平常心のレッスン  ★★★★★

小池龍之介さん著

『平常心のレッスン』

を読みました。

 

評価は、星5つです。

 

またもや自己啓発系ですが、

うーん、これはスゴイ。

 

決して大げさではなく、

この私からすると、

ずっと探し求めていたものに出会ったような感じでした。

 

▽内容:

苦しみを減らし、幸せに生きるためにもっとも大事なものが平常心。プライド(慢)、支配欲、快楽への欲求、そして「死にたくない」という思い―。自分のあるがままの心を見つめ、受け容れていくと楽になる。心を苦しめるものの正体を知り、平常心を身につけるための実践的な方法をやさしく説く。

 

著者の小池龍之介さんは、

以前からずっと気になっていて、

最近では、

WEB上でもそのお名前をよく見かけるようになりました。

 

彼の著作活動は、

たとえばこんなサイトでも垣間見ることができます。

 

「仕事人×生活人」のための問題解決塾:PRESIDENT Onlile

 

ここでの記事は、

おいおい参考にさせて頂くとして、

 

まず本書を読んで感じたことは、

難しいと思っていた仏教が、ものすごく身近に感じられた

ということ。

 

これはひとえに、

小池龍之介さんの思いやり・賢さからくるもの

だと思います。

 

彼は、

一般人にとっての宗教や経典が、

いかに近寄りがたく難解なものであるかを

よくわきまえている。

 

だから読み手に対して、

きっとこういうふうに説明したらわかりやすいだろうな(思いやり)、

こんなふうに噛み砕いたらわかりやすくなるだろうな(賢さ)、

という配慮がはたらく。

 

つねづね思うのは、

難しいことを簡単に説明できる人こそ、

本当に賢い人=アタマが柔らかくて思いやりもある人

だということです。

 

そういう意味では、

昨日読んだ『バカの壁』養老孟司さんは、

アタマはいいかもしれないけれど思いやりがなくて、

この本の著者である小池龍之介さんは、

アタマもよくて思いやりもある気がします。

(完全な独断です)

 

で、

そんな小池さんのご経歴が気になってくる。

彼は何故、仏門に帰依することになったのか?

どうして、こんなに人間の苦しみについて詳しいのか?

彼のなかの何が、これほどまでに惹きつけるのか?

 

調べてみたら、

小出さんは東大出身のインテリ坊主で、

大学では仏教ではなく西洋哲学を専攻されていたとか。

 

でも、ご実家(山口県)はお寺を営んでいた模様。

 

「家出空間」というWebサイトを立ち上げていたり、

寺院とカフェを融合したiede cafeなんていうものも運営していて、

なんだか「いまふう」のお坊さんのようです。

 

この本のなかでは、

あまりご自身のご経験については触れられていないのですが、

 

生きるのが苦しくて苦しくて、というかつての私

 

とか、

 

かつて私はふっと手もちぶさたになったとき、何が何だかわからないけれど、「何かが不安で」、いてもたってもいられずに苦しくなる、ということを時々、体験していました

 

といった一文に垣間見れるように、

 

過去、

それ相当に苦しまれて、

この道(仏門)に入られた方なのかな

と勝手に想像しました。

 

で、

さらに調べてみると、

浄土真宗本願寺派という宗派から破門されていたり、

東大時代に学生結婚をして、DVや自殺衝動、離婚もしているとか。

 

波乱万丈。

 

おそらく彼のそういった滅茶苦茶な人生を救ったのが、

仏道だったのではないかと

これまた勝手に想像しているのですが、

このあたりは、

坊主失格』という著書に赤裸々に描かれているようなので、

次回、是非読んでみたいと思います。

 

ということで、

ひとりの人間としても、

俄然、興味が湧いた小池龍之介さん。

 

そんな著者のバックグラウンドや説明のわかりやすさもさることながら、

私がもう一つスゴイなと思ったのは、

宗教的な見地のみならず、

科学(脳科学や精神心理学)的な見地からもアプローチして、

人の心の動きを解き明かしている

という点です。

 

仏の教えとはこうです、

そのとき脳でもこういうことが起こっています、

だから人はこういう考え・感情になるんです、

というふうに。

 

私も含め、

「頭でっかち」な現代人にとって、

このような二元論的なアプローチの仕方には、説得力があります。

 

ここからは、内容のおさらいです。

 

そもそも仏教では、

生きることは苦しみに充ち満ちている

とされています。

 

この「一切皆苦」こそ、

お釈迦さまが最初に弟子たちに説いた説法だとか。

 

生きることは苦しみに充ち満ちているとはどういうことなのか?

 

小池さん曰く、

 

どうやったって人は老いるし、病むし、絶対に死ぬんだけれども、

意識するにせよ、しないにせよ、

人はみな「老いたくない」「病みたくない」「死にたくない」と思っている。

 

これを彼は、

「盲目的な生存欲求」と言っており、

この生存欲求こそ苦しみの源泉である

としています。

 

誰もが共通してもつ、

生存欲求に伴う究極の苦しみ(四苦=生老病死)

という感じでしょうか。

 

苦しみはそれだけではありません。

 

どんなに愛している人やものも永遠不変のものはなく、

必ず別離することになる苦しみ(愛別離苦)、

 

生きていれば必ず、

自分が好ましくないと思うものにも、

しょっちゅう触れることになる苦しみ(怨憎会苦)、

 

求めても求めても得られない苦しみ(求不得苦)、

 

身体があるがために外界からの刺激を感じてしまい【例:痛い】

何事かをイメージし【例:この痛みは悪化するのでは?】、

そのイメージから意志が芽生え【例:治したい】、

総合的に価値判断を加えてしまう【例:治したほうが絶対にいい】、

という一連の連鎖による苦しみ【例:治らない】

 

…などなど。

 

調べてみると、

先の四苦(生存欲求に伴う究極の苦しみ)に加え、

この愛別離苦怨憎会苦求不得苦五蘊盛苦の4つをあわせて、

あの「四苦八苦」という言葉になるのだとか。

 

まとめると、

逃れられない老い・病・死はもちろん、

生きること・生まれること自体もまた苦しみで、

この世は思い通りにならないことばかり!

ということなのかと思います。

 

仏教独特の考え方で、

輪廻転生(人は必ず生まれ変わる)という概念がありますが、

本書内では、

「生まれ変わること」もまた苦しみである

と解説されていました。

 

仏教では、

死に際して「業(カルマ)」を連れて行くとされているそうです。

 

業(カルマ)とは、

これまで自分が心と身体で考え行ってきたことが蓄積された「思念(感情)のエネルギー」のことで、

 

いつも激しい怒りを抱えていたり、足りない足りないと欲望を膨らませつづけるような生き方をしていると、汚染された思念のエネルギーが積み上げられ、それ(業)が次にどのように生まれるかを決定する

 

のだそうです。

 

だから、

仮に自殺して今生の苦しみとはサヨナラできたとしても、

来世でさらに苦しむことになるのだとか。

 

この世に苦しみ、怒りをもって生を終わらせようと自殺したとしても、その激しい怒りを抱えて、「修羅」や「地獄」に生まれ変わってしまいます。つまり、自殺しても輪廻からは逃れられないということは、確かに苦しみであると言えましょう。

 

刹那的に死にたいと思うことは、

多かれ少なかれ誰でもあると思いますが、

私はこれだけ読んで

やっぱり自殺なんてするもんじゃねーなと思いました。(単純)

 

さらに、

マジか?!と思ったのは、

 

 仏道的には何かしらの形で生まれ変わるときに、自分の心が選んで生まれてきた、と考えられます。つまり、I was born(産み落とされたという受動態)ではなく、自分の心で選んで生まれてきているのです。

 

という表現。

 

私なんかは、

たまに人生に行き詰まったりすると、

なんで産まれたんだろう?=なんで産みやがったんだコンニャロー、そもそも産まなければよかったのに!

と親を逆恨みするタイプのしょうもない人間なんですが、

そうではなくて、

生まれてきたのは私が選んだ結果

らしいのです。

 

すべては因果応報、

(前世を含む)過去の自分の思念や行いが、

いまの自分の運命を決めているのだと。

 

因果応報とはよく聞きますが、

ここまで突っ込んで考えさせられたことはなかった。

 

では、

私たちをこれほどまでに苦しませる犯人は、

いったいどこのどいつなのか?

 

それは

物事に対する執着心=とらわれること

だと言っています。

 

人は何かにこだわっていると、

うまくいかないときは不快になるし、

うまくいっているときはそのときはよくても、

だんだん物足りなくなって、

少しうまくいかないだけで不快を感じる。

 

この快・不快は、

感情でいうところの、

快=喜

不快=怒・哀

にあたる部分で、

 

何かに成功したり褒められたり、

何かを手にいれて満足し快感を感じているときは、

脳の中ではドーパミンが放出され、

生きる意欲が湧いてきます。

 

しかし、

そうした快楽は必ず慣れを生じさせ、

ちょっとしたことでは快感を感じなくなり、

物足りない・手に入らないと苦しむことになります。

 

逆に、

何かに失敗したりけなされたり、

何かを手にいれることができなくて不快を感じているときは、

脳の中ではノルアドレナリンが放出され、

「はい、苦しいですね。回避しなさい、逃げなさい」という指令が出され、

苦手意識や怒り・嫌な気分・不安が生じて苦しむのだとか。

 

もう少し掘り下げて、

この執着心の正体を突き止めると、

執着心の根源は「慢」=プライドによるもの

と著者は説明しています。

 

慢=プライドとは、

自我=自分に対する思い上がったイメージ・己の過大評価

のことを指し、

 

この、

自分に対する勝手な思い上がりが、

今の自分を他人や過去の記憶と比較してしまい、

結果として人に執着心をもたらすのだとか。

 

「自分は、こんなはずじゃない」

「昔は、もっとできたのに」

「あいつよりは、マシなはずだ」

という勝手な思い上がり(=慢)が、

 

「自分は、こうでないといけない」

といった理想の自分を築き上げ(=執着)、

 

理想に近づけばだんだん満足できなくなったり、

理想がかなわなくなったりして、

快・不快の苦しみのスパイラルにハマる

 

…そんな感じでしょうか。

 

著者はここに現代教育の罠があるとも指摘しています。

 

プライドを持って競争社会を生き抜くように育てられてきた、そうすることで幸せが手に入ると教わってきたのに、なかなか幸せになれない

 

学校教育やメディアの情報を通じて、「人間は平等に扱われるべきだ」という洗脳を受けているせいで、実際には理不尽なことに満ちたこの世間の現実を受け容れにくくなっている

 

実際には失敗したり、理不尽な人間関係があったり、

世の中、思い通りにいかないことばかりなのに、

「おまえは、きっとこうあるべきだ」

「人間は、平等なんだ」

という教育が、

個々人に「俺は、こうあるべきだ」

という余計な慢をもたらし、

慢によって勝手につくられた理想と現実のあいだで

ギャップに悩むことになる、

…そういうことをおっしゃっているのかと思います。

 

慢のなかでも一番厄介なのが、

人を支配したいという支配欲で、

著者はこのように規定しています。

 

相手よりも自分のほうが上であると確認し、相手を自分の思い通りに動かしたい、思い通りに変えたいというのが「支配欲」の正体

 

 

この「支配欲」をさらに突き詰めて考えていくとその根っこにあるのは実は、「愛されたい」「自分を愛して欲しい」という幼児的な自己愛である

 

さらに、

この支配欲は周りも自分も不幸にさせてしまうと説明します。

 

この欲望が厄介なのは、「言わなくても察して欲しい」という思いが強すぎると、言葉で説明せずに八つ当たりすることになりがちな点です。「言わなくても誘ってほしい」と思っている人が、「誘って欲しい」と言うかわりに「どうしていつもあなたは忙しいのか」と怒り出したり、「言わなくても働いて欲しい」と思う上司が、「なんでお前は常識も知らないんだ」と難癖をつけてみたり。誰もが無意識のうちに、「自分を無条件で愛して自分の気持ちを察して欲しい」と願い、それを周りの人に知らず識らず期待するせいで、言葉やコミュニケーションが回りくどくなり、受け取る側に理解してもらいづらくなるように思われます。そして、そのような期待はほとんどの場合、満たされることはありません。

(中略)無条件で愛されたいという、いわば「全能感」を求めてしまうがゆえに、かえって寂しくなり、無力感を覚え、その感情から逃れるために「怒り」がわいてき、その結果さらに苦しんでしまうのです。

 

ここは激しく同意。

仕事の場で、プライベートで、

自分も多々こういったことがあり、

イライラや怒りを感じてストレスを抱えることはよくあります。

 

そもそも、

「自分には他人を支配する資格がある」とか、

「自分のほうがうえだから」とか、

「自分を大事にしてくれるはずだから」とか

どこかで自分にそうした慢があるから、

他人を支配すること=無条件で自分を愛してもらうことに執着し、

自分でも気づかないうちにがんじがらめになって抜け出せなくて、

そして求めても得られない苦しみ(求不得苦)を味わうことになる。

 

そういうことだったのかぁ、

とものすごく納得しました。

 

 

執着が引き起こす「快/不快」に話は戻りまして、

 

ドーパミンが放出されて快感をおぼえるときにせよ、

ノルアドレナリンが放出されて不快を感じるときにせよ、

いちど感じた「快・不快」は記憶に刻印され、

私たちの心や身体が支配されることになる

と説明されていました。

 

今はいましかなく諸行無常

なんであれ二度と同じことはないのに、

ひとたび快感を感じたら、

人は「また」・「もっと」快感を得たいと求め、

逆に不快を感じたら、

同じような物事に遭遇すると、

それだけで苦しくなる。

 

一回「喜ぶ」「怒る」という業を積むと、

あとで必ずその報いを受けることになるから、

小池さんは、

「人は記憶に呪われている」

と言っていました。

 

「快/不快」のシステムの支配力の強さ。そしてそのシステムによって繰り返され、蓄積していく経験と、その記憶に呪われている人間という存在。「喜怒哀楽」の「喜怒(哀)」について仔細に見ていきますと、そのような苦しみに満ちた人間の姿が浮かび上がってくるのです。

 

仏教用語としてよく我々が耳にする「業(カルマ)」は、

本書の中でもたびたび登場しますが、 

どちらかというとネガティブな概念をもつ言葉で、

(前世を含めた)過去の「呪われた」行いや感情の総体

ということが言えそうです。

 

過去の行いや感情が、

「呪われた記憶」として刻まれ、

苦しみに満ちた状態につながってしまうからです。

 

「快・不快」がもたらす記憶への蓄積が

「業(カルマ)」となっていまの自分(の行動や感情)を形成していく。

いまの自分というのは、

本来はつねにこの瞬間の新しい自分のはずなのに、

業に支配され、過去にとらわれている、抜け出せない。

 

だから、

極端な快/不快は感じないほうがよく、

「喜怒哀楽」でいうところの「楽」を目指した方がよい

となるわけです。

 

この「楽」とは、あくまで、

心が何にもとらわれていない状態、

事実を事実として受け容れ、

「ま、いっか」と「あれこれこだわらない」状態であって、

何かを追い求めた結果としての「楽しい」状態とか

何かから逃れた結果としての「ラクチンな」状態ではない

というのがポイントらしいです。

 

この「楽」な状態においては、

脳内ではセロトニンという物質が放出され、

心身リラックスした状態になり、

苦しみも感じにくくなるそうです。

 

逆の言い方をすると、

リラックスするには

いつのまにか「楽」な状態に至っていることが必要で、

「楽」にこだわりすぎるとまた「喜」と同じく、

慣れが生じて満足いかなくなる、

追い求めて苦しむことになるのだとか。

 

そして、

この「楽」の状態に自分をもっていく方法として、

著者は次の3つをあげています。

 

①いろんなことをありのまま受け容る

②その状況のなかに「ま、いっか」と入り込む

③目の前の無目的な行動に、意識を無理やり集中させる

 

①②こそ、

この本の大命題である「平常心」を保つことであり、

③は

その「平常心」を保つための鍛え方

という感じかと思います。

 

①の「いろいろなことをありのままに受け容れる」ためには、

まず、

そもそも心はいつも浮き沈みするものだと認識しておくこと、

周りの状況をいちいち「いい/悪い」と判断せずに捨て置くこと、

自分の心の動きをモニタリングしてパターンを知っておくこと、

この3つが必要とのことでした。

 

極論すると、

美しい自然や秀逸な絵画を見て、

美しい/醜い、上手/下手といったラべリングもしないほうがよい、

ということになりますが、

 

これはなかなか難しそうなので、

私個人としては、

「いい/悪い」という絶対的な価値判断を加えることから

まずは極力控えるようにしてみたいと思いました。

 

②の「ま、いっか」と入り込むためには、

分相応の成功を目指さず、

失敗や理不尽なことなどはじめからあって当たり前と認識する。

ここは、

「ダメもと」精神みたいなもの

かと勝手に解釈しました。

 

「老いること」「病むこと」「死ぬこと」についても、

 

人間はしょせん壊れて死んでいってしまうものだということを思い出して

 

「ま、いっか」と受け容れる必要があるそうです。

 

そうやって一日に一回は、

「常に自分は壊れていくんだな」と死を受け入れることが大事!

と言っていました。

 

一方で、

いまの現代人は、

死人を必ず病院に送ったり、

エンバーミングを施したりと、

死を忌避している傾向にあるけれども、

これは「死を拒絶しよう」という生存欲求の命令に従っている状態で、

これは死を受け入れていないことと同じ。

 

老いもまた一緒で、

そうやって受け入れられないから、

老いる前・死ぬ前から現代人はいつも不安にかられ、

厄介な苦しみにさいなまれているのだと指摘しています。

 

 

これに若いころから縛られていると、いざ本当に老いてきて、死を迎えていくプロセスでたくさん苦しみを味わうはめになります。人生の最期が苦しみの雪崩にみまわれて終わるということになりかねないのです。 

 

著者はまた、

現代人を苦しめる外的要因のひとつとして、

資本主義をあげていましたが、

 

この資本主義のデメリットが、

現代人を死というものからいっそう遠ざけている

と私は解釈しました。

 

資本主義社会においては、

「欲しい、したい」と思ったら、

「すぐに手に入れる、すぐやる」ということができるシステムが整ったうえに、

 

そうした「ショートカット」が賞賛され、求められ、資本主義というシステムのもと、「ショートカット」したい人々の欲望に火をつけながら、強化されつづけている

 

と著者は述べており、

 

このような資本主義がもたらす「ショートカット」のシステムは、

「喜」や「怒」といった「快/不快」のシステムを暴走させてしまう危険性を孕んでいて、

待つことや我慢することはもちろん、

ありのまま冷静に物事を受け容れる時間も失われていると。

 

現代人が「死」をやたらと忌避するようになったのも、

イヤだなと思ったらすぐに目をそらす・そらせるようになっていて、

この「ショートカット」のシステムが「快/不快」のシステムを暴走させ、

【死ぬこと=醜くて悲しくて不安なもの】と、

どんどん人を苦しみに追いやっているのではないでしょうか。

 

③は、

事実をありのまま受け容れて「ま、いっか」とする平常心を

養うためのレッスンというわけです。

 

このレッスンが具体的には、

瞑想だったり咀嚼(食べる)だったり、水泳やウォーキング、畑仕事、ストレッチなどだったりするわけですが、

 

ここで大事なのは、

成果を求めず集中すること、

うまく集中できなくても、こだわらないこと、

ただひたすら淡々と目的もなく反復すること、

で、

これらが執着を解いて楽な状態になる=平常心を身につけるための近道なのだとか。

 

瞑想にせよ、ウォーキングにせよ、

回数や時間にこだわらず、

姿勢や連続性といった完璧さも求めず、

心の動きが昨日はAで今日はBだったとしても、

いちいち評価せずに「そのようだった」とモニタリングして受け容れる。

 

なかでも「呼吸」は、

 

永遠にどこにも行きつかない行為、生きている限り、主観的には無目的かつ無意識に繰り返される行為

 

なので、

瞑想にせよウォーキングなどにせよ、

「呼吸」に意識を集中させるのは平常心を養うことにつながるのだそうです。

 

なるほどなーと思ったのは、

瞑想のときの呼吸方法でした。

 

「寄せてはかえす波にそっと乗るかのように、自然に寄せてはかえす呼吸を、ただ何もせずに見つめる」

 

ふだん、

無意識に呼吸していても、

いざ「自然に」「呼吸を意識する」といっても、

どうしていいか私もわからなくなりそうなので

この言葉はおぼえておきたいなと思いました。

 

また、

よく「我を忘れるほど集中する」なんて言葉を聞きますが、

実はこれは仏教の考え方が根底にあるのかなと勝手に想像しました。

 

「我を忘れる」とは「自我を忘れる」ということで、

これは仏教でいうところの「執着をしない」境地。

これぞまさに、

いつのまにか「楽」に至っている状態なのではないか?

 

そう考えると、

「我を忘れる」くらい何かに没頭するのも悪くなさそうですが、

私たちがそうやって無我夢中で何かに集中しているときは、

仕事を完結させたい・体を鍛えたい・はやく先を知って自分を満足させたい…など、

たいてい何かしらの目的があって、

結果として得る喜びとしての「楽」であることが多いわけで、

真に無目的な「楽」を極めるのはなかなか難しいなと思ったりもしました。

 

今回は個人的に、

なぜ平常心でいられないのか?という

人が苦しみにさいなまれ続ける仕組みを解明することのほうに

重きが置かれてしまい、

平常心を保つ・鍛える実践的な訓練のほうがまだきちんと読み込めていないので、

次は実践面に重きをおいて読んでみたいと思います。

 

宗教を知識として知ることは好きでしたが、

こんなに宗教を身近で実用的なものとして感じたのは、

実は、初めてだったかもしれません。

 

まだまだ整理・理解しきれていないことも多く、

俄然、知りたくなりました。

 

■まとめ:

・「平常心」とは、物事に執着せず、ありのままを受け容れ、「ま、いっか」「こんなものだろう」と割り切る心

・平常心を保つためには、失敗や理不尽なことなんてあって当たり前で、そもそも心はいつも浮き沈みするものだと認識しておき、周りの状況をいちいち「いい/悪い」と判断せずに捨て置く、自分の心の動きをモニタリングしてパターンを知っておくことが大事。死でさえも、一日一回は受け容れる準備をし、自分は壊れていくものだと認識する。

・無目的な行動に、意識を無理やり集中させる。成果を求めず、うまく集中できなくてもこだわらず、ただひたすら淡々と目的もなく反復する。

 

■カテゴリー:

宗教

 

■評価:

★★★★★

 

 

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