僕の死に方  ★★★★★

金子哲雄さん

『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』

を読み終えました。

 

評価は、星5つです。

 

(メディアに美談的に煽られている気がして)どうも私は闘病記が苦手なので、

そんな苦手な私が本を評価するなんて、

そもそもおこがましいことこのうえないのですが、

久々に考えさせられてしまいました。

 

今回、私は文庫版のほうで初めて読んだのですが、

これからお読みになる方は、

是非、文庫版のほうをオススメします。

 

文庫版のほうには、

金子さんと深い親交のあった方々が寄せた

金子さんとの思い出

が収められていたり、

 

彼の遺骨が納められているお寺(心光院)の住職さんが

文庫版あとがき

を載せています。

 

これらは、

生前の、あるいは、死にゆく金子さんをどうとらえたか、

をまとめたもので、

金子さんが書いたエンディングダイアリーとは別に、

第三者がみた金子さんのエンディングダイアリーの凝縮版

といっても良いかもしれません。

 

あとがきで奥様が、

金子さんがお亡くなりになられて一週間後くらいに、

生前、金子さんが大好きだったアーモンドチョコレートをスーパーで目にして、

初めて大声で泣いたということを書かれていましたが、

 

私はここが一番、印象的でした。

そのくらい身近な人の死は、

遺された人にとって受け入れがたいものなのだということを

あらためて知ったというか、なんというか。

 

また、

同じく文庫版あとがきで、

金子さんと一緒に病と伴走しながら、

金子さんを支えてきたマネージャーの方も、

 

死ぬ直前に呼び出されて通夜・葬儀とこなしてきて、

それまで金子さんが亡くなったことに何も感じず、

「自分はおかしいんじゃないか?」と思っていたら、

一週間後、何気なくテレビで金子さんが取り上げられているのを観て、

「ぶわっと感情が高まりました。次から次へと涙が流れてきました」

と書いていました。

 

こんなところが印象的だと思ってしまうのは、

私自身、

「死」がリアルではないと感じているからなのかもしれません。

 

▽内容:

突然の余命宣告。

絶望の中で、やがて彼は自らの「命の始末」と向き合い始める。その臨終までの道程は、とことん前向きで限りなく切なく愛しいものでした。

これは、41歳で急逝した流通ジャーナリストの見事な死の記録です。 

 

 

金子哲雄さんと言えば、

昨年10月に若くしてお亡くなりになられ、

Facebookなどで彼のお別れのコメントがよく拡散されていたことを覚えています。

 

子供のころから「安く買う」ということが大好きだった彼は、

母親から「お小遣い=買い物のお釣り」という絶妙な教育を受け、

オトクな情報を仕入れること、

そしてそれを他人に教えることに至上の悦びをおぼえ、

やがて「お買い得情報を伝える人」を目指すべく、

流通ジャーナリストの道を歩むわけですが、

 

彼が大事にしてきたスタンスは、

「現場主義」でした。

 

文庫版あとがきの中の、

尾木ママの言葉をお借りすると、

経済学の理論を振り回すのではなく、『スーパーの売り場はこうなっている、だからこうなんだ』と常に言っていました

という方で、

大上段から理論を振りかざす専門家ではなく、

現場(消費者)の目線にたって話をしたうえで理論を肉付けする

というスタンスをとっていらっしゃったようです。

 

その彼が、

自らの死の準備に際して心がけたのも

また「現場主義」であったような気がします。

 

在宅終末医療の選択と延命治療の拒否、

自身の葬儀の段取りや納骨所の指定、

遺産整理の法的手続きなどなど、

 

これらは単なる形式的なものではなく、

お世話になった方たちに迷惑をかけずにお礼を伝えたい一心で、

出来る限り自ら足を運び、

自らの考えで選択・用意をしたわけですから。

 

私も、

Facebookで彼の「お別れの言葉」を読んだときは、

すごい人だな…

自分が死ぬとき、こんな強く明るく死ねるかな…

と畏敬の念をおぼえたものですが、

 

この本を読んで、

少し彼に対する見方が変わりました。

 

(メディアにはよくご登場されていたようなのですが)

そもそも私は、

金子哲雄さんという方をよく知らなかったということもあり、

一部のメディアの発する情報に踊らされ、

即断的に彼を評価するという行為を無意識的にしてしまっていたのですが、

そんなものは彼を知るうえでの単なる一端にすぎず、

つくづく人間って浅はかだなぁと思ってしまうばかりです。

 

だからといって

本を読んで100パーセント金子哲雄という人がわかったのかというと

そんなことは全くないのですが、

 

少なくとも、この本を読んだ限り、

いかなるときも決して強いばかりの金子さんではなかったし、

彼自身も迫りくる死との恐怖におびえていたし、

病気を知られることを恐れていました。

 

正直、自分がなぜこんな目にあわなくちゃならないんだと、運命を呪ったことも何度かある。

なんで、自分なんだ。

「なんで、治らない病気にかかるんだよ。仕事も順調なのに、なんで、人生のチャンスをもらえないんだよ。なんで、すぐ死んじゃうんだよ。なんで、今すぐ死ななきゃいけないんだ。俺、なんか悪いことしたか?ねえ、俺が悪いのか?」

妻に何度もそう言ってみたが、でも、言葉に出すだけ虚しいことは、自分がよくわかっていた。

 

病気とわかった時点で、関係者に迷惑をかけることは目に見えていた。

末期だからといって、仕事を休むわけにいかない。

もともと私は、明るいキャラクターで通っている。

「俺、がんだから」

なんて告白は、周囲の皆さんに気をつかわせてしまうだけではないか。

 

明るく振舞っていたことはすごいと思いますし、

それを彼の強さだと言う人もいると思います。

私も半分そう思います。

 

でも半分は、

仕事を続けたいがために病気のことを隠していたのは、

ご自身がおっしゃられていたように、

まわりに迷惑をかけたくないのが一番だと思いますが、

 

それは逆に、

仕事ができないようなダメな人間だと思われたくない、

いつまでも必要とされていたいという気持ちがあるからで、

本当の自分をさらけ出す勇気がないという弱さ

でもあると思うのです。

 

ただ、

強いから良い、弱いから悪いということでは決してなく、

強さも弱さも含めて、

それが金子哲雄さんという方だったと思うだけです。

 

彼の死に方は、

一見美学のように見えるかもしれません。

そしてやたらとメディアはそのように賞賛します。

 

でも、

(こんなことを言ったら失礼かもしれませんが)

死に方なんて人それぞれなので、

正直、どうでもいいと思うのです。

 

俺はガンだから誰にも会いたくないんだと正直に言える人だって素晴らしいですし、

正直にも言えず、かといって金子さんみたいには強がることもできず、

引きこもって亡くなる方もいるかもしれません。

それだって別に本人がそうしたければそれでいいと思います。

 

大事なのは自分がどのように死にたいかであって、

周りに迷惑をかけずに死ぬというのは素晴らしいと思う一方で、

人間死ぬときくらいまわりに迷惑をかけてもやむを得ないんじゃないかと

私のような甘ちゃんは思ってしまうわけです。

 

彼のような死に方がカッコイイと思う人は、

それを目指して同じようにやればいい。

 

私はどちらかというと、

死に方がカッコイイというより、

生き方が羨ましいと思いました。

 

仕事人間のまま死ねるほど、仕事を愛せたことや、

お世話になった人たちに迷惑をかけたくない・お礼がしたい

と思えたこと。

 

彼のように、

「治らない病気」にかかってまで、

親に対して産んでくれてありがとうと言えるか?

 

仕事でお世話になった人たちに、

葬儀や通夜をとおして楽しんでもらうようなお礼ができるか?

 

私には、できないと思います。

 

ひとえにこれは、

彼の謙虚さによるもので、

擦れてない心というか、

自分は周りに支えられて生きていると心底思えていたことが何より素晴らしい

と思いました。

 

金子さんの遺骨は、

東京タワーのお膝下「心光院」というお寺に納められているそうですが、

そこの住職さんが、

文庫版のあとがきに書いていたことがとても印象的でした。

 

彼は、金子さんとは慶應の同窓で、

金子さんの死を準備するとともに見送った一人でもありますが、

 

僧侶として、住職として、

日本における今のお寺(宗教)の課題を以下のようにとらえています。

 

生きている間に培ってきた人間関係は、残された人の中でずっと続いてゆく。

また、亡くなるご本人や家族にとって、死は呼吸が停止したときに始まるといったデジタルなものではないのです。連続的につながっている、いわばアナログ的なものです。

(中略)そういう日々の末に死を迎えた方の葬儀に、突然、僧侶がやってきても、亡くなったご本人とも家族とも、思いを共有できるはずがありません。亡くなるまでは医者が看て、亡くなるとお坊さんの出番。これでは、葬式に意味を感じなくなる人が増えるのは当然のことでしょう。

 

そして、今後のお寺(宗教)の在り方を以下のように考えています。

 

いま私は、お寺が、連続的な死のプロセスにどうかかわっていくかを考えなければならない時期にきていると思っています。

 

では、

どうやってその「連続的な死のプロセス」にかかわっていくのか?

 

彼はそれを金子さんの死に方=生き方をとおして、

次のように学んだと言っています。

 

大切なのは、関係性の中で生きること。そして、関係性の中で閉じていくことです。そうした関係は一朝一夕では培えません。ですから日々の中で、少しずつ育んでいく。

あたたかい信頼関係が何より大事だということは、金子さんから学ばせていただいたいちばん大きなことです。

 

この、

日々の中の「あたたかい信頼関係」こそ、

私になくて金子さんにはあり、

心の底から素晴らしいなと思うところで、

ではなぜそういった信頼関係が持てるのかというと、

私は彼が相当に謙虚な人だからだったのではなかと思うのです。

 

金子さんは、生前の自身のビジネスワークにおいても、

次のように述べていました。

 

大事なのは、自分なりの方法で相手を喜ばせることだ。人が「喜ぶこと」は、人それぞれ違う。千差万別だ。相手の「喜ぶこと」を見つけ出し、そこに応えてあげれば、それが回り回ってビジネスに結びつく。

 

牛肉の値段を見るとその地域の人々のお財布の中身も見えてくる。(中略)私は、いわゆる高級スーパーよりも、一般的なスーパーを重視する。正価で売られているお店をチェックしても、そこから経済や人の暮らしは見えてこないからだ。スーパーが対象にしているのは「大衆」だ。こうした典型的な人たちを、いかに喜ばせることができるか。スーパーはここに全精力を傾けているのだ。

「大衆」を喜ばせよう、というスタンスは、私も同じだ。

 

まわりを喜ばせようとする奉仕の心は、

ある程度、謙虚な人間でないと持てないと思うのです。

思っていてもできないのは、

謙虚に装うことができないからですし。

 

人から必要とされたいから謙虚になる

のか

謙虚だから人に必要とされることをやっている

のか

それは私にはわかりませんが。

(前者のような気もしますが、後者の素質も多分に持っていらっしゃった?)

 

謙虚になることで、

まわりが尊重できて仕事もおもしろいと思えて

仕事に忙殺されることがありがたいと思える、

そして死ぬときも仕事があることでいくぶんか助けられる。

それは彼にとって幸せな死に方になったのかもしれません。

 

どうも、

この謙虚さというものは、

もっていても損はなさそうな気がしてきました。

 

話はかわって、

この本の中にはまた、

金子さんが闘病生活のなかで出会った医療の現実についても触れられています。

 

点数にならないからと治療を断る病院、

患者を人間として扱わない医者など。

 

一方で、

医療費が払えない患者を

ドクターのポケットマネーで診ている病院もあり、

その額は200万円~800万円くらになるのだとか。

 

このポケットマネーで補っている病院こそ、

私自身も1年ほどお世話になったことがある門前仲町の野崎クリニックなのですが、

そのときは適当に薬だけ出すような商業主義的な病院の感も少しあって、

正直クソ病院だと思っていたこともあるくらいです。

 

…が、

この本を読んで少し反省しました。

 

金子さんのように死にかけている人に時間を割いて、

私のように放っておいても生きながらえる人もいるわけで、

そりゃあ診察に時間をかけていられないし、

ポケットマネー分のお金は稼がなければいけないわけで。

 

やっぱり物事は自分の眼で見ただけのことで、

即時に良し悪しの判断をつけるのは危険だなと思いました。

 

やっぱりもっと自分は謙虚になる必要がありそうです。

 

次は、奥さんが書かれた、

金子哲雄の妻の生き方 夫を看取った500日 (小学館文庫)

こちらを読みたいです。

 

 

■まとめ:

・死ぬ時まで明るく振舞ってきたことはスゴイと思うし、それが彼の強さだと思う一方で、本当の自分をさらけ出す勇気がないという弱さも感じた。でも、強いから良い、弱いから悪いということではない。生き方も死に方は人それぞれ。

・しかし、周りに迷惑をかけずに死のうとするその生き方は、自分は周りに支えられて生きていると心底思えていたからで、その謙虚さが何より素晴らしいと思った。

・死ぬときまで身近な人たちを喜ばせようとする彼のその精神は、彼のライフワークで一貫してきた「現場主義」と通ずるところがある。

 

■カテゴリ:

闘病記

 

■評価:

★★★★★

 

▽ペーパー本は、こちら

 ※読むなら絶対、文庫本!

 

Kindle本は、いまのところ出ていません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

非属の才能  ★★★★☆

山田玲司さんの

『非属の才能』

を読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

あとから知ったのですが、

この本は、

2011年の本屋大賞で「中2賞」(中2男子に読ませたいという特別賞)

を受賞したそうです。

 

非属の才能といっているんだから、

中2男子だけに属させる時点で「ん?」と思ってしまいましたが、

まぁそこは私、スルーしましょう。笑

 

▽内容:

・「空気が読めない奴」といわれたことのあるあなた

・まわりから浮いているあなた

・「こんな世の中おかしい」と感じているあなた

・本当は行列なんかにならびたくないと思っているあなた

・のけ者になったことのあるあなた

 

おめでとうございます。

あなたは“非属の才能”があります。

 

「みんなと同じ」が求められるこの国で、「みんなと違う」自分らしい人生を送る方法はあるのか?

右肩上がりの経済成長が終わり、群れることで幸せを感じられる「恵まれた時代」が過ぎ去った今、なにより必要なのは、未来を担う才能ある人間が、その才能をいかんなく発揮できる環境作りであり、マインド作りだ。ところがいまだにこの社会では、出る杭は打たれ、はみ出し者はいじめられる。横並びがいちばん重視され、斬新な発想や強烈な個性は「群れのルール」に従って矯正、または無視されてしまう。才能ある人間が生きづらい国――それがニッポンだ。もはや今の時代、みんなと同じ必要はまったくない。むしろ、違えば違うほどいい。人はそれぞれだ。各個人が自分の道を自由にゆけばいい。“非属”であること――これこそが新しい時代のスタンダードだ。

 

若干、

著者の持論展開が少し「ひけらかし」のように見えるところもあって、

(僕は非属の才能を多分にもっていて、まわりには同調はしないが協調はできる!みたいな…)

正直、ちょっとイヤだなと思ってしまった私もいるのですが、

そこは私の心の狭さであって、

冷静に彼の言っていることに耳を傾けると、

結構、ためになることを言っていたりしました。

 

自己啓発の類は私はあまり好きではないと言いながらも、

最近、こうしたタイプの本ばかり読んでいる気がします。

 

なんだか自分が、

「自分に自信のないヤツ」に思えて恥ずかしい限りですが、

本当にそうなのかもしれないですし、

いまはそういう時期なのかもしれないと

とりあえずそう思い留めておくことにします。

 

これが一時にせよ一生にせよ、

この本は結構、

自分を認めるうえでも戒めるうえでも参考になりました。

 

世間の物差しが正しいとは限らないわけだから、

みんなと違ってぜんぜん構わない、

そのことで卑屈になったり自らを価値のない人間だと思う必要は全くない。

でも、だからといって、

自分以外の他人や世間が無条件に間違っている、劣っているということでもない。

 

端的に言うと、

「自分」とは違う「他者」を知る・認めたうえで、

「他者」とは違う「自分」を認めなさい・伸ばしなさい、

それが最もすばらしい「非属の才能」ですよ

というのが主旨でした。

 

私自身、

自分はまわりとは違うと思うことが多いと思うのですが、

違っていて結構!異端上等!と思うがゆえに、

そのことに酔ってしまっていて、

世間に流されること(人)が格好悪いとか、

他人なんてどうでもいいとか、

わりと極端な道を歩いてしまってきたので、

 

著者のいうところの、

「自分」とは違う「他人」を認める

ということは、

あまりできていない人間だと思います。

 

これには決定的な要因があって、

 

著者は、

(自分がどれだけ異質な存在でも)他人から認められたいなら、

自分は他人も受け入れるべき

というスタンスなのですが、

 

私は、

(自分は異質な存在だから)他人から認められたいと思わなければ、

自分も他人を受け入れる必要はない

というスタンスなわけです。

 

他人に好かれたいとも思わないから、

勝手にやらせて頂きます、

みたいな感じですかね。

 

それに対して著者は、

異質な存在とはいえ他人から認められたほうがいいでしょ、

そのほうが実生活はうまくいくでしょ

という感じだと思います。

 

ずっと私は

前者の自分の生き方が間違っていないと思っていた(思い込ませていた)のですが、

 

この本を読んで思ったのは、

非属であることを是とするがゆえに、

どうせ自分は社会に出ても合わないからと他人を受け入れず、

摩擦ばかり生じてストレスを抱えてしまうのは、

自分は他人と違うからダメなんだと卑屈になって自信をなくすのと同じ、

あるいはそれ以上にもっとタチが悪いかもしれない

ということでした。

 

筆者がいうように 

同調はする必要はないけれど、協調はしたほうがよく、

そのほうがまわりとギクシャクせずに、幸せに生きられる

ということは、あながち間違っておらず、

どうも考え方をかえたほうがよさそうです。

(このことは、あとでもう少し深く追究します)

 

 私はまだ読んだことがないけれども、

一流の人は空気を読まない (角川oneテーマ21)

という本がありますが、

 

この『非属の才能』のなかでも、

いわゆる著名人には非属の才能をもっている人が多く、

 彼らに共通するのは、子供のころからとにかく学校が嫌いであったということだ。

(理不尽な教師や先輩の命令に対して)同調圧力に負けず、群れ、属することの安心にも甘えず、思考停止という楽も選択しない──非属の才能はまず、そういった「学校嫌い」という症状にも表れるのだ。

と述べられています。

 

自分の学生生活を振り返ると、

小・中・高のどの時期かにもよりますが、

中高のだいたいの時期を、

本当はやりたくもないのにやっていたことがとても多く、

ずっとおかしいなと思って学校に通っていました。

 

たまに「みんなと一緒」であることに疲れて、

ふらっと輪から外れてみたり、

あえて一人で帰ってみたりしたことがよくありますが、

結局、またもとの輪に戻っていくわけで、

つまるところ私は同調することから抜け出せなかったわけです。

だから私は凡人なのだと思います。笑

同調したほうがラクだったりもして。

でも、多くの人は、そうやって生きているんだと思います。

 

さらに筆者は、

(いつの時代も)歴史に名を残した偉人たちは見事なまでに非属の才能の持ち主だ。

ムラと掟の場の空気を最優先し、とりあえず無難に生きた人間が歴史を変えることなどあり得ない。

と断言しています。

 

これは、先日読んだ、

『うさぎとマツコの往復書簡』

のなかで、

中村うさぎさんが指摘していた

「差別が文化を育む」

という内容とリンクしている気がします。

「人と違う道をいくことが、新たな道をつくる」

といった感じでしょうか。

 

ここで筆者の山田さんがおもしろいことを言っていましたが、

同調の限界は「たかが百点満点」

だそうです。

 

まわりに同調するという「無難な生き方」は、

設問者の枠のなかからは出られない「限定された能力」だし、「望まれた答えを書くだけの能力」

だとしていて、

それ以上の目新しいパフォーマンスは生まれない

ということをおっしゃっているのかと思いますが、

なるほどなぁ、と思いました。

 

ただ、それはそうとして、

なんとなくスッキリしないことがあります。

 

端的に言うと、

無難な生き方の何が悪い?

というところです。

 

山田さんは、

「無難な生き方」を「定置網にかかった人生」とも表現していますが、

 

ほとんどの人が、成功体験の網からなかなか自由になれないでいる。一度はいったラーメン屋がおいしかったので、週の半分はその店に通うとか、(中略)しまいには、学生時代に好きだったアイドルグループの「さよならコンサート≪限定DVDボックス≫」なんかを「大人買いだ」とか言って買ってしまったりもする。

それでは、魚のいない過去の漁場に向かう漁師となんら変わりがないだろう。(中略)思い出のアイドルは、違う海でたくましいオバさんになっている。

 

という、彼のこの表現に対して、

「(昔のアイドルのDVDを大人買いしても)別によくないか?」

と懐疑的になった私がいるのは、

 

おそらく、

無難な生き方の何が悪い?

という思いがあったからだと思います。

 

「非属の才能」があることは素晴らしい、決して卑下することではない

というのはよくわかりましたが、

逆にその才能がなかったらどうなのか?というところです。

 

無難に生きるためには、

「所属の才能」(定置網にかかる才能)だって

無意識・有意識にかかわらず一つの才能なわけで、

それだってあってもいいのではないかな、と。

 

つまり、「非属の才能」がないからといって、

それじゃあ価値がないのかといったら、

そんなこともないと思うわけです。

 

結局、どっちをとるかだと思います。

 

要は、

ローリスク・ローリターンの無難な生き方をして、

無難に生きるために、どうしたら淡々と過ごせるかを追求する

or

ハイリスク・ハイリターンの精力的な生き方をして、

群れに属さず自分らしく生きるために、どうしたら溌剌と過ごせるかを追求する

の二択だと思ったわけです。

 

活力に満ちあふれ、刺激の多い毎日を過ごしたいとは思っておらず、

「そこそこでいい」と考えているタイプの人間なら、

そもそも著者が奨励するような「非属の才能」などもつ必要もないと考えます。

 

思うに、そもそもゴールが違うわけです。

どう生きたいのか、どうありたいのか。

それによって「非属」であることが大きな糧ともなるし、一方では足かせにもなる。

 

山田さんのゴールは、

おそらく「無難ではない生き方」だから、

その場合には「非属の才能」を持ち得ていることは大きな道具となりますが、

「無難な生き方」を所望している人にとっては、

実はそこまで追い求めなくてもよい才能かもしれません。

 

私自身は、

「そこそこでいい」という無難な人生を歩みたいと思っていますが、

そのためにはある程度、物事にとらわれない生き方をしないといけないなと

最近になって本当にそう思い始めました。

 

そうすると、否が応でも、

「まわりがどう思っているのか」はもちろんのこと、

「自分がどうしたいのか」も捨てる必要があるのではないかと。

 

無心になるとは、実はこういうことで、

「オリジナリティ」とか「自分らしさ」とか、

そんなものを貫こうと躍起になりすぎてしまったら、

そもそも淡々と生きることなんて無理なんじゃないかと。

 

…というふうに考えていくと、

どんどん深みにはまっていきそうなので、

このくらいでいったん留めておきます。

 

 

第五章からは、

誰もが潜在的にもっている「非属の才能」をいかにして開花させるのか

について述べられています。

 

その具体的な方法として

・さぼる

・いったん逸れる

・情報を遮断する

・失敗をおそれずチャレンジする

・人の言うことは聞かない

といったことが挙げられていますが、

 

私が自身と照らし合わせて、

個人的に教訓にしたいと思ったのは、

「興味ない」を禁句にする

ということでした。

 

「興味ない」を禁句にする前に、まずは日に一度、何か「はじめてのこと」をするだけでもいい

 

というこの一句も、

是非とりいれていきたいなと思いました。

 

私のゴールは、

群れに属さず淡々と過ごしたい

というのが理想なのですが、

 

ここまでみてくると、

「群れに属さないこと」と「淡々と過ごすこと」は、

どうやらなかなかイコールではつなげなさそうです。

 

淡々と過ごそうとすると、

群れに属して無難に生きるほうがスムーズですし、

群れから飛び出て刺激的な毎日を送ることは、

むしろ「淡々と過ごすこと」を覆しかねない。

 

ただ、だからといって、

卑屈になりすぎて身動きがとれなくなるほど

自らをがんじがらめにする必要はどこにもなくて、

 

「群れに属さない」自分を保つためにも、

自分の可能性は選択肢として多くもっておいたほうがよいかもしれません。

 

大事なのは、

その結果にいちいち一喜一憂しないということ。

 

そのためには刺激は小さいほうがむしろよくて、

何か大きなことをする必要はなく、

「小さいこと」からやってみるというほうがよいかもしれないですね。

 

それに、

「淡々と過ごしたい」と思っていても、

どうしても弱い人間だから、

「たまには刺激がほしい」とか言い出しかねません。

 

そんなときにも、

「興味ない」からといって殻に閉じこもらず、

まずはいったん受け止めて(やってみて)から考えてもよいかもしれません。

 

 

第七章では、

非属をつらぬきながらもみんなと幸せに生きるにはどうすればよいか

について語られています。

 

そこでは、

私のような「同調もしないが協調もしない人」は、

 

自立した個人であるのはいいが、自我が強すぎてまわりとの協調性を軽視してしまう、「個人主義の病」にかかった人間

と指摘されています。

 

これはズバリ当たっていたため、激しく同意。

 

で、

著者はこの危険な「自分病」の例を挙げています。

 

【その1】「私は変わっているんです」病

派手な外見や過剰な行動で、自分の変わっている部分を前面に出したがる人

 

自分のなかの「変わっている部分」をむやみに主張しないことが大切。

相手を不快にするだけの「変わっている」なら、控えめにしたほうがいい。

 

【その2】「自分はいつも正しい」病

「あたし的に無理」とか「俺的にあり得ない」のように、

「自分憲法」を制定して、それに基づいて深く考えずにおのごとを裁くような人

 

群れにいようがいまいが内的成長は望めない。

自分の感覚で決めるのは結構だが、自分が常に正しいかどうかはわからないという自覚だけは必要。

群れに属さず個人の道に生きる人間ほど、逆に他者を尊重する責務がある。

 

【その3】「メジャーだからダメ」病

「大衆的(メジャー)だからダメ」という人

持ち前のひねくれ精神が悪く働いて、「みんなが騒いでいるものなんて見るものか」と遠ざける人

 

大衆にヒットしていようが無視されていようが、その評価は自分がするべき。

「ひねくれセンサー」が先入観として働くと、自分の引き出しが増えない。

 

【その4】「俺は偉い」病

プライドをふりかざして、「無条件に私を認めなさい」といわんばかりの威圧的な態度をとる人

 

自分に誇りを持つのはいいが、プライドというタチの悪い妄想はトイレに流すべき

人間は自分を認めてくれる人を認めたがるし、謙虚な人を褒める生き物

 

 

著者は、

こうした「自分病」の根底にあるのは、

「自分」という存在が大きくなりすぎて「自分」が「自分様」に肥大してしまっているから

と説明しています。

 

淡々と過ごしたいと思っているくせに、

(自分は異質な存在だから)他人から認められたいと思わなければ、

自分も他人を受け入れる必要はない

というスタンスを貫いていては、

淡々と過ごせるわけはないのです。

 

著者が言うように、

「自分」が「自分様」に肥大化していては、

淡々と過ごす人生なんて、どだい無理なわけで。

 

「自分は偉い病」や「自分はいつも正しい病」に多少なりともかかっていても、「自分でいっぱい」になることなく、うまく自我を抑えて他人と協調している

ような人こそが

非属の才能を持ちながらみんなとうまくやっている人

であり、

 

(淡々と過ごせるかどうかは別として)

ある程度自分を保ちつつも、ストレスレスに生きるためには、

いったんは「自分を引っ込める」必要もあるわけで。

 

そんなことをしていたら自分なんて出せないんじゃないか?

と思ってしまいますが、

これに対しては、

重なるところで共感し、重ならないところで貢献する

というスタンスが大事と述べられています。

 

筆者は、

どんな相手でも多少は重なるところ・共感できるところがあるはずだから、

そこは素直に共感し、

重ならない部分では相手を楽しませればいい

ということで「貢献」という言葉を使っていますが、

 

私は、

ここはあえて「貢献」でなくてもよいのかなと思いました。

 

もちろん、そういうスタンスで「自分」を出していけば、

筆者が本書で挙げられている「さかなクン」のように、

より一層、相手に受け入れられやすいし、

円滑に物事が運ぶのはその通りだと思います。

 

でも、人間なんてわがままな生き物なのですから、

(家族は別としても)誰かに腹の底から貢献するために生きている人は少ないと思います。

 

誰かを喜ばせるために自分をなげうつような「貢献」だったら、

それは自分ではないような気がします。

 

ここは素直に、

重なるところで共感し、重ならないところは仕方ないと諦める

重ならないところでは、むやみに「自分様」にならない

という程度でよいかなと思いました。

 

誰かに「貢献」するように「自分を出す」のは、

ちょっとハードルが高すぎる…

なんてことを思ってしまいました。

 

■まとめ:

・人に群れず、まわりと違っていることは、決して卑下することではなく、むしろそれは一種の才能であるのはわかったが、無難な生き方をしたい人には、正直、この才能をそれほど追求する必要もないと思った。

・「群れに属さず(でも)淡々と生きたい」という私のような人間にとっては、自分のよりどころを見つけるためにも、小さなチャレンジをしたほうがよいが、大事なのはその結果に一喜一憂しないこと。それが淡々と生きる、かつ、群れに属さない自分を保つ手段かもしれない。

・円滑に生きるための「非属の才能」とは、あくまで「他者」を尊重したうえでの、「他者」とは違う「自分」の価値。群れに属さないがゆえの「オレオレ」ではない。ここをはき違えてはいけない。

 

■カテゴリ:

自己啓発

 

■評価:

★★★★☆

 

▽ペーパー本は、こちら

 

非属の才能 (光文社新書)

非属の才能 (光文社新書)

 

 

 

Kindle本は、いまのところ出ていません

 

 

 

 

うさぎとマツコの往復書簡  ★★★★☆

一昨日、読み終えました。

 

評価は、星4つです。

 

この本は、

中村うさぎさんとマツコ・デラックスが、

雑誌「サンデー毎日」で展開する紙面上の対談を書籍化したものです。

 

▽内容:

地獄? 結構じゃないのさ。ほら閻魔、かかってこいや!」

浪費、整形etc……女の業をさすらう女王様・中村うさぎと、規格外の存在感で各界を震撼させる「女装渡世」マツコ・デラックス。みずからの魂を売り物にする2人が繰り広げる、天衣無縫のガチバトル、ついに書籍化! 特別対談「性と差別」ほかも収録。

 

この対談は、

2009年6月28日号の「サンデー毎日」から連載がスタートし、

一時期、中村うさぎさんの体調不良で連載がストップしていたようですが、

2013年11月からまた連載が再開しているとか。

 

入院中の中村うさぎさん 「サンデー毎日」の連載再開 : J-CASTニュース

 

今年に入って、また3月に再入院していたようですが、

今月の頭には退院された模様です。

 

中村うさぎさん、退院を報告……「自宅は天国じゃー!」 | RBB TODAY

 

うさぎさんを苦しめているこの病は、

原因不明の難病らしく、

一部では「ギラン・バレー症候群」とか「スティップパーソン症候群」とか報道されており、

現段階では後者の筋が強いようですが、

厳密にはまだ明らかになっていない?とか。

 

中村うさぎさんにも疑い…難病のスティッフパーソン症候群とは - NAVER まとめ

 

私は中村うさぎさんについて、

恥ずかしながらお名前しか聞いたことがなく、

実際どのようなことをされてきた方なのか、

お仕事は何なのか、

おいくつなのか、

どういった生い立ちなのか、

…などなど、全く無知でしたが、

この本を読んで少し興味が湧きました。

 

もちろん、

難病で報道されたのをきっかけに、

この人、変わってるなー!

と、少し惹かれたからなんですが、

 

あの佐藤優さんと共著で、

聖書についての本を出されていたりすると、

識者で頭のキレる人

というイメージもありました。

 

※私はこの本をまだ読んだことがありませんが、是非読みたいと思っています。

 

 ▽聖書を語る

聖書を語る (文春文庫)

聖書を語る (文春文庫)

 

▽聖書を読む 

聖書を読む

聖書を読む

 

 …で、

実際に本を読んでみてですが、

やっぱり、この人、アタマいいな!

と思いました。笑

 

マツコ・デラックスもそうですが、

中村うさぎさんも勉強家だと思います。

教養がある。

 

その教養は、

たとえばロンブーの淳とか加藤浩二のように、

朝の情報番組やバラエティ番組などで、

とりあえずしゃべることができるくらい、

世の中の時事問題を知っているという程度のものではなく、

もっと深いし、幅広い。

 

(ある事象に対して)

なぜそんなことが起こったのか、

そもそも根底にあるものは何なのか、

歴史を紐解いたらどうなっているのか、

類似したもの・対極にある考えはどういったものがあるのか、

それは学術的にはどのように解釈されているのか、

…など、

 

眉唾で得た知識とかではなく、

そもそもベースとして膨大な知識・教養をもっていて、

そのうえで自分の考えを提示しているので、

私なんかの凡人からすると、

かなわないなと思ってしまいます。

 

そして、

その言動がまたオリジナリティに溢れている。

 

整形しまくったり、

買い物中毒になったり、

デリヘルをやってみたり、

ホストに貢ぎこんだり、

ゲイの男性と結婚したり。

 

でも、

彼女はバカではないから、

そんな自分が周りからどう見られているかも知っているし、

政治や宗教、思想や文化についてもよく勉強していて、

自分なりの意見をもっている。

 

まわりからは変人だと思われるだろうな

と思いつつも、

素敵な人だなぁ

と思いました。

 

この往復書簡は、

 

前半が、

いまの政治(家)に見る性の問題が中心で、

誌面上のやりとりとは別に、

実際におこなわれた対談(「政と性」)も文字にまとめられています。

 

後半は、

自分とは?自分探しとは?他者とは?人生とは?

といった哲学的な内容になっていきます。

 

このなかで中村うさぎさんが、

 

昔は、

やりたいことをやって地獄も経験しそれゆえの天国もみた、

いまは、

生きることが楽しくも苦しくもない砂漠のようなものだ、

として

 

「人生は、地獄か砂漠かの二択である」

と言っていたのが印象的でした。

 

彼女のような波乱万丈で自由奔放な生き方からすれば、

私の人生なんて、

ざっぱんざっぱんと音だけデカい小波のようなものだと思いますが、

そんな私でも「わかるわかる」と思ったからです。

 

お笑いの板尾創路さんがお子さんが亡くなられたあとに、

「いいことは起こらないでいいから、悪いことも起きないで欲しい」

とおっしゃったそうですが、

 

うさぎさんがいう「砂漠」とは、まさにこの状態で、

「いいことも悪いことも起こらなない」けれど「無味乾燥」とした世界、

彼女がいう「地獄」とは、

「悪いことも起こる」けれど「だからこそ、いいこともある」と感じられる世界、

なのかと思います。

 

いいと感じるには地獄を見なければならず、

地獄がみたくなければメリハリのない無味乾燥した世界を生き続けなければいけないわけで。

 

うさぎさん同様に、

私はどっちもイヤだなと思うときがあるのですが、

無味乾燥とした世界がいいと思えるとき(人)は、

仏教でいうところの悟りの境地に近い気がします。

そうなったほうが人生は楽だと思う。

 

話は戻りまして、

前半の対談「政と性」のなかで、

二人が政治に対するメディアの責任(もっと言えばそれを信じる国民の責任)を追求する部分があるのですが、

そこには少しハッとさせられました。

 

うさぎ:

(消費税に関して言えば)メディアが「争点は消費税」とか言い出してさ。マスコミが決めることじゃないっつーの。(中略)争点なんて個人が自分の中に持ってるものよ。(郵政のときは)「今度の選挙は郵政が争点」とか言ってさ、それでもう郵政の話しかしないいたいな。メディアがアンポンタンだと思うのよ。

 

マツコ:

アタシ、もっとみんなメディアを疑うべきだと思う。メディアは作為的にショーアップしたものを表に出しているってことを、自覚した方がいい。(中略)受け取る側が、まずメディアに対して、反旗を翻さなきゃいけないのよ。

 

私たちは日々何気なく見聞きしている新聞やテレビのニュースに対して、

それを鵜呑みにして自分の価値判断を加えることが多いと思いますが、

 

ふうん、そんなこともあるのか…

程度にとどめておいて、

本当にそのことが自分に必要な「争点」なのかどうか

(実は案外どうでもいい「争点」なんじゃないか?)

そのうえで、いいとか悪いとか白黒つける必要があるのかどうか

(どうでもよかったら、白黒つける必要もないんじゃないか?)

自分に必要な「争点」ならばもう少しいろんな角度で見てみたらどうなるのか

(そのニュースが100%ではいはず?)

 

…といった、

いったん冷静に受け止めて

流したり・疑ってみたり・より情報を集めてみたり

という作業をしてよいのかもしれません。

 

世間でいわれている「当たり前」のことや、

知らぬ間に自分もそれに流されていることに、

もっと敏感になってみてもいいのかもしれません。

 

対談のなかの、

このやりとりも考えさせられました。

 

マツコ:

日本って戦後復興から始まって、経済発展が国を豊かにするって信じて突っ走ってきた。でも、そろそろ人間の一生で言えば年金生活の時期に入っててさ。そうなると外食を控えるとか、つつましくするじゃない。国も同じことをしなきゃいけないんだけど、それだけだと存在感が薄くなるから、その代り「ここの分野は強くしよう」と考えていくしかない。けれど政治家の多くは、まだ経済至上主義という夢の中にいると思うのよ。

 

うさぎ:

うちの親もそうだけど、成長を夢見るというのが骨身に沁みてる。実際に成長してきたわけだし。だから、急に価値観を変えろというのも無理な話だとは思うんだけどさ。

 

いま私は、

小池龍之介さんの

『平常心のレッスン』

を読んでいますが、

 

まさにこの

「(経済的に)成長するのが当たり前」という考え方は、

この本に出てくる

「カルマ=過去の経験にとらわれること」であり、

今と過去を切り離せない状態にいるのかと思います。

 

気がつけば私自身も、

仕事で・プライベートで、

何か成長しなくてはいけないと常に焦っていることがあります。

 

過去に成果を出してきた自負があるために、

今、何も成果を出していなかったりすると、

自分は成長していないと感じたり、

 

まわりが頑張っているのに、

自分が頑張っていなかったりすると、

自分だけが成長していない気になる。

 

ただ、よく考えてみると、

このときの「成果」や「成長」を定義するのは、

 

たとえば

お金はたくさん稼いだほうがいい、

どんなにイヤなことにも耐えることが美徳だ、

結婚して子供を育てて一人前、

というような、

いわゆる「世間の常識」であって自分ではないのです。

 

自分にとって何が「成長」なのか?

どうしてそう思うのか?

それは本当に必要な「成果」なのか?

 

といったことを、

メディアから得る情報と一緒で、

いつも少し距離をおいて考えてみる必要がありそうです。

 

後半にも、

リアル形式の対談が盛り込まれています。

テーマは「性と差別」です。

 

マツコいわく、

ゲイは、自分がゲイを意識した瞬間(=自らを差別した瞬間)、

危機感をおぼえ、

コミュニティでおもしろい存在になろうとして弁が立つようになるそうです。

 

これを

オカマの生存本能

と説明しているのは興味深かったです。

 

このことはオカマだけではなく、

「おもしろい存在」という立ち位置をとってきたことがある人ならば、

たぶん共感できるポイントじゃないかと思っていて、

そこには何かしらのコンプレックスがある(あった)のかもしれません。

 

あと、

うさぎさんの、

差別が文化を育んでいく

という視点も面白かった。

 

うさぎ:

「ゲイだ」「オカマだ」という差別はよくないけど、その差別と闘った原動力がゲイ文化を生んだと思う。今は普通に会社や学校でカミングアウトする人が増えて、周囲も受け入れて理想に近づいてはいるけど、カルチャーは衰退した。コンプレックスとか被害者意識ゆえに結束したパワーが毒々しい花を咲かせるっていうか、文化ってそういうものだと思う。「みんな違っていていい」というのは社会としては理想でも、文化としては沈んでいくんだろうなと思わざるを得ない。

 

抑圧された環境が文化を育むというのは、

あながち間違ってはいないと思います。

 

アイヌ文化」「ゲイカルチャー」「オタク文化」…etc。

 

もし、アイヌの存在が空気みたいだったら、

もし、大昔からゲイの性愛が普通にあったら、

もし、いつの時代もオタクがいるのが当たり前だったら、

彼らの文化なんてどうでもよかったはずですし、

世の中にフィーチャーされなかったはず。

 

一般的で世俗的な意味をもつ「大衆文化」も、

一部の高貴な「ハイカルチャー」の対極で語られる「やすっぽい文化」として扱われていたり、

逆に「マイナーなもの」の対角線上にある「普通のもの」として位置づけられることもあるわけで、

そこには何かしらの差別意識が働いているはずです。

 

政治や政策の場でつかわれる「多文化主義」という言葉も、

異なる集団がもつ様々な文化を認め「対等に扱う」

という考え方ですから、

そこには差別の概念が多かれ少なかれ含まれているのかと思います。

 

言われてみれば、

差別と文化は密接な関わりがあるように思いました。

 

文化が生まれる背景に、

ネガティブかポジティブかは別として、

そもそも「違いを認める」という要素が絶対的にあるわけですが、

「ネガティブなところから生まれる文化」=「差別が育む文化」は、

もう少し深堀してそのルーツを知りたいところです。

 

マツコと中村うさぎ

二人とも教養があって勉強家だということはよくわかったのですが、

同時に

両氏がここまで絆の強いソウルメイトだとは思いませんでした。

 

早く次が読みたいです。

 

以下は、私が印象に残った両氏の言葉の備忘録です。

 

マツコの名言

・(人間は下賎な生き物だから)何万人、何億人から賞賛されることで満たされるのなら、マイケル・ジャクソンは死なずに済んだのかもしれないし、たったひとりからとてつもない深い愛情を受ければおさまるのなら、人はこんなにも欲にまみれて生きない

 

・(政治の世界こそ男尊女卑が根強くあると思うが)アタシは、何もかもが平等であることが正義だなんてちっとも思ってやしないの。男女雇用機会均等法なんて、ただ男のルールに女を合わせただけで、むしろ、いっそう女が苦しい場面に立たされていることも多いわ。

 

うさぎの名言

・(日本のフェミニズム運動が当の女性たちから支持されないのは)フェミニズムの運動家たちって、愚かな女たちを啓蒙してやろう的な意識がチラ見えして、なーんかちょっと「上から目線」なの。「等身大の女」って感じがしないのよ。これじゃ、どんなにいい事言ってても伝わらない。女たちのハートに訴えようと思ったら、「啓蒙」とか「教育」なんかじゃなく、「共感」を獲得しなきゃダメ

 

・(オカマは男に対しても女に対しても「あんたたち、全然ダメよ!」っていうツッコミ芸が許されているけれども)これは、私が常々言ってる「オカマの治外法権的特権」ってヤツで、たとえば私が女に対して「だからバカな女って嫌いよ!」みたいな事を言ったら「おまえ、何様?女が女をバカにするって、反則じゃない?」って批判が噴出するけど、同じ言葉をオカマが言うと世間は笑って許してくれる。

 

・それにしても、人間って何故、「ゴールがある」と思ってしまうのかしらねぇ。悪足掻きの現在を積み重ねた先に、すべての苦労が報われるような輝かしいゴールがあると信じきれば、そりゃあ生きる支えにもなるってもんだけどさ、そんなゴール、誰も証明してないのよ。そんなの、頑張って宝くじ買い続ければいつかは当たるって信念と同じくらいアテにならないわ。この根拠なき希望こそ、人間の一番の煩悩かもしれないわね。

 

・天国って、地獄と対極の場所にあると思ってたけど、違ったわ。天国は地獄の真ん中にあったのよ!(中略)天国を見たければ、人類よ、自ら地獄に飛び込みなさい。愛を知りたければ、憎しみを知りなさい。救われたければ、罪を犯しなさい。神に会いたければ、悪魔と付き合いなさい。崇高なる瞬間は、汚泥の中にこそある。

 

■まとめ:

中村うさぎマツコ・デラックスの教養の深さ、独創的な考えがわかる一冊

・両氏の「ソウルメイト」たる、絆の強さを垣間見ることができる

・政治や性における差別の在り方から、自分とは?他者とは?人生とは?という哲学的な内容をも対筆。奥が深すぎて正直、(私の頭では)何を言っているかわからないところもあった。

 

■カテゴリ:

自己啓発

 

■評価:

★★★★☆

 

▽ペーパー本は、こちら

うさぎとマツコの往復書簡

うさぎとマツコの往復書簡

 

 

Kindle本は、こちら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画 LIFE!  ★★★★★

あたたかくなってきたので、

たまには外で映画でも

と思い、

昨日、家で夕食をとったあと映画を観てきました。

 

LIFE! 生きてる間に、生まれ変わろう。

です。

 

評価は、星5つです。

 

何かに行きづまって卑屈になっているときや、

先が見えなくて不安になっているときに、

もう一度みたい!

と思うような、そんな映画でした。

 

▽内容:

 凡庸で空想癖のある主人公が未知なる土地への旅を経て変化していくさまを、ベン・スティラー監督・主演で描くヒューマンドラマ。夢を諦め、写真雑誌の写真管理部で働く地味な中年男性が、ひょんなことからニューヨークをたち世界中を巡る旅を繰り広げる様子をファンタジックに映し出す。物語の鍵を握るカメラマン役で『ミルク』などのショーン・ペン、主人公の母親役で『愛と追憶の日々』などのシャーリー・マクレーンが共演。壮大なビジュアルや、主人公のたどる奇跡のような旅と人生に目頭が熱くなる。

 雑誌「LIFE」の写真管理部で働くウォルター・ミティ(ベン・スティラー)は、思いを寄せる女性と会話もできない臆病者。唯一の特技は妄想することだった。ある日、「LIFE」表紙に使用する写真のネガが見当たらない気付いたウォルターはカメラマンを捜す旅へ出る。ニューヨークからグリーンランドアイスランド、ヒマラヤへと奇想天外な旅がウォルターの人生を変えていく。

 

いつもなら、

映画は自宅から徒歩10分の、近所の映画館で観るのですが、

今日は少し足を延ばして(といっても徒歩30分程度ですが)

今年新しくオープンした

TOHOシネマズ 日本橋

で観てきました。

 

詳しい設備については全く知りませんが、

音響・座席ともに、とても良かったです。

 

ただ、

この映画館、

六本木ヒルズのTOHOシネマズと一緒で、

深夜でも上映しているらしく、

レイトショー的な値段設定はされておらず、

一律1,800円でした(/大人)。

 

今度は、安い日にまた行きたいなぁ。

 

※スクリーンによっては、

広さ1.5倍のレザーシート的な、プレミアムボックスシートもあるそうで、

こちらも一度座ってみたいです(2,500円/席)。

 

この映画には、

地道にコツコツ努力し続けるのも大事だけど、

たまには思い切り外に飛び出して、自分を変えてみよう!

といったメッセージが込められていると思います。

 

ベン・スティラー演じるウォルターは、

他人想いだけど、自分の気持ちを表現するのが苦手、

写真誌のネガを管理するという地味な仕事で、長年LIFE誌を陰で支えてきた存在。

 

そんな彼が、

雑誌の最終号を飾る表紙の写真が見つからないといった予想外の出来事で、

(自分の意思とは裏腹に)撮影したカメラマンを追って世界へ飛び立つのですが、

そのことが彼自身を変えていくわけです。

 

今までは妄想のなかでしか自分の思いを形にできなかったのが、

この破天荒な冒険によって、

現実の世界でも言いたいことをいい、

やりたいことをやれる自分に変化していきます。

 

臆病なウォルターから、行動するウォルターへ

でも、決して、

いやなやつにはなるな!

と。

 

この映画を観ていると、

たまには外の世界へ思い切り飛び出すのもいいな、

人生はもっと冒険してもいいんじゃないか?

と、ついつい思ってしまうのですが、

 

何でもかんでも、

ただ冒険すればいいと思っていたら、

人生を見誤ると思います。

 

あくまで、

コツコツと目の前のことを地道にやったうえで、

たまには羽目を外して冒険することも大事!

というのが本筋のような気がして、

(個人的には戒めの意も込めて)そう解釈しています。

 

ただの道楽息子がゴージャスに世界を周る旅をしていても

別に格好よくもなんともないけれど(でも羨ましい…笑)、

中田英寿がやると格好よく?見られるのは、

きっと彼がサッカーというフィールドで弛まぬ努力をしてきたからであって、

もしも彼がただのボンクラだったら、

「はぁ?自分探し?みつからねぇよ、そんなもん」

で終わるのではないかと。

 

今の私は、

日々コツコツ努力していることもないので、

冒険してもあんまり何も得られない気がするのですが、

何か地道に頑張るときが来たら、

思い切りどこか遠くに旅に出てみたいなと思いました。

 

だいたい、

旅というものは、非日常的なものであるがゆえに、

抑圧された日常にいたほうが、

そこで感じる解放感はスケールが大きいと思います。

 

だんだんと旅慣れてきたり、

いつでも旅に出かけられる環境にいると、

たいして目新しさや解放感を感じないのは、

きっとそのせいで。

 

だから旅行に行くならば、

やっぱり少しくらい忙しい毎日を過ごしていたほうがいい。

 

ゆったりとした生活を送っているなら、

(あえて旅に出てもたいして感動しないでしょうから)

そのままゆったりとしていたほうがいいと思います。

余談ですが。。。

 

私はLIFE誌をそれほどよく知らないのですが、

アメリカでは1936年創刊の伝統的な写真誌で、

2007年には、経営難から本当に休刊になってしまったそうです。

 

映画で紹介されているLIFE誌のスローガンがとてもよかった。

 

To see the world, 

Things dangerous to come to, 

To see behind walls, 

To draw closer, 

To find each other and to feel.

That is the purpose of life.

 

世界を見よう

危険でも立ち向かおう

壁の裏側を覗こう

もっと近づこう

もっとお互いを知ろう

そして感じよう

それが人生の目的だから

 

ウォルターがグリーンランドに鞄ひとつで旅立つとき、

このスローガンがホセ・ゴンザレスの主題歌に合わせてテロップで流れるのですが、

私はこのシーンが一番好きです。


Jose Gonzalez 'Step Out' The Secret Life Of ...

 

曲のタイトルは『STEP OUT』。

直訳すると、「踏み出そう」とか「飛び出せ」とか、

そんな感じでしょうかね。

 

鬱積した思いを抱えてグチグチ悩んでいるくらいなら、

思い切って一歩踏み出してみろ!

ときどき卑屈になって身動きがとれなくなる自分に言い聞かせたい。

 

あと、

ウォルターが酔っ払いの操縦するヘリに同乗するかどうか躊躇していたときに、

彼の妄想のなかで、シェリルが応援歌を歌うわけですが(トム少佐の歌)、

この曲も良かったです。


:: Space Oddity :: The Secret Life Of Walter Mitty ...

 

こちらは、

デビット・ボウイの『Space Oddity』という曲が原曲だそうで。

 

グリーンランドアイスランドの雄大な自然の景色もさることながら、

サントラの音楽がとにかく最高でした。

 

家に帰ってすぐにiPhoneにダウンロードしましたが、

今はこうやってすぐに欲しいものがネットで手に入るから便利だよなぁ。

 

あとで知りましたが、

この映画は、

ジェームズ・サーバーという人の書いた『虹を掴む男』

という短編小説が原作のようで、

大昔に一度、映画化されているそうです。

 

今回は、ベン・スティラーがこれをリメイク。

(これも初めて知りましたが)彼は俳優業のほかに、監督業もこなしているそうで、

本作品はそんな彼が二足のわらじを履いたものです。

 

ところどころに、思わず笑ってしまうセリフが散りばめられていたのは、

いかにもコメディの帝王、ベン・スティラーのなせる業でしたし、

スパイダーマンやボーン・アイデンティティ、ベンジャミン・バトンといった

名作映画をパロディ化して混ぜ込んできたのも、巧妙でした。

 

CASTも最高!

 

カメラマン役のショーン・ペンはもちろんですが、

 

ウォルターの母役 シャーリー・マクレーンや、

 

ウォルターの妹役 キャスリン・ハーン、

 

それから 出会いサイト e harmony の トッド役 パットン・オズワルト

 

いわゆるこうした”変なヤツら”が、

絶妙なスパイスとなって、

この映画をファニーにもキュートにもスウィートにもしてくれていました。

 

ストーリー的には、

こんなこと現実にはありえないでしょ

本当にこの旅をそれどおりに実行したら死ぬでしょ

という突っ込みどころは満載なんですが、

観終わったあとの爽快感はひとしおで、

元気が出る映画でした。

 

■まとめ:

・何かに行きづまって卑屈になっているときや、先が見えなくて不安になっているときに、もう一度みたい映画

・ときどき卑屈になって身動きができなくなる自分に、「鬱積した思いを抱えてグチグチ悩んでいるくらいなら、思い切って一歩踏み出してみろ!」と言い聞かせたくなった

・雄大な自然の景色もさることながら、サントラやCASTも絶妙だった

 

■カテゴリ:

コメディ

 

■評価:

★★★★★

 

▽DVDは、まだ発売されていません

※昔の映画は、こちら

虹を掴む男 [DVD]

虹を掴む男 [DVD]

 

 

▽サントラは、こちら

LIFE! オリジナル・サウンドトラック

LIFE! オリジナル・サウンドトラック

 

 

Secret Life of Walter Mitty

Secret Life of Walter Mitty

 

 

▽原作は、こちら

虹をつかむ男 (ハヤカワepi文庫)

虹をつかむ男 (ハヤカワepi文庫)

 

 

がんばらない生き方 ★★★☆☆

池田清彦

がんばらない生き方

を読み終えました。

 

結果は、星3つです。

 

今回は、

・刺激的で斬新な、いつもの池田節が弱かったこと

・共感できない内容もいくつか含まれていたこと

・(52の話から成り立ちますが)たまに内容が矛盾していること

の3点から、

いつもどおりの満足感が得られませんでした。

 

▽内容:

 今の日本には、おカネをたくさん稼がなければ、「楽しい生活が手に入らない」、そう考えている人が多いようです。

   だからといって「がんばっておカネを稼ごう」とすると、今度は、仕事に関するさまざまなストレスが増え、心がどんどん苦しくなります。

 「あちらを立てれば、こちらが立たず」、「何かを得ると、何かを捨てることになる」という"トレードオフの関係"が、「おカネ稼ぎ」と「楽しい生活」の間にもあるわけです。

   本書は、こうした「息苦しい」世の中で大合唱されている「がんばる」という価値観にメスを入れ、人生を楽しく生きるための考え方を紹介するものです。

 「正義」と「がんばり」だらけの世の中は、決して住み良いものではありません。あなたの「がんばり」は本当に必要でしょうか?

  「だましだまし」、「ほどほど」、「いいかげん」、「肩肘はらず」に楽しく生きる52の提言。

 

 

共感できなかったこと、矛盾を感じたこと

 

効率ばかり追わずに「無駄」を大事にしたほうが良いといいながら、

インターネットは「時間の無駄」としている

 

ネットで得られる情報を「使いもしないノウハウ」と決めつけているのが、

まず、共感できませんでした。

あながち、ネットのなかでも使える情報、実用的なものもありますし。

そのうえで、著者が言うような「無駄」があってもいいんじゃないかと思うわけです。

ネットに依存しすぎるのは良くないと思いますが、

だからといってネットを完全否定するのも、どうかなと思いました。

 

 

子供に携帯を持たせるのは「贅沢」だとして、

子供には贅沢はさせないほうがよいと提言しながらも、

携帯を持っていないことでイジメにあうくらいなら、

持たせてしまったほうが良いと言っている

 

携帯は贅沢のあくまで一例で、

イジメのほうが面倒くさいから、それなら持たせてしまったほうがよい、

というご意見になったのかと思いますが、

池田先生にしては文章が適当すぎるというか。笑

ここは、おいおい矛盾してるよ!と突っ込みたくなりました。

 

ITは日々の暮らしを快適にしている一方で、

事務手続きの負荷を確実に増やしている。

だから、IT社会は面倒だらけだ!

 

この事務手続きのところが、私にはよくわかりませんでした。

そんなに多いか、事務手続き?

Amazonのワンクリック購入は、消費者の事務手続きを大幅に減らした気がしますし、

いちいち電話やfaxでやりとりしていた書類がメールですぐに送れる。

「確実に」負荷を増やしているとは言えないんじゃないかと思うわけです。

 

逆に、共感できたこと、いい考えだなと思ったこと

 

徹底的に刺激を求めたり、完璧を求めたりせず、

何事も「いい加減」でやめておく。

「微妙な変化」を楽しみ、刺激を追い求めなければ、

「もっともっと」とならなくなる。

 

これは、完璧志向が強い自分に、

本当に百回でも千回でも言い聞かせたい言葉。

ハングリー精神って本当にいいんだっけ?と思っちゃいます。

一番いいのは、ハングリー精神があるように見せかけておいて、

ほどほどにこなすことかもしれません。

 

子供を持つことに意味や目的を求めるというのは、

親が子供を自分の”所有物”にしたいということと同じ。

「あなたのためを思ってやっている」と称して叱咤激励するのは、

実は自分の「願望」が叶いそうにないことへの苛立ちが隠れている。

親が子供にゴチャゴチャ言う本当の理由は、

「耐えるつらさから自分を解放したいから」。

 

これは親子関係だけではなく、上司部下の関係も然りだと思います。

マネージャーになりたい人の多くは、

偉くなりたい、部下を持ちたい、現場から離れたい

と思っている人がほとんどだと思うのですが、

絶対に「あたなたのためを思ってやっている」

という怒り方だけはしてはいけないなと思いました。

ウソつけバカヤロー、余計なお世話だよ、

って、間違いなくなりますねぇ。

 

「仕事を通じた自己表現」を万人に求める風潮が続く限り、

大多数の日本人は幸せになれない。

これは偽りの価値観で強迫しており、

自己実現できない仕事を選ぶのは格好悪い」

と言っていることと同じ。

仕事なんて単なるお金儲けの手段でしかなくてもちっとも構わない。

 

大いに賛成です。

だから日本の就活は気持ち悪い。

志望理由が、

第一義的にはお金儲けの手段で、

副次的には自分が少しでも役に立てそうなこと・興味をもったことだったから、

で何が悪い?と思うわけです。

 

自己実現できるかどうかは正直やってみなければわからないし、

「自分がない」と思う一方で、

やるからには楽しんでやりたい、スキルを伸ばしたい、

だからできるだけそうなりたいと思っている一人だから頑張ります、

それで何が悪い?と思います。

給料がいいから選びました、

これだっていいと思うんです。

 

人間は菩薩のようにも鬼畜のようにもなれるが、

凡人はこの二つの状態をいずれも長く続けることはできない。

時には鬼畜のように、時には菩薩のようになってバランスを取っていい。

 

これは介護にあたって、介護する側がされる側に、

「うっせークソばばあ!」とたまには怒鳴ったっていいじゃない、

という話のなかで、

その怒鳴ってもいい理由を説明したものですが、

ヘタに絞め殺すよりもよっぽどいい。

怒るのも悲しむのも疲れるから、

極力アップダウンしないほうがいいに決まっているけれど、

たまにはガス抜きも必要なわけで。

 

(仕事は特に)世の中、結果が全て。

プロセスや意気込み・動機なんて本当はどうでも良い。

 

これは一見シビアな見方で、

「がんばらない生き方」と相反するように思えるんですが、

そんな生きにくい今だからこそ、

変にやる気なんか出さず、肩肘はらず、ほどほどにやって、

世の中の常識に惑わされず、たまにはガス抜きもすればいい、

というのが本質なのかと思います。

 

結局、いまの世の中で良いとされるのは、

やる気もあって(あるように見えて)結果も出せる人

協調性が高くて自分もしっかり持っている人

自分を大事にしつつ他人への思いやりも持っている人

夢を追い続けながらも現実での折り合いをつけられる人

という、

二律背反する要素を持ち備えているのが「良い」とされているわけです。

本当はこれは矛盾しているのに、どっちか一方に偏ってもダメ。

つまり、「バランス」が大事というわけです。

 

だから、

本当はそんなこと思っていないんだけど、

適当に(無理のない範囲で)相手に合わせるとか、

自分はAという状態が満足だと思っているんだけど、

実は、Bという状態でもそれなりに満足だと思えるように自分の物差しを変えるとか、

結局まわりを変えるか、自分をかえるかしかないわけで。

 

頭ではわかっているけれど、

そういう柔軟な対応をリアルに行動にしていけば、

もっと「がんばらない」で、

もっと「適当に」生きていけるんじゃないか?

という話なのかなと思いました。

 

■まとめ:

・共感できる内容も多かったが、逆に共感できない内容・矛盾しているなと思う内容もあった。

・自分がないとダメだと言いながら、他人への協調性を求めたり、この世の中は矛盾だらけ。だからこそ、自分の考え方や行動も「ほどほど」「適当」でとどめておいたほうがよい。バランスをとるとはそういうこと。

・他人に対しても、時に鬼畜に時に菩薩になってバランスを取ればいい。大事なのは、いかなるときも「逃げ道」を用意しておくこと。

 

■カテゴリ:

自己啓発

 

■評価:

★★★☆☆

 

▽ペーパー本は、こちら 

がんばらない生き方 (中経の文庫)

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がんばらない生き方

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Kindle本は、こちら

がんばらない生き方 (中経出版)

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千年、働いてきました   ★★★★★

著・野村進さん

千年、働いてきました ──老舗企業大国ニッポン

を読了しました。

 

結果は、星5つ!

問答無用でおもしろかったです。

 

雑学目的で読んでも色々なトリビアが満載で楽しめますし、

経営哲学を学ぶにも最適ですし、

日本の文化を知るうえでも知的欲求を潤す一冊です。

 

日本の老舗ってスゴいんだなー!

と感心もしますし、

自分は全く関係ないくせに、笑

同じ日本人として嬉しくもなります。

 

これは、是非、もう一度読みたいです。

 

▽内容:

 

日本には創業100年以上の老舗企業が10万社以上あると推定されている。これほど老舗が多い国は世界でも例がない。本書は特に老舗製造業に焦点を当て、職人集団としての製造業が、どのように生き続けてきたのかを追う。

 

私は、この著書で、

はじめて野村進さんという方を知ったのですが、

とにかく文章が上手い!

 

話の持って行き方、書き方、わかりやすさ、

取材したコメントのまとめ方、文献の引用のしかた。

語彙力も豊富だし、それでいて嫌らしいインテリ感もない。

 

製造業の話なので、仕組みや化学変化など、

どうしても理系のネタになってしまうのですが、

彼というフィルタを通せばド文系の自分でも大枠がわかるようにできています。

ところどころに挟み入れるウンチクもまた面白かったです。

 

1956年にお生まれの方なので、御年58歳、

拓殖大学の教壇に立つ教授でもあるようですが、

とても大学教授が書いたものとは思えない歯切れの良さ、わかりやすさ。

論文論文しておらず、まるで新聞のコラムを読んでいる感じで、

気軽に楽しく読めました。

さすが、ノンフィクション作家!

(もとは、ノンフィクションライターだったようです)

 

書き出し(プロローグ)は、

てのひらのケータイから

というタイトルで、

ケータイの中身にどれだけ日本の老舗企業が誇る技術や製品が含まれているかを紐解きながら、

各章へ繋げていくのですが、

ここでいう「ケータイ」とは、まぎれもなく「ガラケー」を指すわけで、

すでにスマホが主流のいまからすると、

少々時代遅れの感があるのも否めません。

 

ただ、

この本が書かれたのは2006年なので、

すでに8年前の著書ですから、

時代はガラケー全盛期だったわけで、

決してこの本が悪いのではなく、

8年も経って読んだ私が悪いだけで。笑

 

たしかに、スマホ主流のいま、

この老舗たちは大丈夫なのか?と少しは思いましたが、

この本で紹介されている各社は、

決してガラケーに特化した製品をつくっているわけではなく、

その納品先のひとつがガラケーだったという話なので、

(これはあくまで私の予想でしかありませんが)きっと大丈夫だと思います。

 

この本を読むと、

これらの老舗のもつ底力は想像以上で、

ブレない経営理念と時代に沿ったしたたかさで

幾多の逆境を乗り越えてきたことがわかります。

 

だから、なんとなく、

たかだか8年くらい、彼らにとっては屁でもなさそうな気がして。

(あとでWebで調べてみようと思ってはいますが…)

 

野村さんは、上智大学を中退してフィリピンに留学し、

ノンフィクションライターとしてご活躍されているのですが、

 

19歳のときのインド旅行を皮切りにフィリピンへの留学や東南アジアでの一人旅を重ね、ノンフィクションライターになってからは、アジアで暮らす日本人について取材旅行で、多いときには一年の半分以上をアジアで過ごしてきた。

いつのまにか、気になっていたことが、ひとつある。日本以外のアジアには、古い店や古い会社が意外なくらい少ないのではないか、このことである。

 

これが彼を、

日本の老舗企業を紐解く道へ導いたきっかけになったわけですが、

外国生活や旅行を通して日本がもっと深く見えてくるというのは、

本当によくある話で、その通りだと思います。

 

彼はまた、アジアには、

「職人のアジア」と「商人のアジア」がある

と定義しており、

日本はアジアの中では稀有な「職人のアジア」ではあるまいか

と指摘しています。

 

前者は、

お上(権力者)への根強い信頼感が根底にありながら、

技術や仕事の質に対してこだわり、

ときにへりくだりつつも職人としての矜持をそれとなく誇示してきた人々で、

日本人はまさに「職人のアジア」であるといています。

 

後者は、

基本的に国家や政府を信頼せず、

家族とカネだけを信頼して商売を尊んできた人々、

具体的には華人(華僑)や印僑がこれにあたるとしています。

 

そして、「職人のアジア」たる日本の特徴として、

このように記しています。

 

この国には、百年、二百年、さらには五百年、千年以上も存在する老舗が蝟集しているだけではない。量もさることながら、質がほかのアジアの老舗とは歴然と違う。ひとことで言えば、手仕事の家業や製造業がずば抜けて多いのである

(中略)十万軒を超える創業百年以上の老舗のうち、およそ四万五千軒が製造部門とされている。老舗の半分近くが製造業なのだ。ここにこそ、日本の老舗の特質がある。

 

彼はまた、日本と他のアジア諸国の違いを、

「削る文化」と「重ねる文化」

に分けて説明しています。

 

これは仏像をつくる過程について、

その違いを特徴づけているわけですが、

 

前者は、

一本の木を削りに削って、気の中におわす仏を浮かび上がらせる方法で、

日本の仏像づくりがこれにあたります。

 

後者は、

粘土や装飾を塗り重ねて仏の形を造り上げようとするそうで、

日本以外のアジアのほとんどの仏像はこのようになっているそうです。

 

この「削る文化」と「重ねる文化」の違いは、動きをぎりぎりにまで削ぎ落とした日本の能と、豪華絢爛さを競う中国やインドの踊りにもよく表れている。言い換えると、「職人のアジア」の裏地が「削る文化」で、「商人のアジア」の裏地が「重ねる文化」ではないか。日本は、アジアの中ではごく珍しい、「削る文化」を保持してきた「職人のアジア」なのである。

 

そして、

そうした日本の老舗製造業にはどういったものがあるのかを、

2章からより詳しく紹介していきます。

 

田中貴金属

金やプラチナといった貴金属の売り買いやディーリング事業のほか、

貴金属を加工して新たな製品も作っている。

具体的には、ケータイやウォークマンのモーターを動かす金属の極細線や、

プラチナでガン細胞の成長を抑える、制癌剤も開発している。

いまは、「燃料触媒」といって、

大便や小便を一瞬にして灰にしてしまうものを開発しており、

これを使えば、飛行機のトイレも新幹線のトイレも(いまのような形のものは)いらなくなる。

 

田中貴金属の初代社長(田中梅吉)の商売仲間であり、

もとは両替商の安田善次郎は、

安田銀行みずほ銀行)の創業者で、

田中貴金属の重要な取引先だった。

※彼のひ孫がオノ・ヨーコ

 

・福田金属

もとは京都で屏風や蒔絵用に、金や銀の箔と粉を扱っていた。

近代になってタバコ(ゴールデンバット)の包装紙に、箔と粉が採用され、

現代になってエレクトロニクスの分野に進出し、

各種金属のメッキ(おもに電解銅箔)や電磁波シードルなども製造している。

 

DOWA

もともとDOWAの前身である長州・藤田組が、

秋田の小坂銅山を買い取り、同和鉱業として創業

小坂銅山で銅の製錬(銅鉱石を溶かして銅を取り出す)をおこなっていたが、

日本最大の銅山でありながら、不純物の多い「黒鉱」だった。

不純物を取り除き、各種金属を選り分ける高度な技術を得たものの、

銅山のほうが揺らぎだしたときに、廃油処理の話が持ち込まれ、

これまでの技術が日の目をみることに。

そこから汚染土壌の浄化や、金属の製錬抽出業、廃棄物処理をおこなうように。

いまや、廃棄されたケータイや自動車のごみの山は、

彼らにとっては「都市鉱山」となっている。

※ケータイのごみの山一トンあたりには、およそ280グラムの金が含まれている。

日本で採掘される最も品質の高い金鉱でも、一トンから60グラム程度の金しか

とれない。ちなみに、一キロのあたりの金地金は、230万円~250万円。

 

・ヒゲタ醤油

開業は1616年キッコーマンやヤマサよりも古い、醤油醸造業の老舗。

醤油醸造以外に、発酵技術をつかって、羊毛を刈るための薬剤を生産している。

この薬剤には皮膚の細胞を増やす働きがあり、それを羊に注射すると、

増殖した皮膚細胞に圧迫された毛穴が一次的に狭くなり、

毛が細くなって自然に抜けてしまう。

抜けたところからは、すぐにまた新しい毛が生えてくる。

品質もよく、費用も安く、重労働から解放される。

 

・勇心酒造

愛媛県高松市にある創業百五十年の酒造業者。

米の発酵技術を応用して、ライスパワーエキスを生み出し、

アトピー性皮膚炎の症状改善に役立ててきた。

 

・セラリカNODA

古くから九州・福岡で、

木ロウ(ハゼの実からとれる木ロウ)の製造と販売をおこなってきた。

化学製品を含まない天然ワックスの「セラリカコーディング」は、

シックハウス症候群を防ぎ、大手建材メーカーやカタログハウスでも推奨されている。

木ロウの熱に溶けやすく冷めれば固まりやすい性質を活かして、

印刷用トナーの添加剤に活用。

雲仙普賢岳の平成の大噴火で国産のハゼの木が壊滅状態となったため、

中国で実を育てロウを精製する工場も建て、「収穫型の林業」を展開。

人間の欲を肯定しつつ、長期的に植林をしていったほうが身銭につながることを説き、

(環境問題にも取り組むという意味で)「樹商=木を植える商人」として評価される。

 

 

大日本除虫菊KINCHO

創業者は、和歌山のみかん農家で福沢諭吉の教え子でもある、上山英一郎。

福沢の知人で来日中のアメリカ人農園主が和歌山まで上山を訪ね、

お土産にみかんを詰めて渡したところ、

アメリカから礼状と一緒に送られてきたのが、除虫菊の種だった。

その除虫菊の粉に糊を加えてよく練り、線香の形にしたのが、蚊取り線香の発祥。

最初は仏壇の線香のよな一本の直線だったが、

英一郎の妻が渦巻き型にしたらと提案して、いまの形に至る。

 

・呉竹

筆ペンで有名な呉竹は、もともとは墨作りの職人で、

煤に膠を混ぜて練り上げ、これを木炭の型にいれて乾燥させてつくっていた。

昭和30年代に、墨を擦らなくても済む「液体墨」をつくりだし、

さらに昭和48年に「くれ竹筆ペン」を開発。

書道用品業界の革命児とも言われる一方で、業界から総スカンを喰らう。

(単品が売れなくなるため)

 

新規参入、家庭用PCの普及、書道人口の低落で筆ペン市場も縮小するが、

現在は「アート&クラフト」の分野に活路を見出しており、

多彩なペンやマーカーを生産、欧米にも販路を拡大している。

また、道路の「融雪剤」や「道路鋲」「自発光式標識」などにも、

呉竹の液体墨の技術(塗料)が応用されている。

 

・カタニ産業

金沢にある金箔産業の雄。創業は1899年。

最盛期には600人以上のいた金沢の金箔職人も、今は百人程度に落ち込んでいるが、

カタニでは専属の職人を10人抱えており、

郊外の「箔団地」に住まわせて生涯契約を結んでいる。

 

金箔の技術を応用した技術が「スタンピング・フォイル」(転写箔)で、

熱転写と呼ばれる手法によって、いろいろな品物の表面に絵柄を印刷する技法

この印刷産業が、現在の売上の約半分を占めている。

 

・村上開明堂

1882年、静岡で錺金具やブリキ細工の製造販売店から勃興。

現在は自動車のバックミラーをつくる日本一の会社。

東海道線の鉄道延線工事で、大量のカンテラ(ブリキの手提げランプ)の発注が入り、

ガラスや輸入ランプ、鏡の製造にも手を広げ、トヨタのバックミラーの製造が始まる。

現在は全国のバックミラーの約4割を製造する、業界最大手に。

その後も、ミラーのまぶしさと曇り(水滴)をどうするかで、技術革新を繰り返し、

国際特許を取得するまでに至っている。

 

浅香工業

1661年に開業、南蛮貿易で栄えた大阪の港町・堺で、

包丁などの刃物問屋を営んでいたが、

明治中期に日本で初めてシャベルの試作に成功。

現在も、シャベルのトップメーカーとして国内シェアの半分を占めてる。

その家訓は、「良品は、声なくして人を呼ぶ」。

 

イチローを生んだ愛知工業大学名電高校の野球部では、

練習の素振りに浅香のシャベルを使っており、入部時にかならず1本購入する。

 

・永瀬留十郎工場

埼玉県川口市の鋳造業者。

鋳造自体は五千年以上の歴史をもち、

日本でも弥生時代にはすでにその遺留品が発見されている(銅鐸や銅矛など)。

奈良の大仏も鋳造の筆頭製品。

戦後の産業復興のなかでも、高度経済成長を支えたのが鋳造業で、

「鋳物は、ものづくりの原点」とも言われている。

 

その鋳造業でも、現在はデジタル化が進んでいるが、

コンピューターだけでは完璧な鋳物は造れない。

そこに職人の生きる道がある。

 

エプソントヨコム

セイコーエプソンの水晶デバイス事業部と、

電信機器メーカー東洋通信機とが事業統合してできた会社で、

かつては軍艦や戦闘機に搭載する無線機を製造していた。

いまは、無線機や通信機、ケータイなどの部品に欠かせない人口水晶を製造。

水晶には、圧力を加えると電気が発生し、電圧を加えると形が変わる特徴と、

振動させると非常に安定した回数で揺れ続けている特徴がある。

これらの特徴を利用して、水晶の波動数は、電波の「周波数」になり、

携帯の音声を安定して伝える役目をになっている。

世界最大のシェアを誇るノキアのケータイにも、

エプソントヨコムの人工水晶が搭載されている。

ノキアも1865年設立のフィンランドの老舗企業で、もともとは製紙会社だった。

 

・戸田工業

備中・岡山で、もとは弁柄の塗料をつくっていた会社(いまは広島本社)。

当時は、製造過程で亜硫酸ガスをまき散らす公害企業として叩かれていたが、

弁柄のもとになる硫酸鉄を、焼かずに液状にして化学変化を起こしてつくる技術を考案。

焼かずに済むので亜硫酸ガスをまき散らすこともなく、

品質もよい弁柄の大量製造に成功。

 

硫酸鉄の水溶液から出た副産物が、磁石を近づけるとびっしりくっつく「磁性粉」で、

オーディオカセットやビデオテープに活用された。

(磁性粉には磁石の原理で、情報を記憶させることができる性質がある)

磁性粉はまた、コピー機やFAXのトナー、磁気カードにも利用されている。

こうして開発した硫酸鉄の技術を、様々なリサイクル手法に応用しており、

酸化鉄の磁性材料化やダイオキシンの抑制(酸化鉄を触媒にして燃やせば発生しない)なども手掛けている。

 

・林原

創業百二十年、岡山で知らない人はいない老舗中の老舗。

業績も右肩上がりの超優良企業。

トレハロースの大量生産に世界で初めて成功し、

肝炎治療薬や抗がん剤として知られるインターフェロンの量産化、

病院の点滴に用いるぶどう糖よりカロリーが2倍ある(点滴時間が半分で済む)点滴液の開発など。

 

もともとは水飴屋として加工用甘味料やぶどう糖の量産化を生業としていたが、

デンプンつながりで加工業から化学工業へ舵をきり、

メーカーから研究所への脱皮を図る。

同族経営・非上場でその強みを活かし、研究開発には十年単位で費やす。

 

上記、要点のみ、まとめました。

 

その他、興味深かった内容を箇条書きで残しておきます。

 

・ライスパワーエキスを発明した、勇心酒造の徳山さんの言葉

「西洋のヒューマニズムを『人道主義』と訳してきたのは、とんでもない誤訳やと思うんです。ある学者が言うてはりましたが、あれは『人間中心主義』と訳すべきなんです。つまり、何事も人間を中心に『生きてゆく』という発想。だから、人間と自然との乖離がますます大きくなってきた。環境問題ひとつ解決できない。こういう人間中心主義は、もう行き詰ってきたんやないかと思うわけです」

 

これは、先日読んだ、

『百年の愚行』

のなかで、

クロード・レヴィ=ストロースという人が提唱していた、

「人権」の再定義

という考え方に似ている気がします。

 

・中国で「収穫型の林業」を展開し、環境問題と貧困問題の解決に寄与した、セラリカNODAの野田泰三社長の言葉

 

「人間の欲というものをちゃんと認めたうえで、環境問題に取り組んだほうがいいですよ」

 

これも、

『百年の愚行』

のなかでコメントしましたが、

環境問題や自然破壊に取り組むにあたって、

私も理想的すぎてはいけないと思います。

現実どうするんだっていうところをきちんと踏まえないと、

おそらく根本から解決することはないでしょう。

 

野田さんのこの言葉は、すごく正直で素敵な考え方だなと思いました。

 

・呉竹の墨作りの歴史やその作り方に触れた一節

 

墨作りのことが『日本書紀』に初めて記された七世紀初頭から(ということは、もっと前に墨作りの技術は日本に伝わっていた)、この技術は基本的にまったく変わっていない。これも実に驚くべきことだ。

 

伝統技術が伝統たるゆえんは、長持ちすることだと思います。

長持ちするから「伝統」になる。

製品が素晴らしいから、技術が優れているから、

だから「伝統」になるのだと思います。

 

・金沢の金箔加工業・カタニ工業の蚊谷社長の言葉

 

「むかしの人は、よう考えたなと思うんですよ。西陣の帯なんかに使われる金箔には、銀が入っているんですね。そのことによって非常に高級感が出るんだけど、銀は腐食するんです。ところが、金と銀の割合を、七十対三十にしたら錆びない。六十九対三十一にすると、錆びてゆく。化学もなんにもない時代に、この比率をどうやって考え出したのか、不思議でしゃあない。金箔は、ただ古いだけじゃなくて、何か隠されたノウハウがあるという気がします」

 

田中貴金属で取材を受けていた人が、

「貴金属のほうから、自己主張しているんです」

という言葉を放っていましたが、

なんだかこれに通ずるところがありますね。

 

・「お香」の文化を紐解く、日本香堂のマーケティング部長の話を受けて

 

香の文化は中国やインド、アラブにもあるが、作法の体系にまで昇華したものは、日本にしかないそうだ。それなのに華道や茶道のように広まらなかったのは、(中略)香木の値段が主因ではないかという。香木の最高級品である伽羅は、一グラム一万五千円、純金のなんと六倍もする。

(中略)伝統的な香木として名高い「蘭奢待」に、三十八箇所もの切り取り跡がある事実が明らかにされたのは、今年初めのことだ。ただし切り取った人物のうちの三人は、むかしから名前が知られている。足利義政織田信長、そして明治天皇である。

この蘭奢待は、奈良の正倉院に秘蔵されてきた。

 

伽羅とか香道について、

時代小説や漫画でちらりと読んだことはありましたが、

こんなに高価なものだとは知りませんでした。

トリビア―ンです。

 

・鋳造業の現代化について語る、永瀬留十郎工場の社長の言葉

 

「いまの精密機械というのは、人間がその前でしゃべっちゃいけないの。機械が振動するから。それどころか、人間がそばに行ってもいけないんです。体温で機械が動いちゃう。じゃあ、振動や温度に鈍感な精密機械を造ろうかとか、そういうふうにわれわれ技術屋は考えている世界なんですよね」

 

これを受けて筆者も、

小さく、軽く、薄く、だが凝縮して、強く、そして柔らかく。

と表していますが、

恐るべしミクロの世界!

そして繊細のうえに繊細を重ねる世界。

 

 

・岡山の林原社長が「独創」について語った一言

 

「私は、単なる組み合わせだと思いますよ」

 

いま読んでいる本

がんばらない生き方

のなかで、

著者の池田清彦も同じようなことを言っていました。

 

世に言う「新しさ」というものは、実はすでにあるものの”新しい組み合わせ”によるものがほとんどです。

 

組み合わせで世界が変わるわけです。

これは言い換えると、

何かやりたかったら、何かを変えたかったら、

組み合わせで考えればいいということでもあります。

シンプルな考え方で素敵だなと思いました。

 

ただ、

それで結果を出していくには何回もの地道な挑戦(ムダ)があるわけで。

私なんかは、ここが天才と素人の違いなのかなと思うのですが。。。

 

終章で、

日本に創業100年以上の老舗企業が10万社以上ある理由を、

筆者は5つの共通項に見出しています。

 

第一に、同族経営は多いものの、血族に固執せず、企業存続のためなら、よそから優れた人材を取り入れるのを躊躇しないこと。

第二に、時代の変化にしなやかに対応してきたこと。(中略)老舗というと、よく言えば「不動の」、悪く言えば「停滞した」”静”のイメージがあるけれど、実際には柔軟性と即応性に富んだ”動”の組織なのである。

第三に、時代に対応した製品を生み出しつつも、創業以来の家業の部分は、頑固に守りぬいていることだ。(中略)利益には直接結びつかなくても、ここだけは譲れないという、代々受け継がれてきた”意志”のようなものすら、そこには感じられる。

第四に、それぞれの”分”をわきまえていること。(中略)投機を戒める家訓を遵守してきたおかげで、バブル期に株や土地に手を出して大火傷を負わずに済んでいるケースも目立つ。事業を拡大する場合でも、(中略)本業の延長線上という一線だけは崩していない。

第五に、哲学者で鳥取環境大学学長の加藤尚武氏が言う「町人の正義」を実践してきたことである。つまり、売り手と買い手とが、公正と信頼を取引の基盤に据えてきたのである。

 

実に興味深く、鋭い考察だなと思いました。

 

■まとめ:

雑学目的で読んでも色々なトリビアが満載で楽しめ、経営哲学を学ぶにも最適。日本の文化を知るうえでも知的欲求を潤す一冊。

・とても大学教授とは思えないような、文章の卓越さ、歯切れの良さに脱帽。

・日本には、創業100年以上の老舗が10万社以上あり、その数は世界でも類を見ないほど多い。日本でこれだけ老舗が多いのは、島国として異国の支配を受けなかった外的環境のほか、よそ者に対して寛大で、時代の変化にしなやかに対応しつつも、コアな部分をきっちり守ってきたこと。分をわきまえ、日本人ならではの精神的几帳面さ(公正と信頼)を長じて守ってきたことが挙げられる。

 

■カテゴリ:

経済・経営

 

■評価:

★★★★★

 

▽ペーパー本は、こちら

 

Kindle本は、いまのところ出ていません

百年の愚行  ★★★☆☆

小学生のとき、

本多勝一さんの『南京への道』(朝日文庫)を読んだことがあります。

 

これは日本の中国侵略や南京大虐殺についてのルポタージュなんですが、

当時は何も知らなくて、

怖いものみたさで読んだだけだったので、

その内容や写真に大きなショックを受けたのをおぼえています。

 

小学生のくせに、本多勝一を読むなんて、

自分でも変人じゃないかと思ってしまいますが、

 

それはさておき、

とにかく内容が子供心には強烈で斬新でした。

 

その内容のグロさに驚きつつも、

本多勝一ってスゲー!これが真のジャーナリズムでしょ?!

と、臭いものに蓋をしない彼の姿勢に憧れたりもしたものです。

(まだ小学生のくせに…アホだ)

 

大人になって、

南京大虐殺はなかったとか、

本多はアカだとか、

彼の取材は出鱈目だとか、

いろいろと否定されているのを知りましたが、

 

いまでもAmazonのレビューなどみると、

結構、酷評されているようですね。

南京への道 (朝日文庫)

南京への道 (朝日文庫)

 

 

さて、

いまここで本多さんの本をとりあげたのは、

彼のルポの是非を問いたいわけではなく、

 

子供のころから、

こういうグロい内容をちょいちょい見てきた「ど変態」の私であっても、

 

今回読んだ本(写真集)は、

久々に「グロい」ものを見た

という感じで、

少し目をそむけたくなるものもありました。

 

その本とは、

Think the Earth プロジェクトというNPO法人が発行している

百年の愚行

という写真集です。

 

▽内容:

20世紀を振り返り、21世紀の地球を考える100枚の写真。それぞれが、人類が地球環境と自分自身に対して及ぼした数々の愚行の「象徴」であり、と同時にひとつひとつがれっきとした「現実」である

 

刊行は2002年なので、

もう10年以上前の書籍ですね。

 

20世紀の創造と発展の裏で、

その犠牲になった自然破壊・環境汚染・戦争・格差などをとりあげ、

その象徴たる写真と、

5人の知識人たちからのコラムを紹介しているものです。

 

詳細の目次は、

WATER 水

AIR 空気

EARTH 森・大地

ANIMAL 動物

MASS PRODUCTION / CONSUMPTION 大量生産・大量消費

NUCLEAR / TECHNOLOGY 核・テクノロジー

WAR 戦争

PERSECTION 差別・迫害

REFUGEE 難民

POVERTY 貧困

に分かれています。

 

この写真が、結構、グロい。

正直、グロいのが得意ではない方は見ない方がよいと思います。

衝撃を受けます。

 

特に、動物や戦争、難民、貧困などのところは、

命あるものたちの凄惨な現実を目の当たりにします。

 

「動物」編では、

密猟によって殺されたサイの写真。

1980~1996年頃、ケニアのマサイ・マラで撮影されたもので、

ツノがえぐられ、血肉がむき出しになったサイが横たわる写真は、

衝撃的でした。

 

門倉貴史さんの

日本人が知らない「怖いビジネス」 ★★★★☆ - pole_poleのブログ

でも知りましたが、

 

アフリカでは、アフリカゾウの「象牙」の密猟・密売があとを絶たず、近年ではサイの角まで高値で取引されている。サイの角は、アジアで漢方薬の原料として使われている。シベリアの凍土に眠るマンモスの牙も、盗掘が相次いでいる。

 

写真の解説には、

「サイの角は媚薬になるといわれ、珍重される」とありましたが、

いずれにしても、その姿は残酷そのものでした。

 

 

「核・テクノロジー」編では、

1984年にインドのボパールで起きた、アメリカ資本の農薬工場でのガス漏れ事故。

 

2000人以上の死者が出たそうで、

地中に埋められている子供(?)の写真が、

あきらかに死体なんですが、

瞳が死んだ魚のように濁っていて、

(言葉は悪いですが)気持ちの悪い人形のようでした。

 

「戦争」や「差別・迫害」、「難民」「貧困」になると、

もうかなりのグロテスクな写真が続きます。

原爆、内戦、ナチス時代のガス室や囚人たち、地雷、銃殺、エイズコレラ、スラム…

と「凄惨」の代名詞かのような写真が並びます。

 

よくこういう悲惨なものや汚いものから、

「目を背けてはいけない」という言葉がありますが、

私個人としては、べつに背けてもいいと思っています。

 

背けたら悪いヤツで、直視したらいいヤツなのか?

そんなこと誰が決めたのでしょう。

感じ方・受け取り方はそれぞれです。

具合が悪くなるまで見る必要はないですしね。

 

私自身、この本を読んで、

特に何かが得られたわけではありませんが、

なぜ私はいまこうして何も考えず、のうのうと生きているんだろう?

と不思議な気持ちになりました。

 

そこには、

のうのうと生きていることに対する罪悪感があるわけでもなく、

かといって、

そのような悲惨なシーンに直面している国や人々を見下すわけでもなく、

うまく言えませんが、とにかく不思議な気持ちでした。

 

これを見ると、

自分たちの先輩がやってきたことは、

たしかに愚行なのかもしれません。

 

でも、

とりあえず自分とその周りについては、

何もないことへのラッキー感、

平和であってよかったという安堵感。

 

だからこそ、

こういうふうにはなりたくないし、したくない、

しないようにしなければいけない、

しいて言えばそれが正直な感想です。

 

愚から学ぶ正もあるかと思うので、

(イヤじゃない限り)知っておいて損はない

という感じですかね。

 

私はこの、

【Thenk the Earth プロジェクト】という団体をよく知らないので、

この団体についてとやかく言う筋合いはないですし、

特に否定も肯定もしませんが、

 

とくに映像や画像は、

私たちの脳裏にリアルなイメージを焼き付けるので、

写真だけに惑わされてはいけないなと思います。

あまり感傷的になって極端な思想に偏るのも少し危険だと思っています。

 

「残虐なのは常に人間であって自然ではない」

という一言は、

本当にそうかな?と思いますし、

(じゃあ東日本大震災もそういえるのかと言いたいですし)

 

池澤夏樹さんのコラムにあるような、

「消費は中毒」、すなわち悪い欲の連鎖とするような考えも、

個人的にはどうかと思います。

悪いは悪いのかもしれませんが。。。

 

いま、

『千年、働いてきました』

という本を読んでいるのですが、

その中で紹介されている、

セラリカNODAの社長の言葉がとても印象的でした。

 

「人間の欲というものを認めたうえで、環境問題に取り組んだほうがいいですよ」

 

そう、

消費も人間の欲のひとつで、

生きている限り絶対に誰しもが(量に差こそあれ)もつもので、

 

考えなければならないのは、

その欲は仕方ないとしながらも具体的にどうするべきか、

だと思います。

 

ここで紹介されているのは、

具体的な解決案を提示していないコメントと、

見る側に心理的なダメージを与える、衝撃的な写真。

 

よくいえばリアル、

わるくいえば(単なる)事象の詰め合わせ、

コラムは抽象的な概論で終わる、

という感じで、

そこが少し、違和感をおぼえたところです。

 

しかし、

そもそも、それが目的でしょうし、

これはこれで読者に考えさせるきっかけをつくる良い教材だと思います。

臭いものにフタをしていませんし。

なので、★3つをつけました。

 

クロード・レヴィ=ストロースという、フランスの?民族学者・人類学者の方が、

この本のなかで、「なるほど」と思うことを述べていました。

 

人間は、道徳的存在として自らを定義することにより、特別な地位を獲得してきました。まず私たちは、人間の占有物ではない生き物としての性質を基盤として、その権利を確立すべきです。この条件が満たされて初めて、人類に認められている権利が、その行使により他の種の存続を脅かそうとする瞬間に効力を失うのです。

 生の権利の、ひとつの特例に還元された人間の権利。このような「人権」の再定義こそが私たちの未来、そして私たちの惑星のあり方を決定づける精神革命に必要な条件だと、私には思われます。

 

これも言ってみれば精神論のような気もするのですが、

 

彼の言うように、

「人権」という言葉を、人間という種のあいだの関係性にとどめず、

(もっと広く)生命体のなかでの人間の生きる権利として再定義すれば、

 

ひょっとしたら環境条例とか国と国との条約とか、

その条文が効力を発揮する範疇は少し変わるかもしれないですね。

約款のなかに環境への配慮が必ず盛り込まれるとか。

 

そして、

そうしたことを考え、実行に移せるのも、

道徳的な存在である我々人間の責務だろうと。

 

このあとに続く池澤さんや、

イランの映画監督であるアッバス・キアロスタミさんのコラムは、

私の脳みそが足りないのもあって、

正直、「???」だったのですが、

ストロース氏の「人権」の再定義については、

一理あるなと思いました。

 

■まとめ:

・グロい写真が多いので、苦手な人は見ないほうがよい。

・よくいえばリアル、わるくいえば(単なる)事象の詰め合わせ、コラムは抽象的な概論が多いので、少し違和感があった。

・しかし、臭いものに蓋をしていないリアルが詰まっているからこそ、愚から学ぶ正もあると思うので、(イヤじゃない限り)知っておいて損はない。

 

■カテゴリ:

写真集

 

■評価:

★★★☆☆

 

 

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