バカの壁  ★★★☆☆

いまさらですが、

もう10年以上前の名著(?)になる、

バカの壁

を読みました。

 

評価は星3つ(3.5くらい?)です。

 

▽内容:

 「いくら話してもわかってもらえない」「想いがどうしても伝わらない」、誰もが味わう苛立ち、不快感。それを解くキーワードは「バカの壁」だった!

 「"話せばわかる"なんて大嘘だ」と思ったことは誰にでもあるはず。「バカの壁」こそが、コミュニケーションの断絶を解くキーワードだ。この壁についてわかると、身の回りの話が通じない人の思考がわかる。大人と子供、上司と部下、さらにアメリカとイラクとでなぜ話が通じないのかもわかってくる。誰もがぶつかる人生の問題について、「こんなふうに考えてみては」と様々な視点を提示したエッセイ。

 

 我々人間は、自分の脳に入ることしか理解できない。学問が最終的に突き当たる壁は自分の脳である。著者は、この状態を指して「バカの壁」と表現する。知りたくないことは自主的に情報を遮断し、耳を貸さないというのも「バカの壁」の一種。その延長線上には民族間の戦争やテロがあるという。

 現代人はいつの間にか、自分の周りに様々な「壁」を作ってしまった。例えば、情報は日々刻々変化し続け、それを受け止める人間は変化しないという思い込みや、個性や独創性を礼賛する風潮などはその典型例で、実態とは「あべこべ」だという。

 「バカの壁」は思考停止を招く。安易に「わかる」「絶対の真実がある」と思い込んでは、強固な「壁」の中に住むことになると戒めている。

 

 

養老孟司さん、

やっぱり頭がいいのか私には文章が難しくて、

何を言っているのかよくわからないところが多々ありました。

 

10のことを理解するのに、

1→2→3→…10というふうに

脈絡を追って説明してくれるほうが私はありがたいのですが、

 

彼の場合は、

1→5→7→8→10というふうに

一足飛びで書かれている印象を私は受けまして、

 

良く言えば、

これは第六章で書かれているように、

養老さんご自身の脳のなかで、

神経細胞の伝達(シナプス)がすっ飛ばされているんじゃないかと思ったりもして。

 

悪く言えば、

人にわかりやすく伝えるように整理されている文章ではなく、

むしろ養老さんご自身も壁をつくっていないか?

このことに気づいていなければ、彼自身もまた「バカの壁」じゃないのか?

…なんてことを思ってしまいました。

 

相当売れた本らしいのですが、

なんだか私だけこんな理解が悪いのかと思うと、

凹みます。

 

で、

自分と感覚が似ている意見はないものかと、

調べてみたらありました。笑

 

『バカの壁』:アクエリアンさんの最近読んだ本

 

以下、抜粋です。

 

 この本をたくさんの人が読んでいるようだが、いったい何を受け取っているのだろう。本を読み終えると、これにはこんな趣旨のことが書いてある、と、何かまとまった考え方なり、印象なりをまとめていえるものだが、この本は、それがとても難しい。

 読んでいて、気持ちのいい本ではない。なるほど、そうかと、書いてあることがすんなり納得のいくようなものではなく、逆に、こんなことを書いているが、変だなあ、いったい何をいおうとしているのだろう、と首を傾げながら読んだ。

 話題が次から次への移っていって、一つの話題がどう締めくくるられたのかわからないうちに、次の話になってしまう。あれやこれやを、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、という感じで、やたらに喋り散らしている風である。それも無理はない。この本は、彼が一人でしゃべったものを、編集部の人が本にしたものである。自ら書いたものなら、こんなに気楽に散らかしたまま、とはいかないだろう。

 

私がこの本から得た印象も、

アクエリアンさんの感想によく似ています。

 

結局、

バカの壁」とは何なのか?

 

頭でっかちになって、勝手にわかった気になっているけれど、

人間は自分の脳に入ることしか理解できなくて、

知らない間に「壁」をつくっている。

本当はそこで思考が停止しているのに、

それなのに「わかった」気になっている、

だからバカの壁なんだ。

 

俺は俺だ!変わらないんだ!それが俺という個性なんだ!

と言っているのもバカの壁

人間なんて変わるものだし、

意識や心の世界では感情だって理屈だって、

共通であることを前提にする以外はあり得ない。

そうした共通性を追求せずに、ただ一方的に「個」を主張しても、

真にわかりあうことなんてできるわけがない。

それは「壁」以外の何物でもない。

 

これが私なりの解釈です。

 

個人的に、

脳内の一次方程式はおもしろかったです。

 

養老さんいわく、

脳内の入力をx、出力をyとすると、

y=ax

という一次方程式が成り立つそうです。

 

これは

何らかの入力情報xに、脳の中でaという係数をかけて出てきた結果、反応がyというモデル

であり、

 

好き嫌いの感情から生じる行動も、

この一次方程式で説明できるとしています。

 

aがゼロより大きい場合を好きとすると、aがゼロより小さい時、マイナスになっているから嫌い。誰かを見た時、すなわちそういう視覚情報xが入力されて、aがプラスならば、y=行動はプラスになる。

 

そして厄介なのが、

aがゼロである場合と、aが無限大である場合だとしていて、

前者は無気力・無関心、後者は原理主義に陥りやすいと危険視しています。

 

a=ゼロの、無気力・無関心だとどうなるか?

わかっているといいながら(そんなこと知ってるよと思っていながら)

実際は何もしない、

思考停止状態の頭でっかちな人間になる。

 

a=∞の、原理主義に走るとどうなるか?

ある情報や信条がその人にとって絶対のものになるから、

まわりがまったく見えない人間になる。

この場合もまた、

それ以外の情報が遮断され思考停止状態に陥る。

 

ちなみに、

このゼロと無限大の話を脳の仕組みから解明しているのが、

第六章の「無気力の脳」と「キレる脳」で、

これらはどちらも前頭葉機能の低下によるものと説明していました。

 

私は無気力でキレやすいので、

ひょっとしたら、

この前頭葉とやらが機能低下を起こしているのかもしれないなぁ。

 

彼はまた、

 

このa=ゼロとa=無限大というのは現実問題として、始末が悪い。テロは悪い形のあらわれです。(中略)普通に私たちの周辺にいる人間は、そこまで極端な人は少ない。あまりゼロとか無限大ばかりだと、社会生活を送れません。(中略)基本的に世の中で求められている人間の社会性というのは、できるだけ多くの刺激に対して適切なaの係数を持っていることだといえる。

 

と主張しており、

a=ゼロにしても無限大にしても危険だけれども、

とにかくa=固定というのが厄介だ

と言っています。

 

養老さんによれば、

ゼロも無限大も含めて、

この固定化こそ「一元論」であるとしていて、

バカの壁=思考の硬直性が生じる

と言っています。

 

世の中の万物は流転し、

自分という人間もご多分に漏れず心移りもする。

何が正しいかなんてわからない。

そうした中で、

悩んだりあれこれ考えたりする状態は非常に苦しいわけです。

 

だから楽をしたくなる。

悩まないで、思考を停止させたくなる。

それが「一元論」になってしまう。

 

楽をしたくなると、どうしても出来るだけ脳の中の係数を固定化したくなる。aを固定してしまう。それは一元論のほうが楽で、思考停止状態が一番気持ちいいから。

 

こうして、

 無理やりにでも何か不動のものを得たい!

と人は思うわけです。

それは宗教かもしれないし、信念かもしれない。

「個性」という名の欺瞞かもしれない。

 

私が「他の人とは違う何か」を探して、

自分は違っていてもいい!違っていてナンボじゃ!

と息巻いていたのは、

思考を停止させたかったから、

いろいろな波にもまれて苦しみたくなかったからなのかもしれないです。

 

私には人と違う考えがあるし、きちんと声に出していえる、行動もできる、

そうだ私は(みんなと違って)個が確立されているのだ!

と自惚れていたのは、

まさしく「バカの壁」だったわけです。

 

著者は、

昨今の個性や独創性を礼賛する風潮に対して、

疑問を呈しています。

 

(本来)人間の脳の特に意識的な部分というのは、個人間の差異を無視して、同じにしよう、同じにしようという性質を持っている。(中略)

(こうした脳の性質を活かして)多くの人にとって共通の了解事項を広げていくことで文明は発展してきた。

 

それなのにいま、

「個性」ばかり礼賛し、

「共同体」(=共通の了解)に対する意識が薄れてきているのは問題だと。

 

若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことは言わない方がいい。それよりも親の気持ちが分かるか、友達の気持ちが分かるか、ホームレスの気持ちが分かるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないのか。

 

では、

こうした問題の根源になっている「バカの壁」を

少しでも回避するにはどうすればよいのでしょうか?

 

それは、

一元論ではなく二元論的に物事をとらえること

と養老さんはおっしゃっています。

 

「意識と無意識」「脳と身体」「都市と田舎」というように、

常に対極で物事をとらえるようにするということ。

 

本当は無意識っていうものが人間にはきちんとあるのに

(寝ているときなどはまさに無意識)

無意識でも自分は100%そうだと言い切れるのか?

 

アタマでわかったふりをしているけれど、

実際に身体をつかって経験しないとわからないことだってあるでしょう?

 

…みたいな感じですかね。

 

つい最近、

小学校で用いられる理科の教科書で、

半袖で木登りをする写真を使っちゃだめだ!

というニュースがありました。

 

小学教科書検定:半袖で木登り NGで写真変更 - 毎日新聞

 

「半袖で子供が木に登ったら危ない」

というのがその理由らしいのですが、

 

これなんてまさに、

養老さんに言わせるところの

「脳と身体」があべこべになっている状態で、

アタマでわからせて、身体では実態をわからくさせている

間違った教育の一例なんじゃないかと思ってしまいます。

 

理科という教育が生命について解く教科であるのなら、

半袖で登って本当に危ない目にあってこそ、

身体で生命の危険を学ぶことに違いないと思うのですが。

 

話はそれましたが、

 

著者のいう、

二元論的に物事をとらえるとは、

一方的な見方に偏ったり、経験もしていないのにわかったつもりに陥ってはダメ!

常に反対のことを考えておけ、思考に幅を持たせておけ!

壁の向こう側はどうなっているのか?(そのことを)いつも片隅においておくべし!

ということだと思います。

 

一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。

 

養老さんは、

一般に「客観的」で「真実」であるとする科学でさえも、

本当にそれが真実と断定するのは怪しく、

科学の世界においても、二元論的な考え方があると説明しています。

 

それが

ウィーンの科学哲学者カール・ポパーの「反証主義」であり、

これは「反証されえない理論は科学的理論ではない」というもので、

 

例えば、ここにいかにも「科学的に」正しそうな理論があったとしても、それに合致するデータをいっぱい集めてくるだけでは意味がない、ということです。「全ての白鳥は白い」ということを証明するために、たくさんの白鳥を発見しても意味は無い。「黒い白鳥は存在しないのか」という厳しい反証に晒されて、生き残るものこそが科学的理論だ、ということです。

 

と紹介しています。

 

私たちが大学で書いたような論文、

一般に目にする書籍などもそうですが、

たいがいは自分の意見を裏付けるような、

似通った見方のものを参考文献として取り上げることが多い。

 

よく考えてみたら、

あまり自分の意見とは反対のものを引っ張ってくることが少ない。

 

私の大学時代の論文なんてクソみたいなものですから、

とりあえず自分の意見を後押しするようなPUSH材料として

誰それもこういっています、同じように主張しています、

とひたすら肉付けしていましたが、

こんな作業であっても、

一般的な(へぼ学生の)論文の形としてまかりとおっていたわけです。

 

反対意見なんて、

ほとんど出さないし見ようともしない。

 

この傾向は、

論文や著書でなくても同じだと思います。

 

私が冒頭でこの本の感想を述べるときに、

自分と同じようなネガティブ印象をもった人はいないものかと

実際に探して、見つけて、安心したように、

 

人間は同調されると落ち着くし、

度が超えていなかったり明らかに胡散臭くない限りは、

基本的には同調されることが好きなはずです。

 

先日拝読した

『非属の才能』のなかで、

著者の山田玲司も指摘していましたが、

 

人間は自分を認めてくれる人を認めたがるし、謙虚な人を褒める生き物

 

なわけで。

 

だから、

反対意見にあえて見向きもしない。

 

だから、

好きな本や作者が偏ってしまう。

 

でもこんなことをしていると、

壁の向こう側になんて、

到底行けない気がしてきました。

 

人間たまには、

おもしろくない映画や好きじゃない作家の本に触れたり、

好きでもない人としゃべったりすることも大事で

それが社会生活だといわれていますが、

 

この本を読むと、

ただただ接するだけでもダメで、

「壁の向こう側を知ろう!」という姿勢で臨まなければ、

真の社会生活なんて営めないんじゃないかと思ってしまいました。

 

…ということで、

いまいち意欲がわきませんが、

続編:『超バカの壁

も読んでみるかー!

 

■まとめ:

・身体で経験したり、逆の立場にあることを想像もしないで、わかった気になっている。かわらない不動の(確たる)自分を求めて、個を主張する。これらはいずれも思考が停止した状態であり、自己の周囲に壁をつくっている。そのことに気付いていないバカな現代人がなんと多いことか。それこそ「バカの壁」である。

・一方的な見方に偏ったり、経験もしていないのにわかったつもりに陥ってはダメ!常に反対のことを考えておけ、思考に幅を持たせておけ!壁の向こう側はどうなっているのか?(そのことを)いつも片隅においておくべし!それが「バカの壁」を打ち破る方法。

・相当売れた話題の本らしいが、人にわかりやすく伝えるように整理されている文章ではなく、むしろ養老さんご自身も壁をつくっていないか?このことに気づいていなければ、彼自身もまた「バカの壁」じゃないのか?と思ってしまった。

 

■カテゴリ:

エッセイ

 

■評価:

★★★☆☆

 

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