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日本人のための神道入門   ★★★☆☆

武光誠さん・グレイルさん共著、

『日本人のための神道入門』

を読み終えました。

 

評価は、星3つです。

 

▽内容:

古代から生活の中に脈々と受け継がれてきた神道。「自然を大切にし、人間同士が信頼し助け合う」。この神道の精神こそ、現代人がなくしかけていた日本人の心ではないでしょうか。今も残る身近な「しきたり」「参拝」などから、日本人の根底に流れている「神道の教え」改めて学んでみましょう。

 

なぜか急に、

神道」について知りたくなり、

私のようなズブの素人でもわかる入門的な本を探していたところ、

この本を見つけました。

 

ちなみに、

神道」の読み方は、

「しんどう」ではなく「しんとう」です。

 

これ、

私はつい最近知りました。(汗)

 

さて、

著者の武光誠さんですが、

Wikipediaで調べたらすごかった!

 

日本の歴史学者のひとりで、

専攻は古代史、

明治学院の教授でもあるそうなんですが、

日本史全般から世界史にまで200冊近い一般向け書籍を書いているのだとか。

 

たしかに、

文章も一般慣れしている書き方で、

とてもわかりやすかったです。

 

神道についての書籍も多く書いているようで、

 

↓ このあたりも、

次回読んでみたいです。

 

神社とお寺の基本がわかる本―基本のキを教えます (宝島社新書)

一冊でわかる神道と日本神話: 「わが国の起こり」と「日本人の心の原点」を読み解く

日本の神さまと神道 100の基礎知識

  

また、

黒岩重吾さんの古代小説をいろいろ拝読しているので、

武光さんが得意とするところの古代史についても、

是非読んでみたいと思っています。

 

↓ このへんとか。

 

日本の古代史 本当は何がすごいのか

真説 日本古代史

大和朝廷と天皇家 (平凡社新書)

 

さて、

本書『日本人のための神道入門』ですが、

よくわからなかったのは「グレイル」さんについて。

 

共著となっていますが、

一体ナニモノ?!外人か?!

と思い、

いろいろ調べてみたんですが、

 

どうやら

編集プロダクション | 株式会社グレイル

というのが正解っぽいです。

 

ミムラとかタモリのように、

グレイルも人の名前かと思っていたら、

プロダクションだったんですね。笑

 

こうした編集プロダクションが絡むことで、

より一層、

大衆ウケするような内容につくり込まれているのかもしれません。

さすが宝島社!

 

内容的には、

そうだったんだ!という驚きもある一冊で、

入門編とあるだけに、

細かいところはだいぶ端折っている感じもあって、

「つかみ」はOKじゃないかと思いました。

 

加えて、

前述のとおり、

文章も平易な体で書かれていたので、

雑学チックに面白く読めました。

 

よく日本人は無宗教だと言われますが、

実際はそうではなくて、

 

神道のように、

あまりにも身近で昔から根付いるものは、

私たち自身が宗教だと意識していないだけだったり、

 

あるいは仏教やキリスト教のように、

お葬式やクリスマスといった行事を普通にやっていて、

なにか神様めいたものにはそれなりに畏敬の念があり、

よくわからないけど受け容れています。

 

むかし、

池上彰の宗教がわかれば世界が見える (文春新書)

という本を読んだことがありますが、

 

そのなかで池上さんも、

日本人は決して無宗教ではなく、

信教を問わないだけで、

信仰心と生活が無意識的に結びついている、

というようなことをおっしゃっていました。

 

無宗教というと、

(とくに海外の人からは)

あたかも反宗教的といわんばかりの

ネガティブイメージがありますが、

 

わたしたち日本人は、

間違っても反宗教ではないし、

無宗教でもない、

むしろいろいろな宗教を容認する柔軟さを持っている。

 

これが池上さんの日本人に対する宗教観でした。

 

武光さんも、

本書のなかで、

 

海外の人から、日本人は宗教観が薄い国民だとよくいわれますが、神道と言うものがあまりにも身近すぎて、日本人自身が「宗教」とは認識していなかっただけかもしれません。

 

と言っており、

 

その理由として、仏教やキリスト教イスラム教の三大宗教には、経典や厳しい戒律があるのに、神道にはそれがないということが挙げられます。

 

と述べています。

 

三大宗教の経典は、

解読が難しく、

それだけに教義が体系づけられ、

日常生活のなかでも、

宗教的な規律に拘束されることがありますが、

一方の神道はそれがない。

 

また、神道では、

自然だけではなく、

「人間が祈ればなんでも神になる」

とされていて、

わりとなんでもアリ的な、

柔軟・寛容なところが特徴でもあり、

 

今の日本人が、

どんな宗教に対してもわりと柔軟なのは、

そうした古来からの「なんでもアリ」なところが、

受け継がれてきたからなのかもしれません。

 

著者も、

あとがきでこのように言っています。

 

神道はほかの思想を排除することなく、形を変えて受け入れるという柔軟さを持っていました。日本においては、神と仏が対立することなく、それぞれの役割を果たしていたのです。

それは古来、日本人が暮らしていく中で身につけた「自然を大切にして」「人を敬う」という思想から発展していったものでした。

 

彼はまた、

神道の形は時代に応じて変わってきたけれども、

神道の基本的な考え方、

すなわち、

「自然を大切にしながら、人間同士が信頼し助け合う」という精神は、

いまに至るまで変わっていない

と言っています。

 

とはいえ

現代社会においては、

その精神が随所で薄れつつあるため、

これに警笛を鳴らすと同時に、

古き良き教えに触れる大事さを説いています。

 

文明が発達して個人主義が広がると、私たちは知らないうちに自己中心的な考え方をしてしまうようになります。 

そんなときに、縄文の昔から受け継がれてきた神道の心に触れることで、おのずと人間に優しくふるまい、みんなが豊かで幸せに過ごせる世界を望むようになる、そんな生き方ができるようになるのではないでしょうか。

 

このくだりは、

最初、

ちょっと大げさすぎる気がしました。笑

 

なぜなら、

自分はこの本を読んで、

「やっぱり、人に優しくしよう!」

「みんなが幸せでありますように!」

…なんて、

ちっとも思わなかったからです。

 

むしろ、

日常生活に根付いている神道とその由来がわかって面白かった!

というのが正直な感想であって、

上記のような気持ちは一切湧いてきませんでした。

 

でも、

著者の言う「神道の心に触れること」とは、

何も(神道に関する)本を読むことだけではないわけで、

たとえば神社に参詣することもその1つのはずで。

 

※むしろ読書のほうは、

神道をアタマで知る」だけであって、

「心に触れる」作業ではないかもしれません。

 

我が家は神社の近くにあるので、

外出するとだいたい神社を横切って、

必ずその前で一礼して行くのですが、

近隣住民は皆そうしています。

 

私たちはそこで、

今日一日の成功・安全を願い、

帰ってきたらまた、

今日一日の成功・安全を感謝します。

 

「これ以上、余計な仕事が降ってきませんように」

 

「今日は、お腹が痛くなりませんように」

といった個人的な願掛けも多分にありますが、

 

ときに、

自分の過ちを反省したり、

誰かの幸せを願うこともあります。

「今日、職場であの人にこんなこと言ってすみませんでした」

「お母さんの具合が良くなりますように」

「明日、晴れますように」

 

そうやって、

神聖なものに触れることで、

自然を敬い・他人の幸せを願う

といった機会はおのずと増えるわけで、

それこそが「神道の心に触れる」ことなんだろうなと思いました。

 

「習うより慣れろ」「百聞は一見にしかず  」と同じで、

こればっかりは、

本なんか読むより、

実際に神に触れる場に行くほうが効果的でしょう。

 

私たちが自然に囲まれるだけでなく、

神社やお寺、教会といった、

神聖でおごそかなところにいくと、

なんとなく自分を律しようとしたり、

穏やかな気持ちになったりするのは、

知らず知らずのうちに身についていた、

神道の精神が呼び起されるからなのかもしれません。

 

印象に残った内容を箇条書きで残しておきます。

 

神道では、すべての人間を「善」と見て、他者の生き方を認める。誰もが楽しく生きることが前提になっていて、そのために、自然を大切にして、人を思いやる事が重要とされる。

 

・古代人は、「清らかで若々しく、生命力にあふれた状態」を、尊いものと考えていたので、「元気がない状態」、つまり「気枯れ(生命力が枯れてしまう状態)」は、「穢れ」として避けるべきものとされていた。

 

・「死」や「(女性の)生理」は「穢れ」としてみなされ、その「穢れ」を周りの人にうつさないように、一定期間、隔離。

 

神道では、気が枯れたときに、さまざまな間違いを起こすと考えられていたので、みずから引きこもって反省したり、「お祓い」をすることでその罪が許される寛容性を持っていた。水で流したり、火で燃やして煙にすることで、穢れは浄化される。

 ―「禊祓(みそぎばらえ)」:水を使って流れ落とす

 ―「火祓」:火を使う(煙→雲→雨になって流れる)

 ―「塩祓」:塩を使う(海水のかわりとして、水をまけないところにまく)

 

風水の「盛り塩」は、神道の「祓い」 に由来している(中国の風水には、その思想はない)。

 

神道のお葬式は「神葬祭」というが、「死」を穢れとする神道では神社で葬式をとりおこなうことはない(仏教は寺でおこなうこともあるが)。神葬祭でも、通夜と区別式に分かれていて、斎主が祭詞を読み上げ、玉串をささげる(仏教でいう焼香)。死者は神の国に帰っていくと考えられているので、涙ではなく笑顔で見送るのがよいとされている。

 

・言霊信仰も神道の信仰の1つで、言葉にも魂が宿ると考えられていた。緊急時代ではないときには、軽率な発言(言挙げ)は不吉なものとされる一方、いい言葉を口にするといいことが起こるとされていた。今でも「スルメ」を「アタリメ」と読むのは、「スル」=使い果たすという縁起の悪い言葉を避け、「アタル」という縁起の良い言葉に置き換えたから。

 

神道では、犯してはならない罪もあった(日常生活における道徳のようなもの)。このような重罪を犯した場合には、社会的な制裁が加えられた。

 ー「天津罪」は、最も重い罪で主に農耕に関するもの

 ―「国津罪」は、主に男女の性に関するもの

  「白人」:肌の色が白い人を産むこと

  「畜犯罪」:家畜を犯す行為

 

・時代の変遷とともに、神道も少しずつかわりながら、人々の間で守られていった。1つは、仏教や儒教など、大陸から様々な宗教・思想が伝わるたびに、その教えを受け入れ、そしてマージされ、変容。もう1つは、権力者が変わるたびに、神道の考え方もそれに合わせて変容。

 

・「高天原」は俗世を離れた神様たちの世界で、そこには天津神がいるとされていた。高天原を追放されたスサノオノミコトの子孫たちの国津神がおさめ、人間たちが住む世界が「葦原中国」。海の向こうには「常世国」という別世界があり、死んだ人の霊魂が帰るところとも、不老不死の楽園であるとも考えられていた。沖縄の「ニライカナイ(海の彼方の楽土)」も同じような発想。地下にあるのが「根の国」=「黄泉国」で、死者が行く場所とも、罪や穢れが流されるところともされていた。

 

国津神天照大神の弟:スサノオノミコトが地上に降臨し、その子孫が国津神となる。地方の豪族たちがそれぞれにまもっていた「オオクニヌシ」が、この国津神とされていた。出雲大社の神として祀られている「大国主命」は、スサノオノミコトの子孫のひとり。

 

天津神=天上に暮らす神で、穢れを知らず欲を持たない清らかな存在。国津神より格が上。高天原に住む天照大神は、地上を治める「大国主命」に支配権を譲るように要求し、大国主命は自分を祀る壮大な御殿を建てることと引き換えに、これを承諾。この御殿が出雲大社とされている。この「国譲り」こそ、天皇(朝廷)が全国を支配する根拠となる。

 

・神社は、もともと人々が集まって神に祈るための「祭り」の場所。時代とともに、国が定めた制度に組み込まれ、天皇による中央集権化のために、各地の神社も朝廷に管理されるようになる。

 ―官幣社:国内の主な神社(神祇官が管理)

 ―国幣社:各地のそれ以外の神社(それぞれの国が管理)

 

官幣社はおもに畿内の神社がこれに属し、当初16社だったが最終的には22社に。伊勢、岩清水、賀茂、春日、住吉、祇園など。

 

・地方では、領主が巡拝を簡略化するために、国内の神社を一か所に集めた総社をつくったり、由緒ある神社ごとに一宮、二宮…と格付けをおこなう(一宮総社制度)。

 

・「神道」が宗教として形づくられたのは、仏教が入ってきたことと、それが蘇我氏vs物部氏の権力争いに利用されたから。蘇我氏は仏教を擁護し、対して神祇を司っていた物部氏はこれに反対、仏教と相対化されることで宗教として形式化されていった。

 

・注連縄(しめなわ)は、「ここは神域なので、むやみに近づかないこと」というサイン。

 

・「瓦」は仏教とともに伝来したため、寺院の象徴でもあり、本来は神社では使われなかった。

 

・先祖をまつる日本のお盆やお彼岸は、仏教が日本になじむために、神道的な考え方を取り入れたもの。仏教には本来、先祖をまつるという考え方はない。日本人は、祖先の霊を「仏様」と呼ぶが、これは神道の影響によるもの。

 

平安時代には、新仏教(天台宗真言宗などの密教)が登場、天皇家がこれを重んじたために、各地の神社は僧侶を雇って勢力を確保しようとした。これが神仏習合のきっかけとなり、神社の境内に寺が建てられたり(神宮寺)、逆に寺院にお稲荷さんがあったり、神と仏の境界があいまいに。朝廷や貴族の庇護のもと、寺院が力を得て政治にも口だしするようになったため、戦国時代には信長によって比叡山が焼き討ちされたり、秀吉によって高野山が圧力をかけられたりした。江戸時代には、幕府の寺請制度によって、寺が神社を統括する立場に。

 

・室町後期に成立した吉田神道は、唯一神道ともよばれ、京都の吉田神社に仕えた吉田兼倶が大成させたもので、仏教を神道より下に置き、人を神として祀る教義。足利義政の正室・日野富子の庇護を受けてから、吉田家を頂点とする神職の組織化が全国展開。江戸時代にも吉田神道は幕府から厚遇される。家康が日光東照宮に祀られているのは、吉田神道の教えによるもの。

 

・幕末期、国学の研究が始まると、仏教や儒教が根付く前の「本来の日本」の姿を求める「復古神道」が盛り上がりを見せる。他宗教的な要素を排除し、神は仏より格が上、神道こそ万物の根源であり他の宗教はそこから枝分かれしたものにすぎないとして、幕末の尊王攘夷の精神的なよりどころにもなり、明治維新をもたらした。

 

・明治時代になると、神仏分離令が出され、平安時代から続いてきた神仏習合の時代も終わる。神社に仕えていた社僧たちは、神社か寺院、神職か僧侶の二択に迫られる。

 

・農耕(稲作)による収穫を生命の基本としていた古代において、田植えの時期(春)や収穫の時期(秋)は、神に感謝するための「祭り」が催されていた。時代が経つと、高温多湿で疾病が流行しやすい夏にも、伝染病を鎮めるための「祭り」がおこなわれるようになった。京都の「祇園祭」も、もとは疫病の蔓延を鎮めるためのお祭り。

 

・神棚は、見晴らしがよく清らかな目の高さ以上の場所につくる。方角は南か東向き。二階建て以上の建物に住む場合は、人が神の上を歩かないように、最上階に神棚を設けるとよい。

 

・熊野では、刈り取った後の稲わらの山を「すすき」と呼び、稲魂が宿る神聖なものとされており、熊野の神職のなかに、「すすき」にちなんで「鈴木」を苗字にした家があった。鎌倉から戦国にかけて、熊野信仰が全国に広がると、「鈴木」姓の神職たちが熊野神社分祀をつくったため、「鈴木」姓が全国で増える。「高橋」も、「高いはしご」=神様が降りてくるときのよりしろとして、古代人は高い柱を立てて神をまつっていたが、その祭りを司っていた神職が「たかはし」姓を用いるようになった。

 

・家紋はもともと、平安時代に貴族が牛車の持ち主をあらわすためにつくった印。自然と世襲的になり、家を示すものとなっていく。現在は二万種あるといわれている。

 

国民の祝日は、かつては「祝日大祭日」と呼ばれ、戦後日本国憲法によって新しく制定されたが、それぞれ神道と深い関わりがある。「春分の日」「秋分の日」はともに「お彼岸」として仏教行事だと思われているが、基本は神道の「祖霊信仰」。古来、昼と夜の長さが同じになるこの特別な日に、御霊祭りがおこなわれていた。「こどもの日」は、もともとは早乙女と呼ばれる若い女性が、田の神のために仮小屋や神社にこもって穢れを祓う行事(女性の節句)。「勤労感謝の日」は、戦前は「新嘗祭」と呼ばれ、天皇天津神国津神に新穀をささげ、自分も食すことでその年の収穫を感謝する祭り。

 

天照大神大国主命から地上の支配権を受け取り、孫である瓊瓊杵尊を地上に降ろしたときに与えた宝物を「三種の神器」と言い、これを持つものが地上の権力者とされる。「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」「やたの鏡」「草薙剣」がこれにあたり、曲玉は宮中に、鏡は伊勢神宮、剣は熱田神宮に祀られている。

 

・「振る」という動作は、呪術的な意味を持つ行為とされ、物を振って空気を揺らすことで、自分に合わない精霊を遠ざけ、自分に合う精霊を近づけるという意味がある。「鎮魂」の神事は、病気や死によって離れて行こうとする霊魂を安定させ力強いものとするもの、「魂振」は弱った霊魂を振ることで活力を取り戻そうというもの。祭りで神輿を担いだり、相撲で力士が四股を踏むのも「魂振」が起因。

 

・日本の歴史上、人々の生活を大きく変えたのは「明治維新」と「終戦」。前者では、近代合理主義が日本の伝統にある「無駄」「非科学的」なところを切り捨て、西洋化によって「自然を大切にする心」や「おおらかで人を信じる心」といった美徳は失われていった。後者では、平和・自由・平等といった均質化が、かえって差異を出そうと競争社会へと向いてしまった。実力主義個人主義といったミニマム化によって共同体のつながりが薄れ、古来から受け継がれてきた「しきたり」や、かつての日本人が理想とした生活や考え方が失われつつある。

 

■まとめ:

神道の基本的な考え方から歴史、日常生活と神道の結びつきなどをわかりやすい文章で解説してくれる入門書。

・この本を読むことで人生観がかわるような発見はなかったが、神道について「アタマで知る」ということについては、知的好奇心は得られる一冊。日常生活に根付いている神道とその由来がわかって面白かった。

・我々日本人は、神聖なものに触れることで、自然を敬い他人の幸せを願う性質がある。それは古代から受け継がれている精神で、神道の基本的な考え方。個人主義・無駄を省く今だからこそ、そうした「神道の心に触れる」ことを大切にしていくべき。

 

■カテゴリー:

宗教

 

■評価:

★★★☆☆

 

▽ペーパー本は、こちら

日本人のための神道入門 (宝島社新書 260)

日本人のための神道入門 (宝島社新書 260)

 

 

▽Kindele本は、いまのところ出ていません