真田太平記(5) ★★★★★

池波正太郎さん

真田太平記(五)秀頼誕生 (新潮文庫)

を読み終えました。

 

評価は、星5つです。

 

第四巻は、

豊臣の天下はもはや長くはないとみた甲賀の忍者(山中俊房)が、

これからまた一戦起こるのではないかとにらみ、

自分たちの諜報活動が重宝されるであろうと予測。

 

そんななか、

密かに台頭してきている間諜組織があります。

 

そう、

それは真田の「草の者」

 

天下人・秀吉の旗下にいて、

豊臣に忠誠を誓う真田昌幸の抱える忍者組織です。

 

彼らの存在は、

甲賀の忍者にとって、

もはや油断なりません。

 

その甲賀に、

忍び込んだ草の者・お江。

 

本当はそれをうまく逃がしつつも、

彼らが西に配備する諜報網やその拠点(忍びの宿)を突き止め、

いざというときにそなえようと考えていた山中俊房ですが、

まんまとお江を見失ってしまう。

 

こうなったらもう用はない。

見つけたら殺せ!

部下の忍者たちにこう命じて、

第四巻は幕を閉じます。

 

そして第五巻。

 

物語は、

相変わらずトチ狂ったままの秀吉が、

相変わらず壮大な野望を抱えたまま、

朝鮮半島ひいては中国(明)を征服せんと、

むやみに戦線を引き延ばしているところから始まります。

 

すでに朝鮮入りし、

現地で戦っている武将たち(小西行長)と、

現地を知らない、

知っていてもタイムラグがありすぎて、

もはや正確な戦況を把握しているとはいえない総大将・秀吉。

 

その指揮内容はあまりに現実離れしすぎているし、

そうなると現地も正しい状況を伝えにくくなって、

現場と司令塔の距離は広まる一方。

 

そして、

名護屋(佐賀)に布陣・逗留し、

戦況を見守るその他の諸将たちの間にも、

明らかに勝てるわけがないこの戦いに、

(口にこそ出せないけれども)

すでに厭戦ムードが広まっていました。

 

まぁ、

みんなはじめから乗り気ではなかったんですけどね。

 

だって、

発端が、

どう考えても秀吉の非現実的な野望でしかなかったわけだから。

 

朝鮮はやっぱりだめ、

秀吉自身も心身がそろそろやばそうだし、

もう長くはもたないんじゃないか、

でも次の秀次は全然使えない。

 

そもそも、

人の上に立つような器じゃないし、

およそ天下人とは言いがたい凡才。

 

加藤清正福島正則といった、

豊臣家を支える股肱の臣がいないわけではないけれど、

それにしたって人材の層に厚みがないし、

当の本人(秀次)には人望もない。

 

──となると、

次はいよいよ家康か?!

 

名護屋に兵を率いて集結する武将陣たちのあいだでも、

次の天下を案じて、

心の中はもはや朝鮮遠征どころじゃないわけです。

 

朝鮮出兵のモヤモヤ感と、

次なる天下を予感するザワザワ感が入り混じった、

1593年。

 

第五巻は、

その年からスタートします。

 

▽内容:

肉親を次々と失い朝鮮出兵もうまくゆかず、豊臣秀吉は日に日に生気を失っていく。秀吉歿後をにらんで諸雄は動き始めるが、思いがけず秀頼が誕生したことで天下の行方は混沌となる。いったんは次の天下の主は徳川家康をおいて外にないと確信した真田昌幸であったが、「好きな男」秀吉の世継ぎに己れの命運を賭けようとして、徳川方から嫁をもらった長男・信幸との関係が微妙になる。

 

この巻の目玉は、

巻タイトルにあるとおり、

豊臣Jr.秀頼の誕生です。

 

世継ぎが産まれたことで、

秀吉のアタマは、

朝鮮から国内に切り替えられ、

またまた、

馬鹿みたいな城が再び出来上がります。

 

これが伏見城

 

大坂城・京都聚楽台に次ぐ、

秀吉の栄華極める虚栄の塊。

 

そして、

ようやく明や朝鮮との講和が成立かと思いきや、

明の国書に憤慨した秀吉は、

再び出兵を決意(慶長の役)。

 

諸将からすれば、

伏見城の築城・修繕で大きな犠牲を強いられたうえに、

また戦争かよ?!(涙)って感じですかね。

 

一方で、

内政においては、

秀頼が産まれたことで、

秀吉と秀次の関係が悪化し、

ついに秀吉は秀次を高野山に追放、

彼の血をひいた妻子を全員殺してしまう。

 

こうなると、

もう秀吉は秀頼のことしか眼中にないわけで、

あとはどうやって秀頼を守っていくかにかかっているわけですが、

時すでに遅し。

 

もっと若いときに産まれていればよかったんですが、

まさかの60手前で出来てしまったがために、

愛息の後見層を固めるのが遅かった。

 

前田利家石田三成を頼みとして、

秀吉は息を引きとります。

 

ここから、

前田利家石田三成(大坂)と伏見(徳川家康)が対立するように。

 

それに加えて、

奉行を中心とする文治派(石田光成)と、

武将を中心とする武断派福島正則加藤清正)も、

反目します。

 

武断派は利家と家康を擁立すべく、

両者を和解させようと奔走します。

 

もともと利家がすでに病苦の身にあり、

死が迫っていたこともあって、

家康はすんなりとこの和解を受け入れ、

武断派のよき理解者としての地位を得ることになるのです。

 

前田利家の死後、 

強力な盾を得た武断派は、

豊臣秀頼の名のもと、

政権運営を意のままに操る石田光成を、

今こそ討たんと立ち上がります。

 

一方でまた、

彼を窮地から救おうとする勢力も。

 

彼らのおかげで、

一命の危機を回避した三成は、

故郷・佐和山(近江)に引退し、

あらためて自領の治政に注ぐ一方、

 

次の政権運営者は、

実質上、

ついに家康に移り、

家康は旧・三成派を弾劾していったりもする…。

 

もはや、

関ヶ原の合戦は目前に迫る?!

 

第五巻は、

そんな文禄の役(2年目)の1593年~三成・佐和山引退までの1599年までが

描かれています。

 

前巻(第四巻)が、

甲賀忍びvs真田忍びの忍者対決がメインだったので、

自分的にはちょっと飽きたところもあったのですが

 

今度の巻は、

秀頼の誕生と秀次の死、

秀吉の死と利家の死、

三成の引退と家康の台頭…などなど、

この期におよんでまた、

天下を率いる権力の座がめまぐるしく動いていくのです。

 

そこが見ものかな。

 

次が気になります!

 

※第一巻のレビューはこちら

※第二巻のレビューはこちら

※第三巻のレビューはこちら

※第四巻のレビューはこちら

 

 

【登場人物】

李如松(りじょしょう):

日本の朝鮮出兵で朝鮮が危機に陥った際、明に来援を求めたため、明から軍隊が派遣される。李如松は、そのときの将軍。

 

小西行長

秀吉旗下の武将。朝鮮出兵では、内地に進軍し、参謀本部として総大将をつとめる。石田光成と総司令官を努める。主戦論者の加藤清正と対立。

 

大谷吉継

秀吉の側近の一人。越前・敦賀城主。真田幸村の岳父で、於利世の父。朝鮮出兵においては、船奉行を担当。石田光成と親しく、前田利家の死に際で暗殺計画が履行されたとき、三成を救出すべく奔走。

 

石田三成

秀吉の側近で、五奉行の一人。朝鮮出兵では船奉行を務めるとともに、現地に赴いて小西行長参謀本部を荷う。近江・佐和山城主に抜擢され、要衝の地をおさえる。頭脳派でスマートな顔立ち。秀吉の死後、豊臣政権の運営をめぐって、武断派と対立。前田利家の死に際に、暗殺されかける。大谷吉継や真田家、宇喜多秀家上杉景勝・佐竹義宣らの援護を受けて、一時、家康のもとに庇護され、佐和山に退く。

※「五奉行」は、ほかに浅野長政増田長盛前田玄以長束正家

 

島左近勝猛(かつたけ):

石田光成の寵臣。三成が佐和山城を修築すると、琵琶湖の湖岸に屋敷を構える。前田屋敷で三成の身に危機が迫っていたとき、大谷吉継の密書を受け救出に向かおうとしたが、三成の父・石田正継によって制止される。

 

・石田正継:

石田光成の父。伏見にある三成に代わって、佐和山の治政を代行。

 

・石田正澄:

石田光成の兄。弟(三成)の台頭により、秀吉に引き立てられ、出世。三成よりさらに官僚よりで、戦闘経験はなく、三成には頭があがらない。前田利家の死に際に、三成の危機を知らせる密書を受け取り(大谷吉継→壺谷又五郎)、前田屋敷に滞在する三成にこれを告知。三成にすり替わって、三成を前田屋敷から逃がし、自身(備前島)の邸宅に移送。

 

・宇多河内守頼重:

石田光成の義弟。三成の父(正継)が、養子に入れる。真田昌幸と故・お徳の娘である於菊と婚姻。三成が真田家に働きかけ、秀吉の口添えもあって、成立。

 

小早川隆景黒田長政立花宗茂

いずれも朝鮮出兵で進軍した武将たち。開城に駐屯。黒田長政は、黒田如水(勘兵衛)の息子。

 

黒田如水/河野長吉:

朝鮮出兵の折の、秀吉から現地戦場への伝達指令官。

 

・暮松新九郎:

能楽師名護屋にて秀吉に能の稽古を師事。

 

豊臣秀次

秀吉の姉方の甥。秀吉が世継ぎに恵まれなかったため、後継者に指名される。二代関白で京都・聚楽第の主。政治家としての才覚に欠け、武人としての経歴も浅く、人望も今ひとつだった。伏見城着工の総責任者。拾丸(秀頼)誕生後、地位を揺るがされることを恐れて自暴自棄になり、秀吉の命で高野山に追放されて自殺。寵臣や妻子も京都で首をはねられ、秀次の血を根絶。

 

・三好吉房:

秀次の実父。秀次の乱行を制さず、秀吉の怒りをかい、四国に追放される。

 

・一の台:

豊臣秀次の正室で、今出川晴季の娘。殺生関白事件で、秀吉により、京都で首をはねられる。

 

今出川晴季(菊亭晴季):

真田昌幸の正妻・山手殿と、その妹・久野の父親で、公家。また、一の台(秀次の正室)の父でもある。永らく、右大臣として天皇の側近に仕え、秀吉に接近して朝廷と秀吉の間をとりもってきたが、殺生関白事件で、一時、越後に追放される。

 

豊臣秀勝

秀次の弟、同じく秀吉にとっては甥にあたる。朝鮮出兵に随行するも、陣中で病死。

 

豊臣秀長

秀吉の異父弟。賤ヶ岳の戦い(vs柴田勝家)や、四国平定(vs長宗我部元親)に参加・貢献し、秀吉の天下統一を陰で支え、秀吉から厚く信頼されていたが、小田原攻めののち、病死。

 

前田利家

豊臣政権における5大老の一人。加賀の大納言。もともとは、信長に仕えていた小姓。秀頼の後見人として秀吉から信任されていたが、秀吉の没後、家康と反目するように。加藤清正細川忠興の説得により、病を抱えながら、死を目前にして家康と和解。

※「五大老」は、ほかに徳川家康宇喜多秀家上杉景勝毛利輝元

 

・松子:

前田利家の正妻。

 

・前田利長/利政:

前田利家の長男と次男。父・利家に続き、秀吉が末期のころ、秀頼のために、前田一族の威勢を増大させるべく、大きな権限が与えられる。

 

加藤清正

秀吉の子飼いの大名で、肥後・熊本城主。秀吉とは遠戚にあり、早くから秀吉に仕える。朝鮮出兵で二人の皇子をとらえるなどの戦果を挙げるも、明と朝鮮側の内部分裂策により、あらぬ疑いをかけられ、秀吉から内地に呼び戻され、謹慎処分を受ける。第五巻では、慶長の大地震の際に、死を覚悟で秀吉のもとにかけつけるも、秀吉に大目玉をくらうが、真田幸村がこれをとりもったり、前田利家から家康へ頼み込んで、秀吉の勘気が解かれる。慶長の役で再び朝鮮に出兵し、蔚山に籠城して大苦戦を強いられる。

 

・飯田覚兵衛/森本儀太夫:

ともに加藤清正の家臣。飯田覚兵衛は、清正の母・伊都(いと)に関する慈愛話(清正を妊娠していたころ、老婆を助けるために火事の家に飛び込んだこと)を、のちに真田昌幸に話した人物。

 

鍋島直茂

肥前・佐賀城主。加藤清正とともに、文禄の役で朝鮮の二皇子を捕える。慶長の役にあたり、小西行長より先に出兵することを清正に進言、自身も息子の勝茂とともに竹島城へ入城。

 

藤堂高虎

秀吉末期および秀吉の死の直後、家康が西にある間、一時は自身の大坂屋敷を提供。

 

福島正則(市松):

秀吉の子飼いの大名。出世して、かつて織田信長が居城としていた清州城の城主に任ぜられる。

 

・高橋長右衛門:

福島正則の家来。石田光成の父(正継)に恩を受けた過去があったため、武断派福島正則加藤清正黒田長政・浅野幸長・池田輝政)の間で決行が決まっていた三成の暗殺計画を、石田家に密告。

 

・淀の方(淀殿淀君):

秀吉の側室で、信長の姪。亡き鶴松・秀頼の母。浅井長政お市の方(信長の妹)のあいだに産まれた三人娘の末っ子で、柴田勝家お市の方が再婚し、賤ヶ岳の戦いで自殺すると、秀吉がこの三人娘を保護し、淀の方を側室に据える。お市の方(かなりの美貌の持ち主)に似て美人といわれた。秀吉から山城の淀城を与えられ、ここに居住したことから、「淀殿」に。

 

・鶴松:

秀吉と淀の方との間に産まれた第一子。わずか三歳で夭折。

 

万福丸

浅井長政お市の方(信長の妹)の間に産まれた長男。浅井長政が義兄・信長を裏切って越前・朝倉と同盟、信長軍に追い詰められた際に、辛うじて小谷城を脱出するも捕えられ、わずか5歳で串刺しの刑に処せられる。

 

北政所(寧々):

秀吉の正室。子供には恵まれなかったが、永らく秀吉の寵愛を受ける。

 

・三上与三郎季直:

秀吉の侍臣。もともとは足利幕府の管領・佐々木義賢(よしかた)に仕えていたが、温厚篤実で秀吉に気に入られ、名護屋では船奉行の一人に加えられる。名護屋の道化遊(園遊会)にも参加。

 

・楊方亨(ようほうこう)/沈惟敬(しん いけい):

ともに明の使者。文禄の役の際の、講和特使(正使と副使)。大阪城で秀吉に謁見するも、明の国書に憤慨した秀吉によって即日退去。楊方亨は、偽造の文書を作成して、これを明国王に報告したが、慶長の役の勃発で講和が不成立だったことが発覚すると、その罪を沈惟敬になすりつける。

 

豊臣秀頼

秀吉と側室・淀殿(茶々)の第二子。幼名は、「捨て子を拾って育てると、すこやかに育つ」という迷信から、「拾丸(ひろいまる)」と命名された。秀吉58歳(57歳?)のときの子。秀吉存命中に、徳川秀忠(家康の後継者)の娘・千姫と婚約。

 

・松浦重政:

秀吉の馬廻りをつとめ、朝鮮出兵では軍馬の徴発などを担当。秀頼誕生の際は、秀吉の指示で、秀頼を抱いて大阪城外へ出向き、いったん土の上にすててから拾い上げ、城内へ戻る。

 

・小松殿:

徳川から沼田城主・真田伊豆守信幸のもとに嫁いだ正妻。本多忠勝の娘で、家康の養女。まあ姫と孫六郎、内記を産む。

 

前田玄以

もともとは織田信忠(信長の長男)に仕えていたが、のちに、秀吉の信頼をうけ、京都奉行から丹波亀山城主に任ぜられる。五奉行の一人。

 

織田有楽斎織田長益):

故・織田信長の弟。秀吉の御伽衆の一人。千利休亡き後、秀吉のもとで茶道を司る。

 

・真田左衛門佐幸村:

真田昌幸の次男で、信幸の弟。第5巻では、秀吉の推薦で、従五位・左衛門佐(さえもんのすけ)という官位に叙せられ、出世。伏見城着工の際は、妻・於利世を伴い、大坂に着任。秀吉の死後、妻子を人質として大坂に残し、上田に帰任。

 

・於利世(おりよ):

大谷吉継の娘で、真田幸村の正妻。幸村にはほかに、二人の側室がいた。 

 

・於喜久/おいち:

真田幸村の娘。於喜久は、側室・りく(家来の堀田作兵衛の娘)との間の子、おいちは、正妻・於利世との間の子。

 

・お江:

真田の忍びの者。第五巻では、命からがら甲賀から逃げのび、京都・下久我の忍びの宿で養生したのち、壺谷又五郎と上田に向かい、引き続き、静養。その後、再び西へ赴き、活動を再開。鞍掛八郎とともに、岐阜・笠神の忍び小屋を拠点をまもる。

 

・鞍掛八郎:
砥石の居館に詰めている草の者の一人。16年前、真田幸村とともに、懐妊中のお徳を、樋口角兵衛や山手殿の密命を受けた山田弥助から守る。第五巻でも、真田本家から沼田の分家(信幸)のもとに密かに出奔する樋口角兵衛を壺谷又五郎とともに捕え、上田に戻す。のち、お江とともに、岐阜・笠神の忍び小屋を拠点とする。

 

・壺谷又五郎

真田家の間諜組織の筆頭。お江や姉山甚八などの「草の者」の総司令官に当たる。第五巻では、お江を上田に移送したり、近江・長曾根から京都・下久我へ向かう途中で地震被災したり、樋口角兵衛の身よりを真田本家から分家(信幸)にかえたり、佐助を一人前の草の者にすべく家元から実地(下久我・長曾根)に送ったり、岐阜(笠神)に忍び宿を新設したりと奔走。

 

・池ノ脇藤左:

馬杉市蔵・田子庄左衛門などとともに、甲賀から武田信玄のもとに派遣された甲賀忍びの一人で、その後、山中俊房の命で甲賀に戻る。以後、杉坂重五郎の配下で働いていたが、老齢になり、琵琶湖の近くの忍びの拠点で見張りを続ける。下久我へ向かう又五郎とお江を見つけ、山中俊房に報告。

 

・佐久間峰蔵:

もと武田家の鉄砲足軽で、又五郎の幼馴染。武田家(勝頼)の滅亡間際に、足軽から百姓となって近江・長曾根の村落に婿入り。偶然、再会した壺谷又五郎の頼みもあり、長曾根・笠神の忍び宿の新設に協力。

 

・奥村弥五兵衛

壺谷又五郎配下の真田の忍びの者。第5巻では、新しく設営した近江・長曾根の忍びの宿に滞留し、諜報活動を行う。

 

・山中内匠長俊:

秀吉の御伽衆(側近)の一人で、間諜組織の頭領。山中俊房の又従兄で、甲賀出身。後年の秀吉の朝鮮出征や統治に失望し、山中俊房からの誘いもあって、秀吉に見切りをつける。

 

・山中大和守俊房:

甲賀の豪族で家康の間諜組織を束ねるトップ。山中長俊の又従兄。長俊に密使を送り、秀吉との手切れを提言。家康の老臣・本多正信に直属。

 

・猫田与助:

父・猫田与兵衛をお江の父・馬杉市蔵に殺され、本人もお江と因縁のある、宿敵の仲。山中俊房に仕える。第五巻では、甲賀で取り逃がしたお江を再び発見し、近江から京都へ出るところで仕留めようとするが、折しも、慶長の大地震で機を逃す。

 

・杉坂重吾郎:

山中俊房に仕える忍びの者。田子庄左衛門を仕留め、お江を逃してしまい、猫田与助とともに、真田の草の者の動きを探る。

 

・樋口角兵衛:

樋口下総守と久野の子とされるが、実際は真田昌幸と久野の間に産まれた子。幼少より屈強な身体と獰猛な性格の持ち主。扱いに困り、真田家に取り立てられず、真田の庄の近くで暮らしていたが、村落に出向いては暴行をはたらき、偶然居合わせた佐助に倒される。その後、冷遇の真田本家を離れ、沼田の分家のもとに勝手に走ろうとするが、壺谷又五郎と鞍掛八郎に捕えられるも、又五郎の仲介できちんと本家に仁義をきって分家に引き渡される。

 

・松山儀平/鹿野小介:

樋口角兵衛に仕える従者。角兵衛が真田家を出奔し、放浪していた際に、拾ってきた牢人。角兵衛が真田本家から分家に無断で身を寄せようと上田を離れた際、これを見限り、逃走。

 

・向井佐平次:

第五巻では、真田幸村に随伴し、大阪や伏見を飛び回る。

 

・もよ:

佐平次の妻で、佐助の母。真田の草の者であった故・赤井喜六の娘。砥石城で、番士や家来などの身の回りの世話をする。

 

・横沢与七:

もよの亡母の弟(つまり叔父)で、真田家の草の者の一人。真田の庄をまもる首領。佐助を草の者に育て上げる。

 

・佐助:

佐平次ともよの息子。幼い頃から、真田の庄で暮らしていたため、はやくから忍びの術に関心をおぼえ、横沢与七のもとで修練を積む。獰猛な樋口角兵衛を負傷させる。壺谷又五郎に随伴し、15歳で親許を離れて、下久我→長曾根の忍び宿で実践を積む。最初の指令として、又五郎から上田の真田幸村への密書を託される。

 

・おくに:

真田の草の者の一人。関東の諸方をまわっていたが、横沢与七に頼まれて、佐助の初体験の相手をすべく、真田の庄に戻ってくる。佐助に、忍び者として知っておくべき情事を教える。のちに、長曾根の忍び宿で、佐助と再会。

 

・矢沢薩摩守頼綱:

真田昌幸の叔父で、真田家の老臣。元・沼田城代。第五巻では、心臓を病み、ついに死去。

 

・西笑(さいしょう):

秀吉の御伽衆の一人で、京都・相国寺の住職。外国語に精通しており、日本が朝鮮で入手した外典などを解読、秀吉に伝える。文禄の役の講和において、明の国書を解読し、秀吉にそのまま伝えたため、講和が破談となる。

 

・小西如安(内藤飛騨守):

足利将軍の家臣で、キリシタン宗徒だったが、小西行長に仕えるようになってから小西姓を名乗り、明に特使として派遣される。漢学の大家で、中国語が堪能。

 

・元均(げんきん):

慶長の役における朝鮮水軍の総司令官。日本側の攻撃で、巨済島で戦死。 これにより、再び李舜臣海将に復帰。

 

・真田伊豆守信幸:

真田昌幸の長男。家康の婿(養女・小松殿と結婚)。沼田城主で真田分家のあるじ。第五巻では、文禄の役名護屋に出陣したり、帰国後はまた伏見城の築城工事・京都控屋敷の設営にたずさわる。沼田へ帰還する直前、京都を散策中に、北条家の残党(猪俣元宣)に襲われるが、鈴木右近忠重により救われる。

 

・青木新六/田部井伝蔵:

ともに真田信幸の家臣。信幸の京都散策中に、牢人らに襲われ、殉死。

 

・猪俣瀬兵衛元宣(せへえもとのぶ):

北条氏邦の家臣で、かつて沼田城代だった猪俣邦憲の弟。秀吉の小田原攻めで北条家がほろんだのち、兄・猪俣邦憲も磔の刑に処せられたため、その復讐としてたまたま京都に居合わせた真田信幸を襲う。

 

・鈴木右近忠重:

故・名胡桃城主、鈴木主水の息子。沼田の真田信幸のもとに仕えていたが、沼田を離れ、柳生五郎右衛門宗章に随伴して江戸から奈良へ赴き、柳生宗厳のもと剣術の師事をうける。京都で偶然遭遇した真田信幸を危機から救い、再び信幸に仕えるため、沼田に戻る。

 

・於順:

小松殿の待女で、一時は真田信幸に目をかけられるも、鈴木右近忠重によって白紙に。忠重と恋仲にあるとみた信幸により、婚姻を勧められるも、その後、忠重が沼田から蒸発し、彼を待っているうちに病没。

 

細川忠興

細川藤孝(幽斎)の息子。前田利家細川幽斎は、ともに信長に仕えた戦友で、前田家と細川家には婚姻関係もあったことから、秀吉の没後、反目する前田利家徳川家康の間にたって、周囲から和解の仲裁人に仕立て上げられる。 

 

・湯浅五助:

大谷吉継が伏見の真田屋敷に差し向けた使者。大谷吉継は、利家の死後、本家(池田長門守綱重)・分家(鈴木右近忠重)の差別なく、両方にしばらくは静観を保つようアドバイス。

 

・脇坂小十郎:

石田光成の家来。前田利家が死の瀬戸際にあって、三成が前田屋敷に滞在しているころ、武断派による主の一命の危機を感知し、大谷吉継に助けを求める。

 

・原田喜六:

大谷吉継の侍臣。石田光成の暗殺計画について、真田家(幸村)に報告・相談すべく向けられた使者。

 

・白倉武兵衛:

真田幸村の大坂屋敷総留守居役。もともと武田勝頼に仕えていたが、武田家の滅亡後、真田家を頼る。大谷吉継(原田喜六)から預かった密書を壺谷又五郎に託し、又五郎から太郎次・伏屋太平を介して佐和山へこれ(石田三成の危機)を届ける。

 

・五瀬の太郎次/伏屋太平:

ともに真田の草の者。太郎次は老齢の忍びで、太平は若者で、ともに大坂城下に居住し、大坂の情勢をキャッチアップ。太平は壺谷又五郎の指示で佐和山に、大谷吉継がしたためた三成危機の密書をはこぶ。

 

 ・佐竹義宣:

常陸・水戸城主で、秀吉からの信頼もあつく、小田原攻めでも活躍。石田光成とも懇意にしており、三成暗殺の危機に際して救護に協力。この際、家康のもとに三成を預ける案を提案し、向島に移送。その後、家康の軍とともに、佐和山に送り届ける。

 

黒田長政

故・秀吉の参謀、黒田官兵衛の息子。父の跡を継ぎ、武将として活躍、朝鮮出兵では加藤清正と奮戦、豊前・中津城主に任ぜられる。武断派の大名で、石田光成を討とうとしたが、三成が佐和山へ引退してからは、家康に急接近。豊臣秀頼の後見人および天下運営の主として、家康を持ち上げ、伏見入城を勧める。

 

堀尾吉晴

秀吉の子飼いの大名で、家康のかわりに浜松城主を任ぜられていたが、黒田長政を筆頭に武断派の諸将が家康の伏見(再)入城・ポスト豊臣を推進してからは、家康により、越前・府中城に隠居させられる。

 

・福原長尭/垣見一直/太田一吉/熊谷直盛:

石田光成の下で朝鮮出兵ではたらいた軍目付。正確な報告を怠り、いたずらに戦を長引かせたとして、かねてから武断派の諸将から訴えられており、家康によって罰せられる。これにより、領地没収や謹慎を命じられたが、福原長尭は石田光成の姻戚関係があったため、その後、家康は彼の領土没収を半減。

 

 

【印象に残ったこと】

・旧・伏見城は、一度、慶長の大地震で倒壊・消失しており、本来、秀吉は、明・朝鮮の講和使節をここで迎えるはずだったが、(新・伏見城の完成にも間に合わず)やむなく大坂城に変更。

 

・秀吉の嗣子で世継ぎとされた徳川秀次(三好秀次)は、秀頼が誕生したために、自らの地位が脅かされると疑心暗鬼になり、乱心に走った。また、秀吉側も側近たちからの注進で秀次を見限り、ついにはこれを高野山に追放。もともと、そこまで秀次を信用していなかったうえ、秀頼が産まれたことで、秀吉のなかに譲位を早まった感があったのも事実。

 

・晩年の秀吉は、天下人としての人望を完全に失っていた。真田昌幸・幸村父子も、秀吉に従属していたとはいえ、内心ではすでに見切りをつけていた。

 

豊臣秀吉の意向が、厖大な犠牲の上におこなわれた朝鮮出兵によって、いちじるしく損なわれたのは事実であった。なればこそ、秀吉は、事ごとに自分の威勢を見せつけようとする。まるで、祭りさわぎの出陣。無意味な豪奢をほこる築城。そして、関白・秀次を誅戮したときの狂乱。諸大名が、この〔天下人〕へかけていた信頼と期待は、事ごとに裏切れつつある。

 

豊臣秀吉が、朝鮮出兵に費やした七年の歳月とエネルギーを、天下人としての日本の内政と自分の政権の確立にそそぎ込んでいたら、後年の歴史は、「大いに変わっていたろう」

 

朝鮮出兵において、加藤清正は熱烈な主戦論者であり、石田光成・小西行長らの総司令部とは考え方が違ったが、そこに目をつけた明・朝鮮が、彼らの確執を図り、日本側の結束を乱そうとした。加藤清正は、これに気づいて、途中で交渉の土俵から降り、秀吉に正確な情報を伝えて仕切り直しをはかったが、逆に、相手の術にはまった小西らに秀吉が弄され、清正が悪者にされてしまった。

 

・石田光成は、秀吉から大いに信頼され、頭もよかったが、あまりに策略的・狡賢すぎるところもあり、独善的だった。

 

たとえば、朝鮮の戦況を、名護屋に在る豊臣秀吉へ報告するにしても、講和を急ぐあまり、かならずしも、その実体をつたえては来なかったようにおもわれる。

 

真田昌幸は、名護屋の陣所にいたころ、暗に石田光成や小西行長を評して、「あの奉行たちの目つきは、時に偸盗のごとく光る」といった。

 

・慶長の大地震のおり、家康の家臣で真田信幸の岳父・本多忠勝は、家康に秀吉暗殺を進言。(家康はこれを却下したが…)

 

・秀吉は一時は明・朝鮮との講和を考えたが、こちらの条件がまったく通らず、かつ、明からも屈辱的な国書を突き付けられたため、再戦を決意。これには、小西行長・石田光成だけでなく、加藤清正も無謀と感じており、西笑や前田利家もこれを諌めたが、秀吉はこれを聞かなかった。かといって、自ら海を渡ろうともせず、諸大名に犠牲を強いた。その理由は、秀吉亡き後も盤石な豊臣政権を保つべく、逆にいまのうちに諸大名の勢力をそいでおきたかったから。

 

諸大名を朝鮮へ再出陣させ、天下人としての威風を最後に見せつけておこう。もしも、出陣を渋り、わが命令を不満におもうならば、自分の目の黒いうちに、これを、「淘汰してしまわねばならぬ」このことであった。 

 

伏見城下に建てられた真田家の伏見屋敷は、本家(真田昌幸)の主管にあるが、分家(真田信幸)もここに滞留した。また京都にも控屋敷をもうけたが、こちらは真田信幸が主管にあった。伏見屋敷には、真田昌幸の重臣・池田長門守綱重が総留守居を務める。分家の留守居役は、鈴木右近忠重。

 

伏見屋敷→真田本家・分家が共用(主管は、本家)

京都控屋敷→真田本家・分家が共用(主管は、分家)

大坂屋敷→真田本家(幸村)のみ使用(総留守居役は白倉武兵衛)

 

・鈴木右近を介して、真田家(真田信幸)と柳生家(柳生五郎右衛門宗章)の交誼が結ばれ、長年にわたって続いた。

 

・晩年の秀吉は、とにかく秀頼の将来を心配し、家康の孫娘と秀頼の婚約をとりつけたり、後見人として前田父子の威力をやたら増大させたり、五大老五奉行に対して、忠誠を誓わせる誓約を課した。しかし、後世を見据えた政権運営に乗り出すのが遅かった。

 

・秀吉の死後、伏見城徳川家康)と大坂城前田利家+石田光成)の関係が悪化。両者が反目するようになった。

 

伏見城徳川家康前田玄以長束正家

大坂城前田利家+石田光成

 

・諸大名の縁組は豊臣家の許可があってはじめて成立するが、家康はこれを無視、豊臣政権を運営する大老や奉行たちの同意なしに、勝手に伊達政宗の娘と六男(忠輝)との婚約をととのえたり、養女と福島正則の嗣子(正之)と婚約させたりした。次第に家康と大老・奉行らの関係性はさらに悪化。諸大名も分裂。

 

伏見(徳川屋敷)→福島正則・池田輝元・森・黒田・藤堂・有馬

大坂(前田屋敷)→加藤清正・細川・浅野・佐竹・立花・小西・大谷

 

・関係が悪化する伏見と大坂で、つかの間の平和を保たんと、閣僚たちが一触即発を阻止すべく躍起になり、家康と利家をなんとか和解しようと奔走細川忠興を仲介人として、一時は和解成立までこぎつけるも講和に至らず。利家の死の直前、加藤清正の説得で、ついに講和が成立。家康に秀頼の後見を託す。家康は、利家の死が近いことをわかっていたので、これにすりよった。

 

・秀吉の死後、戦将を中心とする武断派加藤清正福島正則ら)と、官僚(奉行)を中心とする文治派(石田光成・小西行長ら)の二派が対立。武断派は、利家と家康を頼みにしていたので、両者の和解を急がせた。大谷吉継は、三成に近かったが、建前上は中立を保つ。

 

(文治派が)幼い秀頼の側近をかため、彼らが打ち出した政令なり政策なりが、豊臣秀頼の名をもっておこなわれることに、武断派は非常な不安を抱いた。

 

徳川家康は、文治派と対立する武断派の大名たちに対し、あくまでも、よき理解者であることに努めた。

 

・もともと、前田利家と石田光成はウマがあわず、秀吉生前時は仲が悪かったが、秀吉の死後、豊臣家の忠誠・後継という点において、家康と対抗すべく、両者は結託。

 

前田利家の死に際に、石田三成を暗殺しようと、武断派が立ち上がり、三成が滞在する前田屋敷を取り囲むが、大谷吉継・壺谷又五郎・石田正澄(三成の兄)らの協力で、危機を打開。三成はまず、正澄邸に移送され、そこから宇喜多秀家備前島屋敷→佐竹義宣の伏見屋敷→徳川家康向島城→故郷・佐和山へ引退。このとき、家康は石田三成の庇護を受け入れ、武断派を制御する。

 

・石田光成は、もともとインテリ武将の一人として秀吉から重用されたが、佐和山引退後も、その民政手腕はピカイチだった。

 

■まとめ:

・第五巻は、文禄の役(2年目)の1593年~三成・佐和山引退までの1599年までが

描かれている。

・秀頼の誕生と秀次の死、秀吉の死と利家の死、三成の引退と家康の台頭…などなど、この期におよんでまた、天下を率いる権力の座がめまぐるしく動いていく。

関ヶ原の合戦がいよいよ目前に迫っており、先が気になって仕方ない。


■カテゴリー:

歴史小説

 

■評価:

★★★★★

 


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