雪が降る ★★☆☆☆

藤原伊織さん

雪が降る (講談社文庫)

を読みました。

 

評価は、星2つです。

 

藤原伊織さんと言えば、

先日読んだ『テロリストのパラソル』で有名ですが、

そこでもご紹介したとおり、

本書のなかの一編には『テロリスト~』の主人公(島村)が登場します。

 

※ちなみに本書は短編集で、

『テロリスト~』の3年後に刊行。

 

こちらには、

『テロリスト~』のほうで、

島村がまだ新宿中央公園の爆破テロに巻き込まれる前の、

とある夏の出来事(事件)が語られています。

 

『テロリスト~』が壮大なスケール感をもち、

オイオイどうなっちゃうの?!的な読み応えがあったのに対し、

こちらは短編集というだけに、

わりとあっさり

 

あんまりミステリーっぽさはなかったです。

 

この作家さんは、

やっぱり長編のほうがいいかなーと思いました。

 

▽内容:

母を殺したのは、あなたですね……

母を殺したのは、志村さん、あなたですね。少年から届いた短いメールが男の封印された記憶をよみがえらせた。若い青春の日々と灰色の現在が交錯するとき放たれた一瞬の光芒をとらえた表題作をはじめ、取りかえようのない過去を抱えて生きるほかない人生の真実をあざやかに浮かびあがらせた、珠玉の6篇。

 

本作品を読了したのは、

3月の半ばごろだったかと思います。

 

今年に入って、

このブックレビューがほとんど更新できていないのですが、

引越やら何やらでサボってしまいました。

読書自体はちまちまやっていたんですけれども。

 

ということで、

記憶をたどりながら、

コメントしていきたいと思います。

 

全6編の短編になっているので、

さっくり読めます。

 

台風

ビリヤード屋で育った主人公が、

会社の元部下の傷害事件をきっかけに、

昔の生家(ビリヤード屋)での事件を思い出す。

 

ジャズピアニストを夢見た好青年(兵藤)と、

柄の悪い街の成金(早坂)の玉突き勝負。

 

店の手伝いの看板娘・明子と兵藤はできていて、

早坂は明子へちょっかいを出す横柄な客。

 

彼の横暴を止めるべく(要は明子を賭けて)

二人は真剣勝負を果たしたわけですが、

勝負に因縁をつけられた兵藤は、

早坂らに大事な商売道具でもある指を折られたため、

店の中から包丁を持ち出して殺してしまう。

 

解説(黒川博行)では、

 

”上質の小説”

 

として、

 

日常からほんのわずかな狂気を切りとった巧さ

 

があると評していましたが、

 

要は、

どんな好青年でも、

どんなにお行儀のよい人間でも、

 

人知れず、

大変な人生を背負っていて、

それでも、

わずかな希望を胸に、

明日を夢見て頑張ろうとしているわけで、

 

そのわずかな希望が、

他人による心無い一言や悪意ある行為によって打ち砕かれたとき、

人間は悪魔になる

 

──っていうことだと思うんですが、

この書評は、

うーん、正直どうかなーと。

 

好青年(兵藤)がチンピラに指を潰されたことが、

はたして、

「ほんのわずかな狂気」と言えるのか。

「ガチの狂気」でしょ?

と思っちゃうんですけどね。

 

まぁ、話の展開としては、

良く出来ているというか、

主人公の【いま】目の前で起きた事件と、

【昔の】ビリヤード屋の事件がそうつながるわけかぁ

という納得感はありました。

 

 

雪が降る

 

主人公・志村と、上司にあたる高橋は、

もともとは気の置けない同期だったが、

同じ女性(陽子)を愛してしまう。

 

志村の転勤などもあって、

結局、彼女を射止めたのは高橋のほうだったが、

結婚して間もなく、

志村と陽子は映画館で再会し、

昔を思い出した陽子は、

ふたたび志村と恋におちる。

 

その日は雪が降っていて、

帰れなくなった二人はホテルに泊まり、

一夜を過ごす。

 

そして、

自分はやっぱり志村のことが好きだと確信した陽子は、

次にまた雪が降ったら、

高橋と別れて志村に会いにいくと宣言。

 

後日、

雪が降ったその日、

陽子の運転する車は雪でスリップして事故を起こし、

陽子は死んでしまう。

 

彼女の死後、

陽子が保存BOXに残した(でも志村には送っていない)Eメールに気づいた息子が、

ふたりの間にあった真相を確かめるべく、

志村を訪れる。

 

そのときのメールの件名が、

「雪が降る」だった、

という話。

 

これはもう、

純愛小説に近いと思います。

 

このへんで、

藤原さんってロマンチストなんだなー

とあらためて気づかされます。

 

良い意味では、

言葉の額面通りなんですが、

悪い意味でいうと、

ちょっと気持ち悪いとすら感じる。

 

だって、

二人の男が一人の女を愛し、

それによって関係が疎遠になりつつも、

結局(彼女の死を越えて)熱い友情を呼び戻す、

──なんていう話の展開が、

もう男のロマンでしかないでしょう?

 

要は、

オナニーです、オナニー。

 

そういう意味では、

ちょっと気持ち悪いんだよなー、

この作家さん。。。

 

ちなみに、

本作品にでてくる「映画」は、

リバー・フェニックスの『旅立ちの時』という作品なんですが、

自分が中学生のころCATVで観た映画で、

内容は全く覚えていないんだけれど、

妙に思春期の心を揺さぶった記憶があります。

 

リバー・フェニックス

とっくの昔に死んでしまったけれど、

カッコよかったよなー。

 

 

銀の塩

 

冒頭で少し記載したとおり、

テロリストのパラソル (講談社文庫)』の番外作。

 

主人公(島村)が住む新宿のボロアパートには、

隣にバングラディシュから出稼ぎにきた青年(ショヘル)が住んでいて、

彼は秋葉原の電気屋でコツコツ働き、

国に帰って一旗あげようと夢見ていたが、

とある事件に巻き込まれる。

 

会社から日頃のご褒美として、

軽井沢の保養地への休養が与えられたショヘルは、

島村を誘って軽井沢に出かけたが、

 

彼はそこで、

会社が仕組んだライバル企業を蹴落とすための盗聴作業に

不本意にも加担してしまう。

(厳密には加担させられてしまう)

 

盗聴先の別荘には、

別荘の持ち主であり経営者でもある男と結婚した女性(里美)がいて、

彼女はショヘルがひと夏の恋におちた相手でもある。

 

島村から事の次第を教えられた彼は、

自分のしでかしたことに後悔し、

彼女にすべてを白状して日本を去る。

 

里美はカネのためだけに結婚し、

すでに結婚を後悔しているので、

ショヘルの荒行を特にたしなめもせず…。

 

この作品は、

前作『テロリストのパラソル』を読んでいる人だと、

やっぱり島村って頭いいよなーとか、

このときから島村ってこんな感じだったんだなーとか、

いろいろ再発見があって面白いと思いますが、

 

まぁ知らなくても、

島村の人となりがわかって楽しめるかと思います。

 

先の解説者・黒川博行氏は、

藤原伊織さんとは昔から麻雀仲間でもあり、

彼のことを「イオリン」と呼ぶくらいの、

気の置けない間柄のようですが、

 

その黒川氏が、

藤原さんの小説家(芸術家?)としての手腕を

次のように評しています。

 

イオリンの語り口にはエンターテイメントの枠内におさまりきらない日本的な情感が色濃く漂っている。たとえばAという人物を表現しようとするとき、イオリンは決して正面からAの心理に分け入るような無粋なことはしない。Aのなにげない動作や台詞、あるいはAをかこむBやCという人物を丹念に描写することで、Aの人となりを浮き立たせようとする。

 

たしかに、

これには同感できる部分が多々あって、

ここでの島村も『テロリスト~』の島村も、

そんな作者の手管で描かれています。

 

一言でいうと、

島村という主人公は、

ある種の虚無感すら漂うクール・ガイなんだけれど、

頭がキレて情にもアツい男。

 

でもそんなふうには、

藤原さんは一言も書いちゃいないわけで、

 

本作では、

ショヘルとの絡み方や事件への関わり方、

前作『テロリスト~』でいえば、

ヤクザやホームレスとの接し方なんかで、

ひたすら遠回しに主人公の人物像を描き切っているのです。

 

それが黒川氏のいう「日本的な情感」なのかどうかは、

ぶっちゃけ自分には「???」なんですが、

(むしろ、会話のやりとりなんかはアメリカ映画っぽいとすら感じる)

 

描写の仕方は独特だなーと思いました。

 

でも、

やっぱり自分は、

「日本的」というより、

どうしても、

「アメリカ映画」のような気障っぽさを感じてしまう。。。

(くどいですが…)

 

そういう意味では、

彼のこの描写方法は好きか嫌いかでいうと、

自分は嫌いなほうに入ります。

 

このあたりは、

テロリストのパラソル』でも、

同様に評してしまっていますが。

 

ちなみに、

タイトルの「銀の塩」は、

バングラディシュでは、

星空のことをそのようにたとえるんだとか。

 

 

トマト

これが一番、奇想天外でした。

というか、意味がわからなかった。(笑)

 

ある日、

人魚と称する女性に誘われて銀座のバーに入った主人公。

 

人魚の世界にはトマトがないといって、

人魚はそこでトマトを注文する。

 

はじめてのトマトの挑戦に、

なぜ主人公を案内人として選んだのか。

 

──それは、

彼がいちばん「むごたらしい顔」をしていたから。

 

ではなぜ、

「むごたらしい顔」がトマトの案内人にふさわしいのか。

 

──それは、

新しい経験は、

その大半が「むごたらしく悲惨なもの」だから。

 

でも人魚は言います、

 

(はじめてトマトを食べるといった)こういう経験は満足とか不満とか、そういうレベルを超えてんのよ。たしかにむごたらしく悲惨ではあるわよ。でも、どんな経験も少なくともゴミじゃないのよ

 

(むごたらしい経験をするからといって)トマト自体についての感想に意味はないの

 

こういう奇想天外な作品こそ、

解説で丁寧に解説してほしいものですが、

そこには、

 

奇妙な味のショートストーリ

 

──とか、

 

彼女がなぜ人魚なのか、人魚の世界にはなぜトマトがないのか、明確な説明がないところがおもしろい

 

──と、あるだけで、

 

一向にその「奇妙」さについての、

分析が加えられていません。

 

これじゃ、ただの感想じゃねーかよ!

解説者の黒川氏には、

文句の一言も言いたくなる(爆)。

 

解説というのはやっぱり、

文字通り、

解説者なりの読み方があったうえで、

その人が得た印象・感想を添えるのが解説だと思います。

 

そういう意味では、

この解説はダメだなー。

(↑解説にイチャモン…)

 

自分としては、

思うに、

最後のこのくだり↓こそが本作品の肝で、

 

(はじめてトマトを食べるといった)こういう経験は満足とか不満とか、そういうレベルを超えてんのよ。たしかにむごたらしく悲惨ではあるわよ。でも、どんな経験も少なくともゴミじゃないのよ

 

(むごたらしい経験をするからといって)トマト自体についての感想に意味はないの

 

人魚が話し相手として主人公を選んだというより、

慣れない仕事ばかりで悩んでいた主人公が、

(妄想のなかで?)人魚を惹きつけ彼女に諭されたわけで、

 

どんな経験も、

最初はたいていうまくいかなくて当たり前、

まずは一歩踏み出すことが大事で、

その価値はそのときわかるものではなく、

ふり返って評価すべきもの

 

──そんな格言めいたものが、

この奇想天外な物語に含まれているように思います。

 

まぁそれにしたって、

これだけじゃわかりづらくて、

おもしろいとかおもしろくないとか、

何とも言えないけどね。

 

作者としては、

「想像にお任せします」なんだろうけど。

あまりにも任せ過ぎだろ!

 

 

紅の樹

これぞ藤原節炸裂のハードボイルド小説。

 

ヤクザの世界から足をあらい、

彼らに追われながらも、

堅気の世界で人生をやり直す主人公が、

 

同じく堅気の世界でつつましく暮らしながらも、

借金をかかえ、

ヤクザに追われる身となった女性を愛してしまったがために、

 

再びヤクザのシマに乗り込み、

女性のために血を流す話。

 

いわゆる、「任侠モノ」

 

ここでの「藤原節」とは、

ハードボイルドを書かせたら、

おそらくこの作家はメチャウマ!と評されるほどの手腕がある

ということもそうなんですが、

 

先の「雪が降る」でも述べたような、

良くも悪くも男のロマン的な要素が凝縮されている

という点も含みます。

 

自分としては、

前者は好きな(というか是非評価したい)点ですが、

後者は嫌いな(というか気持ち悪いと思う)点でもあります。

 

要は、

私のいう「藤原節」とは、

作家への尊敬と揶揄の二通りの側面がある。

 

まわりくどいですが、

必ずしも、

良い意味ではないということです。

 

だって、

この手の話はもう、

男のロマンでしかないでしょうよ。

 

というか、

もはや「雪が降る」以上に、

オナニーでしかない!

 

そういう意味では、

藤原さんって、

けっこうナルシストだよなーとすら思えてしまう。

(ぶっちゃけ、ちょっとバカにしてます)

 

男なんてだいたいそうだとは思いますが、

女が強くなってしまったいま、

ちょっと時代にそぐわない感はあります。

 

あまり登場人物と一体化できなかったのは、

舞台設定ももちろんありますが、

自分がそこまでロマンチストではないからだと思います。

 

逆に、

もう少し自分がロマンチストだったら、

もっと楽しく読めたのに!と思う。

 

そういう意味では、

残念でもあります。

 

強くて優しい男が好き!

強くて優しい男になりたい!

──みたいな男女諸君であれば、

藤原さんの作品に出てくる登場人物には、

結構、同情できるんじゃないかと思いました。

 

 

ダリアの夏

元野球選手だった主人公が、

宅配便の仕事で、

元女優だった女性の家を訪れて、

その息子の野球を指導する話。

 

ダリアはその家の庭に植えられていて、

それは女性の夫が息子のスウィングの練習のために植えたものだった。

 

ただ、

この夫、

女性が女優時代に不慮の事故で関係がこじれてしまったばかりに、

やむなく結婚した「大物」のジジイで、

そこにはどうやら恋愛感情はなかったらしく、

 

いわば仕事上、

結婚せざるを得なかった的な。

 

仕事上の見栄(対外的なパフォーマンス)なのか、

さて、なんなのか…。

 

このあたりの経緯は、

作品内でも濁されていて、

正直よくわかりません。

 

このまま意味のない結婚を続け、

どうなるのかと迷っている女性と、

 

(野球という夢を諦め)

このままバイト生活で、

ヒモのような人生を送って良いのかとモヤモヤしている主人公。

 

この二人が、

ダリアの花が割く庭を介して、

もっと言うと、

そこで目にした些細な出来事や事件を通して、

再び人生を見つめ直していくという話です。

 

うーん、自分でこんなふうに書いてても、

わかりづらい。。。

 

ひとつには

自分の文才の無さがあることも否めませんが、

もうひとつには、

(作品で言いたいことが)なんだかよくわかんねーな…

という面もあります。

 

私の読解力が鈍いだけかもしれませんが…。

 

全体的に、

読みやすいのは確かで、

短編集なのでさっくりイケるんですけど、

これはおもしろい!的な話が1つもなかったのが残念でした。

 

藤原伊織を読むなら是非長編を!

 

■まとめ:

・全6編からなる短編集。全体的に読みやすく、短編集なのでさっくり読めるが、それだけに内容は薄く、読み応えに欠ける。藤原作品は、長編のほうが面白い。
・独特の描写だが、この作者の描き方は、好き嫌いが分かれると思う。アメリカ映画のような気障っぽさ(スカしている感じ?)があり、内容も男のロマンを追求した自慰的な気持ち悪さもあって、若干ひいた。

・現実主義すぎると作中の登場人物にあまり共感できないと思うが、少しロマンチストの人であれば、共感できるところも増えて、面白く読めると思った。

 


■カテゴリー:

ミステリー

 

■評価:

★★☆☆☆

 


▽ペーパー本は、こちら

雪が降る (講談社文庫)

雪が降る (講談社文庫)

 

 

Kindle本は、いまのところ出ていません

 

名探偵に薔薇を ★★★★☆

城平京さん著

名探偵に薔薇を (創元推理文庫)

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

正確には、3.5くらいが妥当かな。

 

紀伊國屋書店に行ったときに、

書店員さんのおススメ?的なPOPが立っていて、

詳細を忘れたんですが、

「第一部で読むのを止めないで、第二部も必ず読んでください!!」

──みたいな宣伝文句が書かれていた気がします。

(帯だったかな…?)

 

その宣伝文句に惹かれ、

今回、

ようやく手をつけたわけですが、

 

宣伝どおり、

本書は二部仕立てになっていて、

第一部と第二部で内容は異なってきます。

 

たしかに、

第二部が用意されていないと、

結局、名探偵(瀬川みゆき)の正体って何だったワケ?

という物足りなさが残り、

作品自体が尻切れトンボになってしまう恐れはあるんですが、

 

私個人としては、

二部の出来が全体的にイマイチだったので、

期待していたほどの、

いわゆる”驚愕の展開”的な読了感は得られず、

 

先の宣伝文句に対して、

そこまで第二部に期待感もたせんじゃねーよ

と愚痴りたくなりました。

 

ただ、

話のオチ自体は、

なんだかな~的な部分はあっても、

ミステリーとしての仕掛けやアップダウンは、

精巧にできているなぁと感心しました。

 

なんというか、

無理矢理すぎる感もなく、

ロジックが整っていて、

現実ではここまでの仕掛け(企み?)は、

絶対ありえないんだけれども、

どこか納得してしまうという。

 

結果や動機の部分に、

共感できたり満足できるかは別としても、

(正直、自分はそこがイマイチでした)

 

手法?流れ?としては無理がなく、

むしろ、

よく出来ているなぁと思ったくらいです。

 

そういう意味では、

名探偵に薔薇を。

作者にも薔薇を!

 

▽内容:

始まりは、各種メディアに届いた『メルヘン小人地獄』だった。それは、途方もない毒薬をつくった博士と毒薬の材料にされた小人たちの因果を綴る童話であり、ハンナ、ニコラス、フローラの三人が弔い合戦の仇となって、めでたしめでたし、と終わる。やがて童話をなぞるような惨事が出来し、世間の耳目を集めることに。第一の被害者は廃工場の天井から逆さに吊るされ、床に「ハンナはつるそう」という血文字、さらなる犠牲者……。膠着する捜査を後目に、招請に応じた名探偵の推理は? 名探偵史に独自の足跡を印す、斬新な二部構成による本格ミステリ

 

まず、

この作品は97年に出来ていますが、

すでにその原型となるものが、

96年に先行して雑誌に発表されています。

 

そのタイトルは、

「毒杯パズル」。

 

本書の第二部と同じタイトルです。

 

この第二部に大幅な改稿を加え、

それと同時に、

第一部を追加して出来上がった長編が、

今回の『名探偵に薔薇を』になるそうです。

 

要は、

先に「毒杯パズル」があって、

これを際立たせるためにつけたオマケが、

第一部の「メルヘン小人地獄」だったということのようです。

 

だからメインはあくまで第二部のほうであって、

第一部はメインに通じるイントロダクションでしかない。

 

どうやらそういう位置づけのようですが、

冒頭に述べた通り、

自分はそのメインのオチに、

どうも納得がいかなかったです。

 

犯人の動機が、

まさかその程度だったとは…。

 

え?それが理由?

 

しかも何?

それで犯人死んじゃうわけ?

 

なんだよそれ…

 

──みたいな。

 

たしかに、

どんでん返しといえばどんでん返しの結末なんですが、

そこまで引っ張ったわりに、

そのオチはないでしょうよ…

という不満が残りました。

 

この結末を、

名探偵の哀しい使命かのように表現している作者にも

いまいち共感をもてなかったんですが、

 

そんな名探偵が切ない…

とか、

やりきれない…

とか言っている読者もいて、

結構ビックリ。

 

挙句の果てに、

涙腺が…なんて方も。

 

エ?!

何が?!

どこで?!

──と、ただただ驚愕するばかりですが、

 

こんな感想ばかり目にすると、

逆に、

自分って感受性低いのかなーとすら思ってしまいます。汗

 

私としては、

名探偵が切ないというより、

オチのしょぼさが切ないという感じで、

そこまで感傷的にはなれなかったのです。

 

第一部は、

真相にすんなりたどり着くのですが、

第二部は、

真相にたどりつくまでに二転三転します。

 

今思うと、

二部があれだけ予想外の展開を次々に見せるのに、

一部のあの解決スピードといったら、

半端ない。笑

 

よくあれだけで解決できるよな、

と読んでいる最中から思いましたが、

まぁそこは、

さすが名探偵!

ということで。

 

そして、

二部のその二転三転という展開は、

先述のとおり、

ロジックにあまり無理がなくて、

むしろ、

感心するほど精巧にできているなと思った次第です。

 

どうなってんの?

どうなっちゃうの?

と先が気になってページをめくってしまうくらい。

 

解説でも、

 

不可能犯罪や叙述トリックなどに頼らず、本当にミステリらしいミステリを書こうとする城平京の意欲が伝わってくる

 

というふうに評されているとおり、

 

ロジックだけで、

これだけの無理のないミステリを成り立たせているのは、

本当にすごいことだと思います。

 

第二部の巧みな構成は筋金入りのマニアをも納得させるだろう

 

自分は、

筋金どころかハリガネも入っていない、

マニアでもなんでもない平凡な読者ですが、

解説者のいう「巧みな構成」という表現には賛同できて、

この作家、唯モノじゃないなと思います。

 

この城平京という作家さんですが、

この名前はあくまでペンネームのようで、

その由来は平城京なんだとか。笑

 

なぜに平城京よ?

って興味わきますが、

理由は不明。

 

解説を読むと、

ミステリー作家としての萌芽は、

わりと早かったようで、

修練を積んだ期間はわずか4,5年程度なんだとか。

 

もともとはSFとかファンタジーのほうが好きな青年だったようですが、

大学の文芸部在学中に、

先の文芸部誌に「毒杯パズル」を上梓し、

ミステリー作家として本格的にデビューしたそうです。

 

自分は読んだことがないのですが、

スパイラル-推理の絆- 』というマンガも、

原作はこの城平京さんらしく、

ヒットを飛ばしたんだとか。

 

ちなみに、

この城平さん(というか、この作品)、

文体も特徴的で、

 

第二部はさほどでもないのですが、

あえて「擬古的」な文体を採用するなどして、

まるで昔の「謎々おとぎ話」のような世界観を醸し出しているのが、

独創的でした。

 

その例となる表現を

一部抜粋してみます。

 

『小人地獄』を取り巻くことどもは浮かび上がり、人間はつながっていく。だがなぞはまだ暗く底知れぬ堀となり、事件を囲っている。その堀を埋める冬の陣は、起こるや否や。

 

夜は更ける。小人地獄事件の過剰な装飾の意味は奇しくも鶴田文治によって語られ、そして三橋たちの手をことごとく封じた。この奸智の迷宮を攻略する糸玉は、ありやなしや。

 

「冬の陣」「奸智の迷宮」「攻略する糸玉」といった単語や、

「起こるや否や」「ありやなしや」といった言い回し。

 

どこか古めかしいし、

意図的に謎々を仕掛けているような表現ですが、

それがまたこの作品の「ミステリーっぽさ」を強調し、

独特の謎々の世界を創り上げているわけです。

 

話が逸れましたが、

作者の経歴や文体はさておき、

物語の構成というかトリック自体は、

ほんとうにアッパレ。

 

ただ、

やっぱり第二部で

「誰が、何のために、ポットに毒を入れたのか」について、

作者が語りたかったことが、

どうも物語を別の方向にもっていってしまった気がして、

自分はそれが残念でなりませんでした。

 

いや、だからこそ、

単なるミステリーに留まらない、

人間ドラマの要素を多分に含む、

生きる姿勢なんかを考えさせられる作品として

多くの人に受け入れられているのかもしれないけれど、

 

そこに傾倒しすぎないほうが、

むしろシンプルでよかったと思います。

 

Amazonレビューアの感想では、

これが一番、

自分の意見に近いかな。

 

ただし、全体的に名探偵が抱える宿業・悲劇といったものに焦点を当て過ぎていて、違和感を覚えた。もっとストレートなミステリ劇に仕立てた方がより楽しめる作品になったと思う。

 

いや、

名探偵が言ってること(生きる姿勢)は、

なんとなくわかるんです。

 

なんでもかんでも明らかにすることは、

逆に行動範囲が狭まり、

ともすれば自分の首を絞めることにもなりかねない。

 

名探偵・瀬川みゆきが、

自らの使命と胸に刻み、

良かれと思って(言い聞かせて)やっていることが、

時に思いもよらぬ結果を招き、

自分も傷つくことになる。

 

それで本当に幸せといえるのか。

 

病気があるけど、

病気があるなんてわからなければ、

人は幸せに生きれるんじゃないか?

というのと同じで、

 

真相なんて解決しないほうがよくて、

ただの事故だった…で終わらせるほうが、

みんな幸せなんじゃないか?

 

でも、

だからといってそこで立ち止まってしまったら、

今までの自分の生き方をすべて否定することになる。

 

だから、

名探偵は真相を解明することをやめない。

 

いくら病気なんて見つからないほうがいい

とわかっていても、

 

研究熱心な医者が、

すぐに研究をやめれるかといったら、

やめられないわけです。

 

だって、

それが医者の使命であり、

いままでもこれからも自分の拠り所なんだから。

 

病因がわかったら、

それを解決する手段を考える。

 

見つからない幸せと、

見つけたら解決する幸せ。

 

どっちも幸せの方法になりうるわけで、

名探偵は後者を選んだ。

 

もちろん、

そのぶん大変なんだけれど、

見つけない幸せを選ぶのは、

彼女にとって「逃げ」でしかない。

 

結局、

そういうことなんだと思います。

 

学生時代に、

ゼミの先生が言っていた言葉を思い出します。

 

コロンブスは新大陸を発見し、

それによって世界は拡がったというけれど、

本当にそうなのか?

 

むしろ、

無限大にあった世界が限定され、

縮まったんじゃないか?

 

──この小説で、

彼女の生き方を目にして、

ゼミの先生が言っていた、

そんな言葉を思い出しました。

 

それでも彼女は、名探偵は、

コロンブスであることをやめないでしょう。

 

それこそがこの第二部の、

ひいては作品全体の、

メインディッシュになっているわけですが、

その姿勢はわかるんだけど、

それをわざわざメインディッシュにしなくても…というのが

正直な感想でした。

 

以上、

今回はネタバレなしで感想を述べてみましたが、

読んだ人じゃないと、

このレビュー、ぱっぱらぴーだろうなぁ。汗

 

あ、あと、

意外にグロいです。

 

毒薬の作り方とか、

殺人のやり方とかが。

 

苦手な方は、

ご注意ください。

 

 

■まとめ:

・二部仕立てになっており、メインは二部。一部は二部を盛り上げるための脇役。一部はすぐに真相があばかれるが、二部は真相にたどり着くまで二転三転する。全体をとおして、トリックの構成は極めて精巧で、無理がない。ロジックだけで、これだけ無理のないミステリを成り立たせているのは、すごい。

・話の展開には思わず惹きつけられていくが、最後のオチは、個人的にはいただけなかった。「誰が、何のために、毒を入れたのか」について、作者が語らんとした別の人間ドラマが、どうも物語を別の方向にもっていってしまったように思える。

・グロい表現も多々あるが、あえて擬古的な文体を採用して、「謎々おとぎ話」のような世界観を醸し出す様は、より一層、ミステリー感があってよかった。

 

■カテゴリー:

ミステリー

 

■評価:

★★★★☆

 

 

▽ペーパー本は、こちら

名探偵に薔薇を (創元推理文庫)

名探偵に薔薇を (創元推理文庫)

 

 

Kindle本は、こちら

名探偵に薔薇を

名探偵に薔薇を

 

 

 

 

 

鉄の骨 ★★★★☆

池井戸潤さん

鉄の骨 (講談社文庫)

を読みました。

 

評価は、星4つです。

 

建設業界を取り巻く「談合」のおハナシです。

 

池井戸さんの初期のほうの作品ですが、

やっぱり安定していて、

話自体とても面白かったです。

 

しかし何より、

「談合」とは何ぞや?

ゼネコンとオカミ(自治体や政府)の癒着って何?

──的なところが、よーく分かり、

たいへん勉強になりました。

 

新聞よりニュースより、

池井戸潤かもしれません。笑

 

話の展開の面白さ、

建設業界にはびこる悪しき風習、

そんな業界で生き残るための権謀術数などなど、

相変わらずのドキ×2・ハラ×2なストーリーに、

舌を巻かれました。

 

一気読み必至の一冊です。

 

▽内容:

中堅ゼネコン・一松組の若手、富島平太が異動した先は“談合課”と揶揄される、大口公共事業の受注部署だった。今度の地下鉄工事を取らないと、ウチが傾く―技術力を武器に真正面から入札に挑もうとする平太らの前に「談合」の壁が。組織に殉じるか、正義を信じるか。吉川英治文学新人賞に輝いた白熱の人間ドラマ。

 

この小説を読んでいたころ、

ちょうどこんなニュースがありました。

 

東京新聞:震災工事談合疑い 道路13社を強制調査:社会(TOKYO Web)

 

震災で被災した道路や高速の復旧工事をめぐって、

複数のゼネコン(道路舗装会社)が、

結託して受注調整をおこなっていた(=談合)という事件です。

 

記事によると、

こうした談合は震災以前から行われていたようですが、

震災後に案件数が増えたことで、

仕事の分配がしやすくなり、

調整(談合)しやすい環境が生まれたとしています。

 

建設業界では昔から談合・談合…と言われてきましたが、

そもそも談合って何よ?

みたいなところもあって、

何が悪いのかイマイチよくわからなかったのですが、

 

この本を読むと、

スッキリ!よくわかります。

 

要は、

国や自治体、行政法人なんかが発注する仕事は、

一般的に「入札制」で、

一番安い業者が受注することができるという背景(仕組み)がある。

 

とはいえ、

まずは入札業者として呼ばれることが大前提で、

この入札に呼ばれなければ、

「土俵にあがる」ことすらかなわない。

 

じゃあ、

どうやってその土俵にあがるのか?

 

それは、

会社の規模や実績、信頼性はもちろん、

これまでの取引実績なども加点されて、

入札業者としてお呼ばれするわけです。

 

──が、 

裏口という方法もある。

 

いわゆる賄賂です。

 

政府高官や実力者に賄賂を渡して、

入札のための口利きをしてもらう。

 

しかし、 

土俵にあがっても、

結局受注がとれなければ意味がないわけで、

そこでモノをいうのは、

あくまでどれだけ安い価格を提示できるか?

ということになります。

 

行政側は、

最低入札額をもって落札をしますので、

 

請負側としては、

入札額を安く抑えれば抑えられるほど、

落札できやすい(受注しやすい)。

 

でも、そうなると、

利益を削ってでも仕事をとりにく業者があらわれます。

 

そもそも公共事業(なかでも土木事業)というのは、

額がデカい。

 

たとえ利益率が1%でも、

50億円の事業だと5,000万円、

10億円なら1,000万円の利益が得られるわけで、

 

そうなると、

われもわれもと参入する中小建設会社が沢山現れる。

 

そんなことが起きないよう、

本来は競合である各社が、

事前に入札額を調整して、

前回はAさんとこに落札させたから、

今回はBさんとこが落札できるようにして、

次回はCさんとこに…

というふうに、

出来レースを仕掛ける。

 

これが談合。

 

なので、

基本的に談合というのは、

入札業者すべてが参加することで成立するわけですが、

 

今回のB社が最低価格で入札しても、

必ずしもそれで落札ということにはならない。

 

なぜか?

それには発注側の「予算」があるから。

 

この予算は前年度実績や、

類似する実績などから換算して、

行政側で設定されるわけですが、

彼らには必ず「予算」がついてまわる。

 

A社・B社・C社が談合して、

B社に今回は譲るとすると、

3社のなかでB社が一番安い価格で入札するわけですが、

仮にそれが10億だったとしても、

 

発注側の予算が7億であれば、

B社はこれを落札できないということになります。

 

だから、

同じ案件でも、

大抵、複数回の入札が行われます。

 

発注側の上限予算(この場合は7億)に見合う入札があるまで、

何度かやり直しされる。

 

さて、ここで、

入札業者にも呼ばれないD社がいたとします。

 

D社は、

どうしても今回の案件を落札したい。

 

仮に赤字になってもいい。

とりあえず当座の資金繰りをなんとかするために、

まとまった額の発注が欲しい。

 

でも、

D社は当案件について、

これまで実績がなく、

会社の規模も決して大きくはない。

 

よしんば、

入札業者として、

闘いの土俵にのったとしても、

他の各社が談合しているなかで、

絶対に今回D社に当選がまわってくることはない。

 

さて、

D社はどうするか?

 

このとき使われるウルトラCが、

先述の賄賂になります。

 

入札業者として招聘されるための「口利き」を依頼し、

落札できる上限予算を聞き出す。

 

もちろん、

それだけでは落札はできませんが、

(各社の入札予定価格もある程度わからないとダメ)

 

赤字覚悟で臨むわけですから、

談合で調整した各社よりも低い金額を入れるのは、

それほど苦にならない(覚悟ができている)。

 

発注側であらかじめ設定している、

7億の上限予算に対し、

6.5億という破格の入札額が提示できます。

 

それに対して、

一方の談合チームのほうは、

あくまでB社に優先権を渡すのみで、

少しでも上限予算ギリギリに近づけるべく、

少しでも旨み(利益)が出るようにと、

余裕をもった入札価格で臨むわけです。

 

7億の上限予算に対し、

6.9億というふうに。

 

談合することで、

各社は消耗戦を避け、

安定的に少しでも利益が吸えるよう、

タッグを組んで挑む。

 

本書では、

前半が新宿区の道路工事、

後半が地下鉄の拡張工事に関するエトセトラを物語にしているのですが、

 

その前半部分では、

建設省のドンといわれた「城山和彦」に対し、

賄賂を送って裏口エントリーの口利きを依頼し、

上限予算を聞き出して案件を落札する、

「トキワ土建」の巧妙な手口が描かれています。

 

このように、

建設業界では昔から

行政と民間の癒着、

民間企業の談合は頻繁にあるようですが、

民間企業の談合に行政が癒着するケースもあります。

 

これが「官製談合」というやつ。

 

何らかの形で、

行政側も談合に加わるのです。

 

民間から賄賂を受け取り、

予算を教えたり、

あるいは予算をコントロールしたり。

 

2006年に、

宮崎県の土木工事で、

県知事が特定の会社に落札させるよう便宜を図った事件がありましたが、

あれこそ代表的な官製談合です。

 

談合には必ず旗振り役がいて、

これを「調整役」といいますが、

たいていは大手クラスの会社のお偉いさんで、

業界・政界に顔が広く、交渉のやり手。

 

一方の政界のほうにも、

「旗振り役」ならず便宜を供給する「権力者」がおり、

 

これが事件として表に出てしまうと、

彼ら「調整役」や「権力者」が、

事件の「主導者」として捕えられるという。

 

ちなみに、

宮崎の事件で知事は逮捕・辞職し、

その後釜として県の再建にあたったのが、

かの東国原英夫さんですね。

 

──とまあ、

こういう業界の裏知識みたいなところが、

この本を読むとすんなり飲み込めるわけです。

 

池井戸さんは、

池上彰さんの小説家バージョンじゃないかっていうくらい、

気付いたらわかりやすく解説してくれている。

 

この「気付いたら」というのがポイントで、

 

そもそも、

ストーリーの構成がおもしろかったり、

話自体がわかりやすくないと、

「気付いたら」腹に落ちていた

──なんてことはありえません。

 

それが作者のすごいところだなと思います。

 

もちろん、

前提となる知識があるかないかも重要なんですが、

それを以下にわかりやすく・おもしろく読者に伝えるかは、

筆をとる側・話す側の腕の見せ所だと思います。

 

そういう意味で、

自分は彼を、

池上彰さんの小説家バージョン」と表現しました。笑

 

じゃあ、

なにがそれほど読者をおもしろく感じさせるのか。

 

ひとつは、

ミステリー要素を多分に含んだストーリー構成ですし、

もうひとつは、

やっぱり登場人物のキャラクター設定が素晴らしいことだと思います。

 

下町ロケット』を読んだときも感じましたが、

 

池井戸さんの小説に出てくる人たちは皆、

主人公をはじめ、

とにかく登場人物のキャラクターが、

メリハリがあって面白い。

 

必ずいいヤツ・悪いヤツがいて、

 

基本、いいヤツなんだけど、

それは完璧ではなくて、

嫉妬やズルもする、

感情的になってダメなことも言ってしまう。

 

逆に悪いヤツは、

基本、悪いヤツなんだけど、

そうなるのも仕方ないよな…とか、

こいつがやっていることも一理あるよね…とか、

どこか共感できるところもあって、

100%認められないっていうこともない。

 

これはある意味、

現実世界と同じだと思いますし、

だからこそ親近感がある。

共感ができる。

 

いいヤツも悪いヤツも含めて、

彼らの言動や気持ちが、

「わかりたくないけどわかる」

「わかるけどそれやっちゃダメでしょ」

──的なところが多分にあって、

 

それゆえに読んでいるこちらは、

簡単に物語の中に引き込まれてしまうのです。

 

本書に登場する「平太」もそう。

彼はいいヤツなんだけど、

仕事に夢中になっていくなかで、

談合にも片足を突っ込んでしまう。

 

悪いことだとわかっているけれど、

会社のため、

一生懸命働いている仲間のために、

「必要悪」を選ぶこともやむを得ないと考えるようになります。

 

これって、

少しでもサラリーマン社会に身を置いたことがある人間なら、

誰しもが通る道で、

 

たとえ理不尽なことであっても、

その理不尽さをいつかどこかで受け入れて、

「仕方ないこと」だと割り切って仕事をする。

 

だから、

物語のなかの「平太」を否定できないのです。

 

彼を否定してしまったら、

自分を否定することにもなるから。

 

”わかるよわかるよー”

”そうやって葛藤しながら俺もやってる”

 

──と、

たいていの読者はそう思いながら、

平太を応援しちゃうでしょう。

 

逆に、

平太が勤める一松組常務の「尾形」。

 

こいつは賛否両論あるでしょうが、

「いいヤツ」か「悪いヤツ」かでいったら、

「悪いヤツ」に分類されるのかもしれません。

 

たしかにヤツは腹黒い。

 

最後まで読むと、

最終的にこいつが一番腹黒いじゃん!

っていうことがわかって驚きますが、

 

それだって、

能無しの二代目社長のかわりとなって、

経営難の一松組を復活させるためにやったことだと思えば、

やり方は汚いけれど、

ある意味、仕方ないことだとも思えてしまいます。

 

これも

一度、死ぬほど身を削って働いたことがある人間なら、

(※それがいいとか悪いとかでは決してなく)

たぶん共感できてしまう。

 

平太から彼女(萌)を奪おうとした、

銀行マンの園田もそう。

 

いつも高飛車で、

どこか他人を小馬鹿にしている園田ですが、

最終的には、

萌に謝罪する。

 

とはいえ、

それは彼女を一人の人間として尊重しただけであって、

他多数の他人に関しては、

基本的な性格は変わらないとは思いますが、

 

それでも、

ヤツは100%悪人とも言い切れない。

 

それを証拠に(といったらおかしいですが)、

彼のお母さんは非常に物分かりの良い、

ニュートラルな視点をもつ女性として描かれています。

 

だからきっと園田も、

100%ワルじゃない。

 

──なんていうのは、

ちょっと短絡的かもしれませんが、

 

とにかく、

その園田だって、

企業に多額のお金を融資する側の人間として、

どうしても視点が偏ってしまいがちになりつつも、

じゃあ間違っているのかというと、

そうとも言い切れない(と自分は感じました)。

 

作者は、

園田や銀行という組織を、

 

”マクロ的”な発想を背後に感じさせる

 

と、もちあげてみたり、

 

下々が生きるために駆けずり回っているのに、すまし顔で大義名分を振りかざしている

 

と、上から目線的な態度の持ち主のように表現していますが、

 

銀行(銀行マン)には銀行(銀行マン)のプライドがあるわけで、

彼らはそれを大上段から社会をとらえていると思っているけれど、

彼らが自負しているマクロ的な視点が本当にそうなのかというと、

あながちそうでもないことがわかります。

 

マクロ的というならば、

銀行のほうが中長期的な視点をもっているのかというと、

彼らはリスク回避にめちゃくちゃ慎重だから、

ともすれば目先のことしか見えていないことだってある。

 

実際に事業のかじ取りをしている運営会社自体のほうが、

実は中長期的な展望を描いていて、

目の前の雑魚を逃しても、

次の大魚は逃さない的な発想で経営を乗り切ろうと

あらゆる手段を講じていたりもする。

 

要は、

銀行だから視点が優れているとか、

銀行だからマクロ的・上流の発想をもっていて偉いとか、

そういうことはないわけです。

 

彼の作品を読んでいると、

そのことがとてもよくわかります。

 

しかし、

それぞれの立場にそれぞれの想いがあって、

それはプライドとも表現されるものですが、

ときにそれが慢心にかわり、

他がまったく見えなくなることもあるわけで。

 

何が正しく何が間違っているとかは、

実際、

その立場になってみないとわからないことで、

 

池井戸さんの作品には、

常に”驕るなかれ”的な、

訓戒すら含まれている気がするのです。

 

このように、

メリハリある人物を多用しながら、

物語の起伏も多く、

時に共感や教訓をおぼえ、

時に反感や反面教師にしながらも、

常にドキドキしながらストーリーを追っていく。

 

この『鉄の骨』もまた、

そうした池井戸作品の特徴を武器にした、

読み応えある小説でした。

 

最後に、

星5つに満たなかった理由を書いておくと、

2つあって、

 

1つは、

園田が一松組の融資を担当する傍ら、

今回の事件に何らかの形で関与していたんじゃないか?

と思っていましたが、

全然期待外れだったことです。

 

検察が萌や園田の銀行にガサ入れに入り、

終業後に萌がオンライン端末で振込伝票を調べていたとき、

園田に見つかってしまうシーンがありましたが、

 

ここで自分は、

園田が裏でどこかとつながっていて、

悪事を働いているから、

それがバレるのを恐れて萌を監視していたんじゃないかと

疑ってしまったわけです。

 

疑うというか、

期待すらしていたくらいです。

 

実は、

園田は萌を恋愛対象とはしていなくて、

自分の仕事に都合のよいように扱うために、

手なずけているんだと想定していたのですが、

 

この予想(期待)は外れてしまいました。

 

でも、

そんなストーリーでも面白かったんじゃないかと思います。

(負け犬の遠吠えですが)

 

もう1つは、

平太と業界のフィクサーこと三橋萬造の関係。

 

一方は中小企業の一兵卒、

一方は談合の調整役で業界のドン。

 

たかだか同郷というだけで、

こんなにも身分の違う二人が親密になるか?!

という状況設定に、

あまりにもこの関係性が出来過ぎているな、

という感は拭いきれませんでした。

 

もちろん、

三橋と平太の母が幼馴染だったなど、

二人が親密になるための布石はうたれているのですが、

無理矢理、外堀を固めた感もあって、

自分はそこに非現実性を感じたわけです。

 

ま、小説に限らず、

制作なんてそもそもが虚構なので、

100%現実なんてことはありえないんですが、

 

この部分はどこか無理矢理すぎる感があって、

馴染めませんでした。

 

でも、これを否定しちゃうと、

物語の根幹からゼロになってしまうので、

難しいでしょうけれど…。

 

以上が、

超わがまますぎる減点ポイントでした。

 

下町ロケット』にはかないませんでしたが、

ロスジェネの逆襲』くらい面白かったです!

 

いつか、

池井戸作品の”勝手にランキング”をやりたい。

 

 

■まとめ:

・建設業界を取り巻く「談合」がテーマになっており、「談合」とは何ぞや?ゼネコンとオカミ(自治体や政府)の癒着って何?なぜいつも問題になっているのか?といったところがよくわかる作品。

・ストーリーの構成、登場人物のキャラクター設定、文体のわかりやすさなど、相変わらず、引き込まれ感は半端ない。メリハリある人物を多用しながら、物語の起伏も多く、時に共感や教訓をおぼえ、時に反感や反面教師にしながらも、常にドキドキしながらストーリーを追ってしまう。

 

・あくまで個人的な感想にすぎないが、作中における銀行マン園田の役割が少し期待外れだったこと(事件に関与していると思った…)と、主人公(平太)と業界のフィクサー(三橋)の関係性があまりに出来過ぎていて、非現実的だったことが、残念なポイント。

 

■カテゴリー:

経済小説

 

■評価:

★★★★☆

 

▽ペーパー本は、こちら

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Kindle本は、こちら

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イニシエーション・ラブ  ★★★★☆

乾くるみさん

イニシエーション・ラブ (文春文庫)

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

昨年、

くりいむしちゅーの有田が番組で絶賛し、

話題になった作品です。

 

有田も絶賛!10年前の小説イニシエーションラブの人気が凄い - NAVER まとめ

 

そして、

今年は映画化もされるんだとか。

 

映画『イニシエーション・ラブ』

 

実は、

私はこの作品は一度読んでいて、

最後の”どんでん返し”のカラクリ部分は、

なんとなくおぼえていたんですが、

 

その前提で読むと、

一読目とはまた違った印象があります。

 

一度目は、

ただただ最後の結末に目を奪われ、

「エッ、そういうことだったの?!」という驚きばかりが残りましたが、

 

二度目は、

「こいつも結構腹黒いな…」

冷静な人物批評なんかできちゃったりして。

 

三度目はもういいかな、

というところで星4つとなりましたが、

二度目までは読んで悔いなしの

”衝撃ラスト本”代表作だと思います。

 

 

▽内容:

僕がマユに出会ったのは、代打で呼ばれた合コンの席。やがて僕らは恋に落ちて…。甘美で、ときにほろ苦い青春のひとときを瑞々しい筆致で描いた青春小説―と思いきや、最後から二行目(絶対に先に読まないで!)で、本書は全く違った物語に変貌する。「必ず二回読みたくなる」と絶賛された傑作ミステリー。

 

この作品、

先の内容紹介にもあるように、

いまどきの青春・恋愛小説と思いきや、

よくよく読むと結構、時代を感じたりします。

 

解説にも、

 

本書は八十年代後半を舞台に、誰もが通り過ぎるごく普通の恋愛を、けれどとても一生懸命な恋愛を、そして──とても素直で正直な恋愛を描いた物語である。

 

とある通り、

時は80年代後半。

 

JRを「国電」と言ってしまうシーンが出て来たり、

『男女七人夏物語』が会話にのぼったり、

クイズダービー」やら「杉山清貴」まで登場したり。

 

カセットテープを聞きながら、

東京⇔静岡を車で行き来しちゃうところとか、

テレカで長距離電話しちゃうところとか、

このへんはもう

 

自分が中学生(90年くらい?)のとき、

もうCDの時代になっていて、

カセットテープは、

小学生高学年(80年代末)くらいだったと思います。

 

メタリックとかノーマルとかね。

 

だから、

この話は自分が小学生頃の時代を思い浮かべると、

あーわかるわかるといった部分は結構あるし、

 

その頃(今もだけれど)の自分は、

お芋のなかのお芋だったわけで、

恋愛の「れ」の字も知らなかったけれど、

 

恋愛のイロハのところは、

登場人物の実年齢(22~24)と重ねて思い出すと、

これもまた、

わかるわかるという部分が結構あったりします。

 

おそらく恋愛なんてものは、

具体的なコミュニケーション方法の違いはあっても、

本質的には今も昔も変わってないということでしょうね。

 

そしてそれは、

作品中に出てくる「石丸美弥子」という女性が語る、

このセリフに凝縮されていると思います。

 

「(イニシエーションとは)子供から大人になるための儀式。私たちの恋愛なんてそんなもんだよって、(昔付き合っていた)彼は別れ際に私にそう言ったの。初めて恋愛をしたときには誰でも、この愛は絶対だって思い込む。絶対って言葉を使っちゃう。でも人間には──この世の中には、絶対なんてことはないんだよって、いつかわかるときがくる。それがわかるようになって初めて大人になるっていうのかな。それをわからせてくれる恋愛のことを、彼はイニシエーションって言葉で表現してたの。それを私ふうにアレンジすると──文法的には間違ってるかもしれないけれど、カッコ良く言えば──イニシエーション・ラブって感じかな」

 

要は、

(いつの時代であれ)

若い頃の恋愛なんていうのは、

通過儀式に過ぎないのであって、

誰もが通る通過点でしかないというわけで、

 

彼女(石丸さん)はそれを、

イニシエーション・ラブ」と命名しているのですが、

 

そんなことを言う彼女もすごいけど、

彼女にそれを教えた元彼(天童)もすごいと思う。

 

わたしたちは、

「疑似恋愛」こそ、

よく耳にするけれど、

イニシエーション・ラブ」は、

そうそう聞くことはありません。

 

でも、

本当は誰もが感覚的にわかっていたりする。

 

たとえば、

昔を懐かしんで、

なんであんなヤツ好きになっちゃったんだっけ?

と回顧するときに、

「あれは若気の至りだったよなー」

なんて言ってたり。

 

そのときは、

自分にはそいつしかいない!

──くらいのことを思っていたはずなのに。(笑)

 

わりと誰もがそんな「オイタ」的な経験があったりするけど、

いまとなっては、

「あれはあれでよかった」とか、

「過去の汚点ではあるけれど、まぁ仕方ない」とか、

諦めて受け入れている。

 

要は、

石丸さんが言うように、

大人になるうえで必然的に経験することだったわけで、

そのことを私たちももうわかっているのです。

 

読者は、

イニシエーション・ラブ」という言葉自体は聞き慣れないものの、

この石丸さんがいうセリフには、

結構、共感をおぼえた人が、

たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

 

ちょっとネタバレになっちゃいますが、

長年つきあってきた彼女(繭子)を振るほうも振るほうだけど(鈴木)、

実は、

彼女も彼女でよろしくやっていたわけで、

 

結局、

男にしても女にしても、

お互いの存在が通過点でしかなかった、

──というのが

本書のタイトルの意味するところだと思います。

 

一瞬、

それは男(鈴木)にとってだけの話かと思いきや、

実は女(繭子)にとっても共通する話だった、

というところがミソで、

 

一読目は、

そのことが最後にわかって、

「エッ、そういうことだったの?!」と驚くという。

 

実際、

当時の読書メモを読み直すと、

次のように感想が添えられていました。

 

まんまとやられた。二人の鈴木。結局、ヒロイン成岡は途中から二股だったってことで、sideAsideBで同時進行してたわけで、誰にとってもイニシエーション(通過儀礼)の恋愛だったってことね。途中、細かい恋愛模様に飽き飽きしてきたけど、最後はそういうことかっていうことで、大満足。

 

で、

二読目は、

そこから一歩進んで、

「女(繭子)も、うまいことやりおって!」

とか、

「なんだ、こいつ(繭子)も、腹黒いじゃねーかよ」

となるわけです。

 

一方で、

脇役の海藤くんとか石丸さんのほうが、

よっぽど大人だなーと冷静に評価できちゃったり。

 

それが二読目のおもしろさだと思います。

 

自分は先のとおり、

(脇役だけど)石丸さんという女性はスゴイ!

と勝手に評価しているのですが、

 

彼女のことをスゴイと思ったのは、

イニシエーション・ラブ」のセリフだけではありません。

 

彼女が、

一方的に想いを寄せる鈴木に対していう、

このセリフもなかなかスゴイ。

 

※ちょっと長いですが、全部引用しちゃいます。

 

「…鈴木くんの言うように、(他の人を好きになるとか)コロコロと自分の意見を変えるのは良くないって私も思う。だけど人間って成長するものだし、そのときに過去の自分を否定することだってあると思うし、それは許されることだとも思う。…自分の言葉に責任を持てるようになるのって、本当は何歳なんだろう?わからないけど、でも私や鈴木くんの年齢(22,23)で、それができるって思うのは、思い上がりだと私は思う。私たちはまだまだ成長する。なのに自分の言葉に責任を持って、考えを変えないようにするのって、それを無理やり止めようとすることと同じだと思う。この先、好きな食べ物だって変わるかもしれない。今はビールが一番好きだと思っていても、もしかしたらワインが一番好きになるかもしれない。それと同じように、一番好きな相手も変わるかもしれないし、今はまだ、私たち変わってもいい年齢だと思う」

 

いや、

ほんと彼女の言うとおりかな、と。

 

私たちは、

社会にでていく過程で、

たとえば就職活動や会社に入ってから、

やたら「自分を持て」とか「自己を確立させろ」とか言われます。

「自分を持っている人は偉い」とかね。

 

巷の就活本には、

必ずといってよいほど、

面接の攻略ポイントとして、

「自分の意見をちゃんと持っているかどうか」

が挙げれているし、

 

要は、

確固たる自己・自分の意見って

すごい大事だよ的な風潮に呑まれまくるわけです。

 

だからイヤでも、

考えが凝り固まってくる。

 

自分(の考え)なんて安定したほうがラクだから、

年とともに自然とそうなる面は否めませんが、

 

一方で、

世間がそうさせているところもある

と私は思います。

 

でも、

本当はそうじゃないんじゃないか。

 

確固たる自分の意見なんて、

なくてもいいんじゃないか。

 

むしろ、

宙ぶらりんなのが当たり前なんじゃないか。

 

それこそ仏教じゃないけれど、

すべては無常、

人の心なんて特に変わるものだし、

絶対そのままなんてことはない。

 

結局、

容姿も気持ちも変わっていくわけで、

それが当たり前なんだというのが、

石丸さんのこのセリフにも入っている気がしたのです。

 

違和感を感じたのは、

「成長」という言葉くらい。

 

彼女はやたら、

「成長」といっていたけれど、

自分からすると、

それは綺麗ごとであって、

 

「人間は成長するもの」ではなく、

「人間は変わっていくもの」が正解だと思います。

 

でもそれ以外は、

いやせめてそれくらいは、

若いこの子に夢を見させてやろうぜ!

とも思う。笑

 

いやーしかし、

22・23の女の子がこんなこと言っちゃって、

ほんとスゴイ。

 

言い得て妙。

人間の本質を突いているというか。

 

ある意味、

こんなふうに割り切って恋愛している彼女は、

大人の恋をしているとも言える。

 

解説者も言っています。

 

お気づきだろうか、本書は初読と再読でまったく違う物語が浮かび上がるのだ。多様な感想が生まれた理由はそこにある。それが本書の最大の仕掛けであり、魅力であり、ミステリ作家・乾くるみが普通過ぎる(ように見える)恋愛小説を書いた理由でもある。はたしてこれは普通過ぎる恋なのか、存分に驚いて戴きたい。

 

普通過ぎない理由の1つは、

先に挙げた一読目の、

男(鈴木)だけかと思ったら、

女(繭子)にとっても通過儀礼な恋でしかなかったのね、

というオチですが、

 

普通過ぎない理由のもう1つは、

(初読では)繭子と鈴木の恋愛関係ばかりに目を奪われていたけれど、

(よくよく読むと)石丸さんと鈴木の恋愛関係もスゴイ、

てか石丸がスゴイ!

大人すぎる・悟ってる!

──的な新たな一面が見えたりして、

 

これも解説者のいう、

「普通過ぎない恋」だと思うのです。

 

ということで、

乾くるみさんの本作品、

再読もまた◎ということで楽しめました!

 

でも、もういいかな。笑

 

■まとめ:

・再読。一度目は、ただただ最後の結末に目を奪われ、「エッ、そういうことだったの?!」という驚きばかりが残ったが、今回は、その他の登場人物の恋愛模様(恋愛に対する考え方)や性格のほうにも目が行き、冷静な人間観察ができて面白かった。

・結局、男にしても女にしても、お互いの存在が通過儀礼(イニシエーション)でしかなかった、というのが本書のタイトルが示すところ。一読目はそのことがラストでわかって圧倒されたが、二読目では、よりじっくりその通過儀礼の意味や、人間の本質的な部分をとらえているところに圧倒された。

・解説にもあるとおり、初読と再読ではまた別の印象を得ることができたが、もうお腹いっぱい。三度目はいらない。

 

■カテゴリー:

ミステリー

 

■評価:

★★★★☆

 

 

▽ペーパー本は、こちら

イニシエーション・ラブ (文春文庫)

イニシエーション・ラブ (文春文庫)

 

 

Kindle本は、こちら

イニシエーション・ラブ (文春文庫)
 

 

ロートレック荘事件 ★★★★☆

筒井康隆さん作

ロートレック荘事件 (新潮文庫)

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

実は、この本を読むのは、

かれこれもう4度目になります。

 

だいたい、

〈どんでん返しミステリー〉

〈衝撃のラスト ミステリー〉

なんてキーワードで検索すると、

必ずと言ってよいほどヒットするのがこの小説で、

 

そのトリックを忘れた頃に読むと、

相変わらず魅了されてしまうという。

 

とはいえ、

4回目にもなると、

さすがに途中でどんなトリックだったかを

思い出してしまうのですが、

 

たしかこうだったよな…

というおぼろげな記憶から、

 

ほら、やっぱりそうだ!

という確信にかわるまで、

 

その推移を辿るのがまたおもしろいのです。

 

一番最初に読んだときは、

はじめから逐一読み直して、

そのトリックを暴いていくわけですが、

(あとからふり返って感嘆するケース)

 

今回のように、

記憶を呼び起こしながら読むと、

読みながら推測が確信にかわる手ごたえがあって、

それはそれで楽しいわけです。

(読みながら感嘆するケース)

 

そんな感じで、

ほんとに毎回驚かせてくれる一冊。

 

評価は、

正直、星5つでも良いくらいです。

 

さくっと読めるので、

お正月の暇つぶしに最適かも。

 

▽内容:

夏の終わり、郊外の瀟洒な洋館に将来を約束された青年たちと美貌の娘たちが集まった。ロートレックの作品に彩られ、優雅な数日間のバカンスが始まったかに見えたのだが…。二発の銃声が惨劇の始まりを告げた。一人また一人、美女が殺される。邸内の人間の犯行か?アリバイを持たぬ者は?動機は?推理小説史上初のトリックが読者を迷宮へと誘う。前人未到のメタ・ミステリー。

 

作者は、筒井康隆さん。

 

よく似た著名人で、

筒井道隆さんという俳優がいらっしゃいますが、

おふたりは全然関係ありません。笑

 

自分はともによく知らないもんだから、

ふたりはきっと父子だろう…

なんて勝手に思っていました。

 

筒井康隆さんは、

もともとSF小説を手掛ける作家で、

Wikiによると、

 

小松左京星新一と並んで「SF御三家」とも称される

 

──とのこと。

 

実際、

小松左京なんかとは親交が深かったようで、

奥さまとのご結婚は、

小松左京夫妻が仲人になったんだとか。

 

青春時代は、

おもに演劇のほうに精を出し、

SFに傾倒していくのは社会人になってからのようです。

 

大阪育ちの筒井さんは、

結婚後に上京し、

本格的に作家活動にのめりこんでいくわけですが、

 

そこから、

筒井さんの特徴でもある、

いわゆる風刺的・ブラックユーモア的な作品を

世に送り出していきます。

 

PTAによる悪書追放を批判した作品だったり、

当時盛んだった、

ウーマンリブフェミニズム運動を揶揄するような作品、

また、

大学と文芸界という二大勢力を敵視した作品

──などなど。

 

今よりもなんやかんやとうるさい時代に、

要は、

ブラックな作品を上梓しまくっていたわけですから、

向かい風も相当強い。

 

彼は1993年から1996年まで、

約3年間の断筆活動をしているのですが、

そのきっかけとなったのが、

らい病患者の描写が差別的だと猛批判を受けた、

『無人警察』という作品だったそうです。

(この作品は、『にぎやかな未来 (角川文庫)』に収録されています)

 

自宅に嫌がらせの電話や手紙が殺到し、

ご本人だけでなく、

ご家族の危険をも感じ、

作家生活をやめる決心をしたんだとか。

 

実は、

この『ロートレック荘事件』のなかにも、

下半身の生育が停止した、

いわゆる奇形・不具者(身体障害者)が登場するのですが、

 

解説を手掛けている佐野洋さんは、

本書の読了後に、

懇意にする編集者とのあいだで、

こんなコメントを残しています。

 

推理小説というのは、読者に楽しんでもらうためのものだ。身体障害者をねたに、人を楽しませるということに、釈然としないものがある。

 

だから彼(佐野氏)としては、

 

ぼくだったら、この小説は書けないなと思った。というより、考えようとはしなかった

 

と述べています。

 

しかし彼は、

編集者との問答をへて、

 

実は、

差別だのなんだのと言って、

自主規制してしまう自分や周りこそ、

差別を深く意識している(=差別している)側かもしれない

と気付かされたようで、

 

最後に、

こんなふうに述べていました。

 

筒井さんは、あるいは、作家がテーマの自主規制をしていることに対するアンチテーゼとして、この『ロートレック荘事件』を書いたのかもしれません。

 

そして、

彼がこの作品を上梓した3年後に、

筆を断つ宣言をしたことについては、

次のように言っていました。

 

いわゆる差別語、差別表現について、メディアが過剰に反応し、自主規制が強まっていることに対する抗議。それが筒井さんの断筆の趣旨だと、私は理解しています。

 

事実、

筒井さんが執筆活動を再開したとき、

出版各社と勝手に自主規制をしないことを条件に、

覚書まで交わしたそうです。

 

たしかに、

あくまでフィクションの世界なんだから、

別にそのなかで障害者をどう扱ってもいいじゃん

と自分は思います。

 

そんなこと言ったら、

精神に疾患のある人間が犯人の映画は、

みんなクロです。

 

精神病の患者を

エンタメで扱うのはよくて、

下半身不随の患者を

エンタメで扱うのはダメなんて、

それこそおかしいと思うのです。

 

かの松本清張大先生が手掛けた『砂の器』(1960)も、

エンタメの材料としてハンセン病患者を扱っていますが、

こちらは大衆紙(読売新聞)で連載もされていました。

 

文学にみる障害者像-松本清張著『砂の器』とハンセン病

 

のなかで、

 

ある方は次のようにコメントしています。

 

社会派と称された松本清張でも、ハンセン病問題に関しては見識が乏しかったとしか考えられない。彼が欲したのは作品の山場を作るに相応(ふさわ)しい〈社会的負性〉であった。その〈社会的負性〉に相応しいものとしてハンセン病=「業病」があったのだろう。とにかく、隠すべき〈社会的負性〉の象徴としてのハンセン病という偏見自体が、同作の中で全く疑われていないのは問題であろう。

 

結局、

筒井さんはもともと反社会的な要素が強かったから、

揚げ足をとられまくっていたというのが

実際のところなんじゃないかと私は思います。

 

たとえると、

ホリエモンみたいな感じかな。

 

一度社会の敵と見なされれば、

何を言っても叩かれ、

挙句の果てに制裁を受ける。

 

筒井さんの場合はそれが、

ご本人や家族に対する執拗なまでの嫌がらせだったわけで。

 

ある意味、

自業自得な面も否めませんが、

社会や世間が彼に対して毛嫌いしすぎたんだと思います。

 

大人げないな、って思う。

あ、世間がですけどね。

 

だって、

作品は最高に面白かったから。

 

作家の使命は、

いかに読者を楽しませるか、です。

 

そのなかで、

どんなに差別表現がなされようと、

いま流行のヘイトスピーチが展開されようと、

虚構なんだから別にいいじゃんと思います。

嫌なら読まなきゃいいだけで。

 

結局、

それを第三者がことさらに批判したりするから、

事が大きくなるのであって、

 

言ってみれば、

嫌中本・反韓本コーナーをつくって売上促進をする

本屋さんや出版社と構造は似たようなものかなと思います。

 

やだねぇ、世間っつーのは。

ひろさちやさんに完全に感化されてしまいました…)

 

筒井さんの反骨精神は個人的に応援したい!

というのがここまでの趣旨なのですが、

 

ここからは、

本書の内容に関するコメントです。

(※ネタバレあり)

 

結論から先にいうと、

本書には衝撃ポイント(どんでん返し)が2つあります。

 

1.作中の「俺」が途中で変わる

2.実は犯人の「俺」は、彼が殺した女性のうちの一人には愛されていた

 

まず、1.について。

 

これは、

いわゆる叙述トリックというやつです。

 

「おれ」はコイツだろうと見せかけておいて、

実はもう一人の「おれ」がいた、

──的な。

 

【参考】叙述トリックとは - はてなキーワード

・ミステリ小説において、文章上の仕掛けによって読者のミスリードを誘う手法。具体的には、登場人物の性別や国籍、事件の発生した時間や場所などを示す記述を意図的に伏せることで、読者の先入観を利用し、誤った解釈を与えることで、読後の衝撃をもたらすテクニックのこと。
叙述トリックを用いる際、虚偽の事柄を事実として書くことはアンフェアとして斥けられる。このため、客観的な記述が求められる三人称よりも、語り手の誤認や詐術が容認される一人称が用いられることが多い。また、手記という形をとる作例も少なくない。
・通常のミステリ作品におけるトリックは、犯人が探偵や警察の捜査を撹乱するために用いるものであり、物語の中で完結した形を取る。これに対して叙述トリックは、作者が読者に対して用いるもので、物語とは無関係に成立することが多い。
叙述トリックは、もともと本格ミステリのテクニックとは看做されておらず、邪道とする意見も多かったが、新本格以降の国産ミステリでは、代表的な手法であり、ベストセラーとなった作品も多い。

 

読者としては、

てっきり「おれ」ってアイツのことでしょ?

と思いながら読み進めてしまうのですが、

 

途中で、

「おれ」が替わります。

 

もっと具体的に言うと、

「おれ」=重樹と、

「おれ」=浜口画伯(浜口先生)がいて、

ふたりは同一人物ではない。

 

父親同士が兄弟(といっても義理の)なので、

ふたりは従兄妹関係にあり、

重樹の苗字は「浜口」ではありません。

 

この重樹≠浜口画伯という構図が

最終的に明らかになっていきます。

 

そこで読者は、

「ぬおー!」となる。

 

フランスの美術館めぐりなどの紀行文や

エッセイを書いているのが前者(重樹)。

 

絵を描くかたわら、

映画をつくっているのは後者(浜口画伯)。

 

第一章の「おれ」は、

後者の「浜口画伯」が語っていますが、

 

第二章からは、

前者の「重樹」が「おれ」として

話しはじめるのです。

 

「おれ」=「浜口画伯」に視点がかわるのが、

第七章。

 

ここから第十章まで、

浜口画伯としての「おれ」が続きます。

 

で、第十一章から、

ふたたび「おれ」は「重樹」に。

 

たしか、

二回目・三回目に読んだときも

(ひょっとしたら一回目のときも?)、

 

(結末がわかるまでは)

この「おれ」っていうやつに、

ところどころ微妙な違和感が出てきて、

釈然としない印象があったのを憶えており、

 

今回は途中で、

”そうだ!

 この「おれ」は、たしかこっちの「おれ」だったんじゃなかったっけな…?"

──というふうに読み進めていたので、

 

所々でウラをとりながら核心に迫っていく

というアプローチができました。

 

でも結局、

なんで犯人の「おれ」が、

次々と殺人をおかしたのか、

その動機は最後まで思い出せなかったので、

これはこれで、

初回のときのような新鮮さもあってよかったです。

 

その犯行動機が

2.の衝撃ポイントにも通ずるわけですが、

 

結局、

犯人の「おれ」は、

体に障害があるために、

ずっとコンプレックスをもっていた。

 

普通の生活ができないし、

恋愛なんてもちろん無理。

 

いつしか卑屈になってしまった「おれ」は、

自分を守ってくれるのは、

もう一人の「おれ」しかいないと思うようになった。

 

その絶対的に依存できる相手が、

いざ世帯をもって、

自分から離れていってしまう。

 

いよいよそのときが来た!とわかったのが、

まさにこの「ロートレック荘」であり、

犯人の「おれ」は、

その邪魔になる人たちを殺していった、

 

──これが粗筋の犯行動機です。

 

犯人の動機の根本的なところ(心の闇)は、

身体的不具合からくる劣等感ですが、

 

要は、

”誰からも愛されない(必要とされない)、

 ただの可哀想な男"

という劣等感が、

犯人自身を精神的に追い詰めてしまった。

 

相棒(=もう一人の「おれ」)に、

依存するしかなくなってしまった。

 

でも、

本当は違った。

 

実は、

ロートレック荘」の今の持ち主である、

木内夫妻の娘(典子)は、

「おれ」からもう一人の「おれ」を奪おうとしたのではなく

まさかの「おれ」を愛していた!

 

犯人の「おれ」は、

木内夫妻から典子の日記を渡され、

その日記から、

獄中で典子の自分への想いを知ります。

 

そして物語は、

この一文で幕を閉じるのです。

 

私が失ったものはなんと大きなものだったのでしょう。もうこれ以上生きていたってなんの希望もありません。どうか私を死刑にしてください。

 

結局、

最後は救われない結末で終わるんですが、

”ひゃー!なんと、そう来たか!”

というラストでした。

 

「まさかの」どんでん返し。

 

作者の巧みな叙述トリックで、

犯人の「おれ」ともう一人の「おれ」がいることが明らかになったと思いきや、

最後にもう一度読者は「!!!」を体験するわけです。

 

いやーお見事でした。

 

ちなみに、

3回目に読んだときのメモを見直すと、

こんなふうに書き残していました。

 

2回読了したのに、トリックをまったく忘れていた。
・実は3人の独身男性がいた
・「おれ」がどの俺なのかわからない
・重樹≠浜口
・なんで身障者の重樹がそんなにモテるのか?
叙述ミステリーっていうやつで、「やられた」感よりも「あーそういうことか、なるほどね」という感想。

 

3つめの

”なんで身障者の重樹がそんなにモテるのか?”

というコメントなんかは、

 

思いっきり、

「おれ」=重樹という認識で読み進めていたんでしょうね。

 

いずれにしても、

星4つをつけていましたから、

それなりにおもしろかったんだと思います。

 

筒井さんは、

本書のほかに、

先行してもう1冊ミステリーを書いているそうで、

それがコチラ。

 

富豪刑事 (新潮文庫)

 

彼が書いたミステリー(推理小説)は、

どうやらこの2つだけで、

解説の佐野さんによれば、

こっちも相当おもしろいようなので、

次回、是非読んでみたいなと思います。

 

 

■まとめ:

・4度目の読了ながら、相変わらず衝撃の結末に圧倒された。

・はじめて読んだときは、読み返しながらトリック(伏線)を発見していく楽しさがあったが、今回は、記憶をたどりながらトリック(伏線)を見つけ、核心に迫っていく楽しさがあった。

・本書には、2つの衝撃ポイント(どんでん返し)がある。1つは叙述トリックによるもの、もう1つは犯人の犯行動機を根本から覆す「まさかの」実は…的な内容。いずれにしても、作者の見事な手腕に感服。


■カテゴリー:

ミステリー 

 

■評価:

★★★★★


▽ペーパー本は、こちら

ロートレック荘事件 (新潮文庫)

ロートレック荘事件 (新潮文庫)

 

 

Kindle本は、いまのところ出ていません

 

「狂い」のすすめ ★★★★☆

ひろさちやさん

「狂い」のすすめ (集英社新書)

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

ひろさちや」というお名前だけは聞いたことがありましたが、

実際、何をされている方なのかはよく知りませんでした。

 

どうやら、

仏教を専門とする宗教評論家で、

本名は「増原 良彦(ますはら よしひこ)」といい、

ひろさちや」はペンネームだそうです。

 

Wikiによると、

以下のように説明がありました。

 

大阪府に生まれ北野高校を経て、東京大学で印度哲学、仏教学を学び、気象大学校で教鞭を執る。教員生活の傍ら、「ひろさちや」のペンネームで平易な言葉で多数の入門書を執筆し、一般の人々に仏教を身近な物として再認識させた。ペンネームの由来は、ギリシア語で愛するを意味するPhilo(フィロ)と、サンスクリット語で真理を意味するsatya(サティヤ)の造語である。

 

ひろさちや」=愛と真理を追求する人

みたいなイメージでしょうか。

 

学歴もさることながら、

教員をやりながら本も書くなんて、

もともと勉強が大好きなんでしょうね。

 

「仏教」とは言いますが、

本書に書かれてあることは、

決して「仏教」をはじめ、

特定の宗教に偏った感じもなく、

まさに「平易な言葉」を用いて、

うまく生きるスベを教えてくれています。

 

まあ、よく聞く話だよねー

っていうものも正直多いのですが、

 

よく聞く話ではあるんだけど、

アプローチの仕方が独特だなー

というのもあって、

面白さが感じられました。

 

決して、

宗教じみた説教にはなっていないので、

ライトに読めると思います。

 

おすすめ。

 

▽内容:

今の世の中、狂っていると思うことはありませんか。世間の常識を信用したばかりに悔しい思いをすることもあるでしょう。そうです、今は社会のほうがちょっとおかしいのです。当代きっての仏教思想家である著者は、だからこそ「ただ狂え」、狂者の自覚をもって生きなさい、と言います。そうすれば、かえってまともになれるからです。人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく生きましょう。「狂い」と「遊び」、今を生きていくうえで必要な術はここにあるのです。

 

まず、

著者が言う「狂う」とは、

精神病理学上の「狂う」ではなくて、

「ふざける」みたいな意味で、

 

世の中で言われていることや世の流れに対し、

なんでも額面どおりに受けとめるのではなく、

ちょっと距離をおいて、

おちょくる・見くびるぐらいがちょうどいい。

そもそも世の中のほうが狂ってるんだから。

 

──と言っています。

 

「狂う」を、

「ふざける」「おちょくる」という言葉に置き換えても

いいかもしれないです。

 

ただこれは、

あくまで「境地」のことを指していて、

あんまり極端に言動に出してしまうと、

人間関係が悪くなることもあるから、

(人間関係を悪化させたくなければ)

周りに合わせることも必要だと、

筆者はおっしゃっていました。

 

口では、

「そうですよねー」「わかりますよー」なんて言っておきながら、

本心ではそんなことないでしょうに、

と嘲笑っていればいい。

 

それだけでなく、

正義をふりかざして、

「正しいこと」「当たり前のこと」を言うのは、

よしたほうがよいとも言っていました。

 

正しいことは言わずにおきましょう。それが人間関係をうまく維持するための、一つの良策だと思います。それから、正しいことをあなたが言うときには、あなたは相手を勝手に裁判にかけて判決を言い渡しているわけです。そのことに気づいてください。(中略)「正しいことを言うな!」は、──何も言わないほうがよい──という意味です。わたしたちが相手に対して何かを言う、はっきりと口に出して言わなくても、心の中で、〈この人はまちがっている〉〈わたしであれば、こんなことはしないのに…〉と思うことも含めて、相手に対してなんらかの「判断」をすることは、結局はその人を裁いていることになるのです。したがって、何も言わない、その人を裁かないほうがよいのです。わたしたちは、聞いてあげればよいのです。

 

ただ聞く、

そしてときには受け流したり、

心のなかで嘲笑う、

それで良いのだと。

 

着るものや食べるものも、

場の空気を乱さないためには、

いちおう適当に流行にのっとけばよくて、

あとは好き勝手やればいい、

だって個人の自由なんだから、

 

──というわけです。

 

もし言動に出すにしても、

自分は世間とは違って「しまっている」という意識のうえでそれをやってしまうと、

俺ってマイノリティー…?みたく

どうしても卑屈になってしまうから、

 

そうじゃなくて、

自分は狂っているから世間とはズレているんだ、「どうよ!」

という意識でやれば、

俺ってマイノリティー!てへ!みたいに、

逆にふざけられる・余裕がもてる。

 

だから狂いなさい、

人生を世間の常識という型にはめず、

もっと自由に「遊べ」と、

彼は言っています。

 

”自由”という言葉、いろんな意味に使われますが、ここでは「自分に由る」という意味です。世間の常識に由って判断するのは「世間由」であって、それだと世間の奴隷です。世間と違った自分の判断に由るのが自由人です。ということは、自由人は世間に楯突いている人間です。世の中をすいすいと泳いでいる人間が自由人に見られそうですが、あんなのは太鼓持ちであって、真の自由人ではりません。真の自由人は世間からちょっと距離を置いて、世間を信用せず、むしろ世間を軽蔑し、軽蔑することによって世間に楯突いている人間です。あなたもぜひ、自由人におなりください。簡単になれますよ。まず、自分が弱者だと自覚すればいい。そうすると、どうせ世間は弱者に味方してくれるわけがないから、世間を信用しなくなる、そうすると、世間の常識に対して眉唾になります。そうすると、自分の独自の思想・哲学が持てるようになります。思想・哲学といったって、そんなに大袈裟なものではありません。〈みなさんはそうおっしゃいますがね、わたしはそうは思いませんよ…〉と心の中で呟く、それだけのことです。

 

一見、

誰もが言っているようなことなんだけれども、

「自由」の語源から、

「世間由」という言葉をつくり、

 

世間の常識に由って判断するのは「世間由」であって、それだと世間の奴隷です

 

と表現しているのが実にユニークでした。

 

全体を通じて、

このようなユニークな表現が多いのですが、

それがなかなか説得力がある。

 

世間を「象」にたとえて、

以下のように表現していたのもおもしろかったです。

 

世間というものは狂象です。(中略)世間というものは、発情期の象でしょうか。近寄ると危険です。世間の常識──制服はいいものだといった常識──に楯突くのは危険です。よしたほうがよろしい。ただ黙って、にやにや眺めているといいのです。そして、心の中では、狂っている世間を軽蔑します。

 

では、

世間と距離をおいて、

「自由に」人生を遊ぶにはどうしたらよいのか。

 

彼はいいます、

人生に目的を求めてはいけない、

人生に意味なんてない、

たまたまこの世に生をうけ、

ついでに生きているだけだ、と。

 

だから、

未来を夢見て、

理想や希望なんて持たないほうがいいし、

過去を振り返って、

反省や後悔なんてしても無駄だ、と。

 

──反省や後悔をするな!希望や理想を持つな!──

(中略)世間の常識だと、失敗したときはしっかりと反省しないといけない、となります。でもね、いくら反省したって、この次、失敗しない保証はありません。われわれが生きてる現実の中で、まったく同じ状況というのはあり得ないのです。失敗するには、そのときどきの条件によって失敗するのですから、いくら反省したところで、この次は別の条件が作用しますから、反省は役に立ちません。それに”反省”といえば立派ですが、実際は反省することは、くよくよ、じくじく後悔することなんです。やめたほうがよい。そして、この次の機会に失敗すれば、そのときにまた〈あっ、しまった!〉と思えばいい。失敗したって、命まで奪われるわけではないでしょう。何度も失敗を繰り返していいのです。失敗を楽しめばいい。それが釈迦の言葉のひろさちや流解釈です。

 

ただただ、

「いま」をとりあえず生きなさい、

引きこもりなら引きこもりを楽しめばいいし、

病気なら病気の範囲で生活を楽しめばいい、

 

そこに理想や希望なんてもってしまったら、

余計に心が煩わされるんだし、

過去を振り返っても何も変わりはしない

 

すべては「諸行無常」なのだから、と。

 

人間は本質的に自由なんです。神が人間を創ったとしても、神の頭の中には何も目的なり用途なりがなかったのだから、人間は自由に生きていいのです。ましてサルトルは神の存在を認めないのだから、人間を束縛するものは何もないのです。それが実在主義の主張です。ということは、人生は無意味なんです。「意味」というものは、いわば神の頭の中にあるものでしょう。そうではなしに、誰かがその「意味」を決めるのだとしたら、いったい誰が他人の生きる「意味」を決定する権限を持っていますか?戦前の日本だと、天皇陛下が国民の生きる「意味」を決定する権限を持っているといった主張もあり得たでしょうが、まさかそこまで言う思想家はいませんでした。でも、なんとなくそのように思わせる風潮はありましたが、あれは国民みんながペテンに引っ掛かっていたのです。だが、戦後になると、こんどは人間の生きる「意味」が多数決的に決まるかのような風潮が生じました。しかし、それもペテンですよ。わたしの生きる「意味」を、わたし以外の人間が決定する権限を持っているはずがありません。だとすれば、それは「無意味」です。人生の「意味」なんて、ありっこないのです。

 

戦後、

生きる意味が「多数決的に決まる風潮」が生じた

という指摘には、

なるほどなーと思いました。

 

最後のくだりが、

自分はいまいち理解ができなかったのですが、

 

わたしの生きる「意味」を、わたし以外の人間が決定する権限を持っているはずがありません。だとすれば、それは「無意味」です。

 

「意味」という言葉を「価値」に置き換える

なんか納得がいきました。

 

自分の生きる「価値」は、

他人には決められない・わからないものなんだから、

そしたら「価値」なんてないんだ、と。

 

そして、

「価値なんてない」ということが、

本当の「人生の価値」なんだ、

だから周りにはばかることなく、

自由に生きてよいのだ、と。

 

「無意味」だというのが、真の「人生の意味」なんです。そして、わたしたちは、ついでに生きているのです。意味のない人生だからこそ、私たちは生まれてきたついでにのんびりと自由に生きられる。誰に遠慮する必要もなく、自分の勝手気ままに生きることができるのです。

 

でも、

著者の考えに同意できなかったところもあります。

 

ひろさちやさんは、

 

人生は無意味なんだし、

どうせいつか死ぬんだから、

下手に生き甲斐とか目的なんかをもってしまうと苦しいばかり、

 

挙句の果てに、

人生の目的=金儲けなんてことになったら、

それこそもう最悪だ…

 

──くらいのことを言っているのですが、

 

自分としては、

「そうだなぁ」と賛成する気持ちが半分、

「そうかな?」と反対する気持ちが半分、

というのが正直なところです。

 

わたしたちはたまたま人間に生まれてきて、生まれたついでに生きているだけだ。別段、それ以上の意味なんてない。(中略)人生に意味があり、目的があるとすれば、わたしたちはその目的に向かってまっしぐらに驀進したくなります。そうすると、競走馬的人生になってしまいませんか。まさか金儲けだけが人生の目的・生き甲斐だと思っている人はいないでしょうが、企業の発展を目指す経営者は、結局は金儲けのために生きていることになるでしょう。でもね、いくら巨悪の富を積んでも、あの世には持っていけないのですよ。金儲けなんて、人生の目的にはなりませんね。

 

狂っている世の中で狂うことが、まともになれる道なんです。まともになるということは、「金・かね・カネ」の狂奔をちょっと醒めた目で眺める心の余裕を得ることです。そうすると自由人になれるのです。それには、人間は誰もが死ぬんだという、冷厳たる真理を直視することです。(中略)もうすぐ死ぬのだとしたら、あくせく働いて金を貯めてどうなるんです?!

 

言っていることはごもっともなんですが、

逆の考え方だってできそうです。

 

人生は儚いから、

どうせいつか死ぬんだから、

だったらせめて、

いい思いがしたい・贅沢したい。

 

だから、

人生が金儲けに終わって何がいけないだ?

 

──みたいな。

 

実際、

そういう人はたくさんいると思います。

 

きっと著者としては、

仏教の教えに精通しているため、

 

理想にせよ希望にせよ、

あるいは「生きる目的」や「生き甲斐」にせよ、

 

根底には「欲望」というものがあって、

 

それはほうっておくと、

化物のようにどんどん膨らんでいくものなので、

何か手に入れるともっともっと手に入れたくなるし、

逆に手放すこともできなくなる、

 

お金なんていうのはその最たるものであり、

ゆえにお金を追いかけてしまうと、

苦しみもがく人生になってしまう、

 

だったらそんなもの持たない方がいい、

ちょっと冷めた目で見るくらいがいい、

そのほうがラクに生きれる、

 

──そういうことを言いたいんだと思います。

 

それだったらわかります。

その通りだと思う。

 

自分はちょうど、

小池龍之介さんの『しない生活 煩悩を静める108のお稽古』を併読しながら、

本書を読んでいたので、

わりとすんなり腹におちましたが、 

 

ひろさんの、

どうせいつか死ぬのに生き甲斐を求めたり、

あくせく働いてどうするの?──的な言い方だと、

自分のように反発する人もいるんじゃないかなと思います。

 

だからこそ、

ここは(この部分こそ)、

宗教的補足があったほうがよかったかな。

 

さて、

著者によると、

人生に目的や「生き甲斐」をもつこと自体が、

もう世間に毒されていると言っています。

 

わたしたちが「生き甲斐」を持とうとしたとき、わたしたちは世間の奴隷にされてしまうのです。そりゃあね、世間は、わたしたちに「生き甲斐」を持たせようとしますよ。世の中で生きているのだから、いや、世間のほうからいえば、おまえたちは世の中で生かしてもらっているのだから、世の中に恩返しをしないといけない。そのために「生き甲斐」を持って生きなさい──と命令口調で言います。つまり、世間はわたしたちに「生き甲斐」を押し付けます。それに騙されてはいけません。(中略)世間は、やれ仕事が生き甲斐だ、元気に働くことが生き甲斐だ、世の中に役立つ人間になることが本当の生き甲斐なんだと、新しい生き甲斐をつくって押し付けます。そんなものに引っ掛かってはいけませんよ。それに引っ掛かると、われわれは世間の奴隷になります。

 

たしかに私たちは、

人生に「生き甲斐」がない・ハリがないと、

なんかダメだと思っている。

 

本当にダメなのか?

 

周りがダメだと言っているから、

なんとなくダメなんじゃないかと思ってしまうだけで、

 

別に、

ハリがない人生を、

ただ飄々と生きていたって、

実はそれはそれで心地よいかもしれません。

 

仕事を辞めた人や転職した人が、

”辞めて自由になったのはいいけど、

 ヒマで何していいかわからないし、

 ダメ人間になりそうだから、

 あまり間をあけずに就職した”

──ということを見たり聞いたりしますが、

 

ヒマだと何がいけなくて、

どこがダメ人間なんでしょうね?

 

いや、

こうやって言ってる自分も、

 

実際、

”ヒマ=避けるべきもの”

”働かない=ダメ人間”

と思っているフシがあるんだけれども、

 

それって本当にそうなのか?

と思います。

 

べつに誰にも迷惑かけてないんだから、

ヒマでも働かなくてもいいんじゃないか?

──と。

 

私たちはつい、

こんなんじゃダメだ!

と自分を律してしまいますが、

 

本心としては、

何もしないほうがリラックスできていい!

と思っているかもしれない。

 

こんなんじゃダメだ!

というのは世間の常識(評価)に惑わされているだけであって、

あれ?本当にダメだっけ?

と見直してみたっていい。

 

これぞ、

著者のいう、

世間に隷属しない自由な考え方かと思います。

 

ちなみにもっというと、

ひろさんは、

たとえ他人に迷惑かけたっていい!

とすら言っていました。

みんなお互いさまなんだから、と。

 

ここからの ”ひろ”モード は、

読んでいてすごく面白かったです。

 

世間に隷属して生きようとする奴隷根性が問題です。世の中の役に立つ人間になろうとする、その卑屈な意識がいけません。

 

世のため人のために役立とうとする意識を、

「卑屈な意識」と言ってしまう。笑

 

でも、

ほんとそうかもしれない。

 

彼は、

無理に人様の役に立とうなんて思うな、

その時点でアンタ世間の奴隷だよ!

──と言っているわけです。

 

仕事についても然りで、

生きるために仕事することは必要だけど、

仕事するために生きているわけじゃない、

それこそ会社という世間に毒されているだけ

 

だから、

成果や評価、

勝ち負けを追求してまで働く必要なんてどこにもない、

 

そもそも、

(仕事するためにに生きているんじゃないんだから)

職を失ったら→ハイ人生終わり!

と思っちゃうこと自体がもう終わってる…

 

──と著者は言っています。

 

大部分の人間は、世間から押し付けられた「生き甲斐」を後生大事に守っています。その結果、会社人間になり、仕事人間になり、奴隷根性丸出しで生きています。そして挙句の果ては世間に裏切られて、会社をリストラされ、あるいは病気になって働けなくなり、それを「人生の危機」だと言っては騒いでいます。おかしいですよ。それは奴隷が遭遇する「生活の危機」でしかないのです。本当の「人生の危機」は、あなたが世間から「生き甲斐」を押し付けられたときなんです。まさにそのとき、あなたは奴隷になったのであり、自由人としてのあなたは死んでしまったのです。それが、それこそが、本当の意味での「危機」だったのです。

 

仕事という「生き甲斐」を押し付けられ、

それを受け入れてしまったときこそ、

「人生の危機」だなんて、

本当に狂ってる!笑

 

でも、

さっきのヒマ=ダメ人間と同じで、

これも正しいと思います。

 

著者によれば、

勉強でもこれは同じことで、

 

本当は勉強したいから大学に行くのであって、

大学に行くために勉強するわけじゃない、

 

大学に行くために勉強するのだとしたら、

もうその時点で、

世間の立派な奴隷であり、

「人生の危機」にどっぷりハマっている、

 

もし、

勉強したいから大学に行く(という人生を歩む)のであれば、

浪人生活を「灰色の受験生活」なんて言うのは

ちゃんちゃらおかしくて、

 

それは世間から、

生きる意味=大学に行く ←だから勉強する

と勝手に定義したものを押し付けられ、

それを疑いもせず飲み込んでしまったから、

「灰色」という表現になってしまうんだ、

そのカラクリに気づくべきですよ、

 

──そんなふうに彼は警鐘を鳴らしていました。

 

働くために生きたり、

大学に行くために勉強に生きたりするのは、

本末転倒だけれど、

 

そもそも、 

理想や希望をもって、

何かのために生きようとすること自体、

絶対それにとらわれてしまうから、

苦しくなって当たり前。

 

目的意識があると、われわれはその目的を達成することだけに囚われてしまい、毎日の生活を灰色にすることになるのです。失敗したっていいのです。出世できなくてもいいのです。下積みの生活でもいい。それでも楽しく生きることができるはずです。

 

希望・理想を持つということは、現在の自分を不満に思っていることと同義です。いまの年収では不満。現在の地位では不足。そう思っているから、希望を持つ。それは”希望”という名の欲張りです。あなたはどうして現在のあなたでいけないのですか。あなたが現在の自分を不満に思っても、あなたはあなたであって、現在の自分以外にないのです。(中略)わたしたちは、自分は自分であって他人ではありません。現在の自分をしっかり肯定し、その自分を楽しく生きればいいのです。それが仏教的生き方だと思います。

 

だから、

人生に目的なんかもってはいけない、

いまの自分を肯定してあげたらいい、

──と彼は述べていました。

 

人生の旅には、目的地があってはならないのです。目的地に到達できるかできないか、わからないからです。目的地というのは、「人生の意味」や「生き甲斐」です。人生に何かの目的を設定し、その目的を達成するために生きようとするのは、最悪の生き方です。(中略)人生の旅は、ぶらりと出かけるのがいいのです。どこに行く当てもない。いわば散歩の要領ですね。

 

わたちたちはここで一つの哲学を確立しましょう。それは、──われわれには、「自分が自分であっていい」という権利があるのだ──という哲学です。わたしは、これこそが「基本的人権」だと思っています。そして、この「基本的人権」を、もっと平たく表現するなら、──そのまんま・そのまんま──になります。「そのまんま」というのは、あるがままです。いまあるがままの自分、そのまんまの自分をしっかりと肯定する。それがわれわれの哲学です。あなたはいま引きこもりです。だとすれば、あなたは「そのまんま」でいいのです。引きこもりでいいのです。あなたががんになった。それじゃあ、「そのまんま」でいいではありませんか。しかし、勘違いしないでください。「そのまんま・そのまんま」といっても、がんの治療をしてはいけないと言っているのではありません。医者にかかってもいいのです。でも、治るまでのあいだは、あなたはがん患者だから、「そのまんま・そのまんま」と思ってください。ましてや治らないときは、「そのまんま・そのまんま」と思うべきです。(中略)引きこもりはよくない、がんは不幸なことだ、と思わないのです。自分には引きこもりのままに生きる権利があるのだ、自分は堂々とがんのまま生きていいのだ、と思うのです。引きこもりやがんをマイナスの価値に考えてはいけません。それがわれわれの「そのまんま・そのまんま」の哲学です。

 

ここで、

人生を旅にたとえ、

そこに目的地があってはいけないと指摘するうえで、

著者がおもしろいことを言っていました。

 

最近の小学生のバス旅行にしても、目的地に着くまでのあいだは、小学生たちがカラオケ大会をやっているそうです。なるほど、新幹線の中の時間は退屈です。車窓の外の景色を楽しむには、あまりにもスピードが出すぎだからです。飛行機の窓から外を見たって、雲しか見えません。いや、窓のある座席に坐れる人は少ないのです。そうすると、目的地に着いてからしか旅を楽しめない。そこに着く前の時間は無駄な時間で、できるだけ短くしたいと考えるようになります。それが目的地主義です。でも、人生を目的地主義にしてはいけません。

  

これには、

たしかに!と思いました。

 

ここでいう「これ」とは、

現代人の旅が「目的地主義」になっていること、

すなわち、

目的地に着くまでの過程はムダだととらえていることですが、

 

なんでもかんでも効率化された昨今、

旅行の計画をたてるのもパッパッパッだし、

グッズをそろえるのもパッパッパッ!

 

昔は、

それこそ紙媒体が中心だったときは、

旅行の計画なんて、

何冊ものパンフやガイドブックを漁り、

行ったことがある人に話を聞いたりして、

そのなかで荒削りに予定を立てたりして、

それがまた失敗したりして、

だから印象に残る旅行も多かったのですが、

 

いまはさほど苦労もせず、

ネットでパッパッパッ!と計画できるから、

旅行の思い出に「計画段階」なんてあまり残らない。

 

自分が3年ほど前に、

バックパッカーをしたときもビックリしたのは、

パッカーたちの情報収集方法です。

 

10年前にも私はパッカーをやっていましたが、

そのときはネットがここまで普及していなかったから、

それこそロンプラとか地球の歩き方とかを駆使し、

あるいはゲストハウスの旅ノートなんかを拝読して、

目的地を探したり、

そこまでの行き方を入手したものですが、

いまはみんな普通にネットを使っている。

 

安宿にもWiFiがあるのが普通だし、

パッカーたちはスマホはもちろん、

下手したらタブレットやラップトップも持ち歩いていて、

端末に格納してある歩き方のPDFを、

パッカー同士で交換したりしている。

 

バックパッカーもハイテクを駆使する時代。

 

海外旅行する若者が減っているといいますが、

経済的要因のほかに、

行かなくても行った気になれるし、

思ったほど感動が得られないのも

要因としてはあるんじゃないかと思います。

 

昔ほど苦労もしないから、

そのぶん感動もないですし。

 

ちなみに私がもっと驚いたのは、

カナダのドミトリーに滞在していたとき、

夜中に笑い声が聞こえるなと思ったら、

滞在するパッカーのひとりが、

ラップトップでYouTubeをみて笑っていたという事件。

 

そいつは次の日もその次の日も、

下手したら朝までYouTubeをみていて、

何しにここに来たんだろう?

と首をかしげたものです。

 

まぁ、自分も何しに来たんだろう…?

って感じだったので、

ヒトのことをとやかく言えませんが。

 

でも、

いま考えたら、

他人の目的を他人の自分がとやかく言う筋合いはないし、

そもそも目的なんかなくてもいいのかもしれない。

 

私は、

YouTubeなんて家でみりゃいいのに、

 コイツ何しにこんなとこ来たんだよ!

 バカじゃーの?"

と毒づいていましたが、

 

裏を返せばそれは、

”旅に出たら旅にふさわしいことをすべき

 YouTubeの視聴なんて旅先ですることじゃない

 旅の目的がYouTubeなんておかしい”

──と、

あたかもそれが常識(正義)であるかのように

思っていたわけですが、

たぶん違います。

 

本当は、

ヤツの笑い声がうるさくて、

夜中に目を覚ましてしまったのがイヤで、

でもそれをイヤだとは言えないから、

正義をふりかざして否定しているだけ。

 

しかも、

仮に正義をふりかざしたところで、

”旅の目的がYouTubeなんておかしい”

という自分こそおかしい。

 

旅だって人生だって、

好きにやればよくて、

家でみてもいいし旅先で一日中みていたって、

それはその人の勝手だと思います。

 

バックパッカーのハイテク事情から少し逸れましたが、

でも、

ひろさんが言わんとすることは、

こういうことなんだと思います。

 

人生という旅に、

目的があってはダメ。

 

それは、

実際の「旅」ひとつをとってもそう。

 

その昔、

徳川家康は、

 

人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず

 

と言ったそうですが(『東照公遺訓』)、

 

これに対して、

ひろさんは次のように意見しています。

 

まあ、「いそぐべからず」というのはいいのですが、なにも重荷を背負う必要はないじゃありませんか。目的地主義になるから、そうなるのです。

 

もっとゆったりやりゃあいいじゃん、と。 

 

また、

フランクリン=ルーズベルト米元大統領の名言

 

今日できる仕事を明日に延ばすな

 

についても、

次のように意見しています。

 

良く考えてみたら、これはイエスに楯突いている言葉ですね。イエスは「明日のことを思い悩むな」と言っているのですから。だとすると、このことわざは反対にしたほうがよさそうです。すなわち、──明日できる仕事を今日するな──となります。それが宗教の教える未来に対する権利放棄であり、神下駄主義のスローガンになります。ところが、何かの本で読んだのですが、ローマにはもっと神下駄主義的なことわざがあるようです。それは、──明日できる仕事を今日するな。他人ができる仕事を自分がするな──です。なるほど、ここまで徹底したほうがいいようです。

 

いいですね、

こういう考え方。

 

仕事一直線のときの自分がこれを読んだら、

バッカじゃね―の!と一蹴していたと思いますが、

いまはなんかわかる気がする。

 

バカでもなんでもいいから、

仕事なんてもっと適当にやりゃあよかったな、

と今は思います。

 

あ!

過去にとらわれるのもダメって言ってたな、たしか。笑

 

いま適当にやれてるんだから、

いいじゃないの!

──こういうふうに肯定することが大事だそうです。

 

本書で印象に残ったことが、

ほかにも2つあります。

 

1つめは、

現代人は「孤独を生きる」覚悟が必要ということ。

 

著者によると、

現代の日本人はとてもさみしくて、

常に癒しを求めているんだけれども、

昔ならそれが「家族」に求められたのに、

今は「家族」ではないところ(学校・会社)に分散しているんだけれども、

 

学校や会社の人間関係というのは、

付かず離れず(敵になったり味方になったり)の関係で、

とても不安定。

 

不安定だから、

なかなか癒しが得られず、

(昔以上に)淋しいまま。

 

若者の間ではもはや当たり前の、

電話やメール・SNSなんていうのは、

その淋しさが顕著に現れている証拠ですね。

 

最近の若者たちは、すぐに携帯電話をかけます。あれは孤独を生きる訓練ができていないからです。淋しいものだから、誰かとつながっていないと安心できない。

 

ひろさんは、

こうした淋しさの癒しを、

「家族」に求められなくなった経緯について、

以下のように説明していました。

 

近代日本の国家は、近代日本の国家というのは明治以降の日本ですが、大家族制度を崩壊させてしまいました。天皇制国家は直接に個々の「臣民」を支配したいので、それには家族制度があっては困るからです。家族制度があると、それぞれの人間は家族の一員であるといった意識を持ちますから、「臣民」意識を持ちません。それが天皇制国家にとっては都合が悪いのです。さらに戦後日本になって、天皇制国家によってほとんど壊された家族制度を、日本人は徹底的に潰してしまった。何を勘違いしたのか、家族制度は封建的という理由で、家の解体をやってのけたのです。その結果、見事な「核家族」になりました。

 

そして彼は、

 

こんな国は、アメリカの中下層と中国、それにイスラエルだけですよ。その他の国では、家族制度はしっかりと残っています。

 

とまで言っています。

 

じゃあ、どうすればいいのか?

 

人間なんて、

突き詰めれば、

いつの時代もどこにいても、

誰だって孤独なんだから、

孤独を生きる覚悟をすべきだ!

──彼はそう言っています。

 

まだ「家族制度」が強かった時代は、

孤独が誤魔化せたけれど、

 

いまは「個」の時代で、

それは個人が尊重されるという面もあるけれど、

孤立化しやすい面もあるわけで、

会社や学校、ネットの世界だけでは孤独は誤魔化しきれない。

 

なぜならそこは、

うつろいやすい不安定な世界だから。

 

我々日本人は、

縄文時代の狩猟型の生活から、

弥生時代の農耕型の生活に移行してから、

 

それまでは遊牧民として、

一定のグループ内では強固に団結して、

ベッタリな関係を維持していたけれども、

 

農耕民族になってからは、

家族以外は敵にもなるし味方にもなってしまった。

 

筆者は、

それが現代にも通じていると述べています。

 

わたしたちにとっての世の中・集団・社会のあり方は、一面では互いに助け合いながら、同時にライバルにもなるといった、非常に厄介なものなのです。

 

彼はこの独自の考え方から、 

日本における隣人関係を、

以下の2つのパターンに分類していて、

それがまた独特で興味深かったですが、

 

①縄文型・牧畜型・浪速型

②弥生型・農耕型・江戸型

 

このパターンでいうと、

今の日本はもちろん②に該当し、

付かず離れずの不安定な人間関係が続いているといってもいい。

 

だから、

余計に孤独。

 

余計に孤独だから、

それを紛らわそうと、

みんな一生懸命もがく。

 

でも報われない。

 

だから、

自覚すべきなんです、

受け入れるべきなんです、

家族関係が強かろうが弱かろうが、

今も昔も根源的にはみんな孤独なんだ、と。

 

ゆえに、

そもそも癒しを求めることが間違っているし、

孤独を感じやすい環境にいればいるほどそうなるんだから、

 

まずは身の置き場所をかえるなりして、

孤独を感じないようにすることも大事だけれど、

 

本質的な解決策としては、

「孤独なのが当たり前」と受けいれ、

「淋しい→癒されたい」と求めないこと。

 

──彼はそのように言っています。

 

人間の孤独を癒してくれるものは何でしょうか…?結論的に言えば、人間の根源的な孤独を癒してくれるものなんてありっこないのです。(中略)わたしたちも(ヤマアラシのように)自我というトゲを持っています。だから、相手とべったりとくっつくわけにはいきません。親子であろうと、夫婦であろうと、くっつけばトゲが痛いのです。かといって離れると淋しい。まさしくジレンマになるのです。したがって孤独の癒しを求めてはいけません。癒されるわけがないのです。そもそも癒しを求めるのがよくない。心が傷ついたとき、癒しを求める人が多いのですが、たとえばサラリーマン生活をしていて心が傷つきやすい環境に身を置いていながら、その環境を変えずに癒しを求めても、癒しが与えられているあいだはとくても、またすぐに心は傷つきます。それよりも、心が傷つかない環境に身を置くことを考えたほうがよいのですが、現代日本の社会生活では、心が傷つかない環境なんてないのです。誰だって心が傷ついています。まあ、人間に二種類あって、鈍感な人と敏感な人がおり、敏感な人が癒しを求めるのですね。でも、癒しは与えられない。そうすると、求めた人はそれだけ多く悩むわけです。

 

この背景には、家族を失い、所属する会社・企業において、人間と人間がライバル関係に立たされてしまった現代日本社会ののっぴきならない状況があります。この状況は、農耕民族である日本人にとってはそれほど奇異なものではありません。農耕民族にとっては、近隣関係は利害の対立を意味するものです。だからヤマアラシのジレンマで、隣人は敵であると同時に味方、味方であると同時に敵という、あいまいな関係でやってきたのです。それでも人々は、それぞれの家族の内部で孤独を癒すことができました。その家族が崩壊したとき、人々は癒すことのできない寂寥感に襲われた。それが現代日本の社会的状況です。

 

私は、

著者のいう「敏感な人が癒しを求め→悩む」という部分を読んで、

ハッとしました。

 

世の中では、

敏感な人というのは、

「繊細な人」とか「傷つきやすい人」とか言われたりして、

あたかも良い意味でつかわれることも多いと思いますが、

実は違うんじゃないか?

 

(自分も含めて)彼らは皆、

誰よりも「淋しい→癒されたい」と望んでいる人たちで、

ただの「淋しがり屋」で「欲張り」なだけではないか?

 

そうなると厄介。

 

いや、

たぶんそれに気づいているから、

「繊細」で「傷つきやすい」人たちは、

「厄介」で「めんどくさい」人たちと実は紙一重だと、

みんな心の中ではわかっている。

 

第三者的にそういう人たちに遭遇したら、

「繊細」「傷つきやすい」といった表現をするけれど、

近しい友人・恋人関係になった途端、

「うざい」「めんどくさい」といった表現にかわる。

自分でもそれを自覚してしまうことすらある。

 

だから、

両者は限りなくイコールというのが、

おそらく正解なんだと思います。

 

綺麗な言い方をしないで、

傷つきやすい=欲が強い=ストレス耐性が弱い=ウザイ

くらい意識したほうがいいと思う。

(自戒の意も込めて…)

 

そう考えると、

鈍感なことは、

実はとても素晴らしいことなのかもしれないですね。

 

無意識に鈍感になることはできなくても、

意識的に鈍感を演じることはできるわけで、

自分は後者の道を歩みたいと思いました。

 

2つめは、

人間の価値は、

世間の物差し=「ゴムの物差し」で測ってはいけないということ。

 

著者いわく、

この世には「世間の物差し」と「仏の物差し」(神の物差し)があって、

 

前者はゴムでできているから、

時と場所によっていろいろな値を示す(伸び縮みしてしまう)。

 

要は、

相対的な価値を測定しているということ。

 

巷で売られている商品のように、

「機能価値」を測るには、

この「世間の物差し」は都合がよい。

 

どっちの商品のほうが、

機能・素材が優れていて使いやすのか?

の判断がつきやすいから。

 

後者は目盛りがないから、

そもそも測ることができない。

なぜ目盛りがないかというと、

仏(神)が「測れない」のではなく「測らない」ようにしたからで、

優劣をつけることを拒んだから。

 

要は、

絶対的な価値を測定しているということ。

 

自分が生きていることや誰かの人生というような

「存在価値」を測るのは、

こっちの「仏の物差し」で測らなければいけない。

 

どの人生が素晴らしくて、

どの人生がつまらないか、

なんていうことはないのだから。

 

人間の価値は──存在価値──で論じられるべきであって、そしてその存在価値を測る物差しは、──仏の物差し──でなければなりません。キリスト教徒であれば、ここは「神の物差し」としてください。人間の物差しはゴム紐の物差しだから、そんなものでは存在価値は測れません。仏の物差しでもってこそ、存在価値が測れるのです。では、仏の物差し(神の物差し)とは、どういうものでしょうか?じつは、それは、目盛りのない物差しです。目盛りがないから、測ることはできません。つまり、それは、「測らない物差し」です。男と女と、いずれの価値が大きいか?われわれはゴム紐の物差しで測って、それを平等にしようとします。両者の価値は等しいということになっていますが、なに、それはタテマエですよ。ですからホンネの部分では、そのゴム紐を伸ばしたり縮めたりしています。しかし、仏の物差しだと、目盛りがないから測れません。本当は測れないのではなしに、測らないのです。そして、どちらも、──すばらしい存在だ──と見ます。(中略)それが仏の物差し(神の物差し)で測った価値です。人間の価値は、その物差しで測られるべきです。ゴム紐の物差しで測った商品価値は、人間の本当の価値ではないのです。わたしたちは、そのことをしっかりと認識しておかねばなりません。

 

”とうとい”という字に”尊”と”貴”があります。(中略)”貴”のほうは、他と比べて貴いのであって、いわばゴム紐の物差しで測った貴さです。貴族のほうが平民よりも貴く、金持のほうが貧乏人よりも貴いのです。それに対して、あらゆる人間の価値を平等に見るのが”尊”です。世間の物差しで測れば、天皇や総理大臣のほうがホームレスより貴いわけですが、それは機能価値です。しかし仏の物差しで測った存在価値は、あらゆる人間が同じく尊いのであって、勝ちに上下はありません。

 

わたしたちが、〈自分の人生はなんてつまらないんだろう…〉と思うのは、世間の物差し(ゴム紐の物差し)で考えているからです。仏の物差しで測れば、あらゆる人の存在価値は同等ですから、つまらない人生なんてないのです。いや、逆かもしれません。すべての人の人生がつまらないのです。

 

このあたりは、

非常に勇気がもらえる話でした。

 

ひろさんは、

差別の問題にしても、

「存在価値」と「世間の物差し」の矛盾を突いて、

鋭い指摘をしています。

 

差別の問題があります。人間を差別してはいけない。それはあたりまえですね。では、差別がいけないのであれば、世間の物差しを使わなければよいのです。学校で成績をつけなければよい。ところが、競争社会をつくって勝ち組・負け組に差別しておいて、言葉の上の差別だけを排除しようとする。おかしいと思いませんか。

 

ほんまやなぁ。

大人って汚い。

 

でも、

じゃあ「仏の物差し」だけでいいのかというと、

彼は決してそうではないと述べています。

 

だが、それはそうとしても、実際問題としては世間の物差しを完全に無視することはできません。世間の物差しは機能価値だけを測るものですが、機能価値を無視してしまっては、世の中は混乱します。政治も経済も、何もかもが機能しなくなります。世間の物差しも、それはそれで必要なんです。問題は、世間の物差しだけでいいか、ということです。いまの日本では、ただただ世間の物差しだけが物差しになっています。それが困るのです。それだと、勝ち組だけに価値があり、負け組に価値がなくなってしまいます。そうして負け組、〈俺の人生に意味がない〉と思ってしまい、〈俺なんてこの世にいないほうがいいんだ〉となります。(中略)世間の物差しは、勝ち組・負け組をつくり、そして勝ち組・負け組の両方を不幸にします。世間の物差しだけでは駄目なんです。わたしたちは、もう一本の物差しを持たねばならない。そして、そのもう一本の物差しは、世間の物差しとはまったく違ったものでなければならないのです。つまり、目盛りのない物差しでなければならない。

 

世間の物差し一本で生きてはいけません。仏教もキリスト教もそう教えています。わたしたちはもう一つの物差しを持つようにしましょう。目盛りのない物差しを。まあ、そんな物差しを持っていると、世間の人々からは狂っていると評されますがね。しかし、幸福になるためには、自由になるためには、われわれは狂う必要があります。世間に遠慮することなく、狂いましょう。目盛りのない物差しを持ちましょう。あなたはどうしてそんなに世間に遠慮するのですか…?!

 

要は、

偏っていてはいけない、

世間だけを鵜呑みにしていてはいけない、

といっているわけです。

  

世間にのっかっているフリをして、

真髄は実は全然ちがうところにあったっていい。

いっそ、のっからなくてもいい。

 

(人生という舞台において)どうか大根役者にならないでください。現代日本人はまじめに働いて大根役者になっています。目的や目標に向かって驀進するのがいい演技だと思っています。でも、そのような演技は大根です。仏のシナリオは、わたしたちが人生を「遊ぶ」ように書かれているのです。わたしはそう思います。

 

これが彼の最も言いたいことでしょう。

 

総じて、

言っていることはそのとおりでして、

自分は今の自分のままでいいんだ!

今のままで十分幸せなんだ!

と勇気がもらえる本でしたが、

なかなかこれが続かない。

 

幸せという概念自体、

そもそも優劣がベースになっているので、

 

やっぱり世間の物差しで測った価値(学歴・年収・肩書きなど)でも、

それがあるほうが幸せなんじゃないか?とか、

 

一番いいのは、

世間の物差しで測った価値と、

自分の絶対価値の両方があることじゃ?とか。

 

わかりやすい例でいうと、

東大出て年収1000万円もらってて立派な職に就いていて、

でも自分は世間とは違うぜ!

世間の考え方なんてクソくらえって思ってるぜ!

と言っている人。

 

もっというと、

自分は世間を認めていないんだけれど、

世間は自分を認めているようなケース。

 

これが実は、

一番幸せなんじゃないか?って思いました。

 

仏教では「世捨て人」といって、

世間を捨てることが教えの本質ですが、

著者曰く、

「世から捨てられた人」でもいい、

どっちでもいいと言っています。

 

でも最後には、

世間の物差しも持ちあわせておいたほうがいい、

そのほうがスムーズに生きられる、

とも言っています。

 

本質と現実は違っていて当然ですが、

現実世界においては、

世に捨てられないくらいの機能価値は、

ないよりはあったほうがよくて、

 

そうなってくると、

結局、一番ラクな生き方は、

(カネも名誉も)得られるならもっておくにこしたことはない、

ま、オレはそんなもん信用してないけどね!

っていうことじゃないかと思ってしまいました。汗

 

…となると、

今の自分だったらダメじゃね?

幸せじゃなくね?

と自信がなくなるわけです。

 

まぁ、

人の心(自信)なんて、

それこそ”諸行無常”だから、

何が一番幸せかなんてわからないですけどね。

 

そうやって無理矢理でも

自分を納得させるしか、

今の私には答えが見つからなさそうです。

 

合掌。

 

■まとめ:

・まあ、よく聞く話だよねーというものも正直多いが、よく聞く話ではあるんだけど、アプローチの仕方が独特だなーという面も多く、面白かった。 宗教じみた説教にはなっていないので、ライトに読める。

・人生に意味なんてない、生き甲斐や目的をもった瞬間から、それは世間の奴隷になった証、未来を夢見て、理想や希望なんて持たないほうがいいし、過去を振り返って、反省や後悔なんてしても無駄。既存の価値観をぶった斬っていくさまが、爽快。瞬間的には勇気をもらえる。

・(しかし)人間の価値は、「絶対価値」であって、「相対価値」ではないというけれど、結局、世間からそれなりに認められるような価値でもないよりあったほうがよくて、そうなると一番ラクな生き方は、金や名誉はもっていることに越したことはなく、でも自分としては、それだけではない・世間はクソだと一定の距離を置くスタンスなんじゃないかと思えてきた。


■カテゴリー:

自己啓発

 


■評価:

★★★★★

 


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テロリストのパラソル ★★★★☆

藤原伊織さん作

テロリストのパラソル (講談社文庫)

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

厳密には3.7とか3.8とかで、

4には届かないのが本音ですが、

一気読み・徹夜読みにおススメできるくらい、

先が気になるストーリーでした。

 

これは98年に出された作品で、

今からなんと、

16年も前のものなのですが、

 

当時自分は大学生、

本という本も読まずに遊び狂っていたので、

 

本書の存在については、

ずっとあとになってから知った次第です。

 

解説でも触れられていましたが、

同じ作品で乱歩賞と直木賞をダブル受賞したのは史上初だそうで、

(同一作家が、別の作品で各章を受章したことはあるらしい)

 

自分が読んだ講談社文庫の帯にも、

思いっきりそのことが宣伝されていました。

 

テロリストのパラソル (講談社文庫)

 

たしかに読み応えがあったし、

先述のとおり、

先が気になるストーリーで

ぐいぐい引き込まれました。

 

…が、

結末(というか全体的なカラクリ?)が、

自分はどうもイマイチでした。

 

まぁ、

フィクションそれもミステリーなので、

話の展開や構成に対する好き嫌いは、

個人によって違って当然なわけで、

 

自分にはそれほど響かなかったというのが、

(5点満点に対する)マイナス1.3とか1.2の差分です。

 

このあたりの詳細は、

後述にて。

 

 

▽内容:

アル中バーテンダーの島村は、過去を隠し二十年以上もひっそり暮らしてきたが、新宿中央公園の爆弾テロに遭遇してから生活が急転する。ヤクザの浅井、爆発で死んだ昔の恋人の娘・塔子らが次々と店を訪れた。知らぬ間に巻き込まれ犯人を捜すことになった男が見た真実とは…。史上初の第41回江戸川乱歩賞・第114回直木賞受賞作。

 

 

もう4~5年前になりますが、

ハワイから帰ってくる飛行機のなかで、

シリウスの道

というドラマを観たのですが、

 

この原作者がまさに、

藤原伊織さんです。

シリウスの道〈上〉 (文春文庫)

シリウスの道〈下〉 (文春文庫)

 

内容は全然覚えていないのですが、

すごくおもしろくて、

暗い機内のなかで目をこらして見続けた記憶があります。

 

たしかWOWOWでドラマ化したものだったかと。

 

詳細はさておき、

そのときに藤原伊織さんという作家を初めて知ったのですが、

 

後日、

代表作はこの『テロリストのパラソル 』で、

有名な賞も受賞している

──といったことを関知したわけです。

 

実際に読んだのは、

それからまただいぶ後の、

今になってですが…。

 

シリウス~』が面白かっただけに、

こちらも相当な期待がありました。

 

結果としては、

おもしろかったんですが、

イマイチなところもあって、

 

冒頭でも触れたとおり、

結末(カラクリ?)にウーン…

というのが正直な感想なのですが、

 

シリウス~』にしても『テロリスト~』にしても、

引き込まれ感はハンパなかったです。

 

ちなみに、

シリウス~』のほうは、

『テロリスト~』から9年後に発表されていて、

 

話自体は全く別物なのですが、

『テロリスト~』の登場人物のその後が語られたりして、

つながりがあるんだとか。

(自分は、もう覚えていません…)

 

ちなみのちなみに、

『テロリスト~』から3年後に発表された

雪が降る (講談社文庫』のなかの、

「銀の塩」という作品において、

 

本書の事件の少し前──同じ主人公の、違う事件を扱っている

 

──らしいです。

(本書の解説より) 

 

結末はイマイチでしたが、

それなりに面白かったので、

シリウス~』も含め、

是非読んでみたいと思っています。

 

さて、

この藤原伊織さんという方ですが、

自分はずっと女性作家かと思っていたんですが、

なんと男性でした!

 

本名は、

藤原利一(としかず)さん。

 

いまとなっては66歳ですが、

本書を上梓したときは50歳。

 

女性でありながら、

ここまで気骨のあるハードボイルド小説をよく書けるよなぁ

──なんて思っていたのですが、

 

50歳(当時)のおっさんで、

かつ元・電通マンと聞けば、

意外とすんなり受け入れられました。

 

彼は、

本書の前にも別の作品で賞を受賞しているのですが、

ダブルワークだったのか、

次々にオファーが来る原稿依頼を断っていたら、

やがてどの出版社からも相手にされなくなったとか。

(そりゃそうだ!笑)

 

ところが、

ギャンブルにはまって借金がかさみ、

すわ金が必要!

ってことになって書いたのが、

この『テロリストのパラソル』だったそうです。

 

そんな不純な(?)動機で、

有名な賞をダブルでもらっちゃうんだから、

まじでスゴイ!笑

 

あるいは、

火事場のクソヂカラってやつでしょうか。

 

スゴイといえば、中身もスゴイ

 

いや、

だからこそ賞をとっているわけですが、

何がすごいかというと、

 

まず、

話が壮大

 

爆弾テロという話からして、

そんじょそこらの

サスペンスとかミステリーといった類の範疇を

ゆうに超えてしまっているわけですが、

 

犯人のテロリストは、

日本から南米に渡ると、

左翼ゲリラを経て麻薬組織に加わり、

麻薬ビジネスで財をなしたあと、

かつて自分を苦しめた人間たちに復讐してやろうと、

日系南米人として日本に帰国し、

新宿中央公園で爆弾テロを起こします。

 

彼は、こう言っています。

 

「取り戻せないものは破壊する」

 

まだ理性の残っていた自分を、

取り戻せなくしてしまった人たち、

あるいは、

もう戻ることのできない過去の思い出、

そういったものはすべて破壊するんだと。

 

テロ自体や犯行動機も壮大ですが、

南米左翼とか麻薬組織っていうところも国際的で、

スケールがでかい。

 

インターポールは出てくるわ、

コロンビアのメデジン・カルテルは出てくるわ、

挙句の果てには、

(南米の)政治犯収容所における

残忍な拷問シーンまで登場するという。

 

新宿中央公園が爆弾テロの舞台となったときは、

お!あの炊き出しの新宿中央公園ね!

と親近感すらおぼえたものですが、

その爆弾テロを育てた土壌は、

南米の左翼ゲリラや麻薬組織だったとなると、

いっきに話がでかくなる。

 

そもそも、

このテロの発端が、

全学共闘の東大紛争まで遡るということころも

重厚感ありまくりなんですが、

 

とにかく、

時間的にも空間的にも、

物語が縦横無尽に行き来し、

当時あるいは現地の

(ある種、暴力的な)社会問題にアプローチしていくもんだから、

 

こちらとしては、

いちいち時空を股にかけて、

それらを見せられているわけで、

 

これを

”スケールでかい!重い!”と言わずに何という??

──といった感じです。

 

でも、

彼がテロリスト犯になってしまった、

最も根源的なきっかけは、

学生運動の経験や、

社会への不満以上に、

女絡みの嫉妬があった!

というオチがなんとも言えませんでした。

 

だいたい、

(仲のよい)男同士の関係がもつれるのは、

〈出世絡みか、女絡み〉と聞きますが、

まさにそれ。

 

個人的な妬みや敗北感が、

彼を卑屈にさせ、

テロリストとしての芽がそこで培われてしまった。

 

どんなテロリストも、

最初はこんなふうに、

しょうもない嫉妬や劣等感から始まって、

 

それが、

「世間」や「社会」というもっと大きな池のなかでどんどん増長し、

本物のテロリストになっていくのかもしれない。

 

スケールのでかい、

ただのハードボイルド小説かと思いきや、

そういう人間くさいところでリアルさが滲み出て

物語と読者の距離はいっきに狭まります。

 

よくも悪くも、

最後は結局「情」というわけです。

 

犯行原因が、

テロリストの高尚な屁理屈で終わっていたら、

読者は誰も納得しません。

 

でも、

そこに「情」があるもんだから、

ナルホドそういうことか!

と合点がいく。

 

個人的な恨み、恋慕、嫉妬…。

 

スケールのでかいハードボイルドに、

この「情」のエッセンスをたっぷり入れ込むことで、

 

えらく壮大で重く、

自分からはかけ離れた出来事なんだけれど、

感情面で思わず納得してしまう部分ができて、

なぜか親近感をおぼえてしまうという──。

 

このギャップが埋まるのがおもしろくて、

ミステリーにせよ、サスペンス映画にせよ、SFにせよ、

私たちは作り話にのめり込むのですが、

話が壮大であればあるほど、

ギャップが埋まるときのおもしろさは増大します。

 

そういう意味で、

本書のストーリーは壮大でありながらも、

現実に沿った事物(学生紛争、南米の麻薬組織)や、

誰もがもつ感情(愛憎、嫉妬)をうまく利用して、

上手にギャップを埋めていると言えるでしょう。

 

スゴイのは、

それだけではありません。

 

この物語は、

話自体の壮大さもさることながら、

他にも妙に納得してしまうギャップの埋め方があって、

 

選考者や解説者によると、

それは「構成」だと言っていました。

 

「主人公の造形といい、文章のゆるぎなさといい、構成の妙といい、どれをとっても完璧」(乱歩賞選考委員・高橋克典

 

本作品が際立っているのは、(中略)練達した文章のうまさ、ディテールの巧みさ、きっちりと計算されつくした構成の精緻さがまずひとつにある。けれど、それ以上に光っているのが登場人物たちの多彩さと魅力であろう。(本書の解説より)

 

たしかに、

思い返せばいろいろ伏線が散りばめられていて、

最後にどかーんと回収するパターンで、

読者はここでも、

ナルホドそういうことか!

となる。

 

感情として理解ができるというより、

理屈としてガッテンがいくという感じでしょうか。

 

ただ、

自分としては、

この構成には不満があります。

 

たしかに、

よく出来ていると思います。

 

でも、

あまりにもうまく出来過ぎています。

 

とくに、

解説者が「多彩」と評している人間関係は、

こんなに偶然つながっているわけないだろ!

とツッコミたくなる。笑

 

ここからは、

ネタバレになってしまうのですが、

 

浅井と望月が師弟関係で、

浅井の死んだ奥さんは実は望月の姉で、

 

さらにその死んだ奥さんの元旦那が、

昔、自動車爆弾テロで殉死した警官で、

 

もっというと、

自動車爆弾テロで警官に助けられたのが、

江口組の三代目で、

 

江口組は、

殉死した警官をはじめ、

浅井や望月には義理があって、

 

彼らは警官を殺した犯人に、

憤りこそあるけれど、

 

自動車爆弾テロと公園爆弾テロの犯人が

目の前にいる同一人物であることを知らない望月は、

金で買収されてしまう。

 

ここで犯人と望月(江口組)がつながり、

 

その江口組と、

茶髪の布教者(西尾)は、

もともと麻薬の売買でつながっていたので、

 

西尾は望月を通じて犯人とつながり、

テロの一端を担うことに。

(ホームレスの老人を薬漬けにし、爆弾を公園に運ばせる)

 

で、

その老人を紹介したのが、

ホームレスの辰村。

 

主人公の菊池(島村)と辰村は交流があったので、

このタツを通じて、

事件のパズルが少しずつ輪郭をあらわしてくるわけです。

 

要は、

ちょっと繋がりすぎなんです。

 

意図的に繋がるのならまだわかるのですが、

偶然に繋がっていることが多い。

 

読んでいる当初から、

なんとなくこいつが犯人なんだろうな、

というアテはついていて、

 

作者はいったいどう決着をつけるんだろう?と

展開が気になったのは事実ですが、

ちょっと出来過ぎ!

というのが正直なところです。

 

犯人が南米で左翼ゲリラに加担し、

軍に急襲されて捕らえられたとき、

日本大使館の一等書記官が身柄引き渡しを要求してきた、

それが警視庁の宮坂で、

 

身柄引き渡しに応じない政府に対し、

じゃあそいつは日本でも札付きのテロリストなんで

厳罰に処してくださいと応じた、

そのせいで犯人は過酷な拷問を受けた、

 

その宮坂が日本に戻り、

かつて犯人が愛した女性とお近づきになっていて、

新宿中央公園でよく落ち合っている、

 

しかもその新宿中央公園には、

かつての学生時代のライバルもいる、

 

ならばいっきに殺っちまえ!

 

──ということで、

新宿中央公園の爆弾テロが起こるわけです。

 

これだって出来過ぎ。

 

こんなにうまく、

ターゲットが一か所に集まるわけないでしょうよ…

と思ってしまうのです。

 

なんなら、

2~3回爆弾テロを分けるくらいしてほしかったし、

せめて、

宮坂が優子を慕うという設定はやめたほうがよかったと思います。

 

不満はそれ以外にもあって、

 

犯人は爆弾に関してはプロで、

緻密に計算されているにもかかわらず、

 

かつてのライバルを、

結果として

抹消できなかった(あえてしなかった?)のもよくわからないし、

 

事件のあと、

そのライバルを殴るだけで、

殺さなかったのも不可解すぎました。

 

作品のなかでは、

その理由を「ゲーム」だからといっており、

ライバルがやがて自分にたどり着くか?という挑戦だった、

というような読み取り方もできますが、

 

なんかパッとしない。

 

そもそも、

作品全体が抽象的な言い回しが多くて、

明らかにそれとわかるような表現が少ないのです。

 

解説者は、

 

「まず会話のうまさに舌を巻いた」

 

という選考委員の声を取り上げて紹介しているのですが、

 

自分は、

どうもこれには賛同できません。

 

たしかに、

全体的に登場人物の口調や文章そのものは、

「ゆるぎない」し「うまい」とは思います。

 

なんというか、

よくアメリカ映画で見かけるような、

気障な言い回しが多く、

各人ともそれが徹底されている。

 

でも、

自分としては、

そんな遠回しな言い方しないでハッキリ言えばいいのに…

と思って若干イライラしました。苦笑

 

だって、

わかりづらいし…!

 

それこそメタファーがかかりすぎている。

 

いくらヤクザでも、

普段からこんな気障な言い方する人いないでしょ?

とツッコミたくなるようなセリフが多くて、

自分としては戴けなかったです。

 

おっとーいかんいかん。

 

五木寛之さんの本なんかも読んで、

もっと曖昧さを楽しまなくちゃいけないって、

ここのところ意識するようになったのに、

 

早速、

白黒ハッキリさせねば!と

イライラしている自分がいます…。

 

まだまだですな。

 

■まとめ:

・一気読み・徹夜読みにおススメできるくらい、先が気になるストーリーで引き込まれ感はハンパない。

・時間的にも空間的にも、物語が縦横無尽に行き来し、壮大。壮大だけれども、現実に沿った事物(学生紛争、南米の麻薬組織)や、誰もがもつ普遍的な感情(愛憎、嫉妬)をうまく利用して、フィクションとのギャップを上手に埋めている。自分からはかけ離れた出来事なんだけれど、感情面で思わず納得してしまう部分ができて、なぜか親近感。

・でも、構成に不満あり。とくに人間関係(繋がり)がうまく出来過ぎている。偶然すぎて、せっかく埋まったギャップ(現実感)が遠のいてしまう。気障な言い回しが多く、登場人物の真意がわかりづらいのにもイライラした。

 

■カテゴリー:

ミステリー

 

■評価:

★★★★☆

 

▽ペーパー本は、こちら

テロリストのパラソル (講談社文庫)

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Kindle本は、こちら

テロリストのパラソル 角川文庫

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