非属の才能  ★★★★☆

山田玲司さんの

『非属の才能』

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

あとから知ったのですが、

この本は、

2011年の本屋大賞で「中2賞」(中2男子に読ませたいという特別賞)

を受賞したそうです。

 

非属の才能といっているんだから、

中2男子だけに属させる時点で「ん?」と思ってしまいましたが、

まぁそこは私、スルーしましょう。笑

 

▽内容:

・「空気が読めない奴」といわれたことのあるあなた

・まわりから浮いているあなた

・「こんな世の中おかしい」と感じているあなた

・本当は行列なんかにならびたくないと思っているあなた

・のけ者になったことのあるあなた

 

おめでとうございます。

あなたは“非属の才能”があります。

 

「みんなと同じ」が求められるこの国で、「みんなと違う」自分らしい人生を送る方法はあるのか?

右肩上がりの経済成長が終わり、群れることで幸せを感じられる「恵まれた時代」が過ぎ去った今、なにより必要なのは、未来を担う才能ある人間が、その才能をいかんなく発揮できる環境作りであり、マインド作りだ。ところがいまだにこの社会では、出る杭は打たれ、はみ出し者はいじめられる。横並びがいちばん重視され、斬新な発想や強烈な個性は「群れのルール」に従って矯正、または無視されてしまう。才能ある人間が生きづらい国――それがニッポンだ。もはや今の時代、みんなと同じ必要はまったくない。むしろ、違えば違うほどいい。人はそれぞれだ。各個人が自分の道を自由にゆけばいい。“非属”であること――これこそが新しい時代のスタンダードだ。

 

若干、

著者の持論展開が少し「ひけらかし」のように見えるところもあって、

(僕は非属の才能を多分にもっていて、まわりには同調はしないが協調はできる!みたいな…)

正直、ちょっとイヤだなと思ってしまった私もいるのですが、

そこは私の心の狭さであって、

冷静に彼の言っていることに耳を傾けると、

結構、ためになることを言っていたりしました。

 

自己啓発の類は私はあまり好きではないと言いながらも、

最近、こうしたタイプの本ばかり読んでいる気がします。

 

なんだか自分が、

「自分に自信のないヤツ」に思えて恥ずかしい限りですが、

本当にそうなのかもしれないですし、

いまはそういう時期なのかもしれないと

とりあえずそう思い留めておくことにします。

 

これが一時にせよ一生にせよ、

この本は結構、

自分を認めるうえでも戒めるうえでも参考になりました。

 

世間の物差しが正しいとは限らないわけだから、

みんなと違ってぜんぜん構わない、

そのことで卑屈になったり自らを価値のない人間だと思う必要は全くない。

でも、だからといって、

自分以外の他人や世間が無条件に間違っている、劣っているということでもない。

 

端的に言うと、

「自分」とは違う「他者」を知る・認めたうえで、

「他者」とは違う「自分」を認めなさい・伸ばしなさい、

それが最もすばらしい「非属の才能」ですよ

というのが主旨でした。

 

私自身、

自分はまわりとは違うと思うことが多いと思うのですが、

違っていて結構!異端上等!と思うがゆえに、

そのことに酔ってしまっていて、

世間に流されること(人)が格好悪いとか、

他人なんてどうでもいいとか、

わりと極端な道を歩いてしまってきたので、

 

著者のいうところの、

「自分」とは違う「他人」を認める

ということは、

あまりできていない人間だと思います。

 

これには決定的な要因があって、

 

著者は、

(自分がどれだけ異質な存在でも)他人から認められたいなら、

自分は他人も受け入れるべき

というスタンスなのですが、

 

私は、

(自分は異質な存在だから)他人から認められたいと思わなければ、

自分も他人を受け入れる必要はない

というスタンスなわけです。

 

他人に好かれたいとも思わないから、

勝手にやらせて頂きます、

みたいな感じですかね。

 

それに対して著者は、

異質な存在とはいえ他人から認められたほうがいいでしょ、

そのほうが実生活はうまくいくでしょ

という感じだと思います。

 

ずっと私は

前者の自分の生き方が間違っていないと思っていた(思い込ませていた)のですが、

 

この本を読んで思ったのは、

非属であることを是とするがゆえに、

どうせ自分は社会に出ても合わないからと他人を受け入れず、

摩擦ばかり生じてストレスを抱えてしまうのは、

自分は他人と違うからダメなんだと卑屈になって自信をなくすのと同じ、

あるいはそれ以上にもっとタチが悪いかもしれない

ということでした。

 

筆者がいうように 

同調はする必要はないけれど、協調はしたほうがよく、

そのほうがまわりとギクシャクせずに、幸せに生きられる

ということは、あながち間違っておらず、

どうも考え方をかえたほうがよさそうです。

(このことは、あとでもう少し深く追究します)

 

 私はまだ読んだことがないけれども、

一流の人は空気を読まない (角川oneテーマ21)

という本がありますが、

 

この『非属の才能』のなかでも、

いわゆる著名人には非属の才能をもっている人が多く、

 彼らに共通するのは、子供のころからとにかく学校が嫌いであったということだ。

(理不尽な教師や先輩の命令に対して)同調圧力に負けず、群れ、属することの安心にも甘えず、思考停止という楽も選択しない──非属の才能はまず、そういった「学校嫌い」という症状にも表れるのだ。

と述べられています。

 

自分の学生生活を振り返ると、

小・中・高のどの時期かにもよりますが、

中高のだいたいの時期を、

本当はやりたくもないのにやっていたことがとても多く、

ずっとおかしいなと思って学校に通っていました。

 

たまに「みんなと一緒」であることに疲れて、

ふらっと輪から外れてみたり、

あえて一人で帰ってみたりしたことがよくありますが、

結局、またもとの輪に戻っていくわけで、

つまるところ私は同調することから抜け出せなかったわけです。

だから私は凡人なのだと思います。笑

同調したほうがラクだったりもして。

でも、多くの人は、そうやって生きているんだと思います。

 

さらに筆者は、

(いつの時代も)歴史に名を残した偉人たちは見事なまでに非属の才能の持ち主だ。

ムラと掟の場の空気を最優先し、とりあえず無難に生きた人間が歴史を変えることなどあり得ない。

と断言しています。

 

これは、先日読んだ、

『うさぎとマツコの往復書簡』

のなかで、

中村うさぎさんが指摘していた

「差別が文化を育む」

という内容とリンクしている気がします。

「人と違う道をいくことが、新たな道をつくる」

といった感じでしょうか。

 

ここで筆者の山田さんがおもしろいことを言っていましたが、

同調の限界は「たかが百点満点」

だそうです。

 

まわりに同調するという「無難な生き方」は、

設問者の枠のなかからは出られない「限定された能力」だし、「望まれた答えを書くだけの能力」

だとしていて、

それ以上の目新しいパフォーマンスは生まれない

ということをおっしゃっているのかと思いますが、

なるほどなぁ、と思いました。

 

ただ、それはそうとして、

なんとなくスッキリしないことがあります。

 

端的に言うと、

無難な生き方の何が悪い?

というところです。

 

山田さんは、

「無難な生き方」を「定置網にかかった人生」とも表現していますが、

 

ほとんどの人が、成功体験の網からなかなか自由になれないでいる。一度はいったラーメン屋がおいしかったので、週の半分はその店に通うとか、(中略)しまいには、学生時代に好きだったアイドルグループの「さよならコンサート≪限定DVDボックス≫」なんかを「大人買いだ」とか言って買ってしまったりもする。

それでは、魚のいない過去の漁場に向かう漁師となんら変わりがないだろう。(中略)思い出のアイドルは、違う海でたくましいオバさんになっている。

 

という、彼のこの表現に対して、

「(昔のアイドルのDVDを大人買いしても)別によくないか?」

と懐疑的になった私がいるのは、

 

おそらく、

無難な生き方の何が悪い?

という思いがあったからだと思います。

 

「非属の才能」があることは素晴らしい、決して卑下することではない

というのはよくわかりましたが、

逆にその才能がなかったらどうなのか?というところです。

 

無難に生きるためには、

「所属の才能」(定置網にかかる才能)だって

無意識・有意識にかかわらず一つの才能なわけで、

それだってあってもいいのではないかな、と。

 

つまり、「非属の才能」がないからといって、

それじゃあ価値がないのかといったら、

そんなこともないと思うわけです。

 

結局、どっちをとるかだと思います。

 

要は、

ローリスク・ローリターンの無難な生き方をして、

無難に生きるために、どうしたら淡々と過ごせるかを追求する

or

ハイリスク・ハイリターンの精力的な生き方をして、

群れに属さず自分らしく生きるために、どうしたら溌剌と過ごせるかを追求する

の二択だと思ったわけです。

 

活力に満ちあふれ、刺激の多い毎日を過ごしたいとは思っておらず、

「そこそこでいい」と考えているタイプの人間なら、

そもそも著者が奨励するような「非属の才能」などもつ必要もないと考えます。

 

思うに、そもそもゴールが違うわけです。

どう生きたいのか、どうありたいのか。

それによって「非属」であることが大きな糧ともなるし、一方では足かせにもなる。

 

山田さんのゴールは、

おそらく「無難ではない生き方」だから、

その場合には「非属の才能」を持ち得ていることは大きな道具となりますが、

「無難な生き方」を所望している人にとっては、

実はそこまで追い求めなくてもよい才能かもしれません。

 

私自身は、

「そこそこでいい」という無難な人生を歩みたいと思っていますが、

そのためにはある程度、物事にとらわれない生き方をしないといけないなと

最近になって本当にそう思い始めました。

 

そうすると、否が応でも、

「まわりがどう思っているのか」はもちろんのこと、

「自分がどうしたいのか」も捨てる必要があるのではないかと。

 

無心になるとは、実はこういうことで、

「オリジナリティ」とか「自分らしさ」とか、

そんなものを貫こうと躍起になりすぎてしまったら、

そもそも淡々と生きることなんて無理なんじゃないかと。

 

…というふうに考えていくと、

どんどん深みにはまっていきそうなので、

このくらいでいったん留めておきます。

 

 

第五章からは、

誰もが潜在的にもっている「非属の才能」をいかにして開花させるのか

について述べられています。

 

その具体的な方法として

・さぼる

・いったん逸れる

・情報を遮断する

・失敗をおそれずチャレンジする

・人の言うことは聞かない

といったことが挙げられていますが、

 

私が自身と照らし合わせて、

個人的に教訓にしたいと思ったのは、

「興味ない」を禁句にする

ということでした。

 

「興味ない」を禁句にする前に、まずは日に一度、何か「はじめてのこと」をするだけでもいい

 

というこの一句も、

是非とりいれていきたいなと思いました。

 

私のゴールは、

群れに属さず淡々と過ごしたい

というのが理想なのですが、

 

ここまでみてくると、

「群れに属さないこと」と「淡々と過ごすこと」は、

どうやらなかなかイコールではつなげなさそうです。

 

淡々と過ごそうとすると、

群れに属して無難に生きるほうがスムーズですし、

群れから飛び出て刺激的な毎日を送ることは、

むしろ「淡々と過ごすこと」を覆しかねない。

 

ただ、だからといって、

卑屈になりすぎて身動きがとれなくなるほど

自らをがんじがらめにする必要はどこにもなくて、

 

「群れに属さない」自分を保つためにも、

自分の可能性は選択肢として多くもっておいたほうがよいかもしれません。

 

大事なのは、

その結果にいちいち一喜一憂しないということ。

 

そのためには刺激は小さいほうがむしろよくて、

何か大きなことをする必要はなく、

「小さいこと」からやってみるというほうがよいかもしれないですね。

 

それに、

「淡々と過ごしたい」と思っていても、

どうしても弱い人間だから、

「たまには刺激がほしい」とか言い出しかねません。

 

そんなときにも、

「興味ない」からといって殻に閉じこもらず、

まずはいったん受け止めて(やってみて)から考えてもよいかもしれません。

 

 

第七章では、

非属をつらぬきながらもみんなと幸せに生きるにはどうすればよいか

について語られています。

 

そこでは、

私のような「同調もしないが協調もしない人」は、

 

自立した個人であるのはいいが、自我が強すぎてまわりとの協調性を軽視してしまう、「個人主義の病」にかかった人間

と指摘されています。

 

これはズバリ当たっていたため、激しく同意。

 

で、

著者はこの危険な「自分病」の例を挙げています。

 

【その1】「私は変わっているんです」病

派手な外見や過剰な行動で、自分の変わっている部分を前面に出したがる人

 

自分のなかの「変わっている部分」をむやみに主張しないことが大切。

相手を不快にするだけの「変わっている」なら、控えめにしたほうがいい。

 

【その2】「自分はいつも正しい」病

「あたし的に無理」とか「俺的にあり得ない」のように、

「自分憲法」を制定して、それに基づいて深く考えずにおのごとを裁くような人

 

群れにいようがいまいが内的成長は望めない。

自分の感覚で決めるのは結構だが、自分が常に正しいかどうかはわからないという自覚だけは必要。

群れに属さず個人の道に生きる人間ほど、逆に他者を尊重する責務がある。

 

【その3】「メジャーだからダメ」病

「大衆的(メジャー)だからダメ」という人

持ち前のひねくれ精神が悪く働いて、「みんなが騒いでいるものなんて見るものか」と遠ざける人

 

大衆にヒットしていようが無視されていようが、その評価は自分がするべき。

「ひねくれセンサー」が先入観として働くと、自分の引き出しが増えない。

 

【その4】「俺は偉い」病

プライドをふりかざして、「無条件に私を認めなさい」といわんばかりの威圧的な態度をとる人

 

自分に誇りを持つのはいいが、プライドというタチの悪い妄想はトイレに流すべき

人間は自分を認めてくれる人を認めたがるし、謙虚な人を褒める生き物

 

 

著者は、

こうした「自分病」の根底にあるのは、

「自分」という存在が大きくなりすぎて「自分」が「自分様」に肥大してしまっているから

と説明しています。

 

淡々と過ごしたいと思っているくせに、

(自分は異質な存在だから)他人から認められたいと思わなければ、

自分も他人を受け入れる必要はない

というスタンスを貫いていては、

淡々と過ごせるわけはないのです。

 

著者が言うように、

「自分」が「自分様」に肥大化していては、

淡々と過ごす人生なんて、どだい無理なわけで。

 

「自分は偉い病」や「自分はいつも正しい病」に多少なりともかかっていても、「自分でいっぱい」になることなく、うまく自我を抑えて他人と協調している

ような人こそが

非属の才能を持ちながらみんなとうまくやっている人

であり、

 

(淡々と過ごせるかどうかは別として)

ある程度自分を保ちつつも、ストレスレスに生きるためには、

いったんは「自分を引っ込める」必要もあるわけで。

 

そんなことをしていたら自分なんて出せないんじゃないか?

と思ってしまいますが、

これに対しては、

重なるところで共感し、重ならないところで貢献する

というスタンスが大事と述べられています。

 

筆者は、

どんな相手でも多少は重なるところ・共感できるところがあるはずだから、

そこは素直に共感し、

重ならない部分では相手を楽しませればいい

ということで「貢献」という言葉を使っていますが、

 

私は、

ここはあえて「貢献」でなくてもよいのかなと思いました。

 

もちろん、そういうスタンスで「自分」を出していけば、

筆者が本書で挙げられている「さかなクン」のように、

より一層、相手に受け入れられやすいし、

円滑に物事が運ぶのはその通りだと思います。

 

でも、人間なんてわがままな生き物なのですから、

(家族は別としても)誰かに腹の底から貢献するために生きている人は少ないと思います。

 

誰かを喜ばせるために自分をなげうつような「貢献」だったら、

それは自分ではないような気がします。

 

ここは素直に、

重なるところで共感し、重ならないところは仕方ないと諦める

重ならないところでは、むやみに「自分様」にならない

という程度でよいかなと思いました。

 

誰かに「貢献」するように「自分を出す」のは、

ちょっとハードルが高すぎる…

なんてことを思ってしまいました。

 

■まとめ:

・人に群れず、まわりと違っていることは、決して卑下することではなく、むしろそれは一種の才能であるのはわかったが、無難な生き方をしたい人には、正直、この才能をそれほど追求する必要もないと思った。

・「群れに属さず(でも)淡々と生きたい」という私のような人間にとっては、自分のよりどころを見つけるためにも、小さなチャレンジをしたほうがよいが、大事なのはその結果に一喜一憂しないこと。それが淡々と生きる、かつ、群れに属さない自分を保つ手段かもしれない。

・円滑に生きるための「非属の才能」とは、あくまで「他者」を尊重したうえでの、「他者」とは違う「自分」の価値。群れに属さないがゆえの「オレオレ」ではない。ここをはき違えてはいけない。

 

■カテゴリ:

自己啓発

 

■評価:

★★★★☆

 

▽ペーパー本は、こちら

 

非属の才能 (光文社新書)

非属の才能 (光文社新書)

 

 

 

Kindle本は、いまのところ出ていません