父が子に教える昭和史  備忘録(3)

こちらは、

文春新書

父が子に教える昭和史  あの戦争36のなぜ

 

の備忘録(3)です。

 

本編(感想)はこちら

 

とても面白かったので、

後学のために備忘録に残しておきたいと考えた次第です。

 

▽内容:

「日本はなぜ負ける戦争をしたの?」と子供に聞かれたら。あの戦争をめぐる問いに、日本を代表する知性がズバリ答える。満州事変から東京裁判まで、昭和史入門の決定版。

 

▽目次:

第一部 戦前・戦中篇

1.昭和恐慌 / なぜ起きたのか?  (水木楊)

2. 満州事変 / 日本の侵略なのか? (福田和也

3.二・二六事件 / 昭和最大のクーデターか?(北博昭)

4.戦前暗黒史観 / すべては暗かったのか?(池部良

5.南京事件 / 「大虐殺」はあったのか?(北村稔)

6.朝鮮統治 / 植民地化=悪か?   (呉善花

7.ノモンハン事件 / 日ソ激突の真相は?(半藤一利

8.日独伊三国同盟 / なぜ英米を敵に?(中西輝政

9.従軍慰安婦 / 子供にどう教えるか?(福田和也

10.新聞の責任 / なぜ戦争に反対しなかった?(山中恒

11.海軍善玉説 / 陸軍だけが悪いのか?(秦郁彦

12.エリート参謀 / なぜ負ける戦いを?(波多野澄雄)

13.真珠湾奇襲 / 大勝利がなぜ「騙し討ち」に?(徳岡孝夫)

14.零戦 / 世界一の戦闘機の敗因は?(柳田邦夫

15.戦艦大和 / 大艦巨砲は時代遅れだったのか?(平間洋一)

16.特攻 / 「必死の戦法」真の立案者は?(森史朗)

17.戦場の兵士 / 軍隊は異常な世界か?(水木しげる

18.原爆投下 / 米国の戦争犯罪ではないのか?(常石敬一

19.東条英機 / 日本の独裁者だったのか?(保坂正康)

20.昭和天皇 / 戦争責任とは何か? (半藤一利

 

第二部 戦後篇

21.無条件降伏 / 国体は護持されたのか? (松本健一

22.引揚げ / 満州からの帰途になにが?  (藤原正彦

23.シベリア抑留 / 六十万人抑留の真実は?(西木正明)

24.北方領土 / 無法者スターリンの暴挙は?(上坂冬子

25.マッカーサー会見 / 天皇はなんと言ったか?(秦郁彦

26.闇市 / なぜ闇取引がおこなわれたか? (木田元

27.皇族と華族 / かれらは没落したのか? (後藤致人)

28.人間宣言 / 昭和天皇の真意はなにか? (八木秀次

29.日本国憲法 / アメリカによる押し付けか?(西修

30.民主主義 / 占領軍がもたらしたのか? (岡崎久彦

31.東京裁判 / 連合軍の報復か正義か?  (保坂正康)

32.共産党 / なぜ私は入党したのか?   (渡邉恒雄

33.朝鮮戦争 / 金日成はなぜ仕掛けたのか?(神谷不二

34.天皇退位 / 三度の決断の機会は?   (高橋紘

35.吉田茂 / 本当に偉大な宰相か?    (福田和也

36.講和条約 / 日本の独立はなったのか? (中西輝政) 

 

ここでは、

印象に残った項目のみ、

まとめておきたいと思います。

 

長いので、

3回に分けています。

 

こちらは第(3)回です。

 

備忘録(1)はこちら

備忘録(2)はこちら

 

※一部、目次の順序を無視し、

同じような項目の順に並べかえています。

 

22.引揚げ / 満州からの帰途になにが?

・概要:

戦争で日本軍の劣勢になりはじめ、内地で物資が不足するころ、満州はまだ平穏だったが、いよいよ日本が危うくなると、ソ連日ソ中立条約を破って満州に侵攻。主力部隊を南部戦線にとられ、手薄となっていた関東軍は、在満邦人を置き去りにして司令部を移動。結果として、多くの在満邦人が取り残され、内地への帰還を目指して逃避行するうちに息を引き取ったり、北満州に残された人々はソ連の支配のもと、過酷な労働・虐待を強いられた。

 

・経緯:

―ロシア(ソ連)は昔から伝統的に不凍港確保のために南下政策をとっていた。

―日米戦の日本の劣勢につけこみ、ソ連軍が日ソ中立条約を破って満州に侵攻。相対する関東軍は、主力部隊を日米戦にもっていかれ、手薄の状態だった。

―事前にスターリンは、満州・朝鮮に加え、北方領土南樺太・千島など)も太平洋への通路保障のために手に入れるべく、火事場泥棒を思いつき、ヤルタ会談で対日参戦の見返りとして米英に密約を取り付けていた。

―S20年8月9日、関東軍司令部はソ連侵攻に慌てふためき、百三十万の在満邦人を置き去りにして、その日のうちに朝鮮国境近くの山中に移転。

―終戦後、朝鮮半島全域を占領しそうなソ連をアメリカ(トルーマン大統領)が牽制、38度線までと制し、交通を遮断。置き去りにされた邦人は、この38度線を越えて内地への帰還を試みるも、凍死・病死・餓死などで、途中で多くの命が失われた。北満州に残った開拓民も、ソ連兵に虐殺・略奪・強姦を受けた。また、一部は、シベリアへ強制連行され、労働力として抑留・酷使された。

 

・その他:

満州国時代、関東軍は「関東軍がいるから絶対安全」と豪語してた。この言葉を信じ安心しきっていた在満百三十万の日本人は、見事にだまされ遺棄された

 

八月十五日に日本が降伏し、三日後に大本営が全軍に武装解除の命令を出しても、ソ連軍は進撃を止めなかった。北海道の北半分の占領容認をトルーマンに求め、拒絶されている。(中略)また数十万の民間人を含む日本人がソ連によりシベリアへ労働力として強制連行され、長期間にわたり抑留酷使され、多くの犠牲者が出た。

 

 

23.シベリア抑留 / 六十万人抑留の真実は?

・時期:

1945年(S20)~1956年頃(S31)

 

・概要:

かつての戦争において、悲劇的な事件でありながら、いつのまにか語られなくなって風化しているものの1つとして、「シベリア抑留」がある。これは、ソ連日ソ不可侵条約を破って南樺太千島列島満州国に侵攻し、終戦で日本が無条件降伏・みずから武装解除したあとにもかかわらず、60万人の日本人をシベリアへ強制的に連れ去り・拉致監禁し・労働力として酷使した、国家ぐるみの犯罪といえる。

 

・詳細:

―8月9日、ソ連が日ソ不可侵条約を破って南樺太千島列島満州に侵攻

―8月15日、終戦により日本は無条件降伏を受け入れるが、ソ連はこれを無視し、60万人余りの日本軍将兵・官僚・民間人を拿捕・拘束、シベリアに連行して抑留

―その後、十数年かけて47万人は帰国できたが、残りの13万人は帰ることがかなわず、シベリアで亡くなった人も多い。

 

・原因:

第二次世界大戦大祖国戦争)による、当時のソ連国内における、性労働力の圧倒的な不足

―とくにドイツとの戦いで、ソ連は二千五百万人もの死者を出した

 

・その他:

(抑留邦人のなかには)帰国後ソ連のシンパやスパイになれと言われた人もいる。それに従った人は生きて帰れたが、拒否して、(中略)懲役二十五年などという法外な刑に処せられた人もいる。中には遅効性の毒薬や向精神薬を投与されて、廃人同様になって命を落とした人すらいる。こうなると、ただの拉致ではなく、立派な犯罪、国家ぐるみの殺人だ。

 

当時のソ連は、マルキシズム金科玉条とする教条主義にこり固まっていた。それにスターリンという独裁者が敷いた恐怖政治が輪をかけた。六十万人とも七十万人ともいわれる日本人抑留者は、まさにその狂気が作りあげたシステムの犠牲になったのだ。

 

 

24.北方領土 / 無法者スターリンの暴挙は?

・概要:

北方領土(歯舞・色丹・国後・択捉の4島)には、現在ロシア人が居住していて、日本人は一人も住んでおらず、自由に行き来もできない(ビザが必要)。また、ノサップ岬の沖合1.85キロを越えると、日本の漁船は拿捕される。これらの領土および国境線は、戦後、日本が無条件降伏を受け入れたあとに、ソ連側によって強制的に占領・引かれたもので、いまだにその無法的な占領は続いている。

 

・ 経緯:

―1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾、連合国は攻撃を停止。9月2日、戦艦ミズーリの艦上で、日本は正式に降伏文書に署名

―にもかかわらず、ソ連は、8月18日、千島列島に向かって攻撃を開始。9月5日までに、北方四島すべてを占領、今日に至る。

―当時四島に住んでいた日本人の中には、占領後、ソ連の支配を受けるのを恐れ、自ら本土に引き揚げる。逃げ切らなかった人は、二年ほどソ連人と一緒に暮らしたが、ソ連側が生活のためのノウハウを吸収し終えると、強制的に島から追い出された。

―日本で最初に島を返せと行動したのは根室町長・安藤石典で、1945年12月にGHQに陳情書を提出している。

―1991年にゴルバチョフ大統領と会談した結果、年に一度、互いにビザなしで交流できる時期をつくることが決められた。

―80年代はじめに、かつての島民を中心に230人もの人が飛行機をチャーターしてNYの国連前広場でデモを行い、90年代はじめにも、一人が訴訟を起こしているが、最高裁にて却下

 

・その他:

北方領土はなぜソ連に奪われたのか、といわれればスターリンが無法者だったからとしかいいようがない。

 

ソ連側は、海産物の宝庫ともいえる周辺の海での魚の採り方や加工の仕方、島での寒さの凌ぎ方など、暮らし方のノウハウを二年ほどかかって日本人から学んだあとで、一人残さず追い出してしまった

 

沖縄返還が終わらなければ終戦は終わらない、といわれて沖縄は戦後に注目されたが、北方領土返還についての注目が集まらなかったのは日本人が誰一人居住していないことも大きな理由だった

 

戦後しばらくは抑留者という人質がとられていたため、日本としても強く出られなかったのは理解できるが、その後の返還交渉が停滞しているのは外交の非力としかいいようがない。もっとも、一党独裁の国との交渉が思うように任せないのは北朝鮮を見れば明らかで、力不足とばかりはいえまいが、ともかく返還交渉の過程で日本は相手国に振り回され、ほとんど成果をあげていない

 

 

29.日本国憲法 / アメリカによる押し付けか?

・時期:

1946年(S21)11月3日公布

1947年(S22)2月3日施行

 

・概要:

日本国憲法の公布にあたって、昭和天皇は「日本国民の総意に基づいて」と宣言したが、もともとはアメリカ(GHQ総司令部)が新憲法の草案を起案し、これをもとに日本側が自らの主張を加筆修正、最終的に極東委員会(連合国)の修正・監理をふまえて成立したものである。新憲法が総司令部の関与によって作成されたという記述は検閲で禁止されたため、実際はアメリカが主導したものにもかかわらず、見え方はあくまで日本が自ら改憲したものとなっている。

 

・経緯:

―終戦直後(S45年10月)、マッカーサーは旧憲法の改正を指示していたが、戦後処理に追われていた日本政府は、後手に回していた。

―日本の対応は、そもそも明治憲法を改正する必要がないと思っていたので、明治憲法の微修正にとどまっていた。

―これに業を煮やしたマッカーサーが、総司令部に草案を起案を指示。総司令部は、わずか12日間でまとめ上げる(S46年2月)。すぐ直後に極東委員会の始動が迫っていたため、マッカーサーとしては、今後の日本の進むべき道について、ある程度の既成事実をつくっておきたかった。

―日本側の意向が通ったものもあるし、極東委員会がこれをチェックして加えられたものもある(文民条項など)。

 

・その他:

(自衛のためならば、軍隊をもつことができると解釈されるような)芦田修正によって軍隊の誕生を見越したうえで、その歯止めとして、(極東委員会は)文民条項の導入を強く要求したということです。 軍隊の設置に反対する動きはありませんでした。

 

憲法改正は、まるで日本人が自発的に自主性をもってやったかのようにとらえられているので)「自己欺瞞」という言葉こそ、日本国憲法の成立過程をもっとも的確に言い表しているキーワードといえる

 

 

30.民主主義 / 占領軍がもたらしたのか?

・概要:

日本の民主主義は、戦後、占領軍によってもたらされたという考え方が普及しているが、実は戦前からすでに着手されていた。事実、婦人参政権労働基準法教育基本法などは、明治憲法下で決められている。これらはロシア共産革命や戦時体制で制限されていたが、そもそも明治憲法自由民権運動の結晶であり、議会民主主義の基本原則はすべて盛られていた。戦後の自由と民主主義は、「アメリカのおかげ」という風潮が強いが、もともと戦前から日本にその動きはあり(大正デモクラシー)、これが戦後復活したと考えられる。

 

・その他: 

 現にポツダム宣言の第十項には、「民主主義的傾向の復活強化」と明記してある。

 

民主主義の復活という占領政策が崩れるのは、占領軍が絶対権力を獲得して、歴史に無教養な世代が権力を壟断するようになってからである。(中略)こうして日本には尊敬すべき、遡るべき過去など全く無く、占領軍の恩恵で、女性は解放され、労働組合は与えられ、農地は分配され、自由な民主国家になったという歴史解釈が、ポツダム宣言、日本の新憲法、アメリカ憲法のどの規定にも違反する厳しい言論統制の下、一方的に教育と言論、出版分野に強制され、それが国民の常識となった。

 

 

33.朝鮮戦争 / 金日成はなぜ仕掛けたのか?

・時期:

1950年~1953年

 

・概要:

一般的に、北朝鮮金日成)の野心による南侵として始まったといわれる朝鮮戦争だが、裏ではソ連スターリン)が糸を引いていた。そもそも当時の北朝鮮ソ連の傀儡政権で、指導者も軍備も憲法ソ連製だった。中華人民共和国の成立で、新たな社会主義ライバルができたことを懸念したスターリンは、北朝鮮の南侵について、(中国の損耗を狙って)中国から援助を受けることを条件に許可。中国も朝鮮半島における発言権を得るためにこれに同調し、スターリンの思惑にのった形で戦争が開始。ここにアメリカが参戦してくるとは思ってもいなかった(誤算)。

 

・背景:

金日成による、朝鮮統一の野望

②弱い国・韓国(指導者、経済、軍事力)

③アメリカの東アジアへの軍事非介入主義(中国・台湾・韓国)

 

・結果:

―アメリカはルーズベルトからトルーマンに大統領がかわり、全面的軍事介入を決断。これを機に、トルーマンは世界中で全面的に反共体制を築き、冷戦が確定。

―アメリカの参戦により、朝鮮戦争の形勢は一気に逆転。アメリカの中朝国境侵攻を恐れて、中国も全面的に参戦し、大規模な死傷者を出す。

―戦後、前線は38度線付近に戻り、スターリンの死後、休戦協定が成立。

―日本を占領していたアメリカ軍が朝鮮戦争に送り込まれ、日本は占領軍の抜けた穴を補うべく、警察予備隊を創設。これがのちの自衛隊の前身に。

―日本は兵站として後方支援。ここで朝鮮特需が生まれ、日本経済は一気に復活。

 

 

35.吉田茂 / 本当に偉大な宰相か?

・概要:

戦後の総理大臣として、日本を導いた吉田茂の名声は高いが、一方でその罪を問う声もある。独立と主権回復を急ぐあまり、西側に付いて早期単独講和(=サンフランシスコ講和条約)の締結に至ったが、これによってアメリカからの軍備要請を受けるも、自らそれを断り、代わりに米軍駐屯を求めたために(日米安保条約)、日本を半永久的にアメリカに従属させてしまうという禍根を残した。

 

・功罪の「功」の面:

― 敗戦と軍事占領にあった日本の危機に敢然と対応(強力なリーダーシップ)

国体を護持し、占領政策を懲罰的なものから融和的なものへと転換させた

―全面講和(=東西両陣営との講和)の道をとらず早期単独講和(=西側陣営のみとの講和)を選び、日本の独立と主権回復を早めた

―吉田の軽武装・通商国家」路線は、日本を繁栄と安定に導いた

 

・功罪の「罪」の面:

マッカーサーの威を借りて権威を欲しいままにし、その権威欲と引き換えに(不名誉な)安保条約を締結した

―冷戦に際し、アメリカからの再軍備要請を断り、代わりにアメリカ軍の駐留を求めたことで、半永久的に日本はアメリカの保護下におかれる

 

・経歴

―横浜の富豪・吉田健三の養子として育ち、(吉田健三は、アヘンの極東貿易を牛耳るジャーディー・マセソン商会で働いたあとに独立)この生い立ちが、吉田の「商人的国際政治観」を育てた。

―(大久保利通の次男である)牧野伸顕の娘・雪子と結婚。その後の吉田を支える人脈基盤が築かれる。

①元勲(=明治維新の功績者)の血脈につらなる

②(牧野は天皇から篤い信認を受けていたので)天皇とのパイプが出来る

③(牧野は英米外交官と親しかったため)英米筋に交際が生しる

 ―外務省入省から奉天領事館、駐英大使を務めたのち、終戦間際で早期降伏派に属したことから、戦後、幣原内閣で外相として入閣、鳩山一郎の追放問題で急遽総理大臣に。

―占領期間中はずっと総理大臣を務め、講和後も宰相の座にしがみつき、自らの行為や終戦直後のGHQの行為を検証する機会を国民から奪う。

 

・その他:

鳩山はその政治基盤を吉田に一時的に委ねたのだが、結果としては庇を貸して母屋を取られる形になった。戦前、大政翼賛会の推薦を拒絶した鳩山の追放解除が遅れに遅れたのは、吉田の政治的作為のためであるとする見方も多い。

 

(吉田による)要請が安保条約の「日本は米軍の駐屯を要請し、米国は同意する」という不平等な条文として結実した。より本質的な問題は自主防衛を放棄してアメリカの保護下に入ったという事実を「軽武装」という言葉で誤魔化したことだろう。

 

日本の従属というのは具体的なアメリカに対する従属という以上に、自ら欲しつづけている主体性の放棄なのだ

 

 

36.講和条約 / 日本の独立はなったのか?

・時期:

1951年調印

1952年発効

 

・概要:

日本の独立と主権回復は、サンフランシスコ講和条約の締結によってなされたというのが一般的な歴史認識だが、東西冷戦の最中に講和を締結したことが、アメリカへの依存度を高め、同時に結んだ日米安保条約のせいで、アメリカの軍備に頼らざるを得ない「半人前の独立」という結果をもたらした。

 

・詳細:

―来たるべき講和にあたっては、「全面講和論」(全連合国と講和)vs「単独講和論」(西側陣営のみと講和)があった

戦争の反省・反戦と、独立・平和への渇望が国全体を覆っていたが、「全面講和」は知識人(南原繁ら)が主導して世論に訴える。当時の彼らには、東西冷戦の深刻さや国際情勢に対する知識はほとんどなかった。

①東西両陣営と講和すれば、軍隊は必要ないので、非武装中立のスタンスがとれる

②アメリカへの根強い嫌悪感(反米ナショナリズム

③全面講和すれば国際連合に加盟でき、二度と戦争で攻撃されない

④部分講和は共産主義革命の妨げになり、平和がもたらされない

朝鮮戦争の勃発で、日本の再軍備が国内外から問われるようになると、「部分講和・アメリカによる安全保障」しか選択の余地はなくなり、吉田茂のイニシアチブによって、サンフランシスコ条約で西側陣営の一員となり、同時に日米安保条約を締結。

 

・その他:

(知識人の間に全面講和論が多かったのは)左翼へのシンパシーに加え、対米従属はしたくないという反米ナショナリズムがあるため、「左翼ナショナリズム」ともいうべき主張が、彼らの中にとくに色濃く形成されていった

 

致命的と思われるのが、当時知識人の多くに、国際情勢に関する知識が欠如していたことである。それは占領政策の反映でもあった。GHQプレスコード、つまり報道検閲のガイドラインを設定し、たとえば新憲法の草案をGHQが書いたとは絶対に報道させなかった。そしてまた、旧連合国の間の対立に触れた報道も禁止したので、米ソの対立など国際紛争の本質は書くことができなかった。冷戦のただなかに置かれながら、それを知ることも論じることも禁じられたのである。そのため、全面講和は空想論であることが理解できなかったのではないか。

 

日独伊、三つの敗戦国は講和によってその命運をわけた。冷戦勃発前に講和を結んだイタリアは全面講和で「普通の独立国」となった。ドイツは東西に分断され、九一年の冷戦終結まで講和が許されなかった。(中略)日本は分断の悲哀はないものの、冷戦の真っ只中という特殊状況で講和せざるを得なかったため、ある意味で最も不幸であった。全面講和もならず、自らの軍備も持てず、米軍に守られた「半人前の独立国」となった。

 

 

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父が子に教える昭和史 (文春新書)

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