「大和大学」などと揶揄された。もし、大和が出撃していれば、戦局が変わっていたかもしれない、と思える機会は何度かあった。
ブロック工法や、時間管理やコスト管理といった工程管理は、戦後の日本のメーカーの工場では当たり前に行われているが、その多くが大和を造った呉海軍工場で始まっている
15.特攻 / 「必死の戦法」真の立案者は?
・時期:
1944年(S19)ごろ~1945(S20)
・概要:
日本の零戦が米軍の新戦法の前に圧倒的劣勢となり、高性能のレーダー網が整備されるようになると、日本の航空機は壊滅的に。こうなったら体当たり戦略しかないと発言した軍司令部の一少将(黒島亀人)の一言に、首脳部が同調。一般的に、特攻の創始者は、レイテ沖海戦の神風特攻隊敷島隊の編成を命じた大西瀧治郎中将といわれているが、その4か月前に黒島少将は人間魚雷「回天」を発令している事実からも、現場の一兵卒ではなく、軍司令部が関わっていたことがわかる。
・結果:
この特攻により、4,615人の若者たちが命を落とす。
・その他:
「決死」ではなく「必死」の戦法は、かつての日本戦史に例を見ない。
(黒島少将は)その前進は真珠湾攻撃の計画立案者たる連合艦隊首席参謀である。奇人として知られるが、超天才的な作戦家として山本五十六司令長官に愛され、軍令部に移ってからもその異能ぶりを発揮して他を圧倒した。
18.原爆投下 / 米国の戦争犯罪ではないのか?
・概要:
広島・長崎への原爆投下は、一方で戦争を早期終結させ多くの人命を救ったという見方もあるが、これはアメリカの後知恵にすぎない。日本の内なる罪も否めないが、その残虐さや多くの非戦闘員を巻き込んだ事実からしても、国際法上、戦争犯罪そのものといえる。
・詳細:
―アメリカでは今でも原爆投下の詳細を公にしていないが、投下直後に報道管制を敷いた対応は、罪の意識が存在したことを示している。
―核の生産・所有を禁止する条約はあっても、(すでに持っている)原爆の使用を禁止する国際条約はない。これを押しとどめるのは、もはや国際世論しかない。
・その他:
米国の核戦争映画で、爆心地にいた主人公が生き残るのを見ると、米国では原爆の脅威は絵空事なんだ、と痛感させられる。それはあり得ないことだ。
原爆の基本設計をしたニューメキシコ州のロスアラモス研究所の科学者たちは、広島に原爆が投下されて、計画通りに爆発したことを知った夜、祝いのパーティーをひらいた。その時に一人の若き科学者、ボブ・ウィルソンは木陰で吐いていた。自分たちの成功は多くの人びと、特に武器も持たず日々の生活を送っている非戦闘員の死だ、ということに気付いたのだ。
19.東條英機 / 日本の独裁者だったのか?
・概要:
元首相・東條英機は、戦時下は”救国の英雄”として扱われたが、戦後は一転して”極悪人”のレッテルを貼られ、現在でも極悪非道な独裁者というイメージが根強い。実際の東条は、真面目で臆病、任務に忠実な、いわゆる融通の利かないガリ勉タイプで、その彼が独善的に日本を戦争に導いたとは言い難い。東條のマイナスイメージは、連合国が戦後処理・占領政策の一環として、東京裁判や世論誘導で作為的に導いたもの。戦争責任をすべて軍指導者に転嫁することで、実際には戦勝国として敗戦国をさばく報復行為をカモフラージュしていた。
・(マイナスイメージの)経緯:
―連合国は、「陸軍の指導者たちが主導して戦争計画を共同謀議した」という考え方を採用し、起訴状にも導入。これが現在の「戦争=陸軍元凶説」に通じているが、彼らが共同謀議を練る機関や意思はなく、対処療法として動いたに過ぎない。
―東京裁判で、東條が極悪非道の犯罪者であるかのようなイメージが意図的に作り出され、『真相はかうだ』というラジオ番組を通じて、国民が東條を憎むように世論誘導もおこなった。
―東條を戦争犯罪者と見ることで、国民は騙された存在として免罪されるし、戦後の苦しい生活からくる怒りや不満のはけ口にもなった。
―東條=悪役とするデマが流れ、さらに国民の怒りは増幅された。
・その他:
私はたったひとつの東條像にたどりついた。それは、〈とくべつな見識や理念はなく、ひたすら日本陸軍の組織原理に忠実で、小心翼翼とした生真面目な軍官僚〉という実像であった。
東條を含めて、A級戦犯が犯罪者なのか否かは、実は私たち日本国民が主体的に判断すべき問題である。連合国の占領政策の一環としての東京裁判や世論誘導では、東條は「犯罪者」とされてきたが、それは戦勝国の報復という構図を隠ぺいするためのものでしかない。この構図に依拠している限り、私たちはあの戦争の検証を独自の視点でおこなう能力はもうない。
31.東京裁判 / 連合軍の報復か正義か?
・時期:
1946年(S21)~1948年(S23)
・概要:
人類史上二番目の、戦勝国が戦敗国の戦争責任者を指定し、死刑判決をくだした歴史的な国際裁判(最初はナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判)。統治権側の責任者や軍政畑で政策決定に関わった人の責任が問われた。「正義」の大義名分のもと、実際は連合国の報復感情を満足させることが第一の目的だったが、それ以外に、その後の日本占領における非軍事化と民主化を日本国民に徹底する役割もあった。
・詳細:
―A級戦犯には25人が選定され、うち東條英機ら7人が絞首刑、16人が終身禁固刑、残り2人が禁固刑を言い渡される。
―GHQの作成した戦犯リストでは、統治権責任者・関係者(政治関係者)が多く、統帥権(軍令)の指導者の名前が少ない
―GHQは、非軍事化の解体のためと称して、日本国民にアメリカ版の「太平洋戦争史」を強要し、ラジオ番組などで宣伝工作をした
―連合国による東京裁判以前に、日本独自で戦犯裁判をしようと試み、天皇に働きかけたが、天皇がこれを認めなかったため、表面化することはなかった。このため、陸軍作戦参謀として戦争の中枢を担った中堅幕僚(辻政信や服部卓四郎など)は、戦後も生き延びて出世していった。
・結果:
―A級戦犯25名の刑が確定し、7名は絞首刑として処刑されたが(S23)、残りは巣鴨プリズンで服役
―朝鮮戦争以降(S25)、名目はアメリカ軍の管理下にあったが、実際は日本側が警備にあたったため、戦犯は自由に外出できることも多かった
―サンフランシスコ講和条約(S27)以降、すべての権限が日本側に移ってさらに緩くなり、B級・C級の戦犯は、巣鴨プリズンから会社勤めに出る人もいた
・その他:
いかなる大義名分を以てしても、こうした裁判は報復裁判であり、戦勝国による一方的な断罪になることは自明の理
(東京裁判における)連合国のトリックに気がつくことは、日本国民の義務である。しかし、それに気づいた上で、主体的にあの戦争の責任を考えることを試みなければ、われわれは東京裁判の呪縛から逃れることはできないだろう。
20.昭和天皇 / 戦争責任とは何か?
・概要:
敗戦した日本は、連合国側のポツダム宣言を無条件に受け入れたと言われているが、実際には「世界征服の挙にでた権力および勢力の永久除去」という点において、日本政府は連合国側に、(天皇はこれに該当しないとして)天皇の身柄の安全・皇室の安泰の確保を要求し、認められている。一方でまた、従来の「天皇の国家統治の大権」を変更することも受け入れがたいとして、連合国側に申し入れているが、こちらは新憲法のもと、却下されている。天皇および皇室の安全が確保されたという点では、完全なる無条件降伏とは言い難いが、一部で天皇の戦争責任を認め、統治権を剥奪した点においては、政府の申し入れを却下しているので無条件と言える。
・詳細:
―敗戦した日本には、無条件降伏説と非無条件降伏説がある。
非無条件降伏説:
①ポツダム宣言の「無条件降伏」は軍隊の無条件降伏を宣言し、国家や政府に対して使われているものではない
②自主的にではなく、あくまで「進駐軍」に強制的に受け入れさせられたという点で「無条件」とは言えない
③連合国側の要求の1つに「世界征服の挙にでた権力および勢力の永久除去」があったが、実は最後の最後に、日本政府は連合国に、天皇はこれに該当しないとして、天皇の身柄の安全・皇室の安泰の確保を要望しており、それが受け容れられている
無条件降伏説:
①ポツダム宣言には「無条件降伏」という要件がはっきり記されており、連合国側としては、選択はこれあるのみ・他は一切受け付けないと要求している
②「世界征服の挙にでた権力および勢力の永久除去」については、従来の天皇の統治権は剥奪され、新憲法では、その権限は一切亡きに等しいものとされた
―ポイントは、天皇に戦争責任があったかどうかで、連合国は、天皇および皇室の安全こそ確保したものの、天皇が国を治める権利についてはその一切を剥奪。連合国側は、天皇の戦争責任をアリとみなした。
・結果:
天皇制の存続という点では、国体は護持されたものの、厳密な意味での天皇制(天皇を頂点とする統治制度)という点では、国体は護持されなかったともいえる。
21.無条件降伏 / 国体は護持されたのか?
・概要:
戦後たびたび昭和天皇の戦争責任が問われているが、責任の所在は、天皇という「個人」ではなく、天皇制という国家運営の機関(システム)および憲法をつくった日本国民に回帰すべきである。戦争の説明責任という点においても、自ら立候補し、選挙で選ばれた政治指導者というわけではないので、天皇を断罪することはできない。
・理由:
①天皇は、「姓」をもたず、選挙権を含む一切の市民権=公民権をもたないため、政治的主体としての個人ではない。天皇が旧憲法上、「神聖にして侵すべからず」と規定され、現人神とされれていたことも、個人としての人格を持ち得ていなかったことを示す。
②自身の権威が独り歩きし、天皇=国家とする天皇現人神説すなわち昭和の超国家主義が猛威をふるうようになると、むしろ天皇自身はこれに反対。戦時中の最終決定の際にも、彼の理性がうかがえる局面が多々ある。
③戦争の説明責任という点においても、たしかに天皇は戦争とその責任について説明しなかったが、天皇が日本の固有の文化に根ざした、国家運営の機関であった以上、選挙で選ばれた政治指導者のように説明責任があるとは言えない。
④実際、天皇は「退位」という形で政治責任をとろうとしたが、マッカーサーと吉田茂がこれを拒否した。
・その他:
天皇は国家統治を憲法に従って行なう、国家運営の機関(システム)にほかならない。機関に責任を問うことはできない。責任を問われるのは、その機関およびそのような憲法をつくった日本国民でなければならない。
「戦争責任」ということでいうなら、まず、この近衛文麿の名をあげるべきだろう。近衛は、シナ事変を解決する政治的決断を何一つおこなわず、「国民政府を対手にせず」と声明することによって、むしろ泥沼化させ、大東亜戦争への道をひらいた。そうして、国内にはファッショ的な大政翼賛会をつくって議会政治を破壊した。国家総動員法をつくり、改悪したのも、近衛だった。
(中略)近衛文麿も天皇の「退位」を考えていたが、みずからが「戦争犯罪人」として逮捕されることを知ると、毒をのんで自殺した。
25.マッカーサー会見 / 天皇はなんと言ったか?
・概要:
日本がポツダム宣言を受け容れたあと、天皇とマッカーサーの会見が数回にわたって開かれた。これらの会見において、天皇が「戦争の全責任は私にある」という主旨の発言をしたかどうかが、のちにしばし話題とされた。第一回目の会見に同席した通訳の奥村勝蔵が直後にまとめた「御会見録」では、この主旨に該当する記録は見当たらなかったが、これ以外の史料も踏まえると、「全責任発言」はあったと言える。第一回目の「御会見録」に見当たらないのは、のちに天皇に危害が加えられんことを憂慮して、恣意的に削除された線が強い。
・根拠:
―国務省から政治顧問としてGHQへ派遣されていた外交官ジョージ・アチソンが、会見後に国務省へ打電した公文書内に、天皇の「全責任発言」が記されている
―奥村の後任通訳として会見に同席した松井明元大使は、奥村から天皇の「全責任発言」部分について、「余りの重大さを顧慮し記録から削除した」と聞いた事実を書き残している。
・その他:
(真珠湾攻撃で)東郷外相ですら無通告攻撃に傾いていたのを「事前通告は必らずやるように」と厳命したにもかかわらず、奥村在米大使館書記官のタイプミスで結果的に通告がおくれてしまったのだから、(天皇の)痛恨の思いは誰よりも深かった
(奥村の「御会見記録」では)東京裁判を控えて「天皇有罪の証拠」とされかねないこのくだりを、奥村があえて削除したのは当然と私は考える
昭和天皇は別の会見に際し、皇室財産を差しだすから食糧を緊急輸入して国民を飢餓から救ってくれと申し出て、「私は初めて神の如き帝王を見た」とマッカーサーを感激させている。(中略)第一次大戦で敗れたドイツ皇帝は国民を放りだして早々に隣国へ逃亡してしまった。それを知る元帥は、天皇が命乞いにくるのかもと予想していたが、それは外れた。
28.人間宣言 / 昭和天皇の真意はなにか?
・時期:
1946年1月1日
・概要:
戦後はじめて迎える新年に、昭和天皇が公示した詔書を一般に「人間宣言」というが、詔書の第一の意図は、かつて明治のはじめに目指した本来の民主主義を、我々日本人の手で再び取り戻そう・誇りを持って再建しようということであり、「人間宣言」というネーミングにあらわされるような、自身の神格性の否定は、実は第二の意図でしかなかった。
・詳細:
―「人間宣言」の正式名称は、「新日本建設に関する詔書」といい、「人間宣言」という呼び方はマスコミの造語に過ぎない。
―詔書の目的は、GHQの指導により、国家神道と軍国主義・過激な超国家主義とが結びついいたイデオロギーを解体することだった。
―詔書は、GHQが起草した草案をもとに、幣原喜重郎首相自らこれを再考、秘書官に翻訳させて昭和天皇に捧呈。
―天皇がこれに五箇条の御誓文を追加し、「新日本」を建設していこうとの決意に続く。
―「人間宣言」の部分は、そのあとに補足的に述べられたもので、詔書の重点は五箇条の御誓文のほうにあり、狭義の「人間宣言」の部分ではない。
―五箇条の御誓文とは、明治天皇が新政府設立にあたって下したもので、日本国民が日本の誇りを忘れず、初心に戻って一から民主主義国家として再出発していこうという理念。
―「人間宣言」は、国として天皇を神とするそれまでの考え方を改め、天皇も国民と同じ人間とみなし、天皇と国民の関係もまた、従来の神話と伝説によって結ばれているものではなく、信頼と敬愛によって結ばれているものと宣言したもの。当初は、「日本人を神の裔として」とあったのを、マッカーサー自身が、「天皇を神の裔として」とらえていた考えを改め…という文言に修正。
・ 結果:
GHQは、「日本人は神の子だとする考え方は間違っていた」というのではなく、「天皇が神の子だとする考えこそが大きな間違いだった」として、「人間宣言」の公示に至ったが、これはその後の天皇観に大きな混乱をもたらす原因になった。
・その他:
この詔書を出した最大の目的は、民主主義は決してこれからアメリカから輸入するというものではなく、既にその理念は明治の初めに五箇条の御誓文といて示されてるので、今後もこの趣旨に則って再建に努めよう、この点について日本国民は誇りを持って欲しいということを示すことにあり、神格性の否定は、それに比すれば「二の問題」に過ぎないということを昭和天皇自ら明らかにされたのである。
34.天皇退位 / 三度の決断の機会は?
・概要:
戦後、国内外で天皇の戦争責任について問われることが多かったが、旧憲法下で天皇は国内法上、一切の法的責任はないとされており、国内において実質的な責任は問われなかった。とはいえ、道義的責任については天皇自身も認識しており、国民に対して退位や謝罪を表明したいと考えていたが、公式表明するには至らず、世を去った。とはいえ、天皇には退位の機会が実は3回あったものの、いずれも当時の国際情勢や、近臣・実質的な政権運営者などによって妨げられた。
・詳細:
①1回目:終戦直後
【契機】天皇自身および重臣たちが主張する道義的責任から
【結果】いま退位してしまうと、国民が混乱し、連合国側も退位したことでむしろ裁判にかけやすくなるので、天皇の身柄の安全・天皇制の存続を目的とする「国体護持」が優先され、「在位のまま戦争責任を負っていくべき」と諭された。
②2回目:東京裁判
【契機】臣下だけに責任を負わせるわけにいかないとする自責の念や世論から
【結果】東西冷戦のなかで、天皇を退位させることで日本が下手に共産化してはまずいと考え、アメリカは天皇を戦犯からはずし、在位のまま温存する方向に。
③3回目:サンフランシスコ講和条約
【契機】連合国の占領が終わり、主権も回復したので、いまこそ責任をとって退位すべきとした宮中側近らの提言から
【結果】時の首相・吉田茂がこれを拒否
・その他:
存命中、天皇の公式謝罪・退位はなかったが、国民に謝意を伝えようと、宮廷記者を読んで記事を書かせたこともある(S48)。
27.皇族と華族 / かれらは没落したのか?
・概要:
戦後、家族と皇族は特権を剥奪され、没落した生活を送ったと思われがちだが、それは一部あるいは一時期に限った話で、実際はいまだに要職を担っているケースが多い。これは戦前から培われた人脈・学歴・職歴は残り、冷戦によって反共的に保守層が温存されるなかで、その一部として旧華族・旧皇族も没落をまぬがれ、日本の復興とともに社会の中堅として復活。
・経緯:
―華族は、旧大名・公家・明治維新の功労者などが該当し、天皇の王室を守護する役割を付与されていたが、当初は華族としての一体感はなかった
―垣根を越えて「華族社会」を形成するのは、戦前。天皇の存在、学習院での教育、華族会館の共有、婚姻など文化的結合がその基盤に。
―ロシア革命で特権階級の危機を感じた一部の華族は、社会事業をおこなう一方、貴族院を改革して政治での発言力を高めるべく、近衛文麿を推して貴族院・宮中に進出
―戦後、華族制度の廃止で、華族・皇族は解体。最高税率90%の財産税も課され、経済的に困窮するシーンも。
―それでも戦前からの人脈・学歴・職歴などを活かし、いまでも要職に就いている旧華族出身者は多い。
(例)
細川護煕(政治家)→大名華族・細川護貞(父)と近衛文麿の次女(母)の子
有馬記念→中央競馬協会理事長・有馬頼寧(華族・旧農林大臣)にちなんで創設
・その他:
象徴天皇制の理念が戦後社会に受け入れられたのも、戦前からの保守層が温存されたことが大きかったと思われる。(中略)天皇免責の論理とそれに続く象徴天皇制への道は、戦後体制をめぐる政治的かけひきや、アメリカの思惑などが絡み合って作られたが、温存された保守層が、この論理を積極的に支持したことが、定着する上で大きかったと思われる。
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