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僕の死に方  ★★★★★

金子哲雄さん

『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』

を読み終えました。

 

評価は、星5つです。

 

(メディアに美談的に煽られている気がして)どうも私は闘病記が苦手なので、

そんな苦手な私が本を評価するなんて、

そもそもおこがましいことこのうえないのですが、

久々に考えさせられてしまいました。

 

今回、私は文庫版のほうで初めて読んだのですが、

これからお読みになる方は、

是非、文庫版のほうをオススメします。

 

文庫版のほうには、

金子さんと深い親交のあった方々が寄せた

金子さんとの思い出

が収められていたり、

 

彼の遺骨が納められているお寺(心光院)の住職さんが

文庫版あとがき

を載せています。

 

これらは、

生前の、あるいは、死にゆく金子さんをどうとらえたか、

をまとめたもので、

金子さんが書いたエンディングダイアリーとは別に、

第三者がみた金子さんのエンディングダイアリーの凝縮版

といっても良いかもしれません。

 

あとがきで奥様が、

金子さんがお亡くなりになられて一週間後くらいに、

生前、金子さんが大好きだったアーモンドチョコレートをスーパーで目にして、

初めて大声で泣いたということを書かれていましたが、

 

私はここが一番、印象的でした。

そのくらい身近な人の死は、

遺された人にとって受け入れがたいものなのだということを

あらためて知ったというか、なんというか。

 

また、

同じく文庫版あとがきで、

金子さんと一緒に病と伴走しながら、

金子さんを支えてきたマネージャーの方も、

 

死ぬ直前に呼び出されて通夜・葬儀とこなしてきて、

それまで金子さんが亡くなったことに何も感じず、

「自分はおかしいんじゃないか?」と思っていたら、

一週間後、何気なくテレビで金子さんが取り上げられているのを観て、

「ぶわっと感情が高まりました。次から次へと涙が流れてきました」

と書いていました。

 

こんなところが印象的だと思ってしまうのは、

私自身、

「死」がリアルではないと感じているからなのかもしれません。

 

▽内容:

突然の余命宣告。

絶望の中で、やがて彼は自らの「命の始末」と向き合い始める。その臨終までの道程は、とことん前向きで限りなく切なく愛しいものでした。

これは、41歳で急逝した流通ジャーナリストの見事な死の記録です。 

 

 

金子哲雄さんと言えば、

昨年10月に若くしてお亡くなりになられ、

Facebookなどで彼のお別れのコメントがよく拡散されていたことを覚えています。

 

子供のころから「安く買う」ということが大好きだった彼は、

母親から「お小遣い=買い物のお釣り」という絶妙な教育を受け、

オトクな情報を仕入れること、

そしてそれを他人に教えることに至上の悦びをおぼえ、

やがて「お買い得情報を伝える人」を目指すべく、

流通ジャーナリストの道を歩むわけですが、

 

彼が大事にしてきたスタンスは、

「現場主義」でした。

 

文庫版あとがきの中の、

尾木ママの言葉をお借りすると、

経済学の理論を振り回すのではなく、『スーパーの売り場はこうなっている、だからこうなんだ』と常に言っていました

という方で、

大上段から理論を振りかざす専門家ではなく、

現場(消費者)の目線にたって話をしたうえで理論を肉付けする

というスタンスをとっていらっしゃったようです。

 

その彼が、

自らの死の準備に際して心がけたのも

また「現場主義」であったような気がします。

 

在宅終末医療の選択と延命治療の拒否、

自身の葬儀の段取りや納骨所の指定、

遺産整理の法的手続きなどなど、

 

これらは単なる形式的なものではなく、

お世話になった方たちに迷惑をかけずにお礼を伝えたい一心で、

出来る限り自ら足を運び、

自らの考えで選択・用意をしたわけですから。

 

私も、

Facebookで彼の「お別れの言葉」を読んだときは、

すごい人だな…

自分が死ぬとき、こんな強く明るく死ねるかな…

と畏敬の念をおぼえたものですが、

 

この本を読んで、

少し彼に対する見方が変わりました。

 

(メディアにはよくご登場されていたようなのですが)

そもそも私は、

金子哲雄さんという方をよく知らなかったということもあり、

一部のメディアの発する情報に踊らされ、

即断的に彼を評価するという行為を無意識的にしてしまっていたのですが、

そんなものは彼を知るうえでの単なる一端にすぎず、

つくづく人間って浅はかだなぁと思ってしまうばかりです。

 

だからといって

本を読んで100パーセント金子哲雄という人がわかったのかというと

そんなことは全くないのですが、

 

少なくとも、この本を読んだ限り、

いかなるときも決して強いばかりの金子さんではなかったし、

彼自身も迫りくる死との恐怖におびえていたし、

病気を知られることを恐れていました。

 

正直、自分がなぜこんな目にあわなくちゃならないんだと、運命を呪ったことも何度かある。

なんで、自分なんだ。

「なんで、治らない病気にかかるんだよ。仕事も順調なのに、なんで、人生のチャンスをもらえないんだよ。なんで、すぐ死んじゃうんだよ。なんで、今すぐ死ななきゃいけないんだ。俺、なんか悪いことしたか?ねえ、俺が悪いのか?」

妻に何度もそう言ってみたが、でも、言葉に出すだけ虚しいことは、自分がよくわかっていた。

 

病気とわかった時点で、関係者に迷惑をかけることは目に見えていた。

末期だからといって、仕事を休むわけにいかない。

もともと私は、明るいキャラクターで通っている。

「俺、がんだから」

なんて告白は、周囲の皆さんに気をつかわせてしまうだけではないか。

 

明るく振舞っていたことはすごいと思いますし、

それを彼の強さだと言う人もいると思います。

私も半分そう思います。

 

でも半分は、

仕事を続けたいがために病気のことを隠していたのは、

ご自身がおっしゃられていたように、

まわりに迷惑をかけたくないのが一番だと思いますが、

 

それは逆に、

仕事ができないようなダメな人間だと思われたくない、

いつまでも必要とされていたいという気持ちがあるからで、

本当の自分をさらけ出す勇気がないという弱さ

でもあると思うのです。

 

ただ、

強いから良い、弱いから悪いということでは決してなく、

強さも弱さも含めて、

それが金子哲雄さんという方だったと思うだけです。

 

彼の死に方は、

一見美学のように見えるかもしれません。

そしてやたらとメディアはそのように賞賛します。

 

でも、

(こんなことを言ったら失礼かもしれませんが)

死に方なんて人それぞれなので、

正直、どうでもいいと思うのです。

 

俺はガンだから誰にも会いたくないんだと正直に言える人だって素晴らしいですし、

正直にも言えず、かといって金子さんみたいには強がることもできず、

引きこもって亡くなる方もいるかもしれません。

それだって別に本人がそうしたければそれでいいと思います。

 

大事なのは自分がどのように死にたいかであって、

周りに迷惑をかけずに死ぬというのは素晴らしいと思う一方で、

人間死ぬときくらいまわりに迷惑をかけてもやむを得ないんじゃないかと

私のような甘ちゃんは思ってしまうわけです。

 

彼のような死に方がカッコイイと思う人は、

それを目指して同じようにやればいい。

 

私はどちらかというと、

死に方がカッコイイというより、

生き方が羨ましいと思いました。

 

仕事人間のまま死ねるほど、仕事を愛せたことや、

お世話になった人たちに迷惑をかけたくない・お礼がしたい

と思えたこと。

 

彼のように、

「治らない病気」にかかってまで、

親に対して産んでくれてありがとうと言えるか?

 

仕事でお世話になった人たちに、

葬儀や通夜をとおして楽しんでもらうようなお礼ができるか?

 

私には、できないと思います。

 

ひとえにこれは、

彼の謙虚さによるもので、

擦れてない心というか、

自分は周りに支えられて生きていると心底思えていたことが何より素晴らしい

と思いました。

 

金子さんの遺骨は、

東京タワーのお膝下「心光院」というお寺に納められているそうですが、

そこの住職さんが、

文庫版のあとがきに書いていたことがとても印象的でした。

 

彼は、金子さんとは慶應の同窓で、

金子さんの死を準備するとともに見送った一人でもありますが、

 

僧侶として、住職として、

日本における今のお寺(宗教)の課題を以下のようにとらえています。

 

生きている間に培ってきた人間関係は、残された人の中でずっと続いてゆく。

また、亡くなるご本人や家族にとって、死は呼吸が停止したときに始まるといったデジタルなものではないのです。連続的につながっている、いわばアナログ的なものです。

(中略)そういう日々の末に死を迎えた方の葬儀に、突然、僧侶がやってきても、亡くなったご本人とも家族とも、思いを共有できるはずがありません。亡くなるまでは医者が看て、亡くなるとお坊さんの出番。これでは、葬式に意味を感じなくなる人が増えるのは当然のことでしょう。

 

そして、今後のお寺(宗教)の在り方を以下のように考えています。

 

いま私は、お寺が、連続的な死のプロセスにどうかかわっていくかを考えなければならない時期にきていると思っています。

 

では、

どうやってその「連続的な死のプロセス」にかかわっていくのか?

 

彼はそれを金子さんの死に方=生き方をとおして、

次のように学んだと言っています。

 

大切なのは、関係性の中で生きること。そして、関係性の中で閉じていくことです。そうした関係は一朝一夕では培えません。ですから日々の中で、少しずつ育んでいく。

あたたかい信頼関係が何より大事だということは、金子さんから学ばせていただいたいちばん大きなことです。

 

この、

日々の中の「あたたかい信頼関係」こそ、

私になくて金子さんにはあり、

心の底から素晴らしいなと思うところで、

ではなぜそういった信頼関係が持てるのかというと、

私は彼が相当に謙虚な人だからだったのではなかと思うのです。

 

金子さんは、生前の自身のビジネスワークにおいても、

次のように述べていました。

 

大事なのは、自分なりの方法で相手を喜ばせることだ。人が「喜ぶこと」は、人それぞれ違う。千差万別だ。相手の「喜ぶこと」を見つけ出し、そこに応えてあげれば、それが回り回ってビジネスに結びつく。

 

牛肉の値段を見るとその地域の人々のお財布の中身も見えてくる。(中略)私は、いわゆる高級スーパーよりも、一般的なスーパーを重視する。正価で売られているお店をチェックしても、そこから経済や人の暮らしは見えてこないからだ。スーパーが対象にしているのは「大衆」だ。こうした典型的な人たちを、いかに喜ばせることができるか。スーパーはここに全精力を傾けているのだ。

「大衆」を喜ばせよう、というスタンスは、私も同じだ。

 

まわりを喜ばせようとする奉仕の心は、

ある程度、謙虚な人間でないと持てないと思うのです。

思っていてもできないのは、

謙虚に装うことができないからですし。

 

人から必要とされたいから謙虚になる

のか

謙虚だから人に必要とされることをやっている

のか

それは私にはわかりませんが。

(前者のような気もしますが、後者の素質も多分に持っていらっしゃった?)

 

謙虚になることで、

まわりが尊重できて仕事もおもしろいと思えて

仕事に忙殺されることがありがたいと思える、

そして死ぬときも仕事があることでいくぶんか助けられる。

それは彼にとって幸せな死に方になったのかもしれません。

 

どうも、

この謙虚さというものは、

もっていても損はなさそうな気がしてきました。

 

話はかわって、

この本の中にはまた、

金子さんが闘病生活のなかで出会った医療の現実についても触れられています。

 

点数にならないからと治療を断る病院、

患者を人間として扱わない医者など。

 

一方で、

医療費が払えない患者を

ドクターのポケットマネーで診ている病院もあり、

その額は200万円~800万円くらになるのだとか。

 

このポケットマネーで補っている病院こそ、

私自身も1年ほどお世話になったことがある門前仲町の野崎クリニックなのですが、

そのときは適当に薬だけ出すような商業主義的な病院の感も少しあって、

正直クソ病院だと思っていたこともあるくらいです。

 

…が、

この本を読んで少し反省しました。

 

金子さんのように死にかけている人に時間を割いて、

私のように放っておいても生きながらえる人もいるわけで、

そりゃあ診察に時間をかけていられないし、

ポケットマネー分のお金は稼がなければいけないわけで。

 

やっぱり物事は自分の眼で見ただけのことで、

即時に良し悪しの判断をつけるのは危険だなと思いました。

 

やっぱりもっと自分は謙虚になる必要がありそうです。

 

次は、奥さんが書かれた、

金子哲雄の妻の生き方 夫を看取った500日 (小学館文庫)

こちらを読みたいです。

 

 

■まとめ:

・死ぬ時まで明るく振舞ってきたことはスゴイと思うし、それが彼の強さだと思う一方で、本当の自分をさらけ出す勇気がないという弱さも感じた。でも、強いから良い、弱いから悪いということではない。生き方も死に方は人それぞれ。

・しかし、周りに迷惑をかけずに死のうとするその生き方は、自分は周りに支えられて生きていると心底思えていたからで、その謙虚さが何より素晴らしいと思った。

・死ぬときまで身近な人たちを喜ばせようとする彼のその精神は、彼のライフワークで一貫してきた「現場主義」と通ずるところがある。

 

■カテゴリ:

闘病記

 

■評価:

★★★★★

 

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